第16話:完璧なイケメンから漏れ出す「昭和のおじさん」
帝国地所という巨大なライバルを退け、見事にコンペの大勝利を収めたその日の夜。
祝勝会と称して、俺たちは会社の近くにある少し高級な和食居酒屋の個室に来ていた。
「宗くん、今日のプレゼン、本当に最高でした! お疲れ様でした! カンパーイ!」
「ああ、結衣先輩も完璧な資料作成、お疲れ様。乾杯!」
カチン、と薄張りのグラスが涼やかな音を立てる。
俺はよく冷えたビールを一気に口へと運んだ。
「……っ!! ぷはぁっ! やっぱり大きな仕事を終えた後のビールは格別ですね!」
(美味い! 若く健康な細胞の隅々にまで、ビールの炭酸とアルコールが染み渡っていくのがわかる! 五十八歳の弱った内臓では決して味わえなかった、この鮮烈な喉越し……!)
若返った肉体がもたらす圧倒的な味覚の喜びに内心で打ち震えながら、俺は店員が置いていった熱々の布おしぼりを手に取った。
そして、高揚感から完全に無意識のうちに――おしぼりを両手で広げ、顔全体から首の後ろに至るまで、ゴシゴシと力強く拭き上げてしまったのだ。
「あーっ、さっぱりするなぁ。……ん?」
ふと視線を感じて前を向くと、テーブルの向かい側で、結衣が信じられないものを見るような、あるいは未知の生物に遭遇したような目で俺をジッと見つめていた。
「そ、宗くん……? 今、おしぼりで顔……しかも首の後ろまで思いっきりゴシゴシ拭いてませんでした……? いい匂いのする20代のエリート男子が、絶対やらない拭き方でしたよ……?」
「あっ」
しまった。
「冴島宗一」だった頃に染み付いていた、疲労を回復させるための「おじさん特有のルーティン」が、警戒を解いた瞬間に完全に漏れ出てしまったのだ。
イタリア製のスーツを着こなすイケメンエリートが絶対にやらないであろうオヤジ臭い仕草に、結衣は目を白黒させている。
「い、いや。これは……その、海外のビジネスエリートの間では、顔の筋肉をほぐすための合理的なリフレッシュ方法として割とポピュラーでして」
「ウソだぁ! 絶対ウソですよ! 前に、おじさんの冴島さんが全く同じ拭き方で『あー極楽極楽』って言ってるの見たことありますもん!」
結衣の疑念の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなる。
まずい。肉体は完璧な20代に再構築されても、魂に深く刻み込まれたおじさんの生活習慣(と大賢者としての精神)は、そう簡単に隠しきれないらしい。
「そ、そういえば! この間、プロジェクトの打ち上げでカラオケに行った時も、宗くんがマイクを両手で握りしめて歌ってたの、昭和のムード歌謡でしたよね!? 『夜霧よ今夜も……』とか歌ってましたよね!?」
「……そ、それは、名曲は時代を超えると言いますか。古い曲のメロディラインには、現代ポップスにはない魔法のような奥深さがありまして」
「それに、普段のLINEのメッセージも! 絵文字がやたらと多くて、文章の最後に絶対『(笑)』ってつけるし! あと、この前のダジャレ! 昨日も資料見ながら『この企画はキツツキみたいに、ツキがあるね!』とか言ってましたよね!?」
「なっ……!?」
異世界で最強の大賢者として魔王軍から恐れられ、現代のヤクザさえも指先一つでひれ伏させたる俺が、まさか「おじさん構文」や「昭和のダジャレ」というカルチャーギャップで追い詰められるとは。
「宗くん……あなた、本当に冴島さんの甥っ子なんですか? なんだか時々、中身が冴島さん本人なんじゃないかって……」
結衣がテーブルから身を乗り出し、俺の顔を下から覗き込むようにしてジッと見つめてくる。
俺は内心で冷や汗を滝のように流しながらも、なんとか爽やかなイケメンスマイルを崩さないように努めた。
「は、ははは。幼い頃から叔父を深く尊敬していて、ずっと背中を見て育ちましたからね。価値観や習慣が、無意識に似てしまったのでしょう。女性に都合よく扱われるだけのアッシー君やメッシー君にはなりたくない、という教えも受けていますし」
「今、すごい古い言葉出ましたよね!? ネットの死語辞典でしか見たことないですよ!?」
「むむむ……」と唸りながら、結衣はジト目で俺を観察している。
大賢者の完璧な偽装が、こんな些細な日常の癖で崩れ去ろうとしている。どう誤魔化すべきか思考をフル回転させようとした時――ふと、結衣が肩の力を抜き、フフッと柔らかく笑った。
「まあ、そういうことにしておきます。宗くんにも、そんな不器用なところがあるんですね。……でも、そういうちょっと抜けてておじさん臭いところ、なんだか安心するから好きですよ」
「え……」
「仕事中は隙のない完璧なスーパーエリートの宗くんですけれど……そういう時は、あの優しかった冴島さんみたいで、すごく親近感が湧くっていうか」
頬をほんのりと赤く染め、悪戯っぽく微笑む結衣の表情を見て、俺の心臓は柄にもなく大きな音を立てた。
大賢者として数百年を生きてきた俺だが、この純粋な好意の眼差しにはどうにも耐性が足りないらしい。俺は動揺を隠すように、残りのビールを一気に煽るしかなかった。
(……まずいな。外資系ファンドや裏社会の敵より、彼女の勘の鋭さとこの笑顔の方が、俺にとってはよほど大きな脅威かもしれない)
こうして俺の「完璧な甥っ子」の仮面は、結衣の前でだけは少しずつ、ポロポロと剥がれ落ちていくのだった。




