#64 歌うベース
翌日の放課後。
ミーティングルームへ入ると、ユイはすでに1番奥の席に座っていた。制服の上から薄いパーカーを羽織り、首元には病院でもらったらしい白いマスク。
机の上にはスマートフォンと、小さなホワイトボードが置かれている。目が合った瞬間、ユイはボードを持ち上げた。
『遅い』
「集合時間の3分前だぞ」
リョウヘイが返すと、ユイは素早く文字を消し、新しく書く。
『アタシは10分前に来た』
「それはお前が早いだけだ」
『病人を待たせるな』
「病人なら家で寝てろ」
ユイの眉が吊り上がった。声が出ない分、表情が普段の2倍うるさい。そのやり取りを見ていたハルナが、少しだけ安心したように息を吐いた。
「ユイちゃん、体調は?」
ユイはハルナへ向けてボードを書き換える。
『喉以外は元気』
「本当に?」
『昨日より元気』
ヒナがユイの隣へ座り、心配そうに顔を覗き込む。
「痛みはありませんか」
『少し』
「少しでも痛いなら、無理をしてはいけません」
『喋ってない』
「顔で喋りすぎてるけどね」
綾坂が向かいへ腰を下ろした。
ユイは即座に睨みつけたが、綾坂は気にせずノートパソコンを開く。最後にティアーユが部屋へ入り、全員の顔を確認してから扉を閉めた。
「お待たせしました。それでは、ミーティングを始めましょう」
ティアーユはユイの隣へ立つ。
「先に、病院からの説明を共有します。ユイさんは最低でも2週間、歌唱禁止です。この2週間は会話も必要最低限に抑え、可能な限り声帯を休ませるよう指示されています」
リョウヘイは腕を組んだ。
「シンプルにいえば、2週間喋るなってことか…」
「その認識で、概ね問題ありません」
ユイがすぐにボードを上げた。
『10日後は?』
「もちろん禁止です。ユイさん、2週間とは14日間あるのですよ」
迷いのない返答だった。
ユイは不満そうに口を尖らせる。
ペンを机へ置き、椅子の背もたれへ乱暴に身体を預ける。
「これは交渉ではありません」
ティアーユの声は穏やかだったが、譲る余地はなかった。
「あなたが歌うかどうかは、医師の判断に従います。私達が今日話し合うのは、歌えない状態でライブへ出演するかどうかです」
ユイはスマートフォンを手に取り、文字を打った。機械音声が読み上げる。
『歌えないなら出ない』
部屋が静かになった。
昨日と同じ言葉。だが、文字で読むより、無機質な音声で聞く方が重かった。
「ベースも弾かないの?」
ハルナが尋ねる。
ユイは頷く。
『アタシがいる意味ないから』
「あるよ」
ハルナはすぐに返した。
ユイがハルナを見る。
「ユイちゃんがベースを弾かないと、lunatiの音にならない」
『代わり探せばいい』
「探さない」
『なんで』
「ユイちゃんだから」
ハルナの答えに、ユイの指が止まった。
「歌えないからって、ベースまでユイちゃんじゃなくなるわけじゃないよ」
『歌のためにベース始めた』
「それでも、今まで弾いてきたのはユイちゃんでしょ」
少し長い沈黙の後、ユイの指が動いた。
『歌えないアタシ見せたくない』
初めて出てきた言葉だった。
ハルナが息を呑む。
ユイはスマートフォンへ視線を落としたまま、続けて入力する。
『客はアタシが歌うと思ってる』
『ステージにいるのに歌わないとか、惨めじゃん』
『ハルナが代わりに歌って、アタシは後ろでベース弾くだけなの?』
『そんなの無理』
最後の1文が読み上げられたあと、ユイはスマートフォンを伏せた。怒っているように見えた。けれど、机の下で握られた拳は震えていた。
「後ろじゃない」
リョウヘイが言う。
ユイが顔を上げる。
「ベースは後ろじゃない。俺達の真ん中だ」
『綺麗事』
「じゃあ、これ聴いてくれ」
リョウヘイはスマートフォンを綾坂へ向けた。綾坂は軽く頷き、ノートパソコンを操作する。部屋のスピーカーから、昨日の夜に作った音源が流れ始めた。
ドラムと、ベースだけ。
ギターも歌も入っていない。
一定のテンポで刻むハイハット。その下を、ユイのベースが走っている。過去のライブ音源から抜き出した演奏だった。1音ごとの輪郭は荒い。ところどころリョウヘイのキックより早く飛び出し、直後には慌てて戻ってくる。それでも、音は止まらない。前へ進む。次第にハルナのキーボードが加わった。その和音に合わせて、ベースラインが形を変える。歌の隙間を埋めていた音が表へ出て、旋律のように動き始める。
最後にヒナのギターが重なった。ボーカルは、最後まで入らなかった。
曲が終わる。
ユイはスピーカーを見たまま動かなかった。
『何これ』
「新曲の土台だ」
リョウヘイが答える。
『アタシのベース勝手に使った?』
「過去の録音から綾坂が切り出した」
ユイの視線が綾坂へ移る。
綾坂は悪びれずに答えた。
「専属オペレーターなので」
ユイは少しだけ目を細めた。笑いそうになったのを堪えた顔だった。リョウヘイは机の上へ1枚の譜面を置く。
「昨日、音源を聴き直した。ユイのベースだけでも、曲がわかるだろ?」
『だから何』
「ベースでも歌は歌えるはずだ」
ユイの表情が消えた。
「今度のライブは、ユイが歌わないんじゃない。ユイはベースで歌うんだよ」
『意味分かんない』
「わかるはずだ。やる前から逃げるな」
綾坂が顔を上げる。
「ユイ、やってみてほしい。ベースを信じて」
『ベースを信じる?』
「そう。lunatiにとってユイのベースがどれだけ大事か…きっとわかる」
『そんなことできない』
「歌はできたのに?」
その瞬間、ユイの目が鋭くなった。
リョウヘイは止めなかった。
「弟のために歌うって決めた時、誰かにやり方を教わったのか」
ユイは答えない。
「歌わないと伝わらないって、誰が決めた」
ーーーーバンッ!
ユイが机を叩いた。乾いた音が部屋へ響く。ハルナが肩を震わせ、ヒナが立ち上がりかける。ティアーユは動かなかった。
ユイはスマートフォンを掴む。
『簡単に言わないで』
機械音声が、ユイの怒りを平坦に読み上げる。
『アタシはずっと歌ってきた』
『歌うために東音に来た』
『弟の代わりに歌うって決めた』
『それがなくなったら、何のためにここにいるの』
最後まで聞き、リョウヘイは答えた。
「俺達とバンドをやるためだろ」
ユイが息を止める。
「歌うために東音に入ったのかもしれない。でも、今もいる理由まで同じとは限らない」
『同じだよ』
「じゃあ俺達はいらないのか」
ユイの指が止まった。
ーーーーそんなわけないでしょ!?
声に出なかったが、ユイはそんな顔をしていた。
「1人でも歌える。弟のためだけなら、バンドじゃなくてもいい。それでもお前はlunatiにいる。俺達とライブして、曲を作って、くだらないことで喧嘩してる」
ユイは何も入力しなかった。
「歌以外の理由があるからだろ」
リョウヘイも、それ以上は言わない。答えを押しつけることはできない。ユイ自身が見つけなければ、どんな言葉も綺麗事で終わる。長い沈黙のあと、ハルナが口を開いた。
「ユイちゃん。私、歌うの怖い」
ユイがハルナを見る。
「ユイちゃんの代わりになるのも怖いし、なれないって思われるのも怖い。歌えたら歌えたで、ユイちゃんを傷つけそうで怖い」
ハルナは膝の上で手を握った。
「でも、歌うことを考える」
ユイの目が揺れる。
「ユイちゃんに休んでほしいから。戻ってくるまで、lunatiを止めたくないから」
『アタシがいなくてもできるってこと?』
「違うよ」
ハルナは強く首を振った。
それでも、いつもの優しい声でユイに語りかける。
「ユイちゃんがいるから、やるの」
『歌わないのに?』
「ベースを弾いてよ」
ハルナの声が震える。
「私、ユイちゃんのベースで歌いたいの」
ユイは俯いた。
ヒナも続ける。
「私も、コーラスをします」
ユイはヒナを見つめた。
「ユイさんに無理をさせたくありません。それに……私も歌ってみたいです」
最後の言葉だけ、少し恥ずかしそうだった。
「まだ上手くできるか分かりません。でも、ハルナさんを支えたいです。ユイさんが戻った時は、3人で歌えるようになりたいです」
ユイはしばらく考えた。
眉間に皺を寄せて、自分か仲間か、どちらを信じるのか決めれないでいた。
ゆっくりと、指先が動き出した。
俯きながらホワイトボードをみんなに見せる。
『ベース弾く』
みんなの顔が明るくなる。
ティアーユが全員を見渡す。
「確認します。ライブへ出演する場合、ユイさんは歌唱せず、ベースのみを担当します。メインボーカルはハルナさん。ヒナさんはコーラス。曲はハルナさんの声域に合わせて再構成し、セットリストを組み直します」
ティアーユは小さく息を吐き、ユイへ向き直る。
「ただし、医師から演奏許可が出ることが絶対条件です。喉の状態が悪化した場合は、直前でも出演を取りやめます。ユイさん、守れますか」
ユイはしばらくボードを見つめた。やがて、ゆっくり文字を書く。
『歌わなければ、出ていい?』
「許可が出ればの話です」
『マイクは?』
「ユイさんのマイクは置きません」
ユイは不満そうに頬を膨らませる。
『MCは?』
「俺がする」
リョウヘイが言う。
ユイが露骨に嫌そうな顔をした。
『不安』
「なんでだよ」
『向いてなさそう』
「俺だってMCん時ぐらい愛想よくするって」
『2人も手伝ってあげて』
ハルナとヒナにボードを見せる。
「もちろん。私もリョウヘイくん向いてないと思うし」
「私もです。ハルナさんの方が圧倒的に向いているかと」
2人とも、割と真顔で答えた。
綾坂も便乗してきた。
「ウチもそう思う。なんていうかキャラじゃないよ」
「泣きそうなんですけど」
ーーーーーーーーーーーーーー
話し合いは終わり、全員で練習室へ移動した。ユイはベースを肩へかける。いつもの位置。いつもの構え。マイクだけがない。その空白を見た瞬間、ユイの指が止まった。ハルナも、まだボーカルマイクの前へ立てずにいる。
残り9日。
lunatiは、今までと同じ場所へ戻るのではなく、今の5人にしか鳴らせない形を探し始めた。
ユイは歌わなかった。
けれど、lunatiからユイの歌が消えたわけではなかった。




