二章ニ
芳子は女性を睨みつけたままでいた。女性はにこりと笑いながら、躍拝の姿勢をとる。
「…失礼をしました。后妃様、わたくしは名を琴圭と申します。主上より、あなた様に礼儀作法や後宮での事などをお教えするように命じられております。良いですか、今この部屋には見張りが付けられております。后妃様は不必要な事を仰せにならぬように。以後、お気をつけください」
最後は声を潜めて言われた。芳子は睨みつける表情をやめて困惑の顔を見せる。
琴圭と名乗った女性は芳子に一礼してから椅子に座るように促した。
「后妃様。とりあえずは座りましょう。躍拝は楊将軍から習っておられるでしょうが。他にも挨拶の仕方はあります。まずはそれからお教えしましょう」
琴圭はそう言うとまずは躍拝の姿勢を再びとる。そして、芳子に椅子から立ち上がり同じような姿勢になるように言った。
「…あの。躍拝って王様や目上の人にする挨拶の仕方でしたか?」
「そうです。人ではなくて方とおっしゃってください。失礼ですよ」
「わかりました」
芳子は口答えをせずに頷きながら躍拝の姿勢をした。琴圭から頭の角度や足の曲げ方なども細かく注意された。この厳しい特訓は夕暮れ時まで続いた。
琴圭が帰り、芳子は疲れてしまった。椅子にくずおれるように座りこんだ。はあと大きな息をついた。
「…何なのよ。こっちに来てから滅茶苦茶だわ」
そう呟いてみるも答える人はいない。同僚や友人、家族はどうしているだろうか。
上司の部長に無断欠席したらこっぴどく怒られそうだが。元の世界を気にし始めたら今まで押さえていた感情がどっと溢れ出した。
それは涙となって瞳から出てくる。次から次へと溢れて止まらない。芳子は嗚咽を堪えながら袖で涙を拭き取る。帯に挟んである手巾を思い出してそれを取り出してから目元をゴシゴシと擦った。
慰めてくれる人はいない。昔であれば、母が背中をさすってくれていた。今であっても友人が側にいてくれる時があった。けど、今は一人きりだ。
だれも頼りにはできない。芳子は強い孤独感と不安感に苛まれていた。ホームシックが今になって出てきたようだ。一時間近い間、泣き続けたのだった。
白苑が心配そうに部屋に入ってきた。芳子は応接間の隅に蹲って泣いている。それを見て痛ましげに目を伏せた。
「…朱凰様。じきに夕刻がきます。せめて、お着替えをなさいませ」
控えめに言うも芳子は聞こえていないのか返事をしない。白苑は仕方がないと近づいて芳子の腕を取って立ち上がらせようとした。
だが、ぱしっと乾いた音が部屋に響く。芳子は白苑を睨みあげている。立ち上がらせようとしたのを嫌がって手を弾き飛ばしたのだ。それに一拍遅れて気が付いた。
「あたしは朱凰じゃない。王様の事なんて知らない。早くここから出して!」
声を荒げる彼女を見て白苑は何とも言えない気持ちになる。
「ですが。朱凰様、あなたは主上が正妃と唯一お認めになった存在です。後宮からお出しする事は申し訳ありませんが出来ません」
「…なんで?!」
「この国では後宮に一度お入りになった方はよほどの事がない限り、出ることは叶わないのです。主上がお許しにならない限りは」
そこまで言われて芳子は黙り込んでしまった。白苑はあの講師の女と何かあったなと勘付いた。なんとなくだが。昨日までは彼女は穏やかで怒ったところなどおくびにも出さなかった。
それが今はどうだ。手負いの獣のように警戒心をあらわにしている。白苑は深いため息をついた。




