第19話:引き裂かれた平和な朝。東京上空の飛竜(ワイバーン)部隊
白魔術師と神官という大聖堂の寄生虫どもに「因果応報」の処刑を下してから、数日が経過していた。
その日、俺は現代日本で穏やかな週末の朝を迎えていた。
タワーマンションの最上階。広々としたリビングの大きな窓からは、雲一つない東京の青空と、遠くにそびえ立つ高層ビル群のパノラマが一望できる。
「宗くん、コーヒー入ったよ。……はい、どうぞ」
「ありがとうございます、結衣」
ダイニングテーブルには、結衣が焼いてくれたフレンチトーストと、スクランブルエッグ、そして彩り豊かなサラダが並べられていた。
淹れたてのコーヒーの香ばしい匂いが、リビングを優しく包み込んでいる。
「ん……美味しいです。外はカリッとしていて、中はフワフワだ。シロップの甘さも絶妙ですね」
「えへへ、昨日テレビでやってたホテルのレシピを真似してみたんだ。宗くんがいっぱい食べてくれるから、最近料理がすっごく楽しいの」
結衣は向かいの席で両頬に手を当て、俺が食べる姿を嬉しそうに見つめていた。
彼女の首元では、俺が手作りした蒼い精霊石のネックレスが、朝の光を受けてキラキラと輝いている。
テレビからは、のんきな週末のワイドショーの音声が流れていた。
芸能人のゴシップや、新しいスイーツの特集。異世界の血みどろの権力闘争や、スラムで死んでいく平民たちの悲鳴とは無縁の、底抜けに平和で安全な世界。
(……この平穏な時間が、俺にとってはどれほど得難いものか)
コーヒーの入ったマグカップを両手で包み込みながら、俺は結衣の笑顔を愛おしく見つめた。
俺が異世界グランツヴァルで冷酷な復讐を遂行できるのも、この「帰る場所」があるからだ。
結衣というアンカー(錨)が俺の魂をしっかりと現世に繋ぎ止めてくれているおかげで、俺は人間の心を失わずに済んでいる。
「ねえ、宗くん。今日はお天気もいいし、午後から少し遠出してドライブでも行かない? 最近ずっとお仕事と……『あっちの世界』のことばかりで、疲れてるでしょ?」
結衣が俺の体調を気遣うように、少し小首を傾げて提案してくれた。
「ドライブですか。いいですね。久しぶりに海でも見に行きましょうか」
「ほんと!? わぁ、楽しみ! じゃあ私、お弁当作っちゃおうかな!」
パッと花が咲くように笑顔になった結衣が、食器を片付けようと立ち上がった。
俺も彼女を手伝おうと腰を浮かせた――その瞬間だった。
ピキィィィィン……ッ!!!
大賢者の『絶対魔力感知』が、脳髄を直接針で突き刺すような、桁違いの異常な魔力波長を捉えた。
「――ッ!?」
俺は動きを止め、反射的に窓の外へと鋭い視線を向けた。
「宗くん? どうしたの……きゃっ!?」
直後、タワーマンション全体が、震度4程度の横揺れに見舞われた。
結衣がバランスを崩し、俺が咄嗟に彼女の腕を掴んで抱き寄せる。
だが、テーブルの上の食器がカタカタと鳴っているにも関わらず、つけっぱなしのテレビからは緊急地震速報のアラームは一切鳴っていない。
これは、物理的な地殻変動による地震ではない。
膨大な質量の「何か」が、空間そのものを無理やりこじ開けようとしている、時空の軋みによる『空間震』だ。
「結衣、窓から離れてください!」
「え、地震じゃないの……? 宗くん、外、あれ……!!」
俺の腕の中で、結衣が窓の外を指差して悲鳴のような声を上げた。
俺は彼女を背後に庇うように立ち、東京の空を見上げた。
雲一つなかったはずの抜けるような青空。
そのちょうど新宿の高層ビル群の上空あたりに、真っ黒な『稲妻』のような巨大な亀裂が走っていたのだ。
ピキッ……バリバリバリィィィィンッ!!!!
まるで巨大なガラスが内側からハンマーで叩き割られたかのような轟音と共に、東京上空の空間が数十メートルにわたって完全に崩落した。
ポッカリと開いた真っ暗な『次元のゲート』。
そこから、現代日本の澄んだ空気とは明らかに異質な、硫黄と腐った肉の匂いが入り混じった熱風が、強烈な瘴気と共に吹き出してきた。
『ギャアアアァァァァァァッ!!!!』
鼓膜を破るような、耳障りな爬虫類の咆哮。
次元のゲートの中から次々と飛び出してきたのは、飛行機でもヘリコプターでもない。
コウモリのような巨大な皮膜の翼を持ち、全身を緑褐色の硬い鱗に覆われた、全長十メートルを超える異世界の魔獣――【飛竜】の群れだった。
「ひっ……! 嘘、なに、あれ……! 映画の怪獣……!?」
結衣が恐怖に顔を引き攣らせ、俺の背中の服をギュッと力強く握りしめた。
一頭、二頭ではない。次元のゲートからは、後から後から無数の飛竜が湧き出し、瞬く間に東京の空を真っ黒に覆い尽くしていく。その数、優に百頭は超えているだろう。
そして、俺の大賢者の視力は、その飛竜の背に跨り、手綱を握っている武装した人間たちの姿をハッキリと捉えていた。
グランツヴァル王国の最強の航空戦力、『飛竜騎士団』だ。
「……なるほど。俺が残した転移の魔力痕跡を無理やり逆探知して、ゲートをこじ開けたというわけか」
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
黒魔術師モルガンの執念か、あるいは他の魔法使いたちが命と引き換えに儀式魔法でも使ったのかは分からない。
だが、彼らは俺の『別世界(現代日本)の拠点』の座標をアバウトに特定し、そこに軍隊を送り込んできたのだ。
上空を旋回する飛竜の背から、魔法で拡張された下品な怒号が響き渡った。
『ヒャハハハハッ!! 見ろ、聞いたこともないような奇妙な鉄の塔ばかりが建っているぞ!!』
『ここが、我々をコケにした大賢者の別世界の隠れ家か!』
俺の聴覚魔法は、彼らを率いる部隊長のゲスな笑い声を正確に拾い上げていた。
『バルト様の命令だ! 賢者がどこに隠れているかは分からん! ならば、この別世界の街ごと、そこに住む人間もろとも火の海にして焼き尽くせ!! 賢者もろとも全てを消し炭にしろォォォッ!!』
『オォォォォォォォッ!!』
部隊長の号令を受け、百頭の飛竜たちが一斉に大きく息を吸い込み、その喉の奥に灼熱の炎を蓄え始めた。
眼下に広がるのは、休日の平和な朝を迎えている、何百万人もの命が暮らす東京の街だ。
もしあんな数の飛竜のブレスと魔法の絨毯爆撃が降り注げば、現代のビル群など一瞬で溶け落ち、文字通りの阿鼻叫喚の地獄絵図と化すだろう。
「……あいつら、狂ったか」
俺の口から、無機質で、絶対零度まで冷え切った声が漏れた。
自身の権力を守るためなら、スラムの平民に病を撒くことも躊躇わなかった連中だ。俺を殺すためなら、見知らぬ別世界の人間を何百万人無差別に虐殺しようと、彼らの心が痛むはずもない。
だが、それは俺にとって、絶対に越えてはならない『最後の一線』だった。
結衣の生きる世界。
俺が転生し、ようやく手に入れた穏やかな日常。俺の魂の『帰る場所』。
それを、自分の保身のためだけに土足で踏み躙り、灰燼に帰そうとしたのだ。
「宗、くん……っ」
恐怖で震える結衣を、俺は力強く、安心させるように抱きしめた。
「結衣。ここから、一歩も出ないでください」
俺は彼女の首元の精霊石のネックレスに触れ、俺が持てる最大の魔力を流し込んで【絶対守護】の結界を限界まで強化した。
さらに、タワーマンションの俺の部屋全体を覆うように、核兵器の直撃すら無傷で防ぎ切る【多重・次元断絶結界】を展開する。
「絶対に、あなたを傷つけさせはしない。……この街にも、指一本触れさせない」
俺は結衣の額にそっとキスを落とし、リビングの大きな窓のロックを外して全開にした。
地上数十階の強風が部屋の中に吹き込み、俺の前髪を激しく揺らす。
俺はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、虚空から大賢者の『漆黒の魔導ローブ』を取り出して羽織った。
振り返ることなく、ベランダの手すりの上に静かに立ち上がる。
「俺の帰る場所を脅かした罪……万死に値する」
俺の全身から、これまでの復讐の中で見せてきた「数パーセント」の手加減などではない、文字通り『大賢者の100パーセントの本気』の魔力が、目に見えるほどの黄金のオーラとなって爆発的に立ち昇った。
その圧倒的な魔力の奔流は、周囲の空気をビリビリと震わせ、重力を歪ませるほどだ。
「消えろ。三流の羽虫ども」
俺はベランダから東京の空へと、音速を超えるスピードで飛び立った。
俺の愛する世界を蹂躙しようとした愚か者たちへ、神の如き絶望を下すために。
現代日本の青空を舞台にした、大賢者の理不尽極まりない「防衛戦」が、今、幕を開けた。




