第42話:安全地帯への帰還。結衣の涙と優しい温もり
冷たい秋の夜風が、少しだけ昂っていた俺の頭を心地よく冷ましていく。
東京の地下深くで数百年続いた呪術界の闇を完全に平定し、この国における絶対的な権力を手中に収めた俺は、真っ直ぐに結衣の住むマンションへと向かっていた。
深夜の静寂に包まれたエントランス。俺は周囲に張り巡らせていた【絶対防壁】と【認識阻害】の結界を指先で一時的に解除し、彼女の部屋の玄関のチャイムを静かに鳴らした。
「……はい」
「結衣先輩、俺です。終わりましたよ」
インターホン越しの震える声に、努めて優しく、いつもの落ち着いた声で応える。
ガチャリ、と慌ただしい音を立てて扉が開き、少し乱れた部屋着姿の結衣が飛び出してきた。
彼女は俺の顔を見るなり、大きな瞳からポロポロと大粒の涙を溢れさせ、何も言わずに俺の胸にドンッと飛び込んできた。
「宗くん……っ! よかった、無事で……! 本当によかった……っ!」
「ただいま戻りました。少し遅くなってしまって、すみません。ずっと起きて待っていてくれたんですね」
俺は彼女の華奢な背中にそっと腕を回し、子供をあやすように、優しくポンポンと叩いた。
俺のスーツの胸元をギュッと掴む彼女の小さな手は、まだ小刻みに震えていた。どれほど恐ろしく、不安な時間を過ごさせてしまったのかが痛いほど伝わってくる。
「もう大丈夫ですよ。あなたを狙っていた連中は、俺が完全に『お掃除』してきました。二度と彼らが表舞台に出てくることはありません。これから先、あなたを危険な目に遭わせるような輩は、この日本にただの一人もいませんから」
「う、うん……っ。宗くんが、怪我してなくて、私を置いていなくなったりしなくて……本当によかった……」
結衣は俺の胸に顔を埋め、せき止めていた感情を吐き出すように泣きじゃくった。
その温もりと、シャンプーの甘い香りが、大賢者としての冷徹な仮面をゆっくりと溶かしていく。
かつて異世界で大賢者として、孤独に魔法の真理を追い求め、世界を救うために命を懸け……最後は信じていた仲間に裏切られ、冷たい石畳の上で孤独に死んでいった俺。
そんな俺にとって、これほどまでに純粋に俺の身を案じ、無事の帰還を心から喜んで泣いてくれる存在は、異世界にも、現代日本にもいなかった。
(……彼女のこの涙と笑顔を守るためなら、俺は魔王だろうが現代の闇だろうが、何度でも滅ぼしてみせよう)
俺は心の中で静かに、しかし絶対の誓いを立て、彼女の震えが落ち着くまで、その柔らかな温もりを愛おしむように抱きしめていた。
――だが、この時の俺はまだ気づいていなかった。
ひとしきり泣いた後、涙を拭って俺を見上げた結衣の瞳の奥に、「安堵」とは別の、揺るぎない確固たる『決意』のような光が宿っていたことに。
彼女はもう、俺の張った完璧な嘘と偽装のさらに奥にある「真実」から、目を逸らすつもりはなかったのだ。




