#66 音に乗って
ライブ当日。
東音の学内ライブハウス、その楽屋にはいつもとは違う緊張が漂っていた。
壁1枚向こうでは前のバンドが最後の曲を演奏している。バスドラムの振動が床を伝い、机の上に置かれたペットボトルの水面を細かく揺らしていた。
ユイは黒いマスクをつけたまま、椅子に座ってベースを抱えていた。アンプには繋がっていない。時折、確認するように右手で弦を弾くと、乾いた小さな音だけが楽屋に落ちる。
歌わない。喋らない。ベースだけ弾く。
病院からライブ出演の許可が下りたことは嬉しかった。それでも、ライブ当日になってみれば、胸の奥にはどうしても寂しさが残った。
ずっと自分が歌ってきた曲を、今日はハルナが歌う。成功してほしい。当然そう思っている。ハルナは自分のために、怖いと言いながら前に出てくれた。失敗してほしいなんて思うはずがない。
ーーーーーそれなのに
もし、今日のライブが大成功したら。もし、ハルナが歌うlunatiのほうがいいと言われたら。
――アタシ、いらないじゃん。
そこまで考えて、ユイは自分が嫌になった。
ハルナの成功を願いながら、成功した先で自分の居場所がなくなることを恐れている。そんな自分が、どうしようもなく醜く思えた。
それでもライブをキャンセルするという選択だけはできなかった。自分が歌えない。それだけの理由で、みんながステージに立てなくなるのはもっと嫌だった。
今まで積み上げてきたlunatiを、自分1人のせいで消したくなかった。
だからここにいる。たとえ今日は、マイクがなくても。
向かいではハルナが歌詞カードを握り締めていた。同じページを何度も確認しているが、明らかに文字を読んでいない。さっきから呼吸も妙に浅かった。
「ハルナ、緊張してる?」
機材を確認していた綾坂が心配そうに声をかける。
「……少しだけ」
「嘘。声色でわかる」
「さすがだね。綾坂さんにはわかっちゃうか」
ハルナは観念したように答えた。
「いや能力使わなくてもわかるよ」
綾坂は笑いながら答えた。
綾坂なりに緊張をほぐしてあげたかったのだろう。
ヒナがその横から顔を覗き込む。
「ハルナさん、大丈夫です。練習ではちゃんと歌えていましたから」
「練習室にはお客さんがいないから……」
「私も一緒に歌います、1人じゃないです」
「うん。ありがとう、ヒナちゃん」
ハルナは笑ったが、指先の震えまでは止まらなかった。リョウヘイはスティックを握ったまま、その様子を見ている。
「失敗してもどうにかするから、安心して」
「リョウヘイさん、こういう時の言葉選びのセンス最悪ですね……」
「うっ……。どうにかならなかったら綾坂がなんとかしてくれるよ」
「ウチは音響卓から動けないから無理」
いつものやり取りに、ハルナが少しだけ笑う。
ユイも目元だけで笑った。だが、すぐにハルナの手元へ視線が戻った。何か言いたい。スマートフォンを取り出しかけて、やめる。
今日まで、伝えたいことはほとんど文字で伝えてきた。
でも、これだけは伝えなければ。
ユイは立ち上がった。ハルナの前まで歩く。
「ユイちゃん?」
ユイは黒いマスクへ指をかけ、少しだけ下げた。ハルナの表情が変わる。そしてユイは、掠れた、本当に小さな声を絞り出した。
「……ハルナの歌、聞かせて」
「ユイちゃん……声……」
「これだけ言いたかった、直接。ごめん」
すぐに綾坂が振り返った。
「いいから、もう喋らない。今のはノーカンにしてあげるから」
ユイは不満そうな目を向けた。
「睨んでも駄目。返事もいらない。はい、マスク戻す」
完全に患者扱いだった。
ユイは渋々マスクを戻す。
けれどハルナは、今にも泣きそうな顔でユイを見ていた。
「……うん」
1度だけ深く息を吸う。
「聞いてて、ユイちゃん」
ユイは頷いた。それで十分だった。
やがて壁の向こうの演奏が終わり、大きな拍手が起こった。スタッフが動き出す。転換が始まった。ドラムセットが調整され、キーボードが運び込まれ、アンプやマイクの位置が確認されていく。いつもなら当然のようにユイの前へ置かれるセンターのボーカルマイクは、今日はない。代わりに、ステージにはハルナのためのマイクが立っていた。
袖から客席を覗いたユイは、思わず息を呑んだ。客が多い。東音の生徒だけでなく、外から来ている客もいる。何度もlunatiのライブへ足を運んでいる顔も見えた。そして、客達もすでに異変に気づいていた。
「ユイ、歌わないのか……?」
「ハルナが歌うんだって」
「え、マジ?あの子、コーラスでしょ?」
小さな声だった。それでも今のユイには、嫌なくらいはっきり聞こえた。
マスクの下で奥歯を噛む。
横を見ると、ハルナも客席を気にしていた。
「……みんな見に来てくれたね。やっぱり学内のイベントだと人すごいなぁ」
ユイが頷く。
「今になって、ちょっと怖くなってきた…」
ハルナの声は震えていた。
ユイは一瞬だけスマートフォンへ手を伸ばしたが、やめた。そして、ハルナの背中を1度だけ叩く。
驚いてハルナが振り返る。
ユイは何も言わず、顎でステージを指した。
行ってこい。戦え。
そんな顔だった。
ハルナは少しだけ笑った。
「うん、いこう!」
ステージへ出る。
ヒナが続き、ユイもベースを抱えて出ていく。最後にリョウヘイがドラムセットへ座った。客席の向こう、ステージと正面から向かい合う音響卓には綾坂がいる。
照明が落ちた。
ざわめきがゆっくりと静かになっていく。
ハルナは中央のマイクを握った。緊張で喉が固くなる。後ろを振り返れば、リョウヘイがいる。横にはヒナ。反対側には、黒いマスクをしたユイ。
ユイと目が合った。小さく頷いてくれる。
ハルナは客席へ向き直った。
「今月の東音マンスリークローザー、lunatiです! 今日は事情があって私が歌います! 魂を込めて歌います、どうか最後までお付き合いください!」
一瞬だけ静寂があった。
次の瞬間、客席から優しい拍手が起こった。大歓声ではない。けれど、ハルナを迎え入れるような温かい拍手だった。
「頑張れー!」
誰かの声も聞こえる。
ハルナの張り詰めていた肩が少しだけ下がった。よかった。受け入れてもらえた。その横でユイも安心した。安心したはずなのに、同時に胸の奥がちくりと痛んだ。
その思考を振り払うように、ユイはベースのネックを強く握った。リョウヘイがスティックを上げる。
カウント。
1曲目が始まった。
数小節もしないうちに、いつものlunatiを知っている客達がざわついた。
ほとんど別の曲だった。
ユイの歌は、明るく、強く、前へ前へと飛び出していく。多少荒っぽくても、その勢いごと客を引っ張っていく声だ。
ハルナは違う。
柔らかい。
言葉を1つずつ大切に包みながら、客席へ渡していくような歌い方だった。ハルナの音域に合わせてキーも下げている。ヒナのコーラスがその上へ重なり、以前よりも広く、優しい響きになっていた。ユイは弾きながら、その歌をすぐ横で聞いていた。
――同じ曲なのに、いつもと全然違う……でも
悪くない。
むしろ、ちゃんといい。
ハルナはユイの真似をしていない。ハルナの声で、lunatiを歌っていた。代用品どころではなかった。
1曲目が終わる。
最後の音が切れた瞬間、予想していた以上の歓声が上がった。拍手が一気に広がる。
ハルナが驚いたように目を丸くし、ヒナも嬉しそうに笑った。リョウヘイはドラムセットの向こうから客席を見渡す。
(かなりウケてるな……)
成功している。それも、想像以上に。
だがリョウヘイがユイへ視線を移すと、少しずつその表情が曇っていくのが分かった。マスクに顔の半分を隠していても、目を見れば分かる。ユイも歓声を聞いている。そして、その歓声が大きくなるほど、自分の中に生まれる感情を嫌っている。リョウヘイにもそれはわかった。
すぐに2曲目へ入った。
リョウヘイのカウント。ユイのベースが鳴る。その瞬間、ユイは今まで経験したことのない感覚を覚えた。
歌わない、ただベースだけを弾いている。
それだけなのに、曲の全体が今までよりはっきり見える。普段は歌に意識を取られていた。声量、音程、呼吸、歌詞、マイクとの距離。歌いながらベースを弾くことが当たり前すぎて、こんな初歩的な事にも気づかなかった。
――ベースって、こんなにバンドを支配してたんだ…
自分が音を伸ばせば、曲の空間が広がる。フワッとした部分に太いベースラインが入ることで音域の満足感が大きく変わる。
音を切れば、ハルナの声が前へ出る。少し強く弾けば曲全体が押し出され、わずかに後ろへ置けば、グルーヴそのものが変わる。ヒナのギターも、ハルナの歌も、リョウヘイのドラムも、自分の1音で見え方が変わった。
ベース次第で曲の生死をコントロールできることを、ユイは初めて体感した。
歌に精一杯だったからこそ、ユイは知らなかった。
――アタシ、ずっとこんなことやってたんだ…
ユイはリョウヘイを見る。
ドラムを叩くリョウヘイの目が、赤く染まっていた。ステージライトのせいではない。演奏に深く入り込むほどに現れる、ギフトの力だった。
その赤い瞳が、真っ直ぐにユイを見ていた。バスドラムが鳴る。スネアが返る。ハイハットが空気を刻む。いつもならリズムとして聞いていた音。なのに今日は、違って聞こえた。
ーーーーーリョウヘイのドラム…歌ってるみたい…
言葉なんて1つもない。声さえ出していない。それなのに、一発一発が何かを伝えてくる。
ーーーーー聞こえる…リョウヘイの歌…
ユイの目が、少しずつ赤くなっていく。
胸の奥が熱くなる。
――ーー声じゃなくても……ちゃんとここにいる。
そこで、ようやく気づいた。
自分が大事にしていたのは、歌声だけじゃなかった。弟のために歌わなければならないと思っていた。自分が歌わなければ、弟との思い出まで消えてしまうような気がしていた。
でも、歌だけじゃない。
ベースも。ドラムも。キーボードも。ギターも。
全部、音楽だった。
楽器だろうが歌唱だろうが、純粋な音楽の前ではそんなものは大して意味がなかった。
みんなの歌が重なって、それが一つの曲になっているんだとユイはわかった。
形なんてなんでもいい。
歌ってもいい。
弾くだけでもいい。
声が出なくてもいい。
好きな人達と、好きな音を鳴らせればいい。
そうやって音楽を好きでいれば、きっと忘れない。
消えない。弟のことも。今まで歌ってきた時間も。lunatiで過ごした全部も。
2曲目が終わる頃には、ユイの目はリョウヘイのギフトの力を借りて赤くなっていた。ユイは完全にゾーンに入った。
3曲目。
ハルナは歌いながら、不思議なほど身体が軽くなっていることに気づいた。
――歌いやすい……これは……みんなが…
練習の時以上だった。
ユイのベースが次にどこへ進めばいいか教えてくれる。リョウヘイのドラムが、どこで息を吸い、どこで言葉を押し出せばいいのか教えてくれる。ヒナのコーラスが、少し弱くなった自分の声をすぐに支えてくれる。
ヒナはコーラスする時、赤い目でハルナの口元を凝視していた。
発音を完璧にシンクロする為に、目で見えた情報をリアルタイムでコーラスに反映していく。
その姿はハルナに歌詞を全力で捧げているようだった。
1人で歌っている気がしない。
ハルナの目もヒナ同様、だんだん赤に染まっていく。
むしろ3人に運ばれながら、自分だけがその上で言葉を届けているようだった。全ての音が自分に向いていることが、ハルナにとって極上の快感だった。
ハルナの声がさらに伸びる。柔らかさを残したまま、そこに力が加わった。
リョウヘイはその変化を感じ爆笑しながらスネアをしばき倒す。
(クッソやべぇハルナ!アホみたいに声出てんじゃねーか!こっちも出力あげるからな!)
突如ベースラインが変わった。
1曲目では、自分の場所を守ろうとしていた。けれど今は違う。ハルナを押し退けようとも、自分の存在を必要以上に主張しようともしていない。全員が1番気持ちよく鳴る場所へ、自分から入り込んでいる。歌っていた時よりも。今のユイのほうが、ずっとバンド全体を聞いている。
誰かのために、今はボーカルのハルナのために、ユイは初めてベースを弾いた。
これまで自分の為だけに弾いてきたベースを、今はバンドの為に惜しみ無く捧げている。
3曲目が終わった。
残るのは、最後の1曲。
ハルナは1度だけ深く呼吸し、マイクを握り直した。最初の曲の前とは違う。もう客席を見るのが怖くなかった。
「最後の、曲です」
会場が静かになる。
フロアがハルナの次の言葉を心して待つ。
ハルナはユイを見る。そして、微笑んだ。
「今日のために、新曲を、書きました」
ハルナのMCには独特の間があった。
ゆっくりと、柔らかい声で言葉を紡いでいく。
嘘のない魂からの言葉を伝えたいと、ハルナは願っていた。
「声にならなくても、ちゃんと届いているものを、歌った曲です」
ユイの目が揺れる。
ハルナは少しだけユイの方を見た。
「私には、聞こえます。音に乗って、みんなの声が」
フロアが静寂に包まれる。
ハルナの言葉は、完全に客を支配していた。
ただ一点、ハルナだけを見つめて言葉をしっかりと受け入れようとしている。
「ここにいる、みなさんにも、きっと聞こえる」
ハルナはコードを鳴らした。
C#m7。新曲の一音目だ。
「今日は、ありがとうございました。lunatiでした」
会場から柔らかい拍手が溢れた。
ユイとはまた違った形でハルナは会場を盛り上げていた。
客席の正面、ステージと向かい合う音響卓で、綾坂はそのMCを聞いていた。
「ハルナ、MCも悪くないね」
小さく笑う。
「ユイとは真逆のカリスマだね」
演奏が始まった。
新曲『声』。
静かなユイのベースから始まる。やがてユイの右手が弦を強く弾いた。リョウヘイはその低音へ、両足の2打を重ねる。
――ドグン!!
緻密にずらした2打が共鳴し、1つの衝撃へまとまった。耳には1打しか聞こえない。それでも身体へ届く衝撃は2倍だった。
その一撃を合図に、ヒナとハルナの音が重なり、最後に歌声が乗った。
綾坂はフェーダーへ指を置いたまま、ゆっくり目を閉じる。
視界を遮断して、音だけを聞く。
ハルナの歌。ヒナのコーラス。ハルナが弾くキーボード。ヒナのギター。ユイのベース。リョウヘイのドラム。綾坂の意識の中で、混ざり合っていた音が1つずつ分離していく。
ハルナの呼吸。ヒナがコーラスへ入る直前の僅かな吸気。ユイが弦へ触れた瞬間。リョウヘイのスティックがヘッドへ落ちる速度。フラムキックの絶妙な装飾音符。
1つ残らず聞こえる。
それぞれが違う音を出している。違う役割を持っている。なのに、不思議なほど1つの声のようだった。
綾坂は目を閉じたまま呟く。
「ウチにはね、ユイ…」
ステージにいる4人を心の目で見る。
「アンタ達から…楽しくて仕方ないって声が聞こえるよ…」
綾坂は人知れず泣きながら、ユイに見惚れてしまっていた。
その時だった。
ユイは客席の中に、1人の少年を見つけた。
一瞬、ベースを弾く指が止まりそうになる。
見間違えるはずがなかった。
幼い頃のまま、記憶の中に残っている弟だった。
いるはずがない、分かっている。きっと幻だ。誰か別の子供に重ねているだけかもしれない。ライトのせいかもしれない。
それでも、ユイの弟は確かにそこにいた。
ユイの赤い目には、そうにしか見えなかった。
客席で、lunatiを見ていた。
気持ちよさそうに身体を揺らし、楽しそうに音楽を聞いている。ハルナの歌を。ヒナの声を。リョウヘイのドラムを。そして、ユイのベースを。
ユイは息を呑んだ。
そこに、自分の歌声はない。
それでも弟は笑っている。楽しそうだった。
その姿を見た瞬間、長い間ユイの胸の中に絡みついていた何かが、ゆっくりと解けていった。
弟のために歌わなければならない。忘れないために歌わなければならない。自分だけは歌い続けなければならない。ずっと握り締めていたものを、ようやく手放してもいいと思えた。
歌わなくても忘れない。声にしなくても消えない。好きだったことは、自分の中からなくならない。
自分が歌えなくても、lunatiが歌ってくれる。
ユイは目を閉じた。
ベースを弾く手だけは止めなかった。頬を伝った涙が、黒いマスクへ落ちる。
――もう……大丈夫。
弟へ向けて、心の中で呟く。
――今までありがとう。
少しだけ笑う。
――アタシはこれからも。
目を開く。
もう客席に弟の姿はなかった。
でも、それでよかった。
最後のサビへ入る。
ハルナの声が伸び、そこへヒナが重なる。リョウヘイのドラムが押し上げる。ユイのベースが全部を繋ぐ。綾坂がその音を客席へ送り出す。
誰の声なのかなんて、もうどうでもよかった。
5人で鳴らしている。
それ自体が、lunatiの声だった。
最後の音が消えた。
一瞬、会場が静まり返る。
その直後。
割れんばかりの拍手が起こった。
歓声が重なる。
名前を呼ぶ声が飛ぶ。ハルナは目を丸くしたまま、しばらく動けなかった。ヒナも信じられないように客席を見ている。リョウヘイはドラムセットの後ろで、大きく息を吐いた。ユイも、その場に立ち尽くしていた。
拍手が止まらない。
長い。本当に、長い拍手だった。
ハルナが深く頭を下げる。ヒナも続く。リョウヘイが立ち上がり、客席へ頭を下げた。ユイもベースを抱えたまま、深く頭を下げる。
顔を上げた時には、ユイはもう笑っていた。
声は出ない、歌えない。
それでも、自分はここにいた。
ここで歌った。
ライブは大成功だった。
ハルナがメインボーカルを務め、ヒナがコーラスで支え、ユイが歌わずベースだけを弾いた新しいlunati。
今までとは違う。
でも、確かにそれはlunatiだった。
そしてユイ自身も、もうそれを怖いとは思わなかった。自分が歌わなくても音楽は続く。
だからといって、自分がいらなくなるわけじゃない。歌声だけが、自分の居場所じゃない。
好きな人達と。好きな音を出す。
「きっと、それだけでよかったんだ」




