第10話:闇の刃の終焉。大賢者が突きつける「残酷な真実」
「なっ……!?」
かすかに漏れたその掠れ声には、隠しきれない驚愕と動揺が色濃く混じっていた。
光の屈折と魔力隠蔽を極限まで高めた、異世界グランツヴァルにおいて最高峰とされる『隠密スキル』。呼吸音、足音、さらには殺気や魔力の残滓すらも完全に断ち切るその技は、かつて魔王軍の幹部ですら見破ることができなかった究極の暗殺術だ。
それを、振り返りもせず、完全に背を向けたままの若造に一瞬で見破られたのだから、彼が狼狽するのも無理はないだろう。
だが、そこは裏社会で恐れられるプロフェッショナル。
ゲイルは一瞬の動揺を力で押さえ込み、即座に思考を「確実な殺害」へと切り替えた。
見破られたなら、相手が防御の魔法を詠唱する前に、物理的な速度で圧倒して息の根を止めるまで。
「死ねェッ!!」
空間の歪みから完全に姿を現した黒装束の男が、アスファルトを蹴り飛ばして加速する。
その動きは、確かに常人の動体視力では捉えきれないほど速い。黒い疾風となって俺の死角へと回り込み、両手に握られた凶刃――紫蜘蛛の猛毒がドロドロと滴るミスリルの短剣が、俺の頸動脈と心臓という二つの急所へ向けて同時に突き出された。
さらに、彼が翻した漆黒の外套の影からは、バネ仕掛けの暗器によって無数の毒針が全方位から射出される。
上下左右、いかなる体術を使っても物理的な逃げ場を完全に塞ぐ、暗殺者ゲイルの必殺のコンビネーション攻撃だ。
いかに優れた魔術師であろうと、詠唱を必要とする魔法ではこの初見殺しの猛攻は防げない。ゲイルはそう確信し、布越しの口元を歪めた。
しかし、俺はポケットに手を入れたまま、スマートフォンを眺めて微動だにしなかった。
ガギィィィィンッ!!!!
「ぬぁっ!?」
ゲイルの毒刃が、俺の首筋に触れる数センチ手前。
何もないはずの空中に、まるで分厚い防弾ガラスのような不可視の障壁が立ちはだかっていた。
だが、ただ物理的に弾かれただけではない。ゲイルの短剣は、俺の障壁に触れた瞬間に『彼自身が放った力と全く同じ力』で逆方向へと弾き返されたのだ。
「グギャアァァッ!!」
ゲイルの手首の骨が、メキメキと嫌な音を立てて砕け散った。
耐えきれずに短剣を手放し、ゲイルは激痛に顔を歪めながら後方へと吹き飛ぶ。
同時に放たれた無数の毒針も、俺の周囲数十センチの空間で全てピタリと静止し、やがて魔法の効力を失ったかのように、パラパラと虚しくアスファルトに落ちていった。
「い、痛ぁっ……! 腕が……! な、なんだこの硬さは!? 私の『ミスリルの短剣』が刃こぼれだと!?」
「硬いのではありません。『ベクトル(力の向き)』を反転させたんです」
地面を転がり、折れた手首を押さえて呻くゲイルに向かって、俺はゆっくりと振り返った。
「作用・反作用の法則を魔力で極大化し、あなたが突き出した運動エネルギーの方向を、そのまま百パーセントあなた自身に返しただけですよ。つまり、あなたは今、自分自身の全力の突きを自分で食らったのと同じ状態だ」
「ベクトル……作用反作用だと……? 貴様、本当に何を言っている!」
手首の激痛に耐えながら、ゲイルは恐怖に満ちた目で俺を睨みつけた。
彼の常識の中にある「魔力障壁」とは、魔力を固めて盾にするだけのものだ。自分の攻撃がそのまま跳ね返ってくるなどという現象は、魔法理論の根本から逸脱している。
異世界の暗殺者にとって理解不能な現代物理学の概念。だが、彼が「未知の、全く次元の違う力」に弄ばれていることだけは、その肌で痛いほど理解できたはずだ。
「ゲイル。お前がなぜ、魔王討伐の旅で『最強の暗殺者』として暗躍できたか、教えてやろう」
「な、なに……?」
俺は冷酷な視線でかつての仲間を見据え、一歩ずつ彼との距離を詰めていく。
「お前の隠密スキルは、確かに人間同士の殺し合いにおいては優秀だった。だが、魔王軍の幹部クラスや高位の魔族には、お前の体温や僅かな汗の匂い、心音で簡単にバレていたんだよ」
「なっ……! で、でたらめを言うな! 私は幾人もの魔将の寝首を掻いた! 誰一人として、私に気づく者などいなかった!!」
「気づく前に、俺が消していたからな」
俺の冷ややかな言葉に、ゲイルが息を呑む。
「お前が潜入任務に向かう時、俺が常に遠隔からお前の周囲の温度を低下させ、空気の匂いを消臭し、心音の周波数を散らす『環境制御の補助魔法』をかけ続けていた。お前が気づかれなかったのは、俺の徹底したサポートがあったからだ」
「そ、そんな……」
「お前の才能など、俺の魔法がなければ、鼻の利く魔物にあっさりと食い殺される程度の、ただのコソ泥レベルだったということだ」
「あ、あぁ……ッ!! 嘘だ! 嘘だァァァッ!!」
俺が突きつけた無慈悲な真実に、ゲイルが自身の人生の全てを懸けて築き上げてきた『最強の暗殺者』としてのプライドは、音を立てて粉々に砕け散った。
自身の力だと思い上がっていたものが、実は背後にいた人間の手のひらの上で転がされていたに過ぎなかったという屈辱。
彼は発狂したように叫び、無事な左手で懐から黒い球体を取り出し、自身の足元のアスファルトに全力で叩きつけた。
パァァァンッ!!
「死ねェェェッ!! 貴様も、何もかも溶けてしまえェ!!」
割れた球体から、ドス黒い紫色の煙幕が爆発的に噴出し、瞬く間に路地裏全体を包み込んでいく。
吸い込めば数秒で肺がドロドロに溶け、皮膚に触れただけでも全身が焼け爛れるという、ゲイルが調合した最悪の生体兵器『腐食の毒霧』だ。
どれほど強力な魔力障壁を張ろうと、気体である毒霧はわずかな隙間から侵入し、対象を確実に死に至らしめる。
「ふはははは! もがき苦しんで死ね! この毒霧の中では、いかなる魔法使いも呪文を詠唱することすらできまい! 声を出せば、内臓から溶け落ちるからなァ!!」
分厚い煙幕の奥から、ゲイルの狂ったような笑い声が響く。
彼は毒の耐性を持つ特殊な布で口元を覆いながら、自身の勝利を確信して哄笑していた。
だが、俺はやはり一歩も動かず、紫色の毒霧の中でただ小さくため息をついた。
「現代の化学兵器(サリンやVXガス)に比べれば、構成成分が単純すぎて線香の煙レベルだな。……こんなもので俺を殺せると本気で思っているなら、少し哀れに思えてくるよ」
「なっ……なぜ、平然と喋って……!?」
驚愕するゲイルの声が聞こえた瞬間。
俺は右手の人差し指と親指をすり合わせ、パチンと軽い音を鳴らした。
「【清浄なる大気の風】」
それは、魔法学園の生徒でも扱えるような、空気を少し綺麗にする程度の初級風魔法だ。
だが、そこに大賢者の規格外の魔力と、「気圧操作」という現代気象学の概念が加わった時、その初級魔法は災害クラスの現象へと化ける。
ゴオォォォォォォォッ!!!!
一瞬にして路地裏の気圧が変動し、凄まじい突風が吹き抜けた。
ドス黒い毒霧は、俺の周囲を中心として発生した不可視の竜巻によって一気に上空へと巻き上げられ、大気中のオゾンと結合して完全に無害な空気へと浄化されてしまった。
「……は?」
煙が晴れた路地裏。
そこには、折れた右手を押さえ、左手で空を掴んだまま、ポカンと立ち尽くすゲイルの姿があった。
全身を溶かすはずの毒霧は跡形もなく消え去り、路地裏には清々しい夜風だけが吹いている。
その顔に浮かんでいた余裕と狂気は完全に消え失せていた。
最強の隠密スキルは見破られ、必殺の毒刃は自身の腕を破壊し、プライドを打ち砕かれた上で放った奥の手の毒霧は、ただの風で吹き飛ばされた。
これほどまでに圧倒的で、どう足掻いても絶対に覆せない力の差を見せつけられれば、どれほど熟練の暗殺者であろうと戦意を喪失するのは当然だ。
残っているのは、絶対的な理不尽の前に立たされた人間の、純粋な『絶望』だけだった。
「さて。これで手札はすべて切りましたか? 暗殺者殿」
俺が静かに一歩を踏み出すと、ゲイルは「ヒィッ!」と情けない悲鳴を上げ、ガクガクと震える膝から力なく崩れ落ちた。
大賢者という絶対的な高みからの、容赦のない徹底的な蹂躙。
ゲイルの心は、もはや完全に折れていた。残るは、彼が溜め込んできた王都の闇に関する情報を全て吐き出させるだけの、簡単な作業である。




