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#10 一緒に行こ?

※本作は全話に挿絵があります。

画像が表示されない場合は、挿絵表示設定をご確認ください。


また、たまにイメージソングも記載しています。

よければ楽曲とあわせてお楽しみください。


なんとか、逃げおおせました。


自宅の玄関へ滑り込み、鍵を閉め、チェーンまで掛けたところで、ようやく肺の中に残っていた息を吐き出しました。扉の向こうから誰も追ってきていないことは分かっています。それでも耳の奥には、廊下を駆ける何人分もの足音と、「待って! うちのバンド入ってー!」という元気すぎる声が、いつまでも残っていました。


「……怖かった……」


背負っていたギターケースだけは、いつもの場所へ慎重に立てかけます。鞄は廊下へ置くというより、ほとんど放り出しました。制服のまま床へ座り込みたい気持ちをどうにか堪え、その足でお風呂場へ向かいます。


今日は、いつもより少しだけお湯の温度を高くしました。学校から家まで走ったせいで身体は熱いはずなのに、胸の奥だけが冷えきっているような気がしたからです。


湯船へ肩まで浸かり、ぼんやりと天井の木目を見上げます。換気扇の低い音と、蛇口から落ちた雫がタイルを打つ音。


家の中にある、予想できる音だけが規則正しく続いていました。


ここなら誰も追いかけてきません。


ここなら突然、バンドへ入ってくれと叫ばれることもありません。


「ヤバい人たちでした……。バンドなんて……無理です……」


声にしてみると、少しだけ現実味が戻ってきました。


あんなふうに誰かから追いかけられたのは、生まれて初めてです。人の視線や、聞こえないふりをした方が楽な囁きには、悲しいことに慣れていました。


けれど、名前も知らない私を、あれほど真っすぐ、必死に求めてくる人たちへの対処法なんて知りません。


しかも、理由がギターなのです。


目を合わせられないことも、上手く喋れないことも関係なく、私の音が欲しいから追ってきた。


そんなことを言われたのは、初めてでした。


口元までお湯へ沈み、ぶくぶくと息を吐きます。水面で弾けた泡が頬を撫で、耳の中から外の音が遠ざかっていきました。


水の中は静かです。


誰かの言葉へ、すぐに返事をしなくていい静けさでした。


――でも。


目を閉じると、壁の向こうから届いたドラムが蘇ります。


私が短く切った音へ、迷いなく置かれたバスドラム。

高い音を伸ばせば、その揺れごと押し上げてきたスネア。わざと拍の裏へ逃げても、すぐに見つけ出され、逃げ道だったはずの空白まで音楽へ変えられてしまいました。


1人で弾いている時には、絶対に鳴らなかった音です。


あの人は、私が扉を開けるより先に、そのことまで見抜いていました。


『でも、あんたの音は1人で終わりたがってなかった』


湯気の向こうへ、真っすぐこちらを見る目が浮かびます。


『1人でいいなら、どうして俺たちへ返した?』


「それは……」


誰もいないお風呂場でも、続きを言えませんでした。


聞こえてきた曲が格好良かったから。


新歓ライブで1度聴いただけなのに、ずっと頭から離れなかったから。


新しいエフェクターの音を試していたら、たまたま隣から演奏が始まったから。


理由なら、いくつでも並べられます。


けれど、最初の1音を重ねたあと、向こうが私へ返してきた時の喜びだけは、どんな言葉でも誤魔化せません。音は嘘をつけません。


もっと弾きたい。


もっと返してほしい。


次は何をされるのか知りたい。


あの時の私は確かに、自分から3人の音へ飛び込んでいました。


「……ずるいです、あんな聞き方……」


膝を抱え、額をつけます。


答えられなかったのではありません。


たぶん、答えを認めるのが怖かったのです。


それに、あの人は知らない人ではありませんでした。


リョウヘイさん。


ポニーテールの女の子が、走りながら何度も呼んでいた名前です。


けれど私は、名前を知るよりもずっと前から、あの人のドラムを知っていました。


配信活動をしていると、他の演奏者の動画を見る時間が自然と増えます。


ギターだけではありません。


ベース、ピアノ、ドラム。


上手い人の演奏には、自分の楽器へ持ち帰れるものがあります。ベースの間の取り方をギターのバッキングへ移したり、ピアノのボイシングからコードの響きを考え直したり。


だから時間があれば、楽器を問わず演奏動画を見て回るのが習慣になっていました。


その中で、何度も指を止めさせられたのが、同い年くらいの男の子がドラムを叩く動画でした。

速いフレーズでも身体に無駄な力がなく、1打1打の粒が揃っている。


けれど、ただ正確なだけではありません。


原曲通りに叩いているはずなのに、フィルへ入る一瞬前の溜めや、スネアを置く深さだけで、その人自身の音だと分かりました。


コメント欄には『天才』『人間やめてる』『中学生の音じゃない』という言葉が並び、動画が上がるたび再生数が伸びていました。


私はコメントを残す勇気もなく、ただ何度も再生して、画面越しにスティックの軌道を追っていました。


まさか、同じ学校にいたなんて。


まさか壁1枚を挟んで、一緒に演奏するなんて。


そして、ずっと追いかけていたその人から、自分の音を見つけてもらえるなんて。


「ソロでもやっていける腕、って……」


呟いた途端、口元が勝手に緩みました。


両手で頬を押さえても、にやける力の方が強く、まったく元へ戻ってくれません。


「あ、あのリョウヘイさんに……褒めてもらいました……」


もう1度言うと、今度は耳まで熱くなりました。


お湯の温度を上げすぎたせいだと思うことにします。


そうでなければ困ります。


一緒にいた2人の名前も、追いかけられている最中に聞こえていました。


最初に大声で自己紹介しかけた、ポニーテールのユイさん。

息を切らしながらも最後までついてきて、ユイさんを止めてくれたショートボブのハルナさん。


2人とも、怖い人には見えませんでした。


ユイさんは怖いというより、勢いの加減を知らない人です。

ハルナさんは、私が怯えていることへ誰より早く気づいてくれました。


それでも、バンドは別です。


1度だけ音を合わせるのとは違います。


何度も同じ場所へ集まり、話し合い、予定を決め、失敗すれば迷惑をかけます。今日上手く弾けても、明日も期待に応えられるとは限りません。近づけば、嫌われる理由も増えていきます。ギターなら、間違えた音の次に何を弾けばいいか分かります。人との関係には、スケールもコード表もありません。


楽しかった。


嬉しかった。


もう1度、あのドラムと音をぶつけてみたい。


それでも、怖い。


相反する気持ちが頭の中を回り続け、どちらを選んでも胸が苦しくなりました。私はもう1度息を吸い、顔ごとお湯へ沈みます。静かな水の中でも、心臓の音だけは隠れてくれませんでした。



翌朝。



私はいつも通り、大きなヘッドフォンをつけて登校しました。


校門をくぐり、昇降口で靴を履き替え、1年B組の扉を開けます。


ヘッドフォンの中では、まだ何も流していません。


音楽を聴いているふりをしていれば、誰にも挨拶を求められず、何かを言われても聞こえなかったことにできます。


教室へ入った私を見て、遠くの席にいたクラスメイトが、隣の人の肩を叩きました。


こちらへ視線を向け、口元を手で隠し、わざとらしいほど大きな身振りで何かを囁いています。相手は半笑いのまま、何度も頷いていました。


何を言っているのかは分かりません。


分からないのに、自分のことだというのだけは伝わってきます。


いつもなら、その光景だけで胸の内側が冷たくなり、机までの数歩がひどく長く感じられました。


けれど今日は、昨日の言葉が先に浮かびました。


『あんたの音は1人で終わりたがってなかった』


この教室では、私は何も返せない人間です。


声をかけられても口ごもり、笑われても俯くことしかできません。


けれど、ギターを持った私の1音へ、本気で返してくれた人がいました。


それだけで囁き声が消えるわけではありません。


怖くなくなったわけでもありません。


ただ今日は、教室の視線が昨日までより少し遠くにありました。


席へ着き、ようやく音楽を再生します。


今日はスリップノットが聴きたい気分でした。


硬く刻まれるギターリフが耳の内側を埋めていくと、半笑いも囁きも、分厚い歪みの向こうへ押し流されていきます。


大丈夫です。


昨日のことは、少し珍しい事故のようなものです。

たまたま同じ時間に隣のスタジオへ入り、たまたま知っている曲が聞こえ、たまたま音を重ねただけ。あの人たちも、1晩眠れば冷静になるでしょう。今日からは、いつもの日常に戻ります。


そう自分へ言い聞かせました。


――戻る、はずでした。


お昼のチャイムが鳴ると同時に、私は弁当を鞄へ入れました。向かうのは、いつもの旧校舎の非常階段です。あそこなら人が来ません。

今日は念のため、普段より少し早く教室を出ることにします。後ろの扉から廊下へ出て、右を見る。

誰もいません。

左も見る。

大丈夫です。


「……よし」


小さく確認してから、足早に廊下を進みました。

角を曲がり、階段へ続く渡り廊下まであと少し。

今度こそ誰にも気づかれずに済んだと息を吐きかけた、その瞬間でした。


「確保!」


背後から、昨日1日で耳へ刻み込まれた声が、廊下いっぱいに響きました。


「ひゃっ!?」


自分でも聞いたことのない声が飛び出します。


振り返るより先に両肩を掴まれ、身体が完全に固まりました。恐る恐る首だけを動かすと、すぐ後ろにユイさんが立っています。

高い位置で結んだポニーテールを揺らし、獲物を捕まえた猟師のような目で、満面の笑みを浮かべていました。


「昨日は見事に逃げてくれたけど、今日はそうはいかないから!」


「ユイ。昨日の反省が1晩で全部消えたのか」


少し遅れて、呆れきった声が近づいてきました。

リョウヘイさんです。目が合っただけで、心臓が昨日とは違う理由で跳ねました。

慌てて視線を落とした直後、こつん、と軽い音がして、ユイさんの頭へ手刀が落ちます。


「痛っ! 何すんのよ!」


「いきなり大声で背後から掴むな。驚くだろ」


「だって普通に声かけたら逃げるじゃん!」


「だからって確保から始めるやつがあるか。逃走中じゃないんだぞ」


「逃げ足は逃走犯だったよ! めっちゃ速かったもん!」


「それはお前が追ったからだ」


2人の言葉が、ほとんど間を空けずに行き来します。


私の肩を掴んだまま繰り広げられる会話を、どういう顔で聞けばいいのか分かりませんでした。

少し後ろには、ハルナさんもいました。

私と目が合うと、申し訳なさそうに眉を下げます。


「ごめんね。私は、普通に声をかけようって言ったんだけど……」


「ハルナ、裏切り者!」


「お前が暴走してんだよ」


リョウヘイさんが、ユイさんの手首を指でつつきました。


「ほら、離せ。まず逃げられないように捕まえてから優しく話す、は優しくない」


「むう……」


不満そうな声を出しながらも、ユイさんは両手を離しました。肩に残った力が消え、逃げようと思えば逃げられる状態になります。足はすぐにでも動かせました。廊下の先までの距離も、曲がる角の位置も分かっています。


けれど私は、動けませんでした。


目の前に、動画の中で何度も見た人がいる。

その人が今、ドラムではなく私へ向き合っています。

昨夜、お湯の中へ沈めても消えなかった言葉が、また胸の奥で鳴り始めました。


リョウヘイさんは、私が逃げないことを確かめてから、ほんの少しだけ距離を取りました。

昨日、追い詰めたことを気にしているのでしょう。

声も、スタジオの前で話した時より穏やかでした。


「悪いな。こいつ、考える前に結論まで走っていくんだ」


「行動力があるって言って!」


「行動力しかない」


「褒めてる?」


「求めてる、いろいろ」


ユイさんが頬を膨らませ、ハルナさんが困ったように笑いました。


その3人の空気は、昨日の演奏とよく似ています。


誰かが前へ出れば、すぐに誰かが受け止め、ぶつかっているのに崩れません。


リョウヘイさんが、改めて私を見ました。


「よかったら、一緒に昼飯食べないか?」


「……え」


誘われた意味を理解するまで、何秒かかったか分かりません。


バンドへ入れと言われる。


昨日の配信について問い詰められる。

少なくとも、もう1度演奏しろと言われる。

頭の中では、もっと恐ろしい要求をいくつも想像していました。けれど、出てきたのは、ただ一緒に昼食を食べようという言葉でした。


「い、いっしょに……?」


「ああ。嫌なら無理にとは言わない。昨日みたいに追いかけたりもしない」


「もう捕まえたけどね!」


リョウヘイさんは困ったように頭を押さえました。

「お前は少し黙ってろ」


「だってこの子、逃げるじゃん!」


ユイさんは、まるで逃げた私の方が悪いように頬を膨らませています。不思議と、嫌な気持ちにはなりませんでした。怒っているように見えて、その目には責める色がまったくないからです。


ただ、もう1度会えたことを本気で喜んでいるように見えました。


頭の中では、逃げなければという警報が鳴り続けています。足も、いつでも走り出せるように力が入っています。それなのに、昨日の演奏を思い出すたび、胸の別の場所から、もう少しだけこの人たちを知りたいという気持ちが顔を出しました。


その時、ハルナさんが静かに1歩前へ出ました。


「大丈夫。何もしないから、安心して?」


私を刺激しないように、ゆっくりとした声でした。

強く迫ることも、答えを急かすこともなく、ただ私が顔を上げるのを待っています。


「私たち、あなたと仲良くなりたいだけなの」


仲良くなりたい。


その言葉を自分へ向けられたのが、いつ以来なのか思い出せませんでした。ハルナさんは、手のひらを上へ向けて私の前へ差し出しました。無理に掴むのではなく、私が選ぶための距離を残した手でした。


「一緒に行こ?」


逃げたいなら、後ろへ下がればいいだけです。断りたいなら、首を横へ振れば終わります。けれど、壁越しに1音を重ねた時と同じように、その手の先に何があるのか知りたいと思ってしまいました。


私はおそるおそる、自分の指先を重ねます。


ハルナさんの手は、思っていたより少しだけ小さくて、温かでした。びくりと震えた私の手を強く引くこともなく、逃げない程度の力で、そっと包んでくれます。心臓は、昨日のセッションよりうるさく鳴っていました。


ユイさんは期待を隠しきれない顔で、リョウヘイさんは急かさず、私の返事を待っています。


怖いです。

それでも、ほんの少しだけ。

この3人のそばへ行ってみたいと思いました。


「は……い……」


自分の声とは思えないほど小さく、震えていました。

それでも確かに私は、差し出された手を取ってしまったのです。

挿絵(By みてみん)

イメージソング

Slipknot/People = Shit


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