二章八
芳子は翌朝に起きた。苑莱は既にいない。ぼんやりとした頭できょろきょろと辺りを見回した。すると、扉をノックする音がした。
「皇后様。おはようございます」
入ってきたのは白苑だった。いつも通りの穏やかな彼女だが。芳子は何故か違和感を抱いた。それが何かは具体的にわからなかった。
白苑はにこやかに笑いながら芳子にぬるま湯で顔を洗うのを勧めてくる。
だが、芳子は頭の中で警鐘が鳴るのを感じた。ふいに寝所の扉が開かれた。
見知らぬ女官が深く頭を下げて挨拶をした。
「…おはようございます。白苑様、主上がお呼びです」
「あら。いきなり何なのかしら。皇后様、一旦失礼しますね」
白苑は顔を顰めながらもぬるま湯の入ったたらい桶を置いて部屋を出ていく。
足音が遠のくと女官が顔を上げた。瞳の色が蒼鳶と同じで驚いてしまう。
「初めまして。芳子様、俺は蒼鳶将軍の弟だよ。名を緋嚥というんだ」
「あなた、男性なの。本当に女の子かと思ったわ」
「しいっ。声が大きいよ。芳子様、そのぬるま湯には肌用の毒が入っている。あなたの世界でいう水銀が含まれているから。使わないほうがいい」
えっと言うと緋嚥はたらい桶を取り上げた。
「これは俺が処理しておくよ。代わりの物は後で持ってくるから待ってて」
頷くと緋嚥はじゃあと言って部屋を出ていく。その後、白苑が戻って来る事はなく芳子は訳が分からずにいたのだった。
その後、緋嚥は約束通り安全なぬるま湯を持ってきてくれた。
「遅れてごめん。こっちは普通のぬるま湯だよ。使ってみて」
「わかったわ。わざわざありがとう」
「どういたしまして。それからこれからは俺と金圭、妹の蓮花の三人であなたのお世話をする。後で蓮花も連れてくる。挨拶をしておいてね」
「はあ。じゃあ、身支度をするわ」
「わかりましたわ。皇后様」
にこりと笑って緋嚥は芳子の身支度を手伝った。
まず、洗顔に歯磨きをして着替えをする。さすがに下着などは金圭を呼んでしてもらった。襦と裙にショール状の布を掛けてもらう。
朱国は四季がなくて乾季と雨季がある。今は乾季の昼間で暑い。なので襦と裙もゆったりとした造りになっている。
ショールは大きくて肩に掛けても広げれば、背中などをすっぽりと覆えるのだ。
髪も香油を塗り込んで櫛で梳かしてから結い上げた。髪紐や簪などで全部を上げてもらった。上から帽子と白いベールを被せられた。
「これから、主上に会っていただきますけど。男の方も多数おられますから。これを被っていてください。暑くはありませんよ。これは涼しい造りになっています」
「…わかった。緋嚥君、朝はありがとう」
「今は緋嚥と。でもお礼はいいですよ。わたくしも兄や主上から情報は頂いていましたから」
そうなのというと金圭が早くと急かしてきた。芳子はゆっくりと裙をさばいて部屋を出たのだった。
廊下を歩いていると蒼鳶と苑萊が待ち構えていた。二人とも厳しい表情をしている。
「ああ。ヨシコ、来たんだな」
「はい。主上、白苑が戻ってきませんが。何かあったんですか?」
「…緋嚥から聞いてなかったのか。白苑は皇后の暗殺未遂で追捕された。今は牢獄にいる」
苑萊が言うと蒼鳶も申し訳なさそうな表情をした。
「皇后様。私と弟がいながらにこの不手際。本当に申し訳ありません」
「…将軍。気にしないでください。緋嚥が事前に忠告をしてくれたので。あなたやか、彼女がいなかったらうっかり命を失うところでした」
「皇后様…」
「あーと。二人ともわたくしや主上もおられるんですよ。気にしてほしいもんですね」
「まあ、そうだな。蒼鳶、よもやわたしの妃に横恋慕しておるのではあるまいな?」
苑萊の鋭い質問に蒼鳶は顔色を青ざめさせた。芳子も背筋がひやりとした。
蒼鳶との関係は許されない。それに気づいたのは皮肉にもこの瞬間だった。
芳子は泣きそうになるのを我慢するしかなかった…。




