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頑丈な造りだけが取り柄の実験棟。
一階の長い廊下の先にある演習室には、歴代の先輩たちによってぶちかまされた魔法の数々の痕跡が残っていて、中には何をどうしたら石壁にそんな傷を残せるのかと目を疑いたくなるようなヒビ割れや煤ぼけた痕が残っている。
第五学年にもなると、実際に魔法を使う講義も増えてくるものだが、今日はなぜか、授業が始まる前から痛みに顔をしかめている生徒がいた──ダイス・グストフである。
「痛ててて……」
「ダイス、どしたの? 虫歯?」
「うーん……昨日からなんか顎が痛いんだよなぁ。誰かに思いっきりぶん殴られたみたいな感じでさ」
「誰かって……いったい誰にさ?」
呆れながらマクウェルは言った。
透明人間じゃあるまいし。
確か、昨日も誰かさんから同じような台詞を聞いたような気がする。
もちろんアモルの方は平手打ちされた経緯をきちんと覚えていたし、よくよく話を聞いてみたらリリーの方に分があると思ったので同情はしなかったが。
(……? そういえば、あれからどうなったんだっけ。アモルから茶色いお菓子をもらって食べてから、なんだか記憶が途切れてるような……)
「……──なぁ、聞いてるか、マクウェル。もしかしたら俺、悪の秘密結社に目付けられたかも!」
「……は?」
「連中が夜な夜な開発している謎の黒魔術で俺の知らないうちに顎をパンチする魔法をだな」
「……はいはい。わかった、わかったから」
実際、ダイスの都市伝説じみた妄想は半分当たっていた。
だが、まさか悪の秘密結社の正体がもう一人の親友で、謎の黒魔術が『チョコレート』だとは夢にも思わない。
真相を知らないマクウェルは親友の戯れ言を適当にいなしつつ、部屋に入ってきた少女に声をかけた。
「おはよう、リリーさん」
「……あ。おはよう、ございま……」
リリーの語尾が、ダイスを前にして消えた。
「……? リリーさん?」
「おぅ、オッス。リリー」
「……あ……」
実技用の練習着に着替えたリリーが珍しく目を見開き、なぜかそのまま赤面した。
赤い金魚のように口をパクパクさせている。
「……お、おはよう、ございます」
「なぁなぁ、リリーも聞いてくれよ。俺、絶対、悪の秘密結社に……」
「わ、私、実技の準備があるので……」
避けるように教室の隅に逃げていく。
仮説を言おうとしたダイスはおろか、横で見ていたマクウェルも呆気にとられた。
「……え。俺、なんかした?」
「……僕に聞かれても……あ、アモル」
演習室に入ってきたアモルは、気のない返事でちらっとマクウェルを見た。
黒髪を掻き上げて、視線を逸らしながらぼそりと言う。
「……あのさ。昨日のことなら気にすんな。僕は気にしてないから」
「『昨日のこと』?」
アモルはたっぷり数秒ほどもマクウェルの顔を見つめて、はぁ、とため息をついた。
「…………覚えてないなら、いい」
意味深にふーっと息をはきながら、リリーとは反対方向の隅に歩いていく。
「……僕、なんかした?」
「……さぁ……」
前途多難な一日になりそうだった。
☆☆
「よーし、おまえら。十人で輪を作れ。木札を構えてー。全員の魔力をひとつにして、光の玉を作るイメージだ」
間延びした教員の声に沿って、同じグループに割り当てられた生徒たちが一斉に木札を構えた。
今、リリーたちが囲んでいる机には一本の蝋燭が立っている。
十人の魔法でその灯心に火を点すのが今回の実習である。
ごく初歩的な魔法だが、目的は魔法そのものではなく、むしろ集団で魔法を使う際のエネルギー配分を体得することの方が大きい。
「いいかー。くれぐれも一人に魔力を集中させるんじゃないぞ」
いざ実際に魔法使いとして活躍するにあたって、一人で魔法を使うことはまずなく、必ず数人、または数十人規模でひとつの魔法を完成させることになる。
そのためのチーム力を養うのは、プロとして活躍していくには必須の条件なのだ。
とはいえ、リリーはこれが苦手だった。
屋敷では独学で魔法を勉強してきたこともあって、そもそも周りと協力して魔法を使うという感覚に馴染めない。
ちらりとアモルのグループを見る。
アモルも基本的に一匹狼だろうと思っていたのだが、幼い頃から既に魔法使いとしての経験を積んできた少年のこと、実はその辺のバランス感覚は抜群にいい。
リリーも何度か同じグループになったが、アモルが無言のうちにリーダーシップをとり、集団内の力学を見て魔力を注ぐべきところに注ぎ、引くべきときにはきちんと引く。
その見極めというか、天性の勘どころのよさがある。
基本的に誰とでも仲良くなるムードメイカーのダイスはどのグループに行っても馴染むし、気配り上手なマクウェルも周りと協力して魔法を使うのは苦にならないようだ。
「ちょっと、リリーさん。ぼけっとしてないで集中してくれる?」
「あたしらばっかり魔力出してて疲れるんですけどー」
「ご、ごめんなさい……」
何人かのクラスメイトとは話すようになったリリーだが、それでも苦手なクラスメイトはいる。
何かと突っかかってくるガブリエラという少女と取り巻きの少女たちはその筆頭だった。
よりにもよって同じグループで協力とか、ツイてない……。
(いけない。今は授業中なんだから。集中して……)
気を取り直して、空気中にある魔法の元素を木札に集めるように意識して目を閉じる。
木札に書いてある呪句と紋様を介して魔力を流し、火の元素をまとわせて蝋燭の先に具現化するイメージ。
それを瞼の裏に描き、周りの魔力の流れも見ながら少しずつ少しずつ加減していく……。
そのとき、ほんの微かな違和感がリリーの肌を粟立たせた。
(……?)
なめらかなはずの魔力の流れに、ところどころ、ごくごく微細な火花が散っているのだ。
瞼の裏の残光かと見間違うぐらいささやかな引っかかり。
よほど注意していなければ見逃してしまうほどの。
「『──』……」
耳が微かに混ざる異音を捉える。
──今、誰かが全然違う呪句を唱えたような……。
「……? みんな、何かおかしい。魔法を止めて……くっ!」
警告を発するよりも早く、巨大な重力の負荷がリリーを襲った。
身体の中を循環していた魔力が暴走し、心臓が負荷に耐えかねて軋みをあげる。
初歩的な魔法で要求される域を遥かに超える魔力のうねりに身体がついていかない。
異変に気付いた周りのクラスメイトたちがざわつき始めた。
「ねぇ、あの班。変じゃない?」
「暴走してる……誰か来て!」
「きゃああっ!」
「おい、先生呼べ、先生!」
「……っ! リリー!」
魔法でできた光の球に魔力をどんどん吸い上げられる中、真っ先に駆けつけたアモルの姿がリリーの視界に飛び込んできた。
差し出された手を掴もうと、必死に伸ばしたリリーの手も炎熱の壁に阻まれる。
愕然とした。
小さな蝋燭を点すだけの初歩的な魔法……たったそれだけのはずだったのに。
──一瞬だけ、同じグループだった少女たちがほくそ笑むのが見えたのは、炎が見せた幻だったのだろうか。
そう思ったのも束の間、リリーの意識は朦朧として、現実の境があやふやになっていく。甘い茶褐色の液体のように溶けていく……。
不意に、炎の渦の向こう側から声が聞こえた。
──これは貴方のためなのよ。
じんじんと痺れるような脳の奥。
鼓膜を通してではなく、暴走した魔法の元素そのものが甘い囁きを伝えてくる。
これは誰の声なのだろう。
それとも、自分の……?
──貴方のためなら私は……。
──………………「魔女」と呼ばれてもかまわない。
そのとき、殷々と響く声を切り裂いて、野太い呪句が辺りに響いた。
「水の大蛇よ、我が力の前にひれ伏せ。我が力をこの世に顕現せしめよ!!」
清涼な水の冷たさに意識を呼び戻される。
あっと思ったときには半透明な大蛇の顎に呑まれて宙を飛んでいた。
リリーの顔ほども大きな鱗がうねるたびに七色に光り、炎の魔法を鎮めていく。
大蛇は教室中に胴体を巻き付けると、パンという小気味いい音とともに大量の水飛沫を撒き散らして弾けた。
大蛇に呑み込まれていたリリーは、通常の三階分ほどもある教室の天井近くからいきなり放り出された。
(──っ! お、落ちる……!)
さっきとは違う意味で悲鳴をあげながら落下する。
反射的に身体を丸めて衝撃に備えた。
煉瓦の床に叩き付けられるかと思ったが、アモルとダイス、マクウェルがその場に走り込み、落ちてきたリリーを身体で受け止めた。
「痛てて……おい、リリー。大丈夫か?!」
「てか、先生たち。助けるなら着地まで面倒見てくれよ」
「ほんと、心臓に悪い……」
いつもなら少年たちを巻き込んで青くなるところだが、今はその余裕すらなかった。
魔力切れを起こして目の前がぐらぐらと揺れていた。
授業教員の慌てた声が遠くに聞こえた。
「……こういうことになる。みんな、わかっただろう。くれぐれも一人に負担を集中させないこと。魔力の暴走を起こすと最悪の場合、命を落とすこともあるからな」
今のは違う、とリリーは思った。
──今のは「事故」じゃない……。
「……リリー?」
抱きかかえたアモルが心配そうに眉をひそめる。
出そうとした声も吐息にしかならず、アモルに届く前に消えた。
完全に意識を手放す刹那、垣間見たクラスメイトの少女は忌々しげに顔を歪めていた……。




