#83 リョウヘイの秘密
「俺、前は35歳だったんだ」
その一言は、リビングの空気の中にぽとりと落ちて、そのまま誰にも拾われなかった。
壁掛け時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。ユイは麦茶のグラスを持ち上げかけた格好で止まり、ハルナは握っていたペンを宙に浮かせ、ヒナは瞬きをするのも忘れたようにリョウヘイを見ていた。綾坂だけが、いつもの飄々とした顔を少しだけ引き締めて、黙って続きを待っている。
最初に口を開いたのは、やはりユイだった。
「……何が?」
「俺の前世の年齢。35歳で死んだんだ」
「リョウヘイ今18歳じゃん、タメじゃん」
「今は18だよ?前世が35歳」
「いや、うん、知ってるけど……えっ、何、どういうこと?なぞなぞ?」
ユイは眉を寄せたまま、助けを求めるようにハルナを見る。ハルナは小さく首を横に振った。分からない、という意味ではなく、まだ口を挟まないで、という意味に近い。
リョウヘイはその様子を見て、膝の上で組んでいた指をゆっくりとほどいた。できるだけ順番に、できるだけ淡々と話そうと決めていた。感情を乗せすぎると、きっとうまく言葉にならなくなる。
なるべくシンプルに伝えようとリョウヘイは努めた。
「前の人生でも、俺はドラマーだったんだ。ドラムを始めたのは十五歳の頃で、それからずっと叩いてきた。二十歳ぐらいの時に地元の仲間と四人でバンドを組んで、そこから12年、死ぬまでずっとバンドをやっていた。メンバーは変わったりもしたけど、一つのバンドをずっとやってたんだ」
誰も茶化さなかった。リョウヘイの声の調子が、冗談を言う時のそれとはまるで違っていたからだ。
「三十五歳の時、地方でワンマンライブをやったんだ。結成してから初めて、二百人近く来てくれたライブだった。ずっと十人、二十人の箱でやってきた俺たちにとっては、夢みたいな数字でさ」
リョウヘイはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「終わったあとはみんな燃え尽きてて、帰りのハイエースの中でも、ずっと笑ってた。ただ、その帰り道、峠の途中で雨がひどくなって、危ないから一度路肩に停まって様子を見ることにしたんだ。そこに、後ろから来たトラックが滑って、俺たちの車に突っ込んできた」
ヒナが、小さく息を呑んだ。
「一緒に乗ってたバンドのメンバーも含めて、全員死んだよ。で、次に目を開けたら、俺は赤ん坊になってた。前の人生の記憶は全部残ったまま、今の自分として育って、今に至るってワケだ。どうだ?意味わかんねぇだろ?」
話し終えても、しばらく誰も何も言えなかった。
確かに意味がわからない。
窓の外では、夏の蝉の声が途切れ途切れに響いている。ハルナの膝の上で、握りしめられたペンがかすかに震えていた。
「……だから」
ハルナがやっと声を絞り出す。
「学生の時からドラムがあんなに……」
「いやまあ、身体は作り直しだったけどな」
リョウヘイは自分の両手を軽く持ち上げて見せた。
「手足の感覚は一から作り直しだし、ドラムに必要な筋肉も最初はゼロだった。頭の中では叩けてるのに、身体がついてこなくて、それが一番もどかしかった。お前達と出会った頃に、やっと前世のレベルに戻ったぐらいだ」
学生時代から音楽業界の知識が妙に具体的だった理由も、それで説明がついた。
バンドの動かし方、演出、演奏。どれをとってもリョウヘイの知識は高校生のそれではなかった。
更にはライブハウスのノルマ。契約書の読み方。事務所との付き合い方。権利の仕組み。前の人生で、一度すべてを通ってきている。
「でもなんか、いろいろ納得かも」
綾坂がそっと頷いた。ノルマの話をした時の迷いのない口ぶりも、PAの話を持ち出した時の目線も。
何故、幼少期からティアーユに英才教育を受けた自身に勝るほどの経験と知識をリョウヘイが持っているのか。綾坂の中で、全ての点が線で繋がった。
「昔、いや前世。俺のバンドもこんな感じの事務所に入ってたんだよ」
リョウヘイは、テーブルの上の契約書に視線を落とした。
「大きな名前を持つ会社の傘下でさ。今回と同じ、新人育成枠ってやつ。夢のある言葉をたくさんもらった。制作費を出してくれる、宣伝してくれる、仕事も取ってきてくれる。若かった俺たちは、それを全部チャンスだと思った。人生が変わるんだと、本気で信じてた」
リョウヘイは過去を思い出しながら指先で契約書の端を軽く弾く。
「契約してから、金の流れを知ったんだ。制作費、手数料、回収。売上は確かに立ってるのに、自分たちの手元にはほとんど残らない時期もあった。会社だけが悪かったわけじゃない。契約書をちゃんと読まずに、夢だけ見て判を押した俺たちにも責任はある。それは今でも思ってる。でも、あの時の変な感覚だけは、ずっと残ってた。俺たちのバンドなのに、誰かに動かされているような感覚だ」
ユイは、いつもの騒がしさを完全に引っ込めて、じっとリョウヘイの横顔を見つめていた。
彼が事務所の話をする時、どうしてあんなに冷たい目になっていたのか。その理由が、少しずつ形になっていく。
「結局、その事務所は契約満期で辞めた。それからも四人でバンドを続けて、少しずつ客も増えて……三十五歳になった頃に、やっと見え始めてたんだよ。音楽だけで生活できる場所が」
リョウヘイは天井を仰ぎ、はは、と乾いた息を漏らした。
「ホントにあと少しだったんだよな。バイト辞めて、バンドだけでいけそうだったんだ。会社なんて頼らなくても、自分達の力で届きそうだったんだ」
そして、事故で全てが終わった。
「死んだ時は……すごく、悔しかった」
短い言葉だった。飾りも、説明もない。だからこそ、その一言だけが部屋の中に深く沈んだ。ヒナは膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、ハルナは唇を噛んで俯いた。ユイは何か言いかけて、結局何も言えず、ただ視線を逸らさずにリョウヘイを見続けていた。
だから今、lunatiでやっていることは、リョウヘイにとって新しい挑戦であると同時に、前の人生の続きでもあった。終われなかったものの、続き。それを四人に、そっと手渡した形だった。
話し終えたあと、リビングにはゆっくりと静けさが戻ってきた。リョウヘイは、少し居心地悪そうに頭をかく。
「最初にも言ったけど、信じても信じなくてもいいから」
リョウヘイの口調がいつもの調子に戻る。
「証拠なんて何もないし、俺だって逆の立場だったら、意味わかんないと思う。イカれた奴だって思われても仕方ない。ただ、一つの実体験として聞いておいて欲しかったんだ」
四人は、顔を見合わせた。
ところが、その表情が妙だった。驚きや戸惑いというより、どこか腑に落ちたような、ずっと胸の中でつかえていたものがやっと流れたような顔で、お互いに小さく頷き合っている。
ユイとヒナが目配せをして、ハルナは困ったように笑い、綾坂は肩をすくめて口の端を上げていた。
その反応に、今度はリョウヘイが首を傾げる。
思っていた反応とは随分違っていたからだ。
「……なに?やっぱりキモい?」
ヒナが大きく首を振って否定してくれた。
そのまま、ゆっくりと口を開いた。
「……昔、ティアーユ先生が……」
ユイが続ける。
「いつかリョウヘイが、嘘みたいな昔話をするって」
「でもそれは本当の話だから……信じてあげてほしいって」
ハルナも頷いた。
「リョウヘイがいない時に、ウチらに言ったの」
綾坂まで、涼しい顔で続けた。
リョウヘイは固まった。数秒の間、完全に動かない。やがて、乾いた声が漏れる。
「……マジで?」
ティアーユは唯一、リョウヘイの知るもう1人の転生者だ。いつかリョウヘイ自身が四人へ打ち明ける日が来ることまで見越していたようだ。
しかもそれを、本人のいない場所で、先に仲間たちへ布石として置いていたのだ。先生の言葉ならば彼女達も信じるしかない。
「すごすぎるよ先生……」
リョウヘイが感嘆とも恐怖ともつかない声で呟く。
ヒナが、恐る恐る手を挙げた。
「でも、どうしてティアーユ先生はリョウヘイさんが転生してるって、分かったんですか?」
「ああ」
リョウヘイは、ごく普通のことのように答えた。
「先生も転生してるからな」
「「「「え!?」」」」
今度こそ、四人の声が見事に揃った。
「ちょっと待って!姉さんもなの!?」
綾坂が椅子から腰を浮かせる。
「そうみたい。証拠はないけどな。本人がそう言ってた」
ユイも同じように驚いていた。
「転生者ってそんないっぱいいるの!?流行ってんの!?」
「俺もそれは思った、たぶん偶然なんだけど」
しばらくの間、リビングは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
ヒナは顔を両手で覆ったまま呟いた。
「いろいろ、整理が追いつきません……」
「なんかもう、意味わかんなくて笑えてきた…」
ハルナも理解が追いついていないようだ。
その騒ぎが少し落ち着いた頃、リョウヘイは改めて口を開いた。
「まあでも、ちょっと生まれが特殊なだけで、俺はただの十八歳のクソガキだよ。今まで秘密にしてて悪かったな」
四人の顔を、一人ずつ見る。
「みんなと何も変わらない。昔の記憶があるってだけで、今ここにいる俺は、今の俺だから。今まで通り接して欲しい」
少しの沈黙が落ちた。それは重たいものではなく、言葉が胸の中に染み込んでいく時間だった。
そして、その沈黙を最初に破ったのはユイだった。
ユイは努めて明るく言った。
「……やっぱりおじさんだった!妙にオッサン臭いと思ってたんだよね!そういうことかぁ!」
「おじさんはやめて……悲しい……」
一気にいつもの空気が戻った。ヒナが堪えきれずに小さく笑い、ハルナも肩を揺らして目尻を拭う。
「安心してくださいリョウヘイさん。私は信じます、それに今までと何も変わりませんよ」
ヒナが穏やかに言った。
「そうそう!」
ユイが力強く頷く。
「おじさんでもリョウヘイはリョウヘイだし!」
「ユイちゃん。そのおじさんイジリは、今後禁止ね」
ハルナは笑顔でユイを制した。
ハルナの顔は笑顔だったが、その奥にある感情にユイは怖気ついた。恐らく次に同じ失言をしたら、ハルナに殺される。
結局、秘密を打ち明けても、五人の関係は何も変わらなかった。変わらなかったことが、リョウヘイにはひどく温かかった。
ハルナは最後にリョウヘイに聞いた。
「じゃ、イカれたメンバーを探してたのは…」
「そう。もう一度、バンドをする為」
リョウヘイは少し照れ臭そうに答えた。
「転生してもバンドがしたかった、それだけだ。前世も今世もやってる事は変わらないよ。ドラムバカで、バンドバカなままだよ」
テーブルの上にはまだ契約書が広げられていて、窓の外の蝉の声は、さっきよりも少しだけ近くに聞こえた。
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前世の話が一段落しても、テーブルの上にはまだ契約書が残っていた。あれだけ騒いで、笑って、驚いたあとなのに、紙の束だけは何事もなかったような顔でそこに広がっている。
蛍光ペンの線が引かれた条文が、午後の光を受けてうっすらと黄色く浮かび上がっていた。ユイがその束を指先でつつき、リョウヘイを見る。
「で、結局これどうすんの?やっぱり今回はナシ?」
リョウヘイはすぐには答えなかった。
グラスの縁を親指でなぞりながら、少しだけ考える。さっき秘密を話したばかりで、胸の奥がまだ薄く熱を持っていた。その熱が引かないうちに、本当に思っていることをなるべく言っておくべきだと思った。
「俺はな……正直いうとビッグになれなくてもいいんだ」
「えっ!?売れなくてもいいってこと!?」
ユイが目を丸くする。
ハルナもペンを止め、ヒナも顔を上げた。
「いや、もちろんデカくはなりたいし、売れたいよ。フェスにも出たいし、客も増やしたい。音楽だけで生活もしたい。そこは変わらない」
リョウヘイはそこで一度言葉を切り、麦茶を一口飲んでから続けた。
「でも、そのためなら何でもいいってわけじゃない」
契約書へ視線を落とす。前の人生で、同じような紙に判を押した自分の指の形を、ふと思い出した。
「金の動きとか、ライブとか、曲とか。全部ちゃんと自分たちでやりたいんだ。スゲェ大事だから、人に任せたくない。もちろんその分の負担は出てくる。会社を頼った方がいい時もあるだろう」
「契約の条件を変えてもらうのは、どう?」
ハルナが慎重に聞いた。
「手数料の範囲を狭くしてもらうとか、制作費は事前承認にしてもらうとか」
「交渉はできると思う」
答えたのは綾坂だった。蛍光ペンをくるりと指の上で回しながら、あっさりと言う。
「全部そのまま飲む必要はないし、向こうも新人相手にそういう交渉が来るのは慣れてる。でもさ、リョウヘイが気にしてるのって、契約書の内容だけじゃないよね?」
「うん」
リョウヘイは頷き、昨日の面談を思い返す。
佐伯は優秀だった。 それは間違いない。
lunatiがアリノスで四十人前後を動員していること。物販の数字。SNSの伸び。ANTSとの2マンで、相手の客まで持っていったことまで把握していた。事業としてバンドを見るなら、完璧に正しい見方だ。
でも、大事な物が明らかに欠けている。
「悪く言うわけじゃないんだけど……佐伯さんさ、一回もlunatiの……俺たちの音楽が好きって言ってくれなかった……」
四人が、黙った。
思い返せば、確かにそうだった。
ライブが強い。四十人呼べる。物販が売れる。自走できる。柔らかい口調で並べられた言葉は、全部が数字と実績に対する評価だった。評価されたのは、商品としての強さだけだった。
「それ自体は悪いことじゃない」
リョウヘイは続けた。
「会社なんだから、売れるかどうかを見るのは当然だと思う。そうじゃなきゃ、人も金も出せないしな。向こうも俺たちと一緒で、売り上げを伸ばさなくちゃならない」
そして、四人を順番に見る。
「でも俺は、lunatiが大好きな人しかチームに入れたくない。これは完全に俺のワガママでごめん。みんなはどう思う?」
最初に頷いたのはハルナだった。両手でグラスを包んだまま、少し照れたように微笑む。
「私も。lunatiを好きって言ってくれる人がいい。ちゃんと音楽を聴いてくれて、lunatiと一緒にやりたいって思ってくれる人」
「私もです」
ヒナが続ける。
声は小さいが、迷いはなかった。
「いくら音楽を売るのが得意でも、私たちの音楽を好きじゃない人に、方向を決められるのは絶対に嫌です」
ユイは腕を組み、唇を尖らせて、天井を睨むようにして考え込んだ。珍しく長い間があった。
やがて、ぽつりと言う。
「アタシ、売れたいし、お金も欲しいし、でっかいフェスも出たい」
「知ってるよ」
リョウヘイは笑いながら答えた。
「でも、lunatiじゃなくなるのは嫌」
そのユイの一言には、不思議と力があった。いつもの勢いに任せた叫びではなく、自分の中から探し出してきたような、静かな重さがあった。
綾坂も、ゆっくりと頷く。
「売れるってのは大事だけど、どうやって売れるかも同じぐらい大事だよね」
リョウヘイは、少し笑った。
「そうだ。急いでビッグになろうとすれば、きっと失う物もある。lunatiが売れても、カッコよくないなら意味ないんだよ」
そこで綾坂が、ぱたんとノートを閉じた。
にやりと口角を上げて、胸を張る。
「っていうか、この綾坂様がいるんだから。そもそも会社なんて必要なくない?ウチの戦力は一企業並みだよ?」
「そう。綾坂様がいることが、他のバンドとの大きな違いだ」
リョウヘイは真面目な顔で頷いた。
「マネジメントやレーベルの業務を一人でやってくれてるからな。レコーディングも外に頼まずに済む」
「念のため言っとくけど、外注費が出ないのとタダは違うからね。ウチの作業が消えるわけじゃないし、いずれは相場で請求するよ?」
「ごめんな。しばらくは無理させると思う」
リョウヘイはすぐに認めた。
既に現状でも綾坂の負担は大きい。
「いつか綾坂には盛大に恩返ししたいってホントに思ってるよ」
「そ、それならよし…」
綾坂は満足そうに頷いたが、そこまでまっすぐ言われると逆に恥ずかしくなったのか、少しだけ照れたように顔を逸らした。耳の先がほんのりと赤い。
ユイがそれを見逃すはずもなく、「あ、綾坂照れてるー!」とニヤニヤしながら指をさす。
「うるさい、ユイ」
綾坂は咳払いを一つして、ぶっきらぼうに言った。
「みんなでlunatiやってんの。ウチら…チームでしょ…」
その言葉が、すとんと全員の胸に落ちた。
曲を書くハルナ。人と繋がるユイ。配信で入口を作るヒナ。ライブと経験で方向を見るリョウヘイ。そして、その全部を実務へ繋いでいく綾坂。
五人で役割を分ければ、できることは意外なほど多い。事務所が担ってくれるはずだったものの大半は、すでにこのリビングの中にあった。
ユイが、ぱたりと契約書を閉じる。
「じゃあ今回の話はナシということにします!」
決断は驚くほど早かった。
さっきまで一番乗り気だった人間の言葉とは思えず、ハルナが小さく吹き出す。
「でもいつか、lunatiが大好きって人に誘われたら、考える?」
「もっちろん考える!」
ユイが笑った。
「lunatiオタクのマネージャーが現れたらね!」
「それで仕事もできれば採用だな」
リョウヘイも笑った。
今回の契約は断る。その連絡は、リョウヘイから佐伯へ入れることになった。丁寧に、誠実に、嘘のない言葉で伝えよう。佐伯が悪い人間ではないことは、リョウヘイが一番よく分かっていた。だからこそ、きちんと向き合って断りたい。
五人だけのlunati。もうしばらくは、自分たちの足で進んでみることにした。窓の外では、夕方に向かう風が少しだけ涼しくなり始めていた。
詐欺ではないんですが、こういった胡散臭い音楽事務所がホントに多いです。
若手の勢いのあるバンドと手を組んで、実際にライブ運営など現場でもお手伝いしてくれます。
しかし契約書の内容はバンドに不利な事ばかりで、バンドが売れても売れなくても会社は儲かります。
昨今では改善が見られたようですが、私が現役の頃はホントにそういう事務所が多かった…。
クソです。




