#63 歌えない10日間
自動ドアが閉まり、ユイの背中が見えなくなった。
最後まで振り返らなかった。
母親の肩を借り、ティアーユに付き添われながら歩いていく姿は、いつものユイとは別人のように小さかった。声を失っただけではない。歌わなければならない理由まで、全員の前へ置いていった。
弟が歌えなくなったから。
自分が歌わなければならない。
誰も、その言葉を簡単に否定できなかった。病院の待合室には、4人だけが残された。ハルナは膝の上で両手を握り、ヒナは俯いたまま動かない。綾坂は閉じたノートパソコンを抱えていたが、いつものように画面を開こうとはしなかった。
リョウヘイは、ユイが座っていた椅子を見つめた。少し前まで、そこにいた。スマートフォンへ文字を打ち込み、声の代わりに自分の過去を見せていた。泣いているのに笑おうとして、最後まで自分より先にライブの心配をしていた。
「……10日後、どうする」
口にした瞬間、ハルナの肩が揺れた。冷たい聞き方だと思った。だが、避けても10日は減っていく。
「そもそも出るの?」
綾坂が顔を上げる。
「分からない。だから決めないといけない」
「それは、今決めること?」
声に棘があった。
「ユイがあんな状態で帰ったばっかじゃん。今日くらい、ライブのこと忘れてもよくない?」
「忘れて、明日になったら残り9日だ」
「そういう話してんじゃない!」
綾坂の声が待合室へ響き、受付にいた看護師がこちらを見た。綾坂はすぐに口を閉じる。唇を噛み、ノートパソコンを抱く腕へ力を込めた。
「……ごめん」
「俺も言い方が悪かった」
リョウヘイは背もたれへ身体を預けた。休ませるべきだ。そんなことは分かっている。医師は完全な声休めを命じた。会話も歌唱も禁止。無理をすれば炎症が長引くだけでなく、元の声へ戻らない可能性すらある。それでもユイは、帰る直前までスマートフォンへ打ち続けていた。
『ベースは弾ける』
『ライブには出る』
『歌は10日あればなんとかする』
最後の1文だけは、母親に見つかって消された。
「リョウヘイさん」
ヒナが小さく呼ぶ。
「ライブ……辞退できませんか」
「できるよ」
出演を取りやめればいい。体調不良。メンバーの療養。理由としては十分だった。主催者へ連絡を入れれば、怒られることはあっても理解はされる。
「なら……」
「でも、ユイは納得しないだろうな」
ヒナは言葉を止めた。
「納得させないといけないんじゃないかな」
ハルナが顔を上げる。目元は赤い。だが声は、思ったより落ち着いていた。
「ユイちゃんが嫌がっても、今は止めないといけない。歌えないのに歌おうとしてるんだから」
「私も、そう思います」
ヒナが頷く。綾坂も反対しなかった。3人の視線がリョウヘイへ集まる。
「俺も歌わせる気はない」
答えると、わずかに空気が緩んだ。
「ただ、ライブを辞退するかは別だ」
「別?」
ハルナが眉を寄せる。
「ユイがベースを弾けるなら、4人で出られる」
「ボーカルは?」
綾坂が聞く。
リョウヘイは答えなかった。その沈黙だけで、全員が同じ人物を見た。
ハルナの顔が固まる。
「……私?」
「まだ頼んでない」
「見たじゃん。全員で」
「見ただけだ」
「圧を感じるよ?」
ハルナは困ったように笑おうとしたが、すぐに表情を戻した。
「私には、無理だよ」
短い返事だった。
「ユイちゃんの代わりなんて、できない」
「代わりじゃない」
リョウヘイが言う。
「同じように歌えって話じゃない。ハルナの歌でやる」
「それが無理なの。今ある曲は全部、ユイちゃんの声で作ってる。音域も、言葉の置き方も、息を吸う場所も。私が歌ったら別の曲になる」
「それでいい。全部作り直そう」
ハルナが目を見開いた。綾坂も呆れた顔をする。
「マジ…?10日で…?」
「10日もある」
「リョウヘイはドラムだから、キーを変える大変さわかってないでしょ」
綾坂は困った顔で首を振った。
「前にも特進の課題で、3日で曲作っただろ」
「あれを成功例として数えないで。全員死にかけたから。しかも今回は曲数も多いし…」
「あの時みたいに、なんとかするしかないだろ?」
「あー!もうー!またなのー!?」
いつもの綾坂らしい返しだった。けれど笑う者はいなかった。ハルナは膝の上へ視線を落とした。
「怖いか?ハルナ」
リョウヘイが尋ねる。
「うん、怖いよ」
迷いのない答えだった。
「前に立つのも怖い。ユイちゃんがいない場所で歌うのも怖い。客席に、ユイちゃんの歌を聴きに来る人がいるのも怖い」
指先がスカートを掴む。
「それに……私が歌えたら、ユイちゃんが戻る場所を取るみたいで嫌」
その言葉に、リョウヘイはすぐ返せなかった。ハルナは代わりになりたくないのではない。代わりになれてしまうことを、恐れている。誰かが歌わなければライブはできない。ハルナが歌い、客が受け入れ、lunatiが成立してしまえば、ユイは自分がいなくてもいいと考えるかもしれない。
今のユイなら、そう受け取ってもおかしくなかった。
「私は……ユイちゃんに歌ってほしい」
ハルナの声が震える。
「私は声を後ろから重ねるだけで良かった。なのに、私だけ前へ出るなんて……」
隣に座るヒナが、ハルナの手へそっと触れた。
「ハルナさん」
「ごめん。分かってる。今はユイちゃんを休ませないといけないって。でも……」
「私も怖いです」
ヒナが言った。
「コーラスをやると言った時、私も……ユイさんの場所を取るみたいで、怖かったです」
病院でユイと言い争った時、ヒナは自分からコーラスを申し出た。ユイ1人へ負担を集中させないため。ハルナの歌を支えるため。必要な提案だったはずなのに、今も後ろめたさが残っているらしい。
「でも、何もしなかったら……ユイさんは1人で歌おうとします」
ヒナの指が、ハルナの手を握る。
「戻る場所を守ることと、誰もそこへ立たないことは……同じではないと思います」
ハルナがゆっくり顔を上げた。
「ヒナちゃん……」
「私達が歌えば、ユイさんが休めます。休んでも、lunatiがなくならないと分かれば……少しだけ、止まってくれるかもしれません」
言い切ったあと、ヒナは不安そうにリョウヘイを見る。自分の考えが合っているのか、確認を求める目だった。
「そうだな」
リョウヘイは頷いた。
「ユイを外すためじゃない。戻ってくるまでバンドを止めないために歌う」
ハルナは何も言わなかった。だが、さっきより強く拒絶することもなかった。綾坂が長く息を吐き、ノートパソコンを膝へ置いた。
「それで、ライブは出る前提になったわけ?」
「まだだ」
「ウチには、もうそういう顔に見える」
「どんな顔だよ」
「無茶を思いついて、みんな付いてきてくれるって思い込んでる顔」
否定できなかった。
「でも……」
綾坂はノートパソコンを開いた。黒い画面へ、自分たちの疲れた顔が映る。
「出るなら、今日中に決めないと間に合わない。既存曲をハルナへ合わせて全部組み直すか、新曲を作るか。ユイがベースを弾けるかも、医者に確認がいる。歌わなくても、ライブ中の呼吸は喉に負担がかかるかもしれない」
「ベース弾くのも駄目なの?」
ハルナが尋ねる。
「分かんない。ウチは医者じゃないから。ただ、演奏中って息止めたり、声出したりするでしょ。ユイ、ライブ中ずっと黙ってられる?」
全員が同時に想像した。客席を煽るユイ。曲間で喋るユイ。マイクがなくても叫ぶユイ。
「無理そうだな」
リョウヘイが答える。
「即答しないでよ。希望なくなるじゃん」
「俺に言われてもな……」
「だから対策がいるの。ユイの前にマイクを置かない。セットリストは短くする。曲間は誰かが喋る。喉の状態が悪化したら、途中でも演奏を止める」
綾坂の指がキーボードの上を動き始める。
「あと、マスクもかな。可哀想だけど心理的にも発言を抑制できると思う。ベースのモニターも近くへ寄せる。できるかどうかは、病院の許可が出てからだけど」
「綾坂」
「何」
「出る気じゃん」
綾坂の指が止まった。
「……出るならって言ったでしょ」
「ありがとな」
「まだ何もしてないし、始まってない」
顔を赤くしながら画面へ視線を戻す。その時、リョウヘイのスマートフォンが震えた。ユイからだった。
メッセージは1行。
『勝手にライブ辞退したら殺す』
4人で画面を覗き込み、しばらく黙った。
「元気そうだね」
ハルナが言う。
「文章だけならね」
綾坂が返す。
続けて、もう1通届く。
『歌えるようにするから』
さっきまで少し緩んでいた空気が、再び重くなった。リョウヘイはすぐに文字を打つ。
『歌わせない』
既読は一瞬でついた。
『決めるのはアタシ』
『今は医者が決める』
『アタシの喉だよ』
『だから止めてる』
入力中の表示が現れ、消える。また現れ、今度は長く続いた。
届いた文章は、短かった。
『歌わないなら、出る意味ない』
リョウヘイは画面を見つめた。
ベースでは足りない。4人でステージへ立つだけでも足りない。ユイにとって歌うことは、担当パートではない。亡くなった弟との約束であり、自分がここにいる理由そのものになっている。そこから歌だけを外せば、本人には何も残らないように見えるのだろう。だが、本当にそうなのか。
ユイのベースに救われたことがある。声が聞こえなくても、弦へ触れた瞬間に曲の進む方向が分かる。リョウヘイのキックへ食らいつき、時には先へ引っ張り、ハルナの和音とヒナのギターの間へ道を作る。歌が強すぎて見えにくいだけで、ユイはとっくにベーシストとしてlunatiの中心にいる。
『意味はある。俺達が作る』
送信すると、返信は来なかった。既読だけが表示される。
「怒ったかな」
ハルナが不安そうに尋ねる。
「怒ってるだろうな」
「もう少し言い方なかったの?」
綾坂が呆れる。
「今考えてる」
「遅っ!送る前に考えてよ…」
スマートフォンがもう1度震えた。だが、ユイからではなかった。ティアーユからのメッセージだった。
『ユイさんをご自宅まで送りました。明日の放課後、全員で話し合いましょう。今日は全員、帰宅してください』
その下に、続けて届く。
『なお、ユイさんからライブを辞退しないよう強く要求されました』
綾坂が画面を読み、眉を上げた。
「姉さんにも送ってる……アイツ…!」
さらに1通。
『私の判断だけでは決めません。皆さんで結論を出してください』
「先生、止めないんだ」
少し驚きながらハルナが呟く。
「止めるだけじゃ駄目だって分かってるんだろ」
リョウヘイはティアーユの意図を理解していた。
ユイから歌を取り上げれば、身体は守れる。だが、本人が壊れるかもしれない。だからといって、歌わせれば喉が壊れる。正しい答えは、どちらにもなかった。
リョウヘイは立ち上がった。
「今日は帰ろう」
「いいの?もうちょっと打ち合わせした方が…」
綾坂が聞く。
「方向は決まった。流石に俺も今日は疲れた」
分かりやすくリョウヘイは疲れ果てていた。
「確かに…一悶着どころじゃなかったもんね…」
ハルナや他のメンバーも同様だった。
リョウヘイは自動ドアの向こうを見た。もうユイの姿はない。
「明日、ユイと話す。その前に、俺達だけで答えを決めたくないしな」
ハルナが静かに頷く。ヒナも席を立った。綾坂はノートパソコンを閉じながら、ため息混じりにいった。
「わかった。今日はウチも疲れた…」
病院を出ると、外はすでに暗くなっていた。冷たい風が吹き、4人の身体から消毒液の匂いをさらっていく。駐車場の端で別れる前、ハルナがリョウヘイを呼び止めた。
「リョウヘイくん」
「ん?」
「私、まだ歌うとは言えない」
「分かってる」
「でも……ユイちゃんが戻る場所を守るためなら、考える」
小さな声だった。それでも、拒絶ではなかった。
ヒナが隣で頷く。
「私も、コーラスを考えます」
「ヒナっちまで、無理しなくていいからね」
綾坂が言う。
「無理ではありません。怖いだけです」
「それを無理って言うんじゃない?」
「綾坂さんもやる気じゃないですか」
「lunatiが動くならウチも動く、それだけだよ」
「マネージャーだもんな」
リョウヘイが言うと、綾坂は一瞬だけ黙った。それから、諦めたように肩をすくめる。
「そうだよ。だから勝手に壊れられたら困るのよ…」
誰のことを指しているのかは、聞くまでもなかった。
ユイ。
そして、また無茶を始めようとしているlunati全員。
10日後のライブに出るのか。誰が歌うのか。ユイはベースを弾くのか。何一つ決まっていない。ただ1つ、決まったことがある。
ユイを1人では歌わせない。
歌えない時間を、ユイ1人の罰にはしない。4人はそれぞれの帰路へ向かった。
その夜、リョウヘイはイヤホンをつけ、これまでのlunatiのライブ音源を最初から聴き直した。
中心には、いつもユイの声があった。だが、その下には必ずベースがいる。荒く、強く、時々走り、それでも誰より真っ直ぐに前へ進む音。声を消しても、ユイは消えなかった。
リョウヘイは再生を止めユイの事を想った。
「大丈夫だ、ユイ。歌えなくても…きっと…」
残り10日。
lunatiは初めて、ボーカルのいないユイと向き合うことになった。
今回も設定資料です。ハルナです。AIで作ってます。




