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#9 邂逅、逃走

※本作は全話に挿絵があります。

画像が表示されない場合は、挿絵表示設定をご確認ください。


また、たまにイメージソングも記載しています。

よければ楽曲とあわせてお楽しみください。


今日も、大きなヘッドフォンをつけたまま、1年B組の1番後ろの席へ向かいました。昨日と同じように、中からは何も聞こえていません。それでも、教室へ入った私を見て誰かが何かを囁き、近くにいた人が少しだけ道を空けました。


音楽を聴いているふりをしていれば、挨拶をしなくても、返事をしなくても許されます。少なくとも、そう思っていられます。


鞄を机の横へ掛け、窓の外へ顔を向けました。


けれど今日の私は、昨日までとは少しだけ違いました。黒板を見るふりをしている間も、頭の中ではずっと、放課後に鳴らす音のことを考えていたのです。


昨日、家へ帰った少しあとに届いた新しいエフェクター。


深い青色の小さな箱で、足元へ置けば手のひらに収まってしまうほどなのに、私が何週間も試奏動画を見比べ、レビューを読み、貯めていた配信の収益でようやく買ったものです。


昨夜、自分の部屋でも試しました。


けれど、家の小さなアンプでは音量を上げられません。低音がどこまで残るのか、高音が痛くならずに前へ出てくれるのか、歪ませたコードが潰れずに分離するのか。本当に知りたいところが、全部曖昧なままでした。


ちゃんとしたスピーカーで鳴らしたい。


その欲求は、教室で誰かに見られる恐怖よりも、ほんの少しだけ強くなっていました。


終礼のチャイムが鳴ると、私はいつものように誰より早く教室を出ました。


ただし、向かったのは昇降口ではありません。


鞄の中でエフェクターの箱が揺れるたび、足が勝手に速くなります。


スタジオ棟の受付には、今日も同じ職員の方が座っていました。


「あ……あの……個、個人練習を……」


頭の中では何度も言えたはずの一言が、喉を通った途端にばらばらになりました。


職員の方は気にした様子もなく、予約表へ目を落とします。


「ギターだね。今日はA棟の2番しか空いてないけど、いい?」


「は、はい。大丈夫です」


むしろ助かりました。


1年A組の人たちには、B組ほど私の顔を知られていません。誰かとすれ違っても、ただの知らない生徒として通り過ぎてもらえるはずです。


鍵を受け取り、なるべく足音を立てずに廊下を進みます。


2番スタジオへ入り、扉を閉め、防音扉がきちんと閉じたことを2度確かめました。


そこでようやく、肩から力が抜けました。


ギターケースを開き、見慣れた黒いボディへ触れます。


ケーブルを繋ぎ、新しいエフェクターを床へ置きました。まだ傷1つない金属の表面が、天井の照明を冷たく反射しています。


アンプの電源を入れる。

低いノイズが、誰もいない部屋を満たしました。


まずはエフェクターを切ったまま、6弦を1度鳴らします。アンプの音を覚えてから、銀色のスイッチを踏みました。


同じ1音が、まるで別の生き物になって飛び出しました。


「……これは……当たりかもしれません……!」


思わず声が漏れました。


音の輪郭は鋭いのに、芯が細くなりません。強く弾けばざらついた倍音が前へ出て、触れるだけなら原音の柔らかさが残る。


つまみをほんの少し右へ回し、コードを鳴らす。戻して、今度は単音を弾く。アンプ側の低音を削り、エフェクター側の音量を上げ、また弾きます。


1つ変えるたびに、音の表情が変わりました。


気づけば、受付で噛んだことも、教室の視線も、全部どうでもよくなっていました。


右手が弦へ触れ、左手が次の音を探している間だけは、世界に私しかいません。


何度目かの調整を終えた時、隣の部屋から低い振動が伝わってきました。


バスドラム。


続いて、ベースと鍵盤。


ハイハットが4回打たれて曲が始まったようです。


1小節目で分かりました。


――この曲。


新歓ライブで聴いた、あの3人の曲です。


ピックを持つ指が止まりました。


忘れるはずがありません。あの日、帰宅してから何時間も、記憶を頼りに追いかけたあの曲です。


歌の旋律も、ベースが一瞬だけ前へ飛び出す場所も、鍵盤がサビの前で作る小さな隙間も。


そして、3人をまとめながら容赦なく前へ押し出していた、あのドラムも。


気がつくとギターを弾くのを忘れてマルッと1曲聴き入ってしまいました。


音だけでわかる。


特にドラム。


防音室の壁を貫通してくるほどの音圧。自然とベースや鍵盤も音量が上がる。でもうるさくない、調和しています。


分析しているうちに次の曲が始まりました。


――隣に……いる……。


急に、自分の両手が勝手にギターを弾き始めました。


弾いちゃダメ……そう命令したはずなのに、左手はもう、曲のキーを探し当てていました。


新曲なのでしょうか、新歓ライブの時とは違う曲でした。


隣から聞こえるコードへ、1音だけ重ねます。


違う。


今の音では低い成分が多すぎて、ベースとバスドラムの場所へ入り込んでしまいます。


アンプのローを削り、ミドルを少しだけ持ち上げました。隣の部屋まで届くように思いっ切りボリュームを右に回しました。


もう1度弾く。これできっともっと届く。


――ボードごと持ってくればよかった。


昨日届いた1台を試すことしか考えず、ペダルボードごと持ってこなかった自分が恨めしくなりました。


けれど、今あるものだけで作るしかありません。


ピッキングを少し柔らかくし、音を伸ばす場所では指の揺らし方を変えます。鍵盤が空けた隙間へ、短いフレーズを差し込みました。


その直後、向こうのドラムが変わりました。


スネアの位置は同じまま、ハイハットだけが少し細かくなり、私の音を囲うように動きます。


偶然かもしれません。


もう1度。


今度はフレーズの終わりを半拍だけ早く切りました。

空いた場所へ、バスドラムが1発入ります。


「……っ」


息を呑みました。

試されている。


そう思った瞬間、怖さより先に、指が動きました。

次の小節では、ベースと同じリズムを弾いてから、最後の1音だけ上へ外れます。


向こうのベースが追いかけてきました。

高い音を長く伸ばすと、鍵盤がその下へ薄い和音を敷きます。


完璧に、こちらを聴いています。


壁の向こうにいる3人の姿は見えません。目も合いません。合図も出せません。


それなのに、私が強く弾けばドラムが強く返し、わざと拍の裏へずらせば、1拍もしないうちに捕まえられます。少し意地悪な休符を置いてみても、その空白ごと曲にされました。


逃げ道がありません。全部肯定してもらえている。


「……こんなの……」


気持ちよすぎます。


こちらのフレーズを受け止めるだけではありません。


もっと弾け、そこではない、次はどうする、と、ドラムが1打ごとに問いかけてくるのです。

ベースは時々、我慢できないようにこちらへ飛び込んできます。鍵盤はぶつかりそうになった音の間へ、細い光のような和音を置いていきます。


言葉なら、1つ返すだけでも時間がかかります。


相手の顔色を読み、正しい答えを探しているうちに、何を言いたかったのか分からなくなります。


音なら、考える前に返せました。


これまで誰にも話せなかったことまで、全部この6本の弦から出ていくようでした。


――それなら、私はこうです!


低い弦を強く刻み、ドラムへ正面からぶつけます。

すぐにバスドラムが同じ場所を踏み抜きました。

そこから一気に高いポジションへ駆け上がる。


スネアが背中を押す。


あと1音伸ばしたいと思った場所で、ベースが先へ進もうとする。その勢いへ食らいつき、フレーズの形をその場で変えました。向こうも変わります。決めていたはずの曲が、4人分の呼吸で別の姿になっていきました。


もっと。


もう少しだけ。


指先が熱い。


背中を汗が伝っています。


呼吸も浅くなっているのに、苦しくありません。むしろ、今まで身体の中へ閉じ込めていたものが、ようやく出口を見つけたようでした。


最後のサビへ入る直前、ドラムが激しいフィルで私を煽りました。


――その程度か、と言われた気がしました。


「違う……!」


今度は、本当に声が出ました。


持っている技術も、昨日の夜から頭の中で鳴っていた音も、誰にも触れられたくなくて隠してきた感情も、全部まとめてギターへ叩きつけます。


弦が指板へ当たり、荒い音を立てました。


それすらドラムが拾い、ベースが噛みつき、鍵盤が広げていきます。私は1人で弾いているのではありませんでした。


その事実が、怖いくらい嬉しかったのです。


最後の1音が、壁の両側で同時に止まりました。


耳の奥にはまだ音が残っています。


肩で息をしながらギターを見下ろすと、ピックを握る手が震えていました。


壁の向こうにいるのは誰なのか。


どうして、私の音があんなにも分かるのか。


まるで私の全てを理解してもらえたかのように感じてしまいました。


知りたい。


そう思った時には、もう身体が動いていました。


アンプを切り、ケーブルを抜きます。エフェクターとケーブルを鞄へ押し込み、ギターをケースへ滑り込ませる手が2度もファスナーを噛みました。

ようやく閉じると、鞄を抱え、ケースを背負うように肩へ掛けて扉へ駆け寄ります。怖いという気持ちは、音の熱に置き去りにされていました。


私は勢いよく扉を押し開けました。


ほとんど同時に、隣のスタジオの扉も開きました。


―――――――――――――――――――


曲が終わったあと、数秒間、誰も動かなかった。


リョウヘイは振り上げたスティックを止めたまま、壁を見つめていた。胸の奥では、ライブの本番を終えた時よりも激しく心臓が鳴っている。


ギターが半拍早く音を切った場所へ、バスドラムを1発置いた。すると次は、明らかにこちらへ向けたフレーズが返ってきた。


そこから先は、練習ではなかった。


リョウヘイが拍の裏へ罠を仕掛ければ、ギターは避けずに踏み込み、そのまま別のリズムへ変えて投げ返してくる。


強く煽れば、それ以上の熱量で噛みつく。


速さや正確さを見せたいだけの演奏なら、途中でこちらの都合に合わせるか、自分のフレーズを守ろうとする。


だが壁の向こうの相手は、曲そのものを変えることを怖がっていなかった。


何より異常なのは、3人の音を聴き分ける耳だった。


ドラムとだけ遊んでいるように見せて、ユイのベースが前へ出れば瞬時に進路を空ける。ハルナが新しい和音を置けば、その響きへ合う音を次の拍には選んでいる。


姿も見えず、譜面もなく、1度も合わせたことのない曲でだ。


――壁の向こうにヤバいやつがいる。


背筋が震えた。


上手いだけではない。


音楽のためなら、自分から壁の向こうへ殴り込んでくるような人間。


リョウヘイが探していた『イカれた』側の人間が、そこにいる。


「……今の、ギターやばくない?」


ユイが呆然と呟いた。


ベースを抱えたまま、壁から目を離せずにいる。右手の指だけが、まだ演奏の続きを求めるように小さく動いていた。


「うん……。明らかにこっちを意識してた。なんなら煽られた…」


ハルナも鍵盤へ両手を置いたまま、掠れた声で答える。普段なら自分の音が正しかったかを先に気にする彼女の目にも、今は驚きと興奮しかなかった。


「隣のスタジオ見てくる!」


リョウヘイはスティックを椅子へ放り、返事を待たずに扉へ向かった。


「うん!」


「ま、待って、髪だけ――もういい!」


演奏中に暴れたポニーテールを直しかけたユイが、そのまま後ろへ続く。


ハルナも椅子へ膝をぶつけながら立ち上がった。


扉を開けたのと、隣の扉が開いたのは、ほとんど同時だった。


戸口に、1人の女子生徒が立っていた。


大きなヘッドフォンを首へ掛け、肩で激しく息をしている。


ゆるく編まれた2本の3つ編みのうち、片方は半分ほど解け、薄い茶色の髪が頬へ張りついていた。


背中には黒いギターケース。


上気した顔も、見開かれた目も、まだ壁越しの演奏から戻りきっていない。


「……あ」


先に声を漏らしたのは、ハルナだった。


「たしか、隣のクラスの……」


その一言で、女子生徒の肩が大きく跳ねた。


瞳に残っていた熱が、急速に怯えへ変わっていく。


ほんの数秒前まで音で殴り合っていた相手とは思えないほど、身体が小さく縮こまった。


だがリョウヘイの耳には、まださっきのギターが鳴っていた。


「あんた、ピナってやつだろ」


女子生徒の顔から、完全に血の気が引いた。


「えっ、ピナ!? あのピナ!?」


ユイが彼女とリョウヘイを交互に見る。


「お前が見せてきた動画だ。音の切り方も、フレーズの癖も同じだった」


「はあ!? 同じ学校!? となりのクラス!? 情報量が多い!」


ユイの声が大きくなるたび、彼女の顔が1段ずつ強張った。


「ユイちゃん、怖がってるから……!」


「あっ、ごめん! でも、えっと、アタシ、ユイ! ベースとボーカルやってて――」


ユイが1歩近づく。


彼女は1歩下がる。


「あの、さっきのギター、めちゃくちゃ――」


「ご、ごめんなさい!」


女子生徒は深く頭を下げると、踵を返した。


次の瞬間には、走り出していた。


「ちょっ、待ってよ!」


真っ先に反応したユイが飛び出す。


リョウヘイも考えるより先に追い、ハルナが慌てて続いた。


「待って! お願い、うちのバンド入ってー!」


「ユイ、勧誘の順番を全部飛ばすな!」


「だって、逃げるじゃん!」


「お前が叫ぶから速度上がってるんだよ!」


実際、廊下の先を走る3つ編みの少女は、ユイが叫ぶたびに加速していた。背中のギターを壁へぶつけないよう身体を傾け、角ではほとんど減速せずに曲がっていく。人から逃げることだけ、日頃から練習しているような走りだった。


渡り廊下を抜け、旧校舎側の階段を駆け下りる。


「ちょ、ちょっと2人とも、待って……!」


後ろからハルナの苦しそうな声が聞こえた。


「ハルナ、大丈夫か!?」


「大丈夫じゃないけど、置いていかないで……!」


「ごめん! でも今止まったらピナが!」


「だから、その名前を大声で呼ぶな!」


廊下にいた生徒たちが、何事かと振り返る。


追われている本人には、それすら恐怖なのだろう。少女は顔を伏せ、さらに足を速めた。


リョウヘイは走りながら、さっきの演奏を何度も思い返していた。


昼に動画を見た時点で、こちらから1音返してみたいと思った。それが数時間後に実現し、想像していたものを簡単に超えた。


あの音を、逃がしたくない。


ただ上手いギタリストなら、他にもいる。


だが、初めて聴いた曲へ勝手に入り込み、壁越しの挑発へ限界まで食らいついてくる人間が、何人いる。


あの音がほしい。


彼女が加われば、自分たちの音はきっと、今いる場所には戻れなくなる。


中庭へ出たところで、逃げていた少女の速度が少し落ちた。


長い廊下と階段を、ギターを背負ったまま全力で走ったのだ。さすがに息が続かなかったらしい。


その一瞬で、ユイが距離を詰めた。


「つ、捕まえた……!」


少女の肩へ手を置き、自分もその場で膝へ手をつく。


「はぁ……っ、ボーカルを……なめんな……っ!」


「なんで勝った顔してるんだよ…」


「追いついた……から……勝ちでしょ……!」


数秒遅れて追いついたハルナは、何も言えずにベンチへ手をついた。


顔を上げ、息を吸い、やはり言葉にならずにもう1度俯く。肩を掴まれた少女だけは、疲労より恐怖が勝っているようだった。逃げ道を探すように視線を動かし、ギターケースの肩紐を両手で強く握っている。


ユイは何度か深呼吸すると、彼女をまっすぐ見た。


「お願い。アタシたちのバンドに入って!」


少女は、強く首を横へ振った。


「……私は、ソロなので。バンドはやりません」


掠れた小さな声だった。


それでも、その言葉だけは迷いなく出てきた。何度も自分へ言い聞かせ、固めてきた答えのようだった。


「なんで!? あんなすごいギター弾けるのに!」


「ユイちゃん、手を離して。突然こんなに追いかけられたら、誰だって怖いよ」


ハルナに言われ、ユイはようやく少女の肩から手を離した。


「ご、ごめん。でも、本当にすごかったから……」


少女は答えない。


褒められたことからも逃げるように俯いている。


リョウヘイは息を整え、ゆっくり彼女の前へ立った。


これ以上近づけば逃げる。


そう分かったため、数歩分の距離を残して足を止める。


「さっきの音、すごかった」


少女の肩が、また小さく跳ねた。


「なんで逃げるんだ」


「……関係ない、です」


「関係あるだろ。俺はドラムを叩いて、あんたはギターを弾いた。壁1枚挟んで、あれだけ噛み合った。もう無関係ってことにはできない」


少女の指が、肩紐をさらに強く握る。


「私は、1人でいいんです。1人がいいんです」


「ソロでもやっていける腕だと思う。動画だけでも分かったし、さっきので確信した」


そこで1度言葉を切る。


少女は俯いたままだったが、逃げてはいなかった。


「でも、あんたの音は1人で終わりたがってなかった」


わずかに、顔が上がる。


「俺がずらしたら追ってきた。ベースが出れば道を空けて、鍵盤が変われば次の音を変えた。あれは、1人で綺麗に完成させたい人間の弾き方じゃない。誰かとぶつかって、返ってきた音で自分まで変わることを知ってる音だった」


少女の目が、大きく揺れた。


「1人でいいなら、どうして俺たちへ返した?」


「それは……」


初めて、拒絶以外の言葉が喉元まで上がってきた。


けれど、続きは出てこなかった。


リョウヘイは急かさず、彼女を見る。


人の視線から逃げ続けてきたらしい少女と、壁の向こうからこちらの限界を殴りにきたギタリストが、同じ人間の中にいる。


その矛盾が、たまらなく面白かった。


「なあ。名前は?」


「……っ」


少女の唇が、かすかに動く。


怖い。


逃げたい。


それでも、もう少しだけ音の話を聞いていたい。


揺れる瞳の奥で、いくつもの感情がぶつかっているのが分かった。


その身体から、ほんの一瞬だけ力が抜ける。


だが次の瞬間、何かを思い出したように表情を強張らせた。


「すみません……!」


少女は身を翻し、再び走り出した。


「あっ、待って!」


ユイも反射的に追おうとする。


「ユイちゃん、もうダメ!」


今度はハルナが、その腕を両手で掴んだ。


「これ以上追ったら、本当に嫌われちゃうよ」


「でもー!」


「次に会った時、話も聞いてもらえなくなる」


ハルナの強い声に、ユイはようやく足を止めた。


悔しそうに頬を膨らませながら、遠ざかる背中を見送る。


「くっそー……! なんで逃げるかなあ! あと一押しだったじゃん!」


「どこがだよ」


「作戦考えよ!」


3人の荒い息だけが、夕方の中庭へ残った。


やがて黒いギターケースも、揺れる3つ編みも、校舎の角へ消えて見えなくなる。


「でも、隣のクラスなんだろ。いつまでも隠れてはいられない」


リョウヘイが言うと、ユイの頬が少しだけ戻った。


「……だよね。あんな音出せるんだもん。絶対、うちに誘う」


「次は、もう少し落ち着いて話せる場所を考えよう」


ハルナの提案に、リョウヘイも頷いた。


「そうだな。あの怯え方を見たら、力ずくじゃ無理だ」


「リョウヘイくんにしては慎重な意見だね」


「今の全力疾走をもう1回やるのが嫌なだけだ」


「アタシはまだいけるよ!」


「意味ないんだよ走ることが」


ドサッと音がして2人が振り返ると、ハルナはベンチへ座り込み、真っ赤な顔で肩を上下させていた。


「わ、私は……次は、話し合いがいいな……」


当然の意見だった。


逃げていった少女の名前すら、まだ知らない。


それでもリョウヘイの身体には、壁越しにぶつかり合ったギターの感触が残っていた。


ようやく見つけた。


そう断言するには、まだ早いのかもしれない。


けれど、あの音を1度聴いてしまった以上、なかったことにはできない。


3人の音へ、4人目が飛び込んだ瞬間。


止まっていた何かが、確かに走り始めた。

挿絵(By みてみん)

毎日投稿いたします。20:30更新です。

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