第32話:赤提灯の居酒屋と、隠しきれない「大人の哀愁」
御門グループの主要子会社を完全に吸収し、ビジネス界における巨大な包囲網を完成させた日の夜。俺たちは一連の激務の打ち上げとして、ささやかな祝勝会を開くことにした。
「宗くん、今日は私が奢りますからね! いつも超高級なレストランばかり連れて行ってもらってますし、たまにはアシスタントにもカッコつけさせてください!」
「お気持ちは大変嬉しいですが、俺の方がファンドの利益で莫大に稼いでいますからね。あなたに財布を出させるわけにはいきません。……今日は俺の奢りで、俺の『行きつけ』に行きましょう」
そう言って俺が結衣をエスコートし、案内した先は――新橋のガード下にある、煤けた赤提灯が風に揺れる大衆居酒屋だった。
店内は仕事帰りのサラリーマンたちでごった返し、グツグツと煮込まれるモツの匂いと焼き鳥の煙、そしてビールを煽る熱気が入り混じった、活気と哀愁が同居する空間だ。
「えっ……ここ、ですか? 宗くん、こういうお店にも来るんですね」
イタリア製のオーダースーツを隙なく着こなす二十六歳の若きエリート社長が連れてきた場所とのあまりのギャップに、結衣は目を丸くして立ち尽くしていた。
「ええ。たまにはこういう喧騒の中の方が、案外肩の力が抜けて落ち着くものですよ」
俺(中身は58歳の元・窓際族)は、若い頃から安月給を握りしめて通い詰めていたこの大衆的な空気に、大賢者としての疲れすらじんわりと癒されるのを感じていた。
俺たちは奥の小さなテーブル席に腰掛け、壁に貼られた手書きのメニュー札を見上げた。
「大将! とりあえず生二つ。それと、もつ煮込み、エイヒレの炙り、あと梅水晶をお願いします」
「あいよっ! 兄ちゃん、シュッとした今時の若いイケメンなのに、ずいぶんと渋くて酒飲みなモン頼むねぇ!」
大将の威勢の良い声を聞きながら、運ばれてきた生ビールで乾杯する。
冷えたビールを喉に流し込んだ後、俺はすぐに「熱燗」を二合追加で注文した。そして、七味マヨネーズを少しつけた熱々のエイヒレをかじりながら、お猪口に注いだ熱燗をチビチビと静かに啜る。
(美味い……! やはり夜景の見える高級フレンチのヴィンテージワインも良いが、一つの大きな仕事を終えた後の労働の対価としては、この塩気と熱燗が五臓六腑に一番染み渡る)
若く健康な肉体のおかげで翌日の不調を一切気にせず、心ゆくまで酒と肴を堪能できる喜びに、俺は内心で静かに打ち震え、目を細めていた。
「…………」
ふと気づくと、向かいの席で結衣が、ウーロンハイのグラスを持ったまま、まじまじと俺の姿を見つめていた。
「……どうしました、結衣先輩?」
「いえ……。若手の超エリート社長が、女の子との食事に新橋の赤提灯を選んで、エイヒレを齧りながら熱燗をチビチビと啜る姿が、あまりにもギャップがありすぎて」
「は、ははは。幼い頃から、叔父に連れられてよく来ていたもので。酒の肴はやっぱり、こういうのが一番落ち着くのですよ」
俺が誤魔化すように笑うと、結衣はクスッと吹き出した。
「宗くん、嘘が下手ですね。今のその熱燗を飲む横顔と、少し丸まった背中……どう見ても二十代の若者のそれじゃないですよ。長年会社に勤め上げて酸いも甘いも噛み分けた、ベテラン社員の『大人の哀愁』みたいなものが漂ってましたよ?」
「っ……! そ、それは、ビジネスという過酷な戦場に身を置いているせいか、自然と貫禄が……!」
「また適当なこと言って」と結衣に笑われながらも、彼女の顔はどこか心底楽しそうで、嬉しそうだった。
完璧なエリートの仮面が剥がれ、長年培ってきた「おじさんの素」が滲み出てしまうこの時間が、二人の距離を確実に、そして急速に縮めていた。




