7-5
エルバンス魔法学院の校舎を出てから、歩いても歩いても、どこにもたどり着かなかった。
吹雪のやんだ曇天の向こう、地平線まで続く銀世界は振り絞った意思の力を根こそぎ奪っていく。
雪原に延々と足跡をつけてきたブーツの中で、ズキリとした痛みが爆ぜた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
水を吸い過ぎてふやけた革はずっしりと重く、靴底は剥がれて釘が剥き出しになり、パカパカと足にまとわりつくようになって邪魔になっている。
リリーはそれを無造作に脱ぎ捨てた。
くたびれ果てた外套の下に履いているスカートの端を破って靴代わりに巻いたものの、なんとかして歩こうとする意思に反して、足がもつれて倒れ込んだ。
もう一度、立ち上がろうとした膝がガクガクと震えた。
身体は疲れ切ってとっくの昔に限界を超えている。
(……ダメ。こんなところで倒れたら……)
雪の上に広がった自分の髪がまるで血の色のようだった。
身体が雪に埋もれて、地面にも沈み込みそうになる。
全身の震えが止まっていた。
代わりに、頭痛と吐き気がますますひどくなっていた。
耳鳴りで、外の音が聞こえないぐらい。
リリーの存在そのものが氷になったよう。
すべてを委ねてしまいたくなるような、すさまじい睡魔が襲ってきた。
『おまえ、魔法使いにならないか?』
どこか彼方から、幼いアモルの声が、降ってきた。
『変えたいと思わないか? この狂った世界を』
リリーの目尻から涙がこぼれた。
……もういい、と思った。
夢を見て絶望するのも。
誰かに期待して裏切られるのも……。
『生き延びるために子どもを売ったり殺したりしなくてもいい、大勢のために数少ない魔法使いが犠牲にならなくてもいい、誰もが幸せになれる世界にするんだ』
……そんな世界、どこにもない。
誰かが幸せになるには、誰かが犠牲になるしかない。
そうやって、みんな生きてるの、わかってるでしょ?
『おまえみたいな子どもが泣かない世界に──僕たちの力で』
……魔法なんかいらない。
アモル様がいてくれれば、それでよかった。
ただ隣にいられるだけで、よかったのに。
頬を流れていった涙の跡が、刺すように冷たい。
眠ったらきっと、もう目覚めない。
……でも、それが何だっていうの?
アモル様がいない世界なんていらないんだ……。
「ねぇ、お母ちゃん。もう……楽になってもいい……?」
耳鳴りの向こうで、どこからか、歌が聞こえた。
激しい雨に打ちひしがれようと空に向かって咲き誇る花の歌。
昏睡している少年の枕元で、リリー自身が歌っていたもの。
無意識のうちに魔力をのせた旋律が、かじかんで思うように動かない口から白い吐息となって流れていく。
ひどく途切れ途切れで、弱々しくて、きっとリリー以外の誰にも聞こえない。
──……不意に。
子どもの頃、無邪気に喜んでいた自分の声が、耳を打った。
『え……ほんとですか!? ほんとに、ほんと?』
魔法使いのさだめを知る前の、何も知らなかった幼い自分が声を弾ませている。
どこか遠い祭りの喧噪。
やわらぎかけた午後の陽射しが肌を撫でて、応えたアモルの、どこかふてくされた声まで、あのときのまま。
『いつか、な! いーつーかー! ごね……ご、五十年後かもしれないぞ?』
『えー? ……あ、そうだ! じゃあ、おらが妖艶な魔性の女になったら描いてください!』
『お、覚えてたのかよ、それ?』
魔法使いになる方ではない。
もっと純粋な、二人だけの魔法の言葉。
秘密でこそこそ描いては、未完成だからといって、とうとう一度も見せてくれなかった。
照れたように背けたアモルの幼い横顔。
二人でからめた指の熱さまで、鮮やかに思い出された。
『──約束する』
──……リリーは。
ぐっと拳を固めた。
片腕に全身の体重を載せて立ち上がろうともがく。
刺すような雪の冷たさが染みても這うように進んだ。
雪を掻き分けて、前へ。また前へ。
「……私、まだ貴方の絵を見てない……!」
血を吐くように叫んだ、そのとき。
大地を揺るがす轟音が響いて、リリーのいる雪原が真っ二つに分裂した。
「…………っ!?」
深く暗い谷底へ、リリーは悲鳴をあげながら真っ逆さまに落ちていった。
☆☆
歌が、響いていた。
微かな魔力をのせた旋律が、雲間から届く一筋の光のように、暗い暗い地の底に届く。
それは遥か彼方に忘れ去った懐かしい記憶を揺り動かした。
遠い昔、その存在がまだ「悪魔」と呼ばれる前のこと。
人間として、その生命を輝かせていた頃の追憶。
ゆっくりとまぶたを開けた。
暗闇の中、軽く身じろぎをしただけで、両手両足を戒める鎖が、悲鳴じみた抗議をあげた。
重たくまとわりつくそれが、今はひどくわずらわしい。
……匂う。
かぐわしい香り。
人間の娘の、みずみずしくて甘い香り。
少しずつ近づいてくるその気配に耳を澄ませた。
──早ク来イ。コチラヘ……。
手招きをすると、戒めの鎖がまたじゃらりと鳴った。
それだけで、娘のいた大地が裂けてしまった。
危ない危ない。
壊さないように。慎重に。慎重に……。
いかに強大な力をもってしても、自身の封印を解くことはできない。
それがひどく忌々しかった。
どうして地の底に縛られているのか、忘れてしまった。
これだけの力をもっているのだ。
人間どもに災厄をもたらす存在として怖れられたとしても不思議はない。
だが、永遠の不自由にも、既に飽いた。
狂気の思考は、ひたすら自由に焦がれ続けている。
世界を滅ぼしうるほどの力を、その身に宿しながら。
──我ヲ解キ放テ。我ヲ……。




