#7 ピナ
※本作は全話に挿絵があります。
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また、たまにイメージソングも記載しています。
よければ楽曲とあわせてお楽しみください。
今日も、大きなヘッドフォンをつけたまま教室に入りました。1年B組の窓際、1番後ろ。誰にも邪魔されず、誰の邪魔にもならない、そこが私、朝比奈ヒナの居場所です。
席までの短い距離をなるべく人と目が合わないように歩き、鞄を机の横へ掛けて、椅子へ腰を下ろします。ゆるく編んだ2本の3つ編みが背もたれに挟まり、少しだけ引っ張られましたが、直すために顔を上げる方が嫌だったので、そのままにしました。
ヘッドフォンからは、まだ何も流れていません。音楽を聴くためではなく、音楽を聴いている人になるためにつけています。
これがあれば、挨拶を返さなくても気づかなかったことにできます。話しかけようとした人も、たいていは途中で諦めてくれます。
私と世界の間に置ける、目に見える壁。
席に着いて間もなく、教室の反対側から数人分の視線を感じました。口元へ手を添えて、こちらを見ながら何かを囁き合っています。
内容までは聞こえません。聞こえないようにしているのですから当然です。それでも、自分のことを話しているのだと、なぜかそういう時だけは分かってしまいます。
慣れているつもりでした。
胸の奥へ細い氷を差し込まれたような感覚にも、もう驚きません。私は気づかないふりをして、窓の外へ目を向けました。空は朝から灰色で、校舎の向こうに並ぶ木々も、薄い膜を1枚かぶったように色を失っています。
今日は何を聴こう。
やっぱりメタリカですね。なるべくドボドボなのがいいです。
そんなことを考えていれば、少なくとも教室の中を見なくて済みました。
ホームルームが始まると、先生が黒板の前に立ち、いつもより少し楽しそうな声で言いました。
「今日の午後は、1年生の新歓ライブがあります。有志の生徒による演奏ですが、大音楽室でやっていますので、興味のある人は覗いてみてください」
途端に、教室のあちこちから声が上がりました。
「新歓ライブって誰が出るの?」
「A組の3人、結構すごいらしいよ」
「なんか、ドラムがやばいって噂の子でしょ?」
「見に行こうよ。場所なくなるかも」
さっきまでこちらへ向いていた興味が、もっと新しくて面白そうなものへ移っていきます。私はようやく、浅く息を吐きました。
ライブ。バンド。人前での演奏。
同じ音楽に関する言葉なのに、どれも私のいる場所からは遠く感じられました。
たくさんの人に見られながら、誰かと呼吸を合わせ、1つの曲を鳴らす。想像しただけで、左手の指が冷たくなります。
興味がないわけではありません。
むしろ、音楽のことなら何だって知りたいと思っています。
けれど、ヘッドフォンの音と人で埋まった大音楽室は別です。誰にも見られず、好きな時に閉じられる場所でなければ、私は安心して音楽に触れられません。
今日の授業が終われば少し早く帰れる。その分だけ長くギターを弾ける。
それが、私にとって1番ありがたい予定でした。
午後の授業が終わると、教室のみなさんは一斉に席を立ちました。廊下へ出た人の流れは、大音楽室のある棟へ向かっていきます。
普段なら誰かの後ろへ隠れるように歩く私が、今日だけはその流れに逆らいました。
誰にも呼び止められませんでした。
誰も、私がライブへ来ないことを気にしていません。
それでいいのです。それが1番楽な形なのですから。
昇降口へ近づくにつれ、校内のスピーカーから演奏が聞こえてきました。大音楽室の音を中継しているらしく、天井近くに取りつけられた小さなスピーカーが、少し割れたギターと歌声を廊下へ流しています。
音質はよくありません。それでも、演奏している人たちが一生懸命なのは伝わってきました。
下駄箱の前で上履きを脱ぎながら、無意識にリズムを数えます。スピーカーの向こうで1曲が終わり、拍手のあとに短い転換が入ります。
ざわめき。
マイクを通した誰かの明るい声。
それから、ほんのわずかな静寂。
最初に聞こえたのは、澄んだ鍵盤の音でした。
続いて、女の子の歌声。
飾り気はないのに、不思議と続きを聴きたくなる声でした。静かな曲なのでしょうか。
そう思いながら靴紐を結び直していた私は、前奏が終わる直前、息をするのを忘れました。
なにか来る。
理由もなく、そう分かりました。
1拍目。
スピーカーから飛び出したバスドラムが、昇降口の空気を丸ごと押しました。
「……なんて音圧っ!」
思わず、声が漏れました。
大きいだけではありません。安いスピーカーで低音が潰れているのに、その一打が曲のどこへ置かれたのか、はっきり分かります。
続くスネアは鋭いのに歌を邪魔せず、細かく刻まれるハイハットが、3人分の時間を1つに縫い合わせていました。
その甘美なリズムに、心臓を直接叩かれたようでした。
気づけば、脱いだばかりの上履きへもう1度足を入れ、昇降口とは逆の方向へ踏み出していました。
――帰らなきゃ…
頭の中で自分の声がします。
それでも足は止まりません。
大音楽室へ近づくほど、天井のスピーカーから聞こえる音より先に、建物そのものを伝ってくる低い振動が強くなっていきます。
向こうから歩いてくる人を避け、角を曲がり、また速度を上げました。
人混みは苦手です。誰かの肩へ触れるだけで息が詰まります。
大音楽室の扉の前には、途中から見に来た生徒が何人も立っていました。その背中を見ただけで、逃げたい気持ちが喉元まで込み上げます。
けれど、その向こうでドラムが鋭いフィルを叩きました。私の心臓がまた跳ねました。もっと近くで聴きたい。その気持ちが、恐怖にほんの少しだけ勝ちました。
私は人と人の隙間へ身体を滑り込ませ、大音楽室に入りました。
中の音は、廊下で聞いていたものとはまるで違いました。
身体の表面からではなく、骨の内側から揺らされます。照明の光が集まるステージには、同じ1年生らしい3人がいました。真ん中でベースを弾きながら歌う、長いポニーテールの女の子。その隣で、鍵盤へ懸命に指を走らせる、小柄なショートヘアの女の子。そして2人の後ろで、曲全体を動かしているドラマー。
整いきった演奏ではありませんでした。
ベースは時々、気持ちが先へ行きすぎます。鍵盤は慎重で、ほんの一瞬だけ音が細くなる場所があります。
けれど、2人が崩れそうになるたび、ドラムが先回りして足場を作りました。
ただ支えるだけではありません。
2人が戻ってくると、待っていたように次の景色を開いていきます。
3人の音が、綺麗に並んでいるのではありません。
ぶつかり、押し返し、絡まりながら、それでも1つの生き物のように前へ進んでいます。
鍵盤が空けた隙間に、頭の中でギターの音が鳴りました。
私ならここで高いポジションから入れます。
次の小節では、ベースと同じリズムをユニゾンしてから外れたい。
サビの前には、もっと歪んだ音で――。
気づけば、左手が鞄の持ち手をネックのように握っていました。指先だけが、存在しない弦の上を動いています。
――ギターがいたらもっと…
そんなことを考えた瞬間、胸の奥が熱くなりました。
ステージへ立ちたいわけではありません。あそこへ混ざりたいわけでもありません。
ただ、あの音へギターを重ねたら何が起きるのか、それを想像せずにはいられなかったのです。
最後のサビで、3人の音が一気に膨らみました。
女の子の歌が天井へ抜け、鍵盤がその下を満たし、ベースがドラムへ食らいつきます。
ドラマーが2人の背中を押すたび、大音楽室の空気まで前へ進んでいくようでした。
最後の1音が、寸分違わず重なります。
音が消えた直後、大音楽室に歓声が爆発しました。
我に返った私は、急に自分の周りにいる人の数を思い出しました。誰かが隣で大声を上げ、後ろから人が押し寄せます。
熱気が肌へまとわりつき、呼吸が浅くなりました。
逃げるように、大音楽室を出ました。
帰り道でも、さっきの音は頭の中から消えてくれませんでした。
電車のドアが閉まる音も、線路の継ぎ目を踏む規則的な振動も、全部あの曲へ変わっていきます。
膝の上へ置いた左手が勝手に動き、向かいの窓へ映った自分を見て、慌てて握り込みました。
――ああ、ギターが弾きたい。
こんなにも強く思ったのは、いつぶりでしょう。
早く帰りたい。弦へ触れたい。頭の中で鳴っている音が逃げてしまう前に、指から全部出してしまいたい。
家へ着くと、玄関で靴を脱ぎ、鞄を自分の部屋へ置くより先にギターケースを開きました。
見慣れたボディへ手を添えると、ようやく呼吸が深くなります。
ケーブルを挿し、アンプの電源を入れる。小さなランプが点灯し、わずかなノイズが部屋の静けさを埋めました。
最初は、大音楽室で聴いた曲をそのまま追おうとしました。
キーを探し、コードを拾い、覚えている歌の断片へ音を重ねます。
けれど、同じにはなりません。
ドラムがいない。ベースも鍵盤も、あの歌声もありません。
1人で鳴らしたギターは、どれだけ音を歪ませても、あの3人の中で想像した響きとは違いました。
悔しくなって、ピックを持つ指へ力が入ります。
だったら、同じにする必要はありません。
記憶の中の曲を土台にして、そこから外れます。
思いついたフレーズを弾き、気に入らなければ途中で切る。テンポを上げ、ポジションを変え、同じ4小節を何度も繰り返す。
もっと速く。
もっと強く。
もっと深く。
指先が追いつかなくなるほど、頭の中から音が溢れてきました。いつの間にか、窓の外で雨が降り始めていました。細い雨粒がガラスを叩いています。
その音さえクリックの代わりにして、私は弾き続けました。
左手の指先が熱を持ち、弦を押さえるたびにじんじんと痛みます。ピックを握る親指も痺れています。
それでも、やめようとは思いませんでした。
上手くなりたいから、ではありません。誰かに認められたいからでもありません。
弾いていないと、自分が自分ではなくなってしまう気がするのです。
声にできないことも、人へ伝えられないことも、ギターなら音に変えられます。
6本の弦は、私の身体の外へ伸びた血管のようでした。
これを失えば、私には本当に何も残らない。
だから、痛くても、疲れても、弾くことだけはやめられません。
同じ小節を、何十回繰り返したか分からなくなった頃、ようやく指を止めました。
部屋は暗く、アンプのランプだけが足元を照らしています。
時計を見ると、帰宅してから2時間も経っていました。
痛む指先を眺めながら、私は小さく笑いました。
楽しい。今日やろうかな。
パソコンの電源を入れ、カチカチとキーボードを叩きます。配信ソフトを立ち上げ、カメラの角度を確認しました。
映るのはギターと手元だけ。顔も、制服も、部屋の中の余計なものも入っていません。
タイトル欄へ、短く文字を打ち込みます。
『ピナ、ギター配信やります』
――実は、私にはもう1つの顔があります。
ネットの中では「ピナ」という名前で、少しだけ知られたギター配信者をしています。
顔も、本名も、通っている学校も出していないので、教室で黙って窓を見ている朝比奈ヒナと、画面の中でギターを弾くピナが同じ人間だと知る人はいません。
配信を開始すると、真っ暗だったコメント欄へ、すぐに文字が流れ始めました。
『待ってた』
『今日は早いね』
『ピナきた!』
『いつもより歪んでない?』
画面越しの言葉は、怖くありません。
顔が見えないからかもしれません。嫌になれば閉じられる場所だからかもしれません。
少なくともここでは、黙っているだけで笑われることも、上手く話せないせいで誰かを苛立たせることもありません。
私は返事の代わりに、ギターを鳴らしました。
さっきまで何度も繰り返していたフレーズです。
配信開始のランプが点いた途端、不思議なくらい指が軽くなりました。
速いパッセージを駆け上がり、低い弦へ落ち、チョーキングした1音を長く伸ばす。
コメントが一気に速く流れていきます。
『今日のピナ、なんか怖い』
『音エグいって』
『いつもより音が怒ってる』
今日の音がいつもと違うのだとしたら、きっと、大音楽室で聴いたあの演奏がまだ身体の中に残っているからです。
あのバスドラムを思い出すと、自然に右手が強くなります。あのベースが飛び込んでくる場所を想像すると、フレーズの終わりを少しだけ空けたくなります。
1人で弾いているはずなのに、今夜だけは、見えない誰かへ音を返しているようでした。
その感覚に気づいた瞬間、胸の奥がわずかにざわつきます。
私は考えないようにして、さらに速いフレーズへ逃げました。
私は、これだけでいい。
あんなに眩しいステージは、私には似合いません。
誰かと一緒にいれば、何かを求められます。期待されれば、いつか応えられなくなります。
その時に傷つくくらいなら、最初から1人でいた方がいいのです。
小さな画面に向かって、大好きなギターを弾いていられれば、それだけで十分です。
他には何もいりません。
そう言い聞かせる私の指だけが、もう1度、あの3人の曲へ重なろうとしていました。
イメージソング
メタリカ/St.Anger
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