#93 アリノスpre.『FULL MOON』
月末の月曜日、アリノス。
普段ならlunatiとして何度も立っているステージなのに、今日はまるで別の場所に見えた。ドラムセットは使わない。大きなアンプもない。ステージ中央にはマイクと椅子が1つ。そして、ユイのアコギ。
今日は毎月開催されているアリノス主催の弾き語りイベント『FULL MOON』の日だった。
別に今宵は満月でもない。月末の月曜日で月が2つもあるから。そんな理由でこのイベントの名前が付けられたそうだ。
アリノスはいつもの無骨な雰囲気とは違い、椅子とテーブルが置いてあって、アロマキャンドルに小さい火が揺れていた。
今日出演するのは、普段は路上ライブや小さなライブスペースを中心に活動している4人のアーティスト。
マキのお気に入りの若手が毎月呼ばれているそうだ。
そのトップバッターが木下ユイだった。
「なんでアタシ1番なの……」
楽屋でユイがアコギを抱えたまま呟く。
「初めてなんだから、当たり前でしょ。トリだとでも思った?」
音響卓から綾坂が返した。
結局PAが見つからないので綾坂はマキさんに呼ばれて一日雇われた。今日は出演者全員の音響も担当している。
リハーサルを進行しながら2人はマイクとスピーカーを通して話す。
「それにユイは盛り上げ役。役目でしょ?トップバッターの」
「初弾き語りの人に盛り上げ役やらせる!?」
「元気に挨拶して、良い雰囲気作れば良いの。得意でしょ?」
「ギター弾かなければね…」
綾坂は笑いながらケーブルをまとめる。
「大丈夫。ちょっとミスったくらいじゃ死なないから」
「アタシのメンタルが死ぬ!」
「メンタルは死ねば死ぬほど強くなるから。安心して死んで」
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イベントがスタートした。
リョウヘイ、ハルナ、ヒナもユイの勇姿を見届けに来ていた。今日は3人とも完全に客だが、何食わぬ顔で楽屋まで入ってユイと話していた。
「ユイさん、緊張してますね」
ヒナが言う。
「lunatiのライブより緊張してるんじゃない?」
ハルナも笑った。リョウヘイは客席を覗く。平日の月曜日。いつものバンドイベントと比べれば、客数は多くない。
「……ユイ」
「なに?」
「ちょっと客席見てみぃ」
「今見たら余計緊張する!」
「いいから」
ユイが恐る恐る楽屋の隙間から顔を出す。そして。
「あ…」
動きが止まった。見覚えのある顔がいる。1人。2人。それだけじゃない。lunatiのライブへ何度も来てくれているファンたちが、客席の前の方に集まっていた。数えてみる。
「知ってる人……10人もいる。みんなlunatiのお客さん…」
ユイが呟いた。綾坂が笑う。
「やっぱり、来てくれたね」
「え、今日アタシ1人だよ?」
「知ってて来てるんでしょ。みんな、アンタを見に来てんのよ」
「だってlunatiじゃないのに……」
声が少しだけ小さくなる。
もちろんSNSでは告知していた。
木下ユイ、初弾き語り。それだけ。lunatiの4人が演奏するわけでもない。新曲があるわけでもない。ただユイが1人で、覚えたばかりのアコギを弾いて歌うだけ。
それでも10人が来てくれた。
ハルナが隣で笑った。
「ユイちゃんだけ見たい人だっているよ。みんなlunatiのインスタからの予約してくれたんだよ」
リョウヘイも頷く。
「バンドで聴くのと弾き語りで聴くの、全然違うからな。特に歌詞は弾き語りの方が生きる」
ヒナも客席を見ながら言う。
「ユイさんの歌と言葉をしっかり聴きたい人には、こっちの方が合うかもしれません」
「……そっか」
ユイはもう1度、客席を見る。少しだけ表情が変わった。緊張はしている。でも。怖いだけではなくなった。
開演時間。綾坂が音響卓へ移動する。客席の照明が落ちた。マキの短い挨拶のあと、名前が呼ばれる。
「トップバッター、木下ユイ!」
拍手。その中に、明らかに大きな歓声が混ざった。
「ユイちゃーん!」
「頑張れー!」
聞き覚えのある声。ユイがステージへ出た瞬間、顔が一気に明るくなる。
「あ!久しぶり!この前はライブ来てくれてありがとね!」
いきなり客席へ話しかけた。
会場に笑いが起きる。
「こんばんはー!木下ユイです!」
もう1度、拍手。
「普段はlunatiってバンドで歌ってます!今日は人生初の弾き語りです!」
アコギを少し持ち上げる。
「ちなみにギター始めてまだ2ヶ月くらいです!」
一瞬、フロアは静寂に包まれた。
「ちょ、その反応やめて!ここは笑って応援してくださいよー!」
さらに笑いが起きる。
客はみんな拍手してユイを応援した。
音響卓の綾坂が小さく笑った。
仕事はしながらも、心の中ではガッツポーズをしていた。
(やっぱりトップで正解だったね。演奏がどうであれ、ユイは人の空気を掴むのが上手い。最初の出演者として会場を温める能力なら、4人の中でもユイはダントツで強い…)
「じゃあ、やります!」
ユイがアコギを構える。
大きく息を吸う。最初のコード。ジャァン。ちゃんと鳴った。そのまま歌い始める。
アコギの演奏は、まだ粗い。決して上手くはない。少しストロークが走る。コードチェンジで一瞬音が途切れる。2番に入る直前には、完全に違う弦を鳴らした。
「あっ」
ユイの顔に出る。客席から笑い。本人も笑った。
「今の忘れて!」
ミスしてもそのまま続ける。絶対に止まらない。
それが綾坂との約束だった。曲が止まれば素人でも失敗が分かってしまう。そこから雰囲気を立て直すのは可能だが、ユイにはまだその経験値が足りない。
軽いミスなら何度もあった。
指が少し遅れる、コードが綺麗に鳴らない、ストロークが乱れる。それでも、歌だけは揺れなかった。
アコギ1本しかない。だからこそ、ユイの声がそのまま客席へ届く。lunatiでは、ヒナのギターも、ハルナの鍵盤も、リョウヘイのドラムもいる。強い音の中で、その全部を突き抜けるように歌うのがユイのスタイルだった。
今日は違う。
アコギと声だけ。いつもより小さな音量で、いつもより近い距離で。言葉の1つ1つまで、はっきり入ってくる。同じ曲なのに、表現が全く違う。
リョウヘイが客席で小さく笑った。
「やっぱ歌うめぇな」
ハルナもステージから目を離さない。自然と笑顔になっていくのが分かった。
「うん。普段より歌詞が身体に入ってくる。純粋な言霊の力が伝わってくる」
ヒナも静かに聴いていた。
「ユイさんの声を聴くライブですね」
ギターの上手さを見るライブではない。もちろん、上手いに越したことはない。でも今は、それよりも歌の強さが全部を支えていた。
2曲目。ユイも少しずつ慣れてきた。MCではいつもの調子で客席を笑わせる。
「もう指痛くないんですよ!」
左手を見せる。
「2ヶ月前はライブ出る前に左手なくなると思ってたんだけど!」
客席から笑いが起きる。
「このギターもたくさんアタシの血を吸って認めてくれたみたいです!」
更に笑いが起こる。
もはやユイが喋れば無条件で笑いが起こるぐらい会場はユイのものだった。
最後の3曲目。ここまで来れば、最初の緊張はほとんど消えていた。ギターは相変わらず何度か危ない。コードを押さえ損ねて、音が濁る。一瞬だけストロークがずれる。
でも止まらない。最後まで歌い切る。
最後のコード。ジャァン。少しだけ余韻。そして拍手。最初よりずっと大きかった。
「ありがとうございましたー!lunatiの木下ユイでした!」
ユイが深く頭を下げる。ステージ袖に入った瞬間。
「終わったぁぁぁぁ!」
客席から最後の笑いが起こった。ユイだらしない声はバリバリ客席まで聞こえていたようだった。
恥ずかしそうにユイは楽屋に逃げていった。
「よぅ、お疲れさん」
リョウヘイたちも楽屋に入ってくる。ユイが真っ先に聞いた。
「どうだった!?」
「ギターはまあ……」
リョウヘイが言葉を濁す。
「ちょっと!優しくしなさいよ!容赦ないなぁ!」
「でも歌はバッチリ。めちゃ良かった」
「ホント!?」
「むしろ弾き語りいいじゃん。声がちゃんと前に出るし、歌詞も普段より入ってきた」
ハルナも大きく頷く。
「私も思った。ユイちゃんの歌を聴きたい人には、すごくいいと思う」
「ギターも2ヶ月でこれなら十分です」
ヒナも続ける。ユイが嬉しそうに笑う。
「ヒナが褒めてくれた!」
「細かいミスはたくさんありましたけど」
「今言わなくていい!」
綾坂も音響卓へ戻る前に、ユイの肩を軽く叩いた。
「最初にしては上出来」
「綾坂!」
「ギターはまだ練習必要だけどね」
「みんな最初にそこ言う!」
「でも、ちゃんと1人でライブできてたよ」
ユイが止まる。その言葉が、今日1番嬉しかったらしい。
「……ホント?」
「うん。ナイスライブ、ユイ」
ユイはもう1度客席を覗いた。自分を見るために来てくれた10人。lunatiのライブとは違う。でも、こういう自分を見たい人もいる。
「……また出たい」
小さく呟く。綾坂が笑った。
「もう?」
「だって楽しかったし…ミスして悔しかったし」
その後もユイは客席に残り、他の3人の弾き語りを見た。路上を中心に活動しているだけあって、3人ともユイより遥かにギターが上手い。派手なフィンガーピッキング。繊細なアルペジオ。歌の間を埋めるようなコードワーク。
ユイは途中から妙に真剣な顔で手元を見ていた。
「……アタシ全然ダメじゃん」
「比べないの、まだ2ヶ月なんだから。それに歌は負けてないよ」
ハルナが笑う。
「はい。歌の強さはユイさんの圧勝ですね」
ヒナが言った。
4人目の演奏が終わる。
今月の『FULL MOON』が終演した。客席にも少しずつ帰り支度の空気が流れ始めた。
ユイが楽屋でアコギをケースへしまっていると、音響卓から戻ってきた綾坂が声をかける。
「ユイ、今回は1人で精算行ってきな」
その瞬間、ユイの顔が明るくなった。
「きた! 精算タイム!」
「そこだけはずっと好きだね」
「だって今日は全部アタシのでしょ!」
嬉しそうに立ち上がり、そのままアリノスの事務所へ向かう。階段下の小さなスペース。lunatiでは何度も入ったことがあるが、今日は初めて1人での精算だった。
「マキさーん!精算しに来ました!」
「相変わらず元気だねぇ」
机の向こうで、マキが笑う。ユイは椅子へ座るなり、期待に満ちた顔で身を乗り出した。
「いくらですか!」
「ったく、品のない子だねぇ。まあ待ちな。その前にユイや」
マキが伝票を置く。
「うちでバイトしないかい?」
「……バイト?」
完全に予想外だった。
「スタッフの子が今月で辞めるんさね。受付とかドリンク、物販周り。アンタなら愛想いいし、客とも喋れるから向いてると思ってね」
「アタシがアリノスで?」
「そうさね。それにスタッフなら、弾き語りのノルマも社割で減らしてあげるよ」
「マジ!?」
「綾坂も今月で最後だしね」
「え?」
ユイが止まった。
「綾坂、アリノス辞めちゃうの?」
「聞いてないのかい?」
「なんも聞いてない」
マキが少し寂しそうに笑う。
「あの子はそういう子さね。一匹狼というか、自由にやりたいんだろうさね」
フリーのオペレーターになるつもりだとは聞いていた。だが、もう今月でアリノスのバイトを辞めるところまで決まっていたとは知らなかった。
あとで綾坂に詰めよう。それよりも今は
「アタシ、バイトやりたい!」
ユイが即答した。
「決断早いねぇ。今のバイトいいのかい?」
「今のバイト飽きたから辞める!」
「そういうことは、あんまり言うもんじゃないさね」
「だってホントだもん!アタシ、プラスチック工場の仕事興味ないもん!」
「ふふ。じゃあ来月から頼むよ」
「やった!」
工場で座りながら働く毎日から、ライブハウスへ。
同じバイトでも、今度は周りにずっと音楽がある。
時給は少し下がるが、いたしかたない。
「ここは絶対飽きないでしょ!毎日バンド見れるし!もうほぼ家みたいなもんだし!」
「飽きなきゃいいけどねぇ、それじゃ本題だ」
マキは笑いながら伝票を引き寄せた。
「さぁて、清算といこうかねぇ、lunati。じゃなかった、ユイ」
「きた…!総取り…!今月マジでギリギリなんです…!」
ユイが再び身を乗り出す。
清算表を両手で持ち顔を寄せる。
FULL MOON、一番手木下ユイ。
予約10名。チケット2,000円。
チケット売上20,000円。
ノルマ8枚。超過2枚。
チケットバック2,000円。出演料3,000円。
投げ銭6,800円。
本日支払11,800円。
「……1万1800円」
ユイが呟く。もう1度数字を見る。
「1万1800円!?これマジ!?」
「マジさね」
「アタシ今日、3曲歌っただけだよ!?15分だよ!?」
「その3曲のために2ヶ月練習したんだろ?毎日根気よくやらなきゃ、2ヶ月であそこまでは弾けない。綾坂の仕業かい?」
マキが笑う。
「それに10人、自分で客呼んでる。それが1番大きいさね。リョウさん達も金払って来てくれてる」
「……そっか」
ユイは改めて伝票を見る。自分を見るために来てくれた10人。その10人がいたからノルマを超えて、チケットバックが出た。歌えば投げ銭も入る。そして少しとはいえ、出演料まである。
「ちなみに通常はノルマ8枚だけど、スタッフになったら5枚にしてあげるよ」
「5枚!?」
「今日みたいに10人呼べたら、その分バックも増えるさね」
ユイの目がさらに輝く。
「……めっちゃいいバイトじゃん」
「バイト代とライブのギャラは別だからね」
「最高!」
マキから封筒を受け取る。中に入っているのは、今日自分1人で稼いだ1万1800円。lunatiの売上を5人で喜ぶのとは、また少し違う。
「ありがとうございました!」
「来月からバイトもよろしくねぇ」
「はい!」
ユイは封筒を握りしめたまま、勢いよく事務所を飛び出した。楽屋へ戻る。
「みんなー!」
扉を開けるなり叫んだ。
「アタシ、来月からアリノスで働く!」
「おお」
リョウヘイが反応する。ハルナも驚いた顔を上げた。
「決まったの?工場は?」
「今マキさんに誘われた!工場やめる!」
「よかったですね、ユイさん」
ヒナも嬉しそうに頷く。
その横で綾坂だけは、特に驚く様子もなかった。ユイがすぐに指を差す。
「あと綾坂!」
「なに」
「今月で辞めるなら言え!」
「別にここ辞めても、またすぐ何回も来るし」
綾坂は悪びれもせず肩をすくめた。
「バイトじゃなくなるだけ。肩書きが変わるだけだよ」
「そう、なの?」
「だってアリノスはこれからも普通に使うし。オペの仕事も受けるから」
綾坂は楽屋の外へ視線を向ける。
「アリノスって、自然とレベル高いバンドが集まるんだよね」
「そうなの?」
ユイが聞く。
アリノスはボロい見た目通り、老舗のライブハウスだ。様々な伝説がここで生まれ今もなお、伝説を作らんとするバンドマンが後を絶えない。
「うん。いいバンドのオペやって、その音を見た別のバンドから仕事もらえることもあるし」
ハルナが気づく。
「ANTSみたいに?」
「そうそう」
綾坂が頷く。
「ウチにとっては仕事場でもあるけど、営業の場所でもある感じ。アリノスでいい仕事してれば、そこから外の仕事にも繋がるから」
リョウヘイも納得したように頷く。
「じゃあマジで今とそんな変わらないな」
「でしょ?アリノスがバイト先じゃなくて、拠点に変わっただけ」
綾坂は笑った。
「マキさんから仕事もらって、他のバンドからも直接仕事もらう。バイト代じゃなくて、1本いくらで受けるようになるだけ」
「なるほど……」
ユイもようやく納得する。そして。
「でも辞めるのは言ってよ!チームでしょ!」
「はいはい、ごめんねごめんねー」
「軽い!」
笑い声が楽屋に響く。ユイは改めて手の中の封筒を見る。初めて1人でステージへ立った。ギターはまだまだ。軽いミスも何度もした。それでも歌はしっかり届いた。自分だけを見るために10人が来てくれた。そして、その歌で自分の金を稼いだ。さらに来月からは、働く場所まで音楽の現場になる。
まだバイトではある。弾き語りだけで生活できるわけでもない。それでも、少し前まで工場で興味のない仕事をしながら生活費を稼いでいた時とは違う。
歌って。ライブハウスで働いて。lunatiでライブをする。ユイの生活からも、少しずつ音楽と関係のない時間が減り始めていた。




