第7話:大賢者、現代の居酒屋で美酒に酔う
「冴島さん、今日はお疲れ様でした! カンパーイ!」
「ああ、乾杯」
カチン、と厚手のガラスジョッキがぶつかり合い、小気味良い音を立てる。
俺と結衣がやってきたのは、煌びやかなオフィス街から一本路地に入った場所にある、こぢんまりとした大衆的な小料理屋だった。
結衣は「お礼ですからもっと高級なところへ」と遠慮していたが、俺が「こういう気取らない大衆的な店に行きたい」と希望したのだ。現代日本の庶民がどのような食文化を持っているのか、純粋な好奇心があった。
俺はジョッキに注がれた黄金色の液体――『ビール』という酒らしい――を口に運び、一口煽った。
「……っ!!」
衝撃が走った。
キンキンに冷やされた液体が喉を通り抜ける瞬間、シュワシュワと弾ける未知の刺激(炭酸)と、ホップの爽やかな苦味、そして豊かな麦の香りが口内いっぱいに広がる。
(な、なんだこの美味い飲み物は……!?)
異世界の酒といえば、樽の中で常温保存された酸味の強いエールか、さもなくば喉の粘膜が焼け焦げるほど度数の高い粗悪な蒸留酒ばかりだった。
こんなにも繊細で喉越しが良く、計算し尽くされた味わいの酒は、大賢者として長く生きた俺でも全くの未体験だ。
「冴島さん、どうしました? 急に目を見開いて」
「いや……現代の……じゃなかった。ここの酒は、驚くほど格別だなと思ってね」
「ふふっ、良かったです! ここのお料理、どれも美味しいんですよ。特にこの『お刺身の盛り合わせ』は絶品ですから、ぜひ食べてみてください」
結衣に勧められるまま、美しく皿に盛られた魚の切り身を箸でつまみ、『醤油』と呼ばれる黒い液体に少し浸して口に運ぶ。
(……美味い。美味すぎる……ッ!!)
新鮮な魚介が持つ脂の甘みと弾力。そして何より、この醤油という調味料の存在が奇跡的だ。塩味の中に複雑な旨味成分が凝縮されており、素材の味を極限まで引き上げている。
大賢者の知識をもってしても、これほど完成された味覚の調和は生み出せない。現代日本は、科学技術だけでなく食文化においても、俺のいた異世界を遥かに凌駕しているようだ。
俺は内心の激しい感動を必死に表情の下に隠しつつ、静かに、だが確実なハイペースで次々と料理と酒を平らげていった。
窓際族の病弱なおじさんだった頃の「冴島宗一」を知る結衣は、そんな俺の予想外の健啖家ぶりに目を丸くしている。
「冴島さん、本当に元気になられたんですね。お酒もご飯も、私の倍以上食べてますよ」
「ああ。病を乗り越えて、体が新しく生まれ変わったような気分だからな。細胞がエネルギーを欲しているんだ」
それは嘘ではない。全身の細胞を根本から作り変える『肉体改造魔法』は、常時、膨大な魔力と生体エネルギーを消費する。そのため、今の俺はどれだけ暴飲暴食しようとも太ることはなく、すべてが強靭な肉体を形作るための糧となるのだ。
「……でも、なんだか嬉しいです」
「ん?」
「以前の冴島さんは、いつもどこか寂しそうで、一人だけ別の世界にいて、周りから孤立しているみたいでした。でも、今の冴島さんは自信に満ち溢れていて……すごく、頼もしいです」
結衣はほんのりと酒で頬を桜色に染めながら、俺の顔をジッと見つめて微笑んだ。その瞳には、嘘偽りのない純粋な信頼が宿っている。
「そうか。なら、これからは遠慮せずに、もっと俺を頼ってくれて構わないぞ」
「はいっ!」
和やかな空気の中、俺たちは夜が更けるまで語り合った。
……だが。
大賢者である俺の魂に刻まれた【索敵魔法】は、店を出た直後から、明確な「不快な気配」を捉えていた。
(路地裏に三人。俺たちを尾行しているな……。豪徳寺の件で動いた連中か?)
歩きながらチラリと視線だけで後方を探ると、電柱や看板の影に身を潜める、ガラの悪い男たちの姿が確認できた。
しかし、彼らの纏う気配に真の殺気や魔力はない。ただのチンピラだ。
(今日は結衣もいる。俺のこの楽しい宴の余韻を、あんな小蠅どもに邪魔させるわけにはいかないな)
俺はさりげなく結衣の背中に手を添えると、人通りの多い大通りへと早足で誘導し、雑踏に紛れて尾行をあっさりと撒いた。
だが、あの程度の連中がいつまでも俺の周りをうろつくのは鬱陶しい。俺の平穏な現代生活を脅かす芽は、早めに摘み取っておく必要がありそうだ。




