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擦り切れた記憶をたどれば、幸せだった頃もあった。
エルシアは魔法使いの家に生まれ、早くからその才能を嘱望されて娘時代を過ごした。
夫となったゲオルグ・ワーグナーは生まれつき魔力が少なくて魔法使いにはなれなかったけれど、誠実な人柄で町のひとたちに慕われていた。
二人の間には待望の男の子も生まれた。
誰もが羨むワーグナーの一族に嫁ぎ、魔法使いとして、妻として母として、一番幸せだったのはこの頃かもしれない。
転機が訪れたのは、息子のエヴィンが七歳のときだった。
幼い彼は覚え始めた魔法の練習中に魔力を暴走させて死にかけたのだ。
幸い一命はとりとめたものの、エルシアの中に疑念が生まれた。
──魔法は、ひとを幸せにするものではなかったの?
エヴィンが成長するにつれて、エルシアの疑念は深まった。
彼女は一人、広大な屋敷の離れに引きこもって彼女なりの魔法の真理を追い求めた。
魔法とは──魔法使いとは。
文献を貪るように読み、昼も夜も忘れて狂気じみた実験を繰り返すエルシアに、人々は失望して離れていき、やがてワーグナーの魔女と揶揄されるまでになった。
それでも、アモルが生まれたとき、エルシアは今度こそ期待した。
この子には魔法使いではなく、普通の平凡な人生を送ってほしい。
魔法使いの業を背負うことなく、当たり前に育って、好きな女の子と結婚し、畑に種を蒔いて生を終えるような生き方を、と。
だが、エルシアの期待に反して、アモルが幼いながらに魔法使いとして非凡な才能を発揮すると、エルシアはますます狂気に溺れていった。
二番目の息子は、まるで幼い頃の自分と生き写しのようだった。
そんなある日、エルシアは決定的に道を踏み外すことになる。
魔法使い協会で倫理にもとると禁じられいる黒魔術を研究するうちに、彼女はついに解読してしまったのだ。
この世ならざる者たちと交信する禁断の術式を──
「異界に巣くう闇を揺り籠とする者よ、異なる摂理に縛られ魔力を拠り所としてさ迷う者よ、我が呼びかけに応えよ。我が契約に応じ、この世界に姿を現せ──……」
成功するはずがなかった。
理論上にのみ存在する異界への交信は狂気にふれた数多の魔法使いたちが試してきたが、誰一人として成功してはいなかった。
誰もが机上の空論と嗤い、魔法使いならば一度は空想する夢物語と取り合わない研究を、エルシアは黙々と続けてきた。
魔法というのは空気中に存在している四大元素に働きかけ、それに一定の方向性をもたせて具現化する。
炎の魔法ならば火の元素、風の魔法ならば風の元素、植物の魔法なら地の元素、水の魔法なら水の元素といったように。
召喚魔法は、そのどれでもない。
いわば無から有を生み出すのだ。
何もないところから、この世ならざる空間に時空を繋げて、異形の存在を引きずり出す──いかに天才エルシア・ワーグナーでもそんなことが可能なはずがなかった。
だが、女の執念が不可能を現実にした。
床に描いた魔法陣の線が呪句に応えて発光する中、奇妙な時空の歪みが広くもない部屋を軋ませ、何もない虚空に亀裂が走るのをエルシアは見た。
声もなく瞠目した先、虚空に開いた切れ目から爪を生やした毛むくじゃらの黒い前脚が現れるのも。
前脚は空間の切れ目を引っ掻いて広げようとしていた。
獣のような前脚に反して、キィキィと耳をつんざくコウモリのような鳴き声が鼓膜を震わせた。
自分が何を見ているのか、エルシアはわからなかった。
彼女に残った正常な思考の欠片が脳裏でけたたましく警鐘を鳴らしていた。
──これはこの世に解き放ってはいけないものだ。
──この存在はひとと相容れない。必ず人類を恐怖と絶望に陥れる……。
(──……だから、何だと言うの?)
もう長いことエルシアを支配している狂気の思考が囁いた。
数少ない魔法使いばかりに犠牲を強いて、何もしてくれなかったのは世界の方ではないか。
そればかりか、エヴィンやアモル──大事な子どもたちまで民のため犠牲にして使い捨てにしようとしている。
魔法は、魔法使いを幸せにはしてくれない。
奇跡の恩恵はいつも民のため、全体のためで、いつの時代も少数派は切り捨てられる。
……だから、魔法使いが身を守るための武器を求めて何が悪い?
「あっははは……あははは……あーっはっはっは! いらっしゃい。この世界の摂理を壊す者よ! さあ、わたくしと一緒にこの理不尽な世界を正しましょう! ……うぅっ」
エルシアはがくりと膝をついた。
魔力が底を突きかけていた。
空間の捻れが急激に戻ろうとするのを感じた。
異形の怪物が牙で噛みつき、爪でこじ開けようとしていた虚空の裂け目が閉じていく。
「くっ……! まだ魔力が足りないというの……!」
怪物の前脚はもう肘の辺りまでこちらに出ていた。
虚空の裂け目が閉じきったとき、悲痛なコウモリの叫びをあげながら、その前脚が空間に断ち切られた。
異界にあったはずの胴体と離れた肘から先が重い音を立てて床に落ち──信じられないことに、跡形もなく霧散した。
室内には、魔方陣の描かれた床に蹲ってあえぐように息をする女だけが残された。
「ふっ……ふふふふ! あはははは!」
エルシアは哄笑した。
召喚魔法は失敗に終わったが、もう失望していない。
魔力切れを起こして朦朧とする意識の中、自分は正しかったのだという確信だけがあった。
自分や子どもたちを不幸に陥れた連中を見返してやるのだ。
この理不尽なこの世界に復讐を──
かつて、人々の幸せを追い求めた無垢な娘の面影は、もうどこにもなかった。




