第16話:大聖堂の夜。聖女と神官へ下賜される「極上の毒杯」
二つの月が照らす、グランツヴァル王都の中心部。
王城と肩を並べるようにそびえ立つ純白の大聖堂は、深夜の静寂の中でも、周囲の薄暗い街並みとは対照的に不自然なほどの光と魔力を放っていた。
大聖堂をドーム状に包み込んでいるのは、神官たちと宮廷魔術師団が総力を挙げて構築したとされる『絶対防衛結界』である。
邪悪な魔力や物理的な侵入者を一切寄せ付けず、仮に触れれば高圧電流のような神聖魔法が侵入者を焼き焦がす。異世界の常識に照らし合わせれば、魔王軍の幹部クラスですら突破に数日はかかるであろう、難攻不落の絶対領域だ。
「……愚かしい。外側にどれほど強固な鎧を纏おうと、内側が腐りきっていては自重で崩れ落ちるだけだというのに」
俺は漆黒の魔導ローブのフードを目深に被り、大聖堂の巨大な正門を見上げながら冷たく吐き捨てた。
俺の左手には、先ほどドローン越しに大聖堂の地下倉庫から【物質転送】で引きずり出したばかりの、どす黒く濁った液体の入ったガラス小瓶が握られている。
『黒斑病』のウイルス原液。
彼らがスラムの平民たちを「永遠に金を搾り取るための金づる」にするため、意図的に街へ散布した悪魔の生体兵器である。
俺はゆっくりと歩を進め、大聖堂を覆う光の結界へと真っ直ぐに手を伸ばした。
通常であれば、警報が鳴り響き、侵入者は光の炎に包まれるはずだ。
だが、大賢者の『魔力眼』を通してみれば、この巨大な結界もただの魔力の糸の編み込みに過ぎない。俺は結界の構造式を一瞬で解析し、自分の波長をその結界の『正規のパスコード』と完全に同期させた。
水面に手を差し入れるような、ほんのわずかな抵抗感。
警報も、反撃の魔法も一切起動することなく、俺は音もなく大聖堂の敷地内へと足を踏み入れた。
聖堂内は、深夜だというのに多数の近衛騎士と下級神官たちが巡回警備にあたっていた。錬金術師ザンクが白昼堂々広場で糾弾され、暗殺者ゲイルが全裸で放り出された異常事態を受け、彼らも最高レベルの警戒態勢を敷いているのだろう。
だが、俺が常時展開している【光学迷彩(透明化)】と【気配遮断】、さらには【完全防音】の複合魔法の前では、彼らの警戒など何の意味も成さない。俺が彼らの目の前を通り過ぎても、誰もその存在に気づくことはなかった。
「……結衣の生きる世界に、ウイルスを樽ごと投げ込む、か」
大理石の豪華な階段を上りながら、俺は胸の奥底で渦巻くどす黒い怒りを静かに噛み殺していた。
自分たちの利権を守るためなら、無関係な民衆の命を平気で天秤にかける。それどころか、俺の転移の痕跡を探り当て、俺の「帰る場所」である現代日本――結衣のいる平和な世界にまで、この致死のウイルスをばら撒こうと画策したのだ。
(これ以上、あの腐肉喰らいのハゲタカどもに一秒たりとも猶予を与えるわけにはいかない。……自らが民衆に用意した地獄をそのまま味わませる、『極上の毒杯』を与えなければならないな)
巨大スクリーンを使った「社会的抹殺(公開ざまぁ)」など、今の俺には生温く感じられた。
地位や名誉を剥奪される程度の絶望では、彼らが民衆に与え、そして俺の愛する世界に与えようとした苦痛の代償には到底足りない。
最上階へと到達した俺は、大聖堂の最奥、最も厳重に魔法の施錠がなされた『教皇の間』の巨大なオーク材の扉の前に立った。
【空間透過】の魔法で分厚い扉をすり抜け、部屋の内部へと侵入する。
「……忌々しい! 宮廷魔術師団の無能どもめ! まだあの幻術士の潜伏先(異空間)を見つけられないの!?」
部屋の中では、かつて『聖女』と崇められた白魔術師セリアが、苛立ちを隠せない様子で宝石のついたグラスを壁に投げつけていた。
ガチャンッ! という高い音を立ててグラスが砕け散り、高価な黄金色のワインが高級なペルシャ絨毯にシミを作っていく。
胸元を大きくはだけた扇情的なドレスを着た彼女の顔は、贅肉と怒りで醜く歪み、かつての純真な面影など微塵も残っていない。
「落ち着け、セリア。焦る必要はない」
向かいのソファでふんぞり返り、高価な葉巻を吹かしているのは神官ロイドだ。彼はテーブルの上に山積みにされた金貨を撫で回しながら、ゲスな笑みを浮かべていた。
「あの幻術士がどれほどの手練れであろうと、空間を渡る魔法の痕跡を完全に消し去ることは不可能だ。いずれ我々の探知網に引っかかる。……そうすれば、お前の言う通り、その次元の裂け目にこの『黒斑病の原液』を樽ごと放り込んでやればいい。奴がどこに潜んでいようと、その空間にいる人間もろとも全員腐り落ちて死ぬだろうさ」
「ええ、そうね! ザンクもゲイルもいなくなった今、王国の富と権力は完全に私たち二人のものよ。逆らう者は皆、病の恐怖でひれ伏させればいいのよ!」
高笑いする二人の姿は、まさに権力に溺れた醜悪な亡者のそれだった。
俺は【光学迷彩】を解除し、部屋の薄暗い影の中から、ゆっくりと革靴の音を立てて彼らの前へと歩み出た。
「――それは、素晴らしいアイデアですね。ぜひ、その恐怖を身をもって証明していただきたい」
「「なっ……!?」」
突然部屋に響き渡った低く冷たい声に、セリアとロイドは心臓を射抜かれたように飛び上がった。
彼らの視線の先。
そこには、漆黒の魔導ローブを纏い、顔の半分をフードの影で隠した男(俺)が、静かに立ち尽していた。
「だ、誰だ貴様!! どこから入ってきた!」
「警備の者たちは何をしている! ええい、出会え! 出会えェッ!!」
ロイドが葉巻を放り出し、パニックになって大声を上げるが、部屋の扉が開く気配はない。
この部屋はすでに俺の【空間絶縁】の魔法で切り取られており、内部の音は一切外に漏れない。どれほど叫ぼうが、外を巡回している騎士たちには届かないのだ。
「無駄ですよ。この空間は完全に隔離されています」
俺はポケットに入れていた右手を出し、彼らに向かって「どす黒い液体の入った小瓶」を軽く掲げて見せた。
「そ、それは……っ!?」
セリアの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
彼女がそれを見間違えるはずがない。何せ、自分たちが平民を金づるにするために調合し、スラム街にばら撒いた悪魔のウイルスの原液なのだから。
「なぜ、貴様がそれを持っている……!? それは大聖堂の地下倉庫に、何重もの結界で封印してあるはず……まさか、貴様があの『幻術士』か!?」
「結界など、紙切れ以下ですよ。……俺は、あなた方が俺の潜伏先にこれを投げ込んでくれると聞いて、わざわざ受け取りに来てあげたんです」
俺の冷ややかな言葉に、ロイドは恐怖を怒りで塗りつぶし、手元の杖を構えて立ち上がった。
「ふ、ふざけるなァ! ここをどこだと思っている! 私とセリアは、魔王討伐の英雄だぞ! 貴様のようなコソ泥など、神の怒りの光で消し炭にしてくれるわ!!」
ロイドが短い詠唱を唱え、彼の杖の先端から極太の光のレーザーが放たれる。
同時に、セリアも俺の足元の空間を縛り上げる束縛魔法を放ってきた。
腐ってもかつての英雄。二人の息の合った魔法の連携は、一般の魔術師なら間違いなく防ぎきれずに即死するレベルの威力だ。
――だが、大賢者の前では、そんなものは児戯にも等しい。
「【魔力散滅】」
俺が指先を軽く弾いた瞬間、ロイドの光のレーザーも、セリアの束縛魔法も、俺に触れる数メートル手前でまるでシャボン玉が弾けるように「パチン」と音を立てて消滅してしまった。
「……は?」
「ウ、ウソでしょ……? 私たちの魔法が、一瞬で……?」
信じられないものを見るような目で立ち尽くす二人に向け、俺はゆっくりと歩みを再開した。
その圧倒的な魔力の圧力に当てられ、二人は後退りし、腰を抜かしてソファの背もたれに崩れ落ちた。
「お前たちがなぜ、魔王討伐で『聖女』や『大教皇』などと持て囃されたか教えてやろうか?」
「ヒィッ……! く、くるな……!」
「お前たちの魔力は、初級の回復魔法を数回使えば底をつくほど貧弱だった。だから俺が、常に背後で『魔力回復』と『魔法威力増大』の補助を限界までかけ続けていたんだよ。俺のサポートがなければ、お前らなどスラムのヤブ医者以下の無能だ」
「な……お、お前は……まさか……ッ!?」
俺の言葉を聞き、二人の顔が恐怖と絶望に歪んでいく。
だが、彼らが俺の「正体」に完全に気づく前に、俺は彼らの処刑を執行することにした。
「自分たちが生み出した猛毒に自ら食い殺される。……神を騙るペテン師には、それが何よりも相応しい天罰だろう」
俺は右手に持っていたガラス小瓶を空中に放り投げ、魔法で粉々に粉砕した。
飛び散ったどす黒いウイルスの原液は、大賢者の風魔法によって一瞬にして極小の「霧」へと変換され、部屋中に充満する。
「や、やめろォォォッ!!」
「ゲホッ、ゴホォッ!! 息が、息ができない……っ!!」
逃げ場のない密閉空間。
セリアとロイドは、自分たちがスラムに散布した致死のウイルスを、ダイレクトに肺の奥底まで吸い込んでしまった。
通常、この黒斑病が発症して体に黒い斑点が浮かび上がるまでには数日の潜伏期間がある。
だが、俺は彼らが苦しむ時間を「最適化」するために、もう一つの魔法を彼らの体に叩き込んだ。
「【強制培養】」
大賢者の魔力が彼らの体内に侵入し、吸い込んだウイルスの増殖速度を数千倍に加速させる。
数日で発症するはずの地獄の苦しみが、わずか数十秒の間に彼らの肉体を蝕んでいった。
「ア、アアアァァァァッ!! 痛い! 体中が焼けるように痛いわ!!」
「ガハッ、血が……! 私の顔に、黒い斑点が……ッ! いやだ、死にたくない、死にたくないィィィ!!」
絨毯の上に転げ回り、自身の皮膚に浮かび上がり始めたおぞましい黒い斑点を見て絶望の悲鳴を上げる二人。
肺が焼け爛れるような激痛と、呼吸困難による酸欠で、彼らの体は痙攣し、床に大量の血と胃液をぶちまけている。
自分たちが金儲けのために作り出し、民衆を苦しめていた病。
それが今、自らの肉体を内側から容赦なく腐らせていくという、残酷なまでの『自家中毒』。
まさに、自業自得の末路であった。
「さあ、偉大なる聖女様と神官殿。……自分たちが作って地下に隠している『特効薬』とやらで、この病を治してみせろ。……たっぷり楽しんでから死ぬといい」
俺は床でのたうち回る二人の醜悪な姿を冷酷に見下ろしながら、それだけを言い残し、部屋の影へとスッと姿を消した。
彼らの地獄は、まだ始まったばかりだ。




