終幕
――また、サンアット公爵が死んだ。
リデラ・ユリバ・サンアットの死は、瞬く間に人々に広まった。
先代サンアット公爵にはリデラ以外の跡目はいなかった。公爵夫人はリデラがまだ幼い頃に亡くなっている。
町民達の反応は様々だった。ある者は、自分達を長年苦しめてきたサンアット公の血が絶えたことに狂喜乱舞し、ある者は若すぎるリデラの死を悼んだ。また、ある者はリデラならこの町をよくしてくれるはずだと思っていたと肩を落とし、ある者は公爵を暗殺した者に恐怖した。
「リデラ、死んじゃった」
フェザーは施した化粧が剥げるのも構わず、大粒の涙を零す。仲間達はそんな彼女を励まそうと少女を取り囲んだ。
リデラが死んでから早数週間経つが、フェザーは泣いてばかりだ。
スーザンは、そんなフェザーを慰めるでもなく、両手を固く組んだままテーブルから動こうとしなかった。フェザーを励ましてやりたいと思う気持ちもあったが、自分が彼女を励ませる立場にないことをスーザンは理解していた。
スーザンの肩に誰かが手を添える。
振り向くと、そこには沈んだ顔をしたランス・ペダモーの姿があった。
「ちょっと話したい。今いいか」
ランスの有無を言わせない口調にスーザンは頷いた。家から出ようとする二人にチェインが声をかける。
「おい、こんな時にどこ行く気だ?」
チェインの眼に疑いが潜んでいることは火を見るより明らかだった。彼はスーザンとランスがリデラを殺したのだと思っている。
二人がサンアット公の邸に雇われて日も浅いうちに今回の事件が起こったのだから、チェインの疑いは尤もだった。
「……チェイン、ボクのことは疑ってもいい。だけど、スーザンは疑わないでやってくれ」
「ランス……お前……」
ランスはチェインの疑念に満ちた視線からスーザンを庇うようにして、チェインの前に出る。
「ボクはずっとリデラへの憎しみを口にしていたけど、スーザンは一度たりともそんなこと口にしなかったろう?」
「ああ……そうだな。ごめんよ、スーザン」
胸が軋んだ。スーザンは胸に手を当てて俯きがちに首を横に振った。
「じゃあ、少し外の空気吸ってくるから」
「わかった。気を付けろよ」
ランスは俯いたままのスーザンの手を引いてドアノブを回した。
町は黒いベールで覆われたように静まり返っている。領主であるリデラの喪にふしているのだ。先代公爵の時は喪などあってないようなものだったが、今回は違う。リデラは町民から慕われていた。
喪中、人々はあまり外を出歩かない。無意味に外出していると、死者の魂が死の国へ誘うからだと云われている。スーザン達がすれ違う人達は皆、ショールやベール、シルクハットで顔を隠していた。少しでも死者の目から逃れるためだ。
「どこで、話をするの?」
「ハンミルの丘だ」
ランスはスーザンの手を引っ張って颯爽と歩き続ける。振り向かない彼の背を見つめ、スーザンは静かに瞑目した。
◆
「だから言ったのに。スーザンとボルドには気をつけろって」
宙を浮遊しながらドラクロアは面白おかしそうに言った。
リデラはエメラルドの瞳を細めて笑った。
「それでも信じようと思ったんだ。二人共、僕にとって大切な人だから」
この世とあの世の狭間の世界は非常に不安定だ。狭間の世界はドラクロアの感情の揺らぎを敏感に察知して歪む。リデラの後ろ側には常闇が、ドラクロアの後ろにはおぼろげな光がある。
ドラクロアは微笑を一転させて醜悪な顔を剥き出しにした。
「裏切られて憎くないのか。呪わないのか。怨まないのか」
ぞっとする程の狂気に満ちたドラクロアを前にしても、リデラはひるまない。リデラは生前に取り憑いていた呪詛が落ちたかのように清々しい表情をして答える。
「心配なのは、あの二人がこれから先ずっと、僕を殺した十字架を背負って生きて行かなければならないことだ」
ドラクロアはまばたきもせずにリデラを凝視する。爆ぜる炎を宿した双眸が妖しく煌めいた。
「お前は父が行なった罪のために地獄へ落ちる。あいつがやったことは、決して己だけで贖える罪ではなかったから」
「そんなの、百も承知だ」
リデラの立っている周囲から手が伸びてくる。
――魔からの誘い。
彼の父親は必死でその手から逃れようと暴れたが、結局地獄へと引きずり込まれて行った。その様を見てドラクロアは高らかに哄笑した。だが、リデラは叫び声も上げずにじっとその場に佇んでいる。
「……逃げないのか?」
地獄の業火へ堕とされようとしているリデラにドラクロアは囁いた。
「逃げない」
リデラの瞳はスーザンがドラクロアに見せたものに酷似していた。
あ、とドラクロアの瞳に戸惑いが生まれる。
「この手は、僕の父に苦しめられた人の手そのもの。それに抗うなんて、僕には出来ない」
ドラクロアはじっとリデラの体が闇に沈んで行くのを見ていた。リデラの体はもう半分以上、深い常闇へ同化している。
ドラクロアは何か表情を硬くしていたが、やがて被っていたシルクハットを闇に向かって投げた。
その瞬間、眩い光が周囲を照らした。リデラを拘束し、引きずり込もうとしていた手は眩さに駆られてリデラから離れた。一瞬の隙をつき、ドラクロアはリデラの手を握って一気に後ろへ彼を放り投げる。
リデラは心底驚いた顔でドラクロアを見たが、すぐに光に呑み込まれて姿を眩ませた。
二人が会話を交わすことはもう二度とない。
ドラクロアは再び蠢き出す闇に降り立ち、シルクハットを拾い上げた。闇はドラクロアに纏わり付く。
――何故、あの者の子を輪廻の輪に還した。
――オマエがそのような無様な生を享受する起因となったあの男の息子だぞっ?
――信じられん、それでも〝采配者〟か。
「審判は下った。お前達が俺の決定を覆すことは出来ない」
非難を浴びせてくる魔の手達をドラクロアは一蹴した。
「……リデラ。今度は幸せに」
そう独白し、ドラクロアはその場から掻き消えた。
◆
ハンミルの丘に着いたスーザンとランスは会話を交わさずにいた。
「……何で、ここなの?」
ポツリとスーザンは呟いた。
風が吹き荒ぶ。
ランスは夕陽と同化する赤毛を掻き上げながら、ブルートパーズの猫目に丘と向かい合うようにしてそびえ立つ黒い城を映した。
「キミ以外に、リデラの死に関わったヤツがいるからさ。……出て来たらどうだ、ドラクロア・ハンミル」
ランスが言うが早いか、樹上から黒い影が下りて来た。
「随分と棘のある言い方だね、ランス・ペダモー。まるで僕がリデラを殺したとでも言いたげだ」
常人は持ち得ない赤目を燻ぶらせて、ドラクロアは大げさに肩を竦ませる。
ランスは力いっぱい樹を殴った。その目に灯っているのは明らかな敵意だった。
「……殺したも同然だ。カトレア夫人へ売ったんだろ。〝アレ〟を」
ドラクロアは何も答えない。
ランスはドラクロアを睨んだまま低く声を落として言う。
「スーザン……キミは知らないだろうが、コイツは〝毒売りの亡霊〟、〝死の仲介人〟と呼ばれてる。皆、キミがコイツと仲が良いから気を遣ってキミの前では口にしなかったけど」
「……え?」
耳慣れない呼び方にスーザンは片眉を上げる。
「ドラクロアは毒薬売りだ」
冷たくランスが言った。
「嘘」
スーザンは否定の言葉を求めてドラクロアを見た。しかし、彼はスーザンに目を向けようとしない。
「大方、先代公爵も毒殺だろ。彼はアンタが作った新種の毒で殺された。だから、毒殺の証拠が出なかった」
「証拠が出て来てないのに、犯人扱いとはひどい話だ」
ドラクロアの紅い瞳が危険な色を灯す。
ランスは鼻を鳴らし、ドラクロアの襟を掴むと鼻に皺を寄せた。
「今朝、カトレア夫人は死んだよ」
スーザンはランスの洩らした事実を前に身を縮める。
「全てが終わったら、もとより死ぬつもりだったんだろう。自ら毒を呷った。……カトレア夫人は死ぬ直前、ボクに種明かしをしてくれたよ。……彼女は嬉しそうに答えてた。憎き血が絶えたって」
「へえ、カトレア夫人が……」
感情を乱さないドラクロアに苛立ったのか、ランスは激情のまま怒鳴った。
「アンタが毒薬さえ夫人に売らなかったら、スーザンがリデラを殺さずにすんだのに!」
スーザンは自分の名が出て来たことに全身を震わせた。
リデラが倒れた時の光景が惨たらしく浮かび上がる。スーザンは顔に出さず、息を詰めた。
「辛いね、ランス。スーザンも憎めず、かと言ってリデラが死んだことに喜ぶことも出来ない。宙ぶらりんな感情は、毒を売った僕に向けるしかない」
「――くそっ」
ランスは掴んでいたドラクロアを解放し、悲しみに揺れる双眸をスーザンに向ける。
「なあ、スーザン。なんで……どうして、ボルドの話に乗ったんだ。最初は拒否していたじゃないか」
あの日――ボルドが家へ訪ねて来たあの日。
ボルドはスーザンとランスにリデラの暗殺を依頼した。しかし、スーザンもランスもにべもなく彼の依頼を断った。
しかし。スーザンはその翌々日、その依頼を受けるという答えを出したのだ。
ランスは依頼を受けたスーザンを必死に止めようとしていた。だから、彼はスーザンと一緒にサンアット公の邸へついて来たのだ。スーザンを人殺しという大罪から守るために。
ドラクロアは答えないスーザンに向かって微笑んだ。彼の微笑みは瞳の色のせいで人によっては恐怖を覚える。全てを見透かすその瞳が、今のスーザンには恐ろしくて視線を逸らした。栗色のフワフワした自らの髪が顔にかかる。
「スーザン、教えてあげたらいい。何故、君が取引に応じたのか。……君が答えないのなら、僕が代わりにランスへ教えてあげる」
「待って、ドラクロア。自分で言うから」
言いたくなかった。だが、自分の口からランスに伝えた方がいいとスーザンは思った。最も肝心なところは曖昧にぼやかせばいいのだと自身に言い聞かせる。
スーザンは頭の中で言葉を構築し、選び取って口を開く。
「ボルドは、もしもリデラを殺すのを手伝ってくれたら私達ストリート・チルドレンが裕福に暮らせるくらいのお金をくれると言ったの」
「何……?」
一度声に出してしまえば理由はスラスラと並べられた。
「……ランスの爵位も、取り戻せるって」
スーザンは恐る恐るランスの顔を見て、ギョッとした。彼は下唇を強く噛みしめて今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「そんな……スーザンにむごいことをさせて勝ち得た爵位なんて、ボクは要らない!」
ランスの瞳から真珠のような美しい涙が零れ落ちる。
スーザンはもちろん、ドラクロアでさえも声をなくした。
澄んだ色をした彼の瞳から流れる涙は、まるで空が泣いているようだった。
(リデラ……)
スーザンの脳裏にリデラの涙が霞む。彼の流した涙とランスの流す涙は似通っていた。顔貌は全く異なるというのに、美しい涙が二人を重なる。
純粋な泣き顔は、見る者全てに行き場のない悲しみを訴えかけた。
スーザンの心に鈍い罪悪感と絶望が過った。
もう何年も封じていた感情が湧き上がってくる。
「ランス……あの……」
「触るな!」
腕に触れようとしたスーザンをランスは勢いよく振り払った。
拒否された手からは痺れを感じる。手よりも、何よりも、心が痛かった。きちんと縫合していたはずの傷口がジクジクと膿み、勢いよく血が噴き出してくる。
ランスは初めてスーザンと会った時と同じ、全てを拒絶する色合いを瞳に滲ませて身を翻した。
ハンミルの丘を抜け、町中を人にぶつかりながら駆け去るランスを見送りつつ、ドラクロアは項垂れたスーザンの頭を二、三度優しく叩いた。
「スーザン、君は優しいね。一番の理由を言えば良かったのに。そしたら、彼も納得出来たかもしれない」
「……何のこと」
しらばっくれるスーザンを優しい眼差しで見て、ドラクロアは急にスーザンを持ち上げた。
いきなりのことにスーザンは驚いて目を白黒させる。彼は自分の右腕にスーザンを乗せると、町を見下ろした。
「『頼みを聞いてくれないなら、ランス・ペダモーを殺す。代わりに、もしも言うことを聞いてくれたらランスももちろん君の仲間に多額の寄付を贈ろう』と。そう脅されたと教えたら、ランスはもっと自分を責めるとわかっているから言わなかったんだね、君は」
スーザンとボルドの秘密の会話を口にしたドラクロアをスーザンは驚愕の眼差しで見た。
ドラクロアの言ったことは当たっていた。ボルドはスーザンがランスと親しくしているのを知った上で、この条件を提示したのだ。裏切れば、ボルドは何が何でもランスを殺すだろうことをスーザンはわかっていた。
「ドラクロア、今のことは内緒だよ。あなたもわたしに隠し事してたんだから、おあいこ」
「うん。わかった」
ドラクロアは軽やかにジャンプして樹の幹に飛び乗った。隣にスーザンを腰かけさせる。
スーザンは頬づえをついて町を見ていた。
「ボルドは、王都からサンアット公の傍流の馬鹿息子を当主に据える気だ。また、圧政は繰り返されるよ」
ボルドは結局、スーザンやカトレア夫人を利用して自分のいいなりになる主を手に入れようと画策した。カトレア夫人はサンアット公の直系子が絶えればそれで満足だったらしく、リデラを殺したのは自分だと遺書を残して毒をあおり、この世を去った。
スーザンにとってリデラを殺した暁の報酬などあまり意味ないものだった。彼女が守りたかったもの。それは、ようやく笑顔を取り戻したランス・ペダモーの命だった。スーザンに両親のことを訊いてくれた、懸命に行き場のない憎悪を昇華させようとしていた彼の命だったのだ。
それは、建前。
本当は……。
無意識に抑え込んでいた憎悪、怒り、怨恨。それらは確かにスーザンの核に植え込まれていて。
リデラを憎んでなどいなかった。しかし、サンアット公の血を引く者を赦すなんて真似出来るわけもない。
ボルドの囁きは甘く、魅惑的なものだった。
――リデラを殺せば、スーザンから家族を奪った者の血は絶える。
結局、スーザンもただの人間で。無表情という仮面を被ったところで感情全てを押し殺すことなど出来なくて。
もし、リデラがサンアット公の子息でなければ、状況は違っていただろう。
今も脳裏に浮かんでは消える、リデラの笑顔や言葉達。迷い、悩みながらも人々のためになる善政を敷こうとしていた若き領主。
(きっと、わたしは……)
スーザンは胸の前で拳を握りしめる。
これから町は、ボルドに操られた領主によって骨の髄まで搾取され、荒廃していくだろう。
そのさまが、スーザンにはありありと思い浮かべることが出来た。
「終わりは来ないのよ」
スーザンはそっと呟き、町を照らす紅い夕陽を睨んだ。
やがて、夜がやって来る。
螺旋階段の終わり。
そんなもの端から存在しないのに、舞台上の人々はそれを切望していた。
道化はスポットライトを一身に浴び、仮面をかぶったまま血の涙を流す。
やがて彼は仮面を剥ぎ、ぞっとする美貌を観客に見せつけた。彼は両手を広げて声高に叫ぶ。
「さあ、物語の終焉を! 終わることなき物語に終止符を! この舞台の幕はおりるけれど、静かに時間は刻まれ続ける。またどこかでお会いすることもあるでしょう、その時までしばしのお別れ!」
ストンと呆気なく紅いカーテンが舞台に落ちる。
怒号のような拍手が巻き起こった。観客達はカーテンコールを望んだが、幕が上がることはなかった。
《了》
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます!
これを賞に出した時は、原稿用紙105枚までという規定があったため入れられなかったスーザンの気持ちなどを加筆してみました。
救いようのない話にしたかったので、スーザンが復讐に燃えてたりとか、彼女の復讐に加担する者の存在などの要素を一切入れませんでした。
もし、これをハッピーエンドにするならば、相当長い小説になっていたと思います。まず、ボルドが黒幕という箇所を掘り下げたり。
復讐を成し遂げることが出来るのって、実際はごく限られた人だけだろうなって思いから、この作品の流れは出来ました。
もし、極悪非道な領主に家族を殺されたとしても、下々の者達は黙ってじっと耐えるしかない。無力な自分を呪いながらも、いつか現れるかもしれない助けを待っているだけ。
それが普通だと思うんです。
物語的には、復讐を成し遂げてハイめでたしめでたし!の方が爽快感があっていいかもしれないんですが。どうも、そういう話を書くのが苦手でして(オイ)。
それでは、ここまで読んでいただきまして、本当にありがとうございます!
次回作でお会い出来たら、幸いです。
2011.01.12 藍村泰




