#65 声
翌日の放課後。
ミーティングルームに入ってきたユイは、顔の半分を黒いマスクで覆っていた。
いつもの大きな歩幅も、椅子を引く乱暴な音も変わらない。けれど、席に着いてからは1言も発しない。言葉を飲み込んでいるというより、最初から声を出すという選択肢を自分の中から消しているようだった。ティアーユは全員が揃ったことを確認すると、手元の書類を机に置いた。
「医師から連絡がありました。ユイさんのライブ出演について、条件付きで許可が出ています」
ハルナとヒナの表情が同時に明るくなる。リョウヘイも胸を撫で下ろしたが、向かいに座るユイは少しだけしか喜べなかった。
ティアーユが続ける。
「許可されたのは、ベースの演奏のみです。歌唱はもちろん、ステージ上での会話も禁止。練習中も必要以上に喉を使わないこと。少しでも痛みや違和感が強くなった場合は、その時点で出演を取りやめます」
ユイは無言でスマートフォンを持ち上げた。画面には、短い1文だけが表示されていた。
『分かってる』
以前なら、その1言を声にして、さらに2つか3つ余計な反論を付け足していたはずだ。だが、今のユイはマスクの奥で口を閉ざしたままだった。声が出なくなった瞬間の恐怖を、もう1度味わいたくないのだろう。懲りた、という言葉で片づけるには、少し痛々しかった。
「本当に守れますか?」
ティアーユが念を押す。
ユイは眉を寄せたあと、スマートフォンに文字を打った。
『歌わない。喋らない。ベースだけ弾く』
仕方なく受け入れたことは、誰の目にも明らかだった。それでも、前日のように「出ない」とは書かなかった。リョウヘイは机の下で、静かに拳を握った。
「じゃあ、決まりだな」
ユイが鋭い目で睨んでくる。黒いマスクも相まって、病人というより、これから誰かを脅しに行く人間に見えた。
綾坂が横からユイを眺める。
「そのマスク、威圧感すごいね。喉を守るためというより、ヤンキーっぽいね」
ユイは素早く画面を打ち替えた。
『ヒヨってんの?』
「喧嘩すんな」
ハルナが口元を押さえて笑う。その笑い声を聞いたユイは、ほんの少しだけ目を細めた。ティアーユは咳払いを1つして、机上へ4枚の譜面を並べた。
「出演が決まった以上、残り8日でセットリストを完成させます。演奏するのは4曲。既存曲を3曲と、新曲を1曲です」
「4曲目は、昨日話していた新曲ですね」
ヒナが尋ねると、リョウヘイは頷いた。
「ユイのベースを中心に作る。ただ、曲順は最後にしたい」
ユイが画面を向ける。
『なんで』
「1番新しくて特別なlunatiを、最後に見せたいからだ」
ユイはしばらく画面を見つめていたが、反論は書かなかった。代わりに綾坂が譜面を1枚ずつ確認していく。
「既存曲は、ハルナが無理なく歌えるものを優先する。今までのユイのキーに合わせたままだと、候補はかなり減るね」
「私、多少高くてもなるべく原曲キーで歌えるように頑張るよ」
ハルナが言うと、綾坂は即座に首を振った。
「多少を9日間積み重ねて、本番で出なかったら意味ない。余裕を持って歌えるぐらいじゃないと」
「おっしゃるとおり…」
ハルナは肩を落とす。
「今回は挑戦じゃなくて、本番を成立させる為の選曲。歌いやすい曲を選んで、必要ならキーを下げる」
ヒナも譜面を覗き込む。
「私はコーラスなので、ハルナさんに合わせます。高いところは私が上を取ることもできます」
「ウチもそれがいいと思う。ハルナを真ん中に置いて、ヒナっちが上から補強する。ユイの歌い方を再現する必要はない」
その言葉に、ユイの指が止まった。綾坂は気づいていたはずだが、目を逸らさなかった。
「ユイの代わりを作るんじゃない。今の編成で成立する形に変える。そこを曖昧にすると、全員が中途半端になる。ユイ、わかるね?」
ユイは何も書かない。ただ、机の上に置かれた譜面を1枚引き寄せた。選んだのは、4人が最初期から演奏してきた曲だった。ユイの声を前提に作られた、音域の高い曲。
「その曲は厳しいかも…客は喜ぶだろうけど」
リョウヘイが言うと、ユイは譜面の上部に書かれたキーを指で叩き、そのまま半音ずつ下へなぞった。
「下げろってことか?」
ユイが頷く。ボードに文字を書く。
『下げればハルナに合う』
ハルナはピアノの前へ移動し、原曲より低い音から旋律を弾いた。1度歌い、さらに半音下げる。もう1度歌う。ユイのように鋭く突き抜ける声ではない。柔らかく、息を含み、言葉の輪郭を大切にする歌声だった。同じ曲なのに、見える景色が違う。ヒナがその上へ薄くハーモニーを重ねると、2人の声が綺麗に寄り添った。
ユイは腕を組んだまま聴いていた。悔しいのか、納得しているのか、黒いマスクのせいで表情は読み取りにくい。だが、演奏が止まると、ユイは譜面へ新しいキーを書き込んだ。
それが1曲目に決まった。
残る2曲も、同じように選んでいった。
ハルナが歌いやすいこと。ヒナのコーラスが活きること。ユイのベースがキーを下げても痩せないこと。そして、リョウヘイのドラムが歌を押し潰さないこと。
条件を並べると、単純に人気のある曲を選ぶことはできなかった。1曲はテンポを少し落とした。もう1曲はサビのメロディーを一部変えた。
以前のlunatiなら、原曲の勢いを削ることにユイが真っ先に反対していたはずだ。しかし今回は、ユイ自身がベースを弾きながら修正点を示した。言葉を使えないぶん、音がやけに雄弁だった。
ハルナが苦しそうにした箇所では、ベースの音数を減らす。ヒナのコーラスが入りにくい場所では、コードの重心をずらす。リョウヘイが強く叩きすぎれば、振り返って睨む。
「え、なに?やりすぎ?」
ユイは何度も頷いた。
ボードに文字を書いていく。
『ハルナの声量に出力を合わせて』
リョウヘイは少し笑顔になった。
「分かった。少し引く」
声を出せないユイが、誰よりも2人の声を聴いていた。練習が始まると、黒いマスクはさらに異様な存在感を放った。
伝えたいことがあるたびに演奏を止め、スマートフォンへ文字を打つ。全員が画面を覗き込み、修正して、また最初から弾く。効率は明らかに悪かった。3度目に曲を止めた時、ユイは苛立ったようにスマートフォンを机へ置いた。
『喋れないと大変だね』
その下へ、少し間を置いて書き足す。
『面倒くさくてごめん』
リョウヘイは何も茶化さずに頷いた。
「それでいい。面倒なんて思ったことない」
ハルナも、ヒナも頷く。
ユイは視線を落とし、マスクの端を押さえた。声を出さないことは、歌わないこと以上にユイらしくない。それでも彼女は、最後まで口を開かなかった。3曲の骨格が決まった頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
スタジオの終了時間になるとティアーユが来た。
「お疲れ様です。今日はここまでにしましょう。明日からは、新曲と並行して仕上げましょう。」
リョウヘイは机の上に残された白紙の譜面を見た。
4曲目。
まだベースのフレーズと、断片的なコードしかない曲。タイトルも、歌詞もなかった。
「歌詞はどうする?今まで通り、ユイが書くか?」
その問いに、ハルナがゆっくり手を挙げた。
「私、書きたい。言いたいことがある」
ユイがすぐに顔を上げる。
ハルナは一瞬だけ怯んだが、視線を逸らさなかった。
「ユイちゃんの代わりに歌うための歌詞じゃない。今の私達が、この4人でステージに立つための言葉を書きたいの」
ハルナは真剣な声でユイに伝えた。
「私の言葉で歌いたいの」
ユイは真剣なハルナを見て、全てを信じることにした。
『聞きたい、ハルナの歌詞』
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その日から、残り8日間は急速に削れていった。朝は授業前にハルナとヒナが発声を確認した。
昼休みには、リョウヘイとユイが新曲のリズムを詰めた。放課後は5人で既存曲のキーと構成を調整し、練習後には綾坂が録音を持ち帰って、声と楽器のバランスを解析した。
翌日には、演奏が重すぎると言われた。その翌日には、軽くしすぎてlunatiらしくないと言われた。さらに次の日には、ハルナの歌が丁寧すぎて、曲の前進する力に追いついていないと指摘された。
「もっと乱暴に歌ったほうがいいかな」
ハルナが尋ねると、ユイが首を振った。
スマートフォンへ打ち込む。
『乱暴じゃなくていい』
続けて、少し長い文章が表示された。
『間違えても止まらないで。綺麗に戻ろうとすると遅れる。ハルナの癖が出てる』
ハルナはその文字を何度も読み返した。
「初めて合わせた時、思い出すね」
ユイが笑顔で頷く。
「そういえば歌詞はどうだ?上がりそうか?」
リョウヘイはハルナに質問した。
「今、誠意作成中というか…」
ハルナの顔が曇る
「最悪当日でもいいからな、焦んなよ」
「流石にそれはない…と思う」
新曲のハルナの歌詞はなかなか前へ進まなかった。練習の合間にもノートを開き、何かを書いては消す。帰りの電車でも考え、翌朝には昨日とは違うページを持ってくる。
「全部、ユイちゃんのことを書いているように見えちゃって…思ってた以上に難しい。気持ちいい言葉選びとか、ライミングとか。考えることいっぱい…」
ライブ3日前の練習後、ハルナはノートを閉じて呟いた。
「ユイさんのことでは駄目なのですか?」
ヒナが尋ねると、ハルナは困ったように首を振った。
「駄目じゃない。でも、それだけだと、私がユイちゃんに『休んでいて』と歌う曲になってしまう気がして」
リョウヘイは椅子を後ろへ傾けながら、譜面を見つめた。
「ハルナ自身のことを書けばいいんじゃないか」
「私のこと?」
「今回、怖いのはユイだけじゃないだろ。ハルナも怖いし、ヒナも怖い。俺だって、ユイがいない歌を客にどう聴かれるか怖い」
ハルナはその言葉を聞いて、ゆっくりとノートを開いた。新しいページの1番上へ、1文字を書き込む。
『声』
「これ…タイトルですか?」
ヒナが覗き込む。
「うん。声が出るとか、出ないとかだけじゃなくて……声にならなくても、その人の中にある音を、声って呼んでいい気がするから」
綾坂は付け加えた。
「言葉にして、声を出して伝えることだけが、唯一の表現方法じゃない。ウチらには音楽がある」
ユイはノートの文字を見つめていた。しばらくして、親指を立てる。それからの2日間、曲は一気に形を変えた。ハルナが書いた言葉に合わせて、ユイのベースが旋律の隙間を埋めた。ヒナのコーラスは、ハルナの声を飾るのではなく、言葉になりきらない感情を後ろから支えた。リョウヘイは、歌の呼吸に合わせてドラムの強さを変えた。綾坂は録音を止めるたびに、余計な音を1つずつ削っていった。
ライブ前日。
最後の通し練習が終わった時、練習室には誰もすぐに言葉を出さなかった。最後の音が消えたあとにも、何かが残っていた。ハルナはマイクの前で目を閉じたまま、ゆっくり息を吐いた。ヒナはギターを抱え、隣のユイを見る。ユイはベースの弦から手を離し、黒いマスクの上へ指を添えた。声は出さない。出そうともしない。代わりにスマートフォンを取り出し、ハルナへ向けた。
『明日も、それで歌って』
ハルナの目が大きくなる。
それは、許可ではなかった。代役として認めたのでもない。ユイが初めて、自分の歌えない曲をハルナへ預けた言葉だった。ハルナは泣きそうな顔で笑い、強く頷いた。
「うん。歌うよ、ユイちゃん」
綾坂がパソコンの保存ボタンを押す。画面に、完成した音源のファイル名が表示された。
『声_final』
リョウヘイはそれを見てから、全員を見回した。
ライブまで、あと1日。
4曲目が、ようやく完成した。
今回の挿絵はヒナの設定資料です。
すんません、いろいろ。察してください。




