三章四
芳子はその日も緋嚥の厳しい鍛練を受けていた。
終わった後、芳子は正妃としての授業を受けて夕暮れ時を迎える。夕食をとってから入浴して汗や汚れを流した。寝間着に替えて寝室で早めに休んだ。
だが、真夜中になってから人の気配で目が覚めた。王の苑莱かと思い、起き上がる。
ふと、相手が月光に鈍く光るものを芳子の眼前にさらした。月明かりで見覚えのない男だとわかる。
「なっ。あなたは誰?!」
「静かにしろ。殺されたくなければ、こちらの言うことに従え」
低い声で脅される。男が持っているものは緋嚥が鍛練でよく使うヒ首という暗器だった。芳子はパニックになった。どうすればいいのか。抵抗しようものなら直ちに殺される。
心臓がどくどくと速く鳴った。不意に男が芳子と間合いを詰めてきた。みぞおちの辺りにどんっと強い衝撃がある。
「…つぅっ」
熱く鈍い痛みが脳にまで届く。うめき声がもれた。みぞおちを押さえてうつむく姿勢になる。すうと手足が冷たくなって意識が遠ざかっていったのだった。
冷たい風が吹いて寒さのせいで意識が浮上する。瞼を開けると隙間風が入るぼろい廃屋に芳子はいた。
箱が乱雑に置かれていてほこりが床や隅に溜まっている。芳子は両手を後ろ手に縄で縛られていた。両足も縄で縛られていて猿ぐつわもされていた。
(ここはどこ?)
目だけで確認したが朱国なのかもわからない。
芳子が途方に暮れていると廃屋の立て付けが悪い扉が開いた。外は明るいらしく日の光が眩しい。扉から入ってきたのは背の高い男らしかった。だが、男の瞳の色と髪の色を見て芳子は全身がかたかたと震えるのを感じた。
(あいつ。私が現代にいた時に襲ってきた奴?!)
男の髪は漆黒の色で瞳も琥珀のような透明感のある色をしていた。顔立ちも蒼鴛や苑萊と同じくらい端正な美形だった。だが、浮かべる表情は氷のように冷たい。何故か、首筋にある朱凰の証の痣が燃えるように熱くなる。
『…シュ、シュオウ!そいつはそなたに敵対する者。決してこの者の手に堕ちるな!苑莱ー対の者を裏切ってはならぬ!』
どこからか芳子の頭に直接声が響いた。が、目の前の男が眉を寄せて不思議な呪文とおぼしき言葉を紡ぐと声は聞こえなくなる。
「うるさいな。シュホウやシュオウと言えど俺には敵わない。芳子、久しぶりだね」
最後に芳子を見ながらにこりと男は笑った。
「あ、あなた。もしかして元の世界で私に斬りかかってきた奴よね?」
「…そうだ。俺があんたを殺そうとした。主の命でね」
「そうだったのね。確か蒼鴛将軍と切り結んでいたのを覚えているけど」
蒼鴛の名を出すと一気に男の機嫌は急降下した。眉を寄せて芳子を睨み付ける。
「あんたさ。俺の前であんな奴の名前を出さないでくれるかな。蒼鴛、大嫌いなんだよ。後、俺は伎炎。芥伎炎だ」
「あ。あなたがあの時の。伎炎というのね」
「そうだ。唐突だけど芳子。元の世界、日本に帰りたいと思うかな?」
「…いきなりね。前は強く思っていたわ。けど、今は思わないの」
芳子がきっぱりと言うと伎炎はあっそうと期待はずれとばかりに白けた表情をする。
「ふうん。今は思わないね。じゃあ、もうひとつ。あの男、蒼鴛はどうするんだ?」
「…っ」
不意を突かれて芳子は黙る。伎炎は探るようにこちらに視線をやった。
「蒼鴛さんは。好きだった。けど、あの人は振り向いてはくれなかった。でもね、私は蒼鴛さんを安心させたい。苑莱様も私に急がせたりしない。だから、せめて二人の期待に応えたいの」
「二人のね。また月並みなセリフだ。言っとくけどあんたじゃなくなって苑莱は誰でもよかったんだよ」
「…伎炎?」
伎炎はわからないの?といわんばかりに冷たい表情と口調で淡々と語る。
「苑莱も蒼鴛も結局はシュオウの器にふさわしい人間が欲しかっただけなんだ。シュホウとシュオウは互いに引かれ会うとは言うけど。わざわざ、異世界にまで追いかけていったのはこの世界にはいなかったから。だから、蒼鴛はあんたを見つけて連れ去った。けど、あんたでなくたってあいつはこちらに連れて行ったはずだ」
「……」
「言ったろ。苑莱は誰でもよかったんだって。所詮はあんたはシュオウの器であって苑莱の先代の王妃の身代わりでしかない。要はあんたを苑莱は愛してなんかいないということだよ」
伎炎はじわじわと真綿で締め付けるように芳子に冷たい言葉を浴びせた。息がひゅうと鳴る。どうしたものかと思案はできなかった。伎炎はくつりと笑ったのだった。




