7-6
「…………う……。…………? 生きてる?」
リリーは谷底で身体を起こした。
辺りがぼんやりと明るい。
谷底がコケで覆われていた。それが青白い燐光を放っていて、ほのかに温かい。
切り立った深い崖の上、遥か遠くに空が見えた。
あんなに高いところから落ちて、生きている方が奇跡だ。
落ちていく途中、何か見えない力に支えられた気がした。
(……魔法、じゃない気がしたけど……)
ラトミ村の我が家で目覚めて以来、不可思議なことばかりで、もう何が起きても驚かないぐらいになっている。
温かいコケの上で眠って、身体がほんの少し軽くなっていた。
もう少しだけ歩いてもいいと思えるぐらいには。
地を這うような声に呼ばれていることに、リリーは気付いた。
十歳の頃から、時折、思い出す「声」。
引き寄せられるように向かっていくと、声もだんだん大きくはっきりと聞こえてくる。
やがて大きな洞窟の入口が見えた。
入口の左右に松明が焚いてある。その片方を取って、洞窟の奥へと足を踏み込んでいった。
コケの放っていた暖気が消え、凍えるような寒さが戻ってきた。
何かに突き動かされるように、見えない手に導かれるように、乾いた岩肌を踏みしめていく。
そうしてたどり着いた洞窟の最奥──
漆黒の衣を着た男が壁に吊るし上げられていた。
身体の力をだらりと抜き、巨大な鎖で両手両足を戒められている。金剛石のように硬く光る漆黒の翼と、獣じみた体毛が人間ではないことを物語っていた。
もう何を見ても驚かないと思っていた心臓が不気味に跳ねた。
男が身じろぎすらしないのを見て、リリーは怖々と近寄った。
松明の灯りが近づくと、男はわずらわしそうに眉をしかめた。
「私を呼んでいたのは、貴方?」
十歳のときからずっと……とリリーが付け足すと、男は束の間、は虫類じみた闇色の瞳にリリーを映して、また気怠そうに目をつぶった。
──我ヲ解キ放テ……。
「答えて。喋れないの?」
──解キ放テ。我ヲ……。
(……)
男がこんな地の底で封印されている理由はわからない。
何か悪いことをしたのかもしれないし、何かの呪いなのかもしれない。
けれど……訴える言葉の端々から、凍えるような孤独が伝わってきて、リリーを落ち着かなくさせた。
独りのつらさは、悲しさは、痛いほどわかる。
「貴方の氷も、溶けたらいいのにね……」
男を戒めている鎖にそっと触れた矢先──
淡い燐光を放ちながら、頑丈な鎖がヒビ割れていった。
息を呑むリリーの目の前で、少女の温もりに触れて、男を封印していた呪縛が氷解し、粉々に砕かれていく。
そうして砕け散った鎖の破片を踏みしめて、男がリリーの前に降り立った。
同じ地面の上に降り立つと、リリーよりも頭二つ分、背が高かった。
リリーを見下ろす怜悧な面立ちは美しく、人間離れした芸術のような笑みを浮かべた。
──赤い髪の娘、よくぞ我を解き放ってくれた……。さあ、何を望む?
「えっ……?」
──おまえの願いを叶えよう。
「ちょ、ちょっと待って。解き放つって。私、そういうつもりじゃ……!」
リリーは目を瞬かせた。
心臓がドキドキと勝手に熱く鼓動し始めている。
──遊び尽くせないほどの黄金の都?
──色褪せることのない永遠の美貌?
──誰もがかしずく不朽の名声?
──意中の相手を射止める神秘の媚薬?
知らず知らずのうちに、手に汗を握っていた。
でも、もし本当に、何を願ってもいいのなら……。
(──もう一度、アモル様に……)
リリーがごくりと生唾を飲み込んだときだった。
男の方が思いがけないことを言った。
──それとも、尽きせぬ魔法の源泉が欲しいか?
──ひとの身で魔物を従え、おまえたちの世界の支配者になりたいのだろう?
「……!?」
リリーの頭に血が上った。
心を読まれている。
その動揺も見透かしたように──否、確実に見透かしているのだ──男は嗤う。
──黒魔術を研究するとは、そういうことだ。そうと知っていようと、いなかろうと。
──おまえたちは魔法で人々を虐げる未来を欲した。
「違う。私たちは、みんなの幸せを願って……!」
──そうして、誕生したのが「ワーグナーの魔女」だ。
──エルシア・ワーグナーの妄念。この世界への復讐を誓った恨みの産物。
──それに打ち勝つには、おまえ自身が魔女になるしかない。ワーグナーの魔女と同じ力で対抗するのだ。
男が愉悦に浸った口調で語るにつれて、リリーの心の中で、口にしようとしていた願いがぐらぐら揺れた。
男の言葉はものすごく甘美な響きを伴っていた。
心をとろかして、誘惑に引きずり込もうとするような……。
(……私の、願い……?)
少し前のリリーだったら、魔法使いが犠牲にならず、子どもたちが虐げられないような世界にするための魔法を欲しただろう。
そして、ついさっきまでのリリーだったら、アモルともう一度逢うことしか頭になかった。
だけど、今は……。
(……)
リリーは無感動な眼差しで男を見た。
緋色の瞳に世界を達観した、諦めにも似た光が宿った。
「……本当に何でも叶えてくれるの?」
応える代わりに、男はリリーに大きな手のひらを差し出した。
まるで舞踏会のダンスに誘うかのように。
子どもの頃、魔法使いにならないかと言ったアモルの面影がほんの一瞬よぎって、すぐに消えた。
(これが私の、最後の願いなら……)
傾いていた心の重心が、ふと、釣り合いを取り戻した。
これですべてが終わっても、かまわない。
「私の、願いは……──」
──そうして、リリーは「悪魔」の手を取った。
──7章、了。8章へ続く。
最終章(8章)は2020.12.25(金)に掲載予定です。
みなさまへのプレゼントとして、活動報告にクリスマスSSも載せようと思ってるので、よかったらそちらもチェックしてくださいね(^^)♪♪




