#62 ユイ・オリジン
翌日の放課後、5人はいつもの練習室に集まっていた。
ただし、マイクの前に立っているのはユイではない。ハルナが両手でマイクを握り、その隣ではヒナがギターを抱えたまま譜面を見ている。
ユイは少し離れた場所でベースを膝に置き、綾坂は録音機材の前に座っていた。リョウヘイだけが、いつもどおりドラムの前にいる。
「じゃあ、サビから1回やろう」
綾坂が言う。
「ハルナは主旋律。ヒナっちは上を重ねて。最初から声量を出そうとしなくていいから、まずはピッチを合わせて」
「分かりました」
ヒナが頷く。
「ハルナも、準備いい?」
「う、うん」
返事はしたものの、ハルナの肩には力が入っていた。ユイが歌っていた曲だ。何度も隣で聴き、自分でも口ずさんできた。それでも、マイクの前へ立つだけで知っているはずの歌詞が急に遠くなる。
リョウヘイが軽くカウントを出した。鍵盤の音が鳴り、ヒナのギターが重なる。
ハルナが歌い始めた。
最初の数小節は、声が細かった。音程は合っている。だが、言葉を間違えないことへ意識が向きすぎて、1つずつ置くような歌い方になっている。
ユイとは違う。
ユイは多少荒くても、歌詞ごと前へ投げる。
ハルナは丁寧に抱えすぎる。
サビの途中で、綾坂が手を上げた。
演奏が止まる。
「ハルナ、もっと前に出ていい」
「前に…」
「音量じゃなくて。言葉を全部綺麗に置こうとしなくていい。今、歌詞に置いていかれないように追いかけてて、それが声に出てる」
「……おっしゃる通りです」
綾坂の耳を誤魔化す事はやはり不可能に近かった。
ユイの一件があって、より音には過敏になっているようだった。
それでも気を使う事は忘れていなかった。
「ごめんね、聞けばわかっちゃうから」
「ううん、わかってる。音は嘘をつけない、だよね」
綾坂は画面へ視線を戻す。
「ユイみたいに歌う必要はないけど、今は怖がりすぎ」
ハルナは少しだけ俯いた。
その時、ユイがスマートフォンへ文字を打った。
『最初の言葉を丁寧に歌いすぎ』
『語尾はもっと早く切っていい』
『サビ前で息を全部使わないで』
ハルナが目を丸くする。
「そんなに分かったの?」
ユイは肩をすくめた。
『アタシのパートだから』
「…もう1度やってみる」
ハルナはマイクを握り直した。
今度は、最初の言葉を少し軽く入れる。
語尾を必要以上に残さない。
サビ前で息を使い切らず、最後の高い音まで残しておく。
さっきより自然だった。
ヒナのコーラスも、ハルナの息に合わせて綺麗に重なる。
「うん、今のほうが断然いい」
綾坂が言う。
ユイは返事をせず、ベースの弦へ指を置いた。綾坂はしばらく見ていたが、それ以上は言わなかった。
「次、頭から」
リョウヘイがカウントを出す。
今度は1曲通して合わせた。
ハルナはまだ不安定だ。
ヒナのコーラスも、入りが遅れる場所がある。それでも、さっきより曲にはなっている。最後まで演奏し終えると、綾坂は録音を数秒戻した。
「やっぱり、この曲は半音下げた方がいい」
ハルナがマイクを下ろす。
「キーを下げるの?」
「うん。今のままだとサビで無理してる。ユイならフィジカルでブチ抜けるけど、ハルナは1番高いところで喉が締まってる」
「私、もう少し練習すれば――」
「練習で無理やり出すより、歌いやすい場所へ持っていった方がいい」
綾坂がDTMを操作し、曲のキーを下げる。
その瞬間、ユイが焦ってスマホに文字を打ち込み、画面を見せた。
『キーは変えないで』
綾坂が振り返る。
「この曲のキーはハルナに合ってない」
『この曲はこのキーなの』
「誰が決めたの」
『アタシ』
「今は、ハルナかボーカルでしょ」
今は、その言葉が少し強調されていたように聞こえた。
ユイの指が止まる。
少しして、また文字が表示された。
『アタシが戻ったら元に戻すの?』
「その時に考える」
『だったら最初から変えなくていい』
綾坂の声が低くなる。
「これはユイの復帰用の練習じゃない。10日後のライブで、もしユイが歌えなかった時のために合わせてる。今いるメンバーで、できる形を作っておくんだよ」
ユイの顔から笑みが消えた。
『もしって何』
「そのままの意味だよ」
『10日あれば戻る』
「戻らなかった時の話をしてる」
『戻る』
「だから、もしって言ってるでしょ!」
綾坂もストレスを感じているようだった。
今だに自分に責任を感じているのだろう。
ハルナがマイクを置いた。
「ユイちゃん。キー、変えてみてもいい?」
ユイはハルナを見る。
「本番で私が歌うって決めたわけじゃないよ。ユイちゃんが戻れたら、それが1番いい。でも……もし私が歌うなら、ちゃんと歌える形にしたい」
ユイは返事をしなかった。
「ユイちゃんの真似をして、ギリギリの声を出すんじゃなくて。私の声で歌いたいの」
長い沈黙。
ユイの喉が動いた。
「アタシが…いるのに?」
悲しいほどに掠れた、か細い声が出た。
全員の表情が変わる。
「ユイ!喋るな!」
リョウヘイがすぐに言った。
ユイは首を振る。
「アタシが……いるのに……」
「お願い!もう声出さないで!」
綾坂が立ち上がる。
ユイは聞かなかった。
ベースを椅子へ置き、マイクへ向かう。
ハルナが反射的に1歩退いた。
それでもユイを止めなければ歌ってしまう。ハルナはそう思った。
「ユイちゃん、駄目だよ!」
「1回…だけ…」
「ダメ!マイクは使わせない!」
ハルナは慌ててマイクをスタンドから抜き取った。
「ちゃんと声…出る…から」
「出てないよ……それに昨日、先生にもお医者さんにも言われたでしょ」
「アタシ…歌える…から」
リョウヘイがドラムから立ち上がる。
「……もうやめてくれ…ユイ」
「サビだけ…」
「そんな状態じゃないだろ」
「出せるって証明したら――」
「証明する必要がない」
「アタシには…あるの…!」
掠れた声が、無理やり大きくなる。
その直後、ユイは大きく咳払いをした。
「ゴホッ!ゴホッ!」
ユイは反射的に喉を抑えた。
とてもじゃないが歌える状態ではなかった。
まともに話すことさえ痛みが伴っているのを、誰もが感じ取っていた。
ハルナがユイの手へ触れる。
「お願い。やめよう」
「……アタシが……」
声が途切れる。
ユイは息を吸い直した。
「アタシが、歌う……」
ユイは大きくブレスした。
リョウヘイが止めようと近づいた時には、ユイはもう最初の音を出そうとしていた。
空気だけが漏れた。
ユイの目が見開かれる。
もう1度。
息を吸う。
口を開く。
声にならない。
「……っ!」
かすかな摩擦音だけが喉から漏れた。ユイは焦ったように呼吸を整える。
3度目。
何も出ない。
「ユイ…」
リョウヘイが短く名前だけ呼んだ。
今度はユイも抵抗しなかった。
ユイは自分の喉へ手を当てたまま、動けなくなっていた。
「更に悪化してる……。もう無理、ティア姉さんに連絡する」
綾坂がスマートフォンを取り出す。ハルナはユイの背中を支え、ヒナは水を持って駆け寄った。
「ユイさん、飲めますか?」
ユイは小さく頷く。
ペットボトルを受け取り、ほんの少しだけ口へ含む。
それでも声は戻らない。戻るはずはない。
10分もしないうちに、ティアーユが練習室へ来た。事情を聞いたティアーユは何も責めず、ただユイを見た。
綾坂は申し訳なさそうにティアーユに謝罪した。
「ごめんなさい、私がついていながら……こんな失態を…」
「綾坂さん、あなたのせいではありません。もちろん誰のせいでもない。音楽をやっていれば誰もがこういった経験をするものです。やりたいのにできないとは悲しいものです」
改めてユイを見るティアーユ。
「今すぐ、病院へ行きます」
ユイは首を横へ振ろうとした。
「行きます、今すぐに」
もう1度同じことを言われた。
でも今度は、有無を言わせない声だった。
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夜。
診察を終えたユイは、病院の待合室へ戻ってきた。
案の定、状態が悪化していた。
声帯の炎症が強くなっているため、歌唱はもちろん、会話も禁止。声を出そうとすること自体を避け、しっかり休ませるように言われた。
ティアーユはユイを見る。
「今度こそ、医師の指示に従ってください。これ以上ポリープが悪化すれば、2度と歌えなくなってしまいます」
ユイは小さく頷いた。
ティアーユはユイの保護者へ連絡を取るため、少し離れた場所へ移動した。診察を終えた夜の待合室には、ほかの患者の姿がほとんどない。白い照明の下で、5人だけが取り残されたように座っていた。ユイは1番端の椅子で、鞄を胸の前に抱えている。
「ユイ」
リョウヘイが呼ぶと、ユイは顔を上げた。
「1つだけ聞かせてくれ」
綾坂が止めようとしたが、リョウヘイは続けた。
「なんで、そこまでして歌うんだよ」
ユイの表情が固まる。
「ボーカルを取られるのが嫌だからか?」
ユイは首を振った。
「ハルナが歌うのが嫌なのか?」
また首を振る。
ハルナが胸の前で手を握る。
「じゃあ、なんでなんだ」
ユイはスマートフォンを取り出した。すぐには打ち始めなかった。画面を見つめたまま、何度も指を止める。やがて、短い文章が表示された。
『アタシは、歌わないといけないから』
「誰かに、言われたのか?そうしろって」
ユイは答えない。
「医者にも、先生にも、俺たちにも止められて。それでも歌わなきゃいけない理由があるんだろ」
ユイの指が動く。
文字が1つずつ増えていく。
『弟』
リョウヘイは一瞬、意味を理解できなかった。
「弟?」
ユイは頷いた。
ハルナもヒナも、綾坂も何も言わない。ユイに弟がいるという話を、誰も聞いたことがなかった。
次の文章が表示される。
『弟がいた』
過去形だった。
ユイは1度画面を消した。それから、ゆっくり打ち直す。
『小さい頃に病気で死んだ。8歳だった』
空調の風が、静かな待合室を通り抜けた。
ユイは俯いたまま、続ける。
『音楽が大好きだった』
『アタシが歌うと喜んでた』
『アタシの歌を好きって言ってくれた』
指が止まる。
画面に文字を打っては消し、また打つ。
やがて、1文だけが残った。
『僕の分も歌って』
リョウヘイは画面を見つめた。
ユイの弟が残した言葉。
それをユイは、ずっと抱えていた。
『死ぬ前に約束した』
『ずっと歌うって』
ハルナが唇を噛む。
ヒナも綾坂も涙を堪えている。
『弟が死んですぐ、急いで楽器を探した』
『だからギターと間違えてベースを買った』
『アタシは歌うために東音を選んだ』
ユイの指は止まらない。
『アタシが歌わなくなったら』
『約束破ることになる』
『忘れたみたいになる』
最後の1文を打つまでに、何度も指が止まった。
『アタシだけ生きてるのに』
ユイの目から、涙が落ちた。
スマートフォンの画面へ1滴落ち、文字が滲んだように見えた。誰もすぐには言葉を返せなかった。リョウヘイは、ようやく分かった。ユイが歌うことを譲れない理由。
ボーカルという立場ではない。
客席から向けられる視線でもない。上手いと言われることでもない。歌い続けることそのものが、弟との約束になっていた。だから、休むという選択肢さえユイには裏切りのように見えていた。
ハルナがユイの隣へ座る。
「ユイちゃん」
ユイがゆっくり顔を上げた。
「私、ユイちゃんの歌を取りたいわけじゃないよ」
ユイは頷いた。
分かっている。
それでも怖かったのだろう。
「弟さんとの約束も、私には何も言えない。大事な約束だと思うから」
ハルナの声が震える。
「でも、ユイちゃんまでいなくなるような歌い方はしてほしくない」
ユイの目から、また涙が落ちた。ヒナも、少しだけ身体を前へ出す。
「私は、ユイさんに歌うのをやめてほしいわけではありません」
ヒナは言葉を選びながら続ける。
「でも、ユイさんがいなくなるまで続ける歌は嫌です」
ユイがヒナを見る。
「弟さんのことを知らない私には、簡単なことは言えません。それでも、私たちにもユイさんの歌を待たせてください」
綾坂は少し離れた場所で顔を伏せていた。
「……馬鹿」
小さく呟く。
「そんなの、1人で抱えてたら分かるわけないじゃん」
ユイが綾坂を見る。
「歌わなきゃ忘れるとか、歌えなきゃいらないとか、勝手に決めないでよ」
綾坂の目にも涙が浮かんでいた。
「ウチら、まだ何も決めてないから」
ユイは答えられない。
リョウヘイにも、今すぐユイを救える言葉は思いつかなかった。
弟のために歌うなとは言えない。弟を忘れろとも言えない。歌わなくても大丈夫だと、簡単に片づけることもできない。
ユイにとって歌は、担当パートではなかった。
亡くなった弟との時間であり、最後に残った約束であり、自分が生きている理由の一部だった。それを失った今、ユイは自分の立つ場所まで見失っている。
待合室の向こうから、足音が近づいてきた。
「ユイ!」
駆け込んできた女性が、椅子の前で足を止める。ユイの母親だった。ティアーユから事情は聞いていたのだろう。泣いている娘を見ると、何も尋ねずに抱きしめた。ユイは母親の胸元へ顔を埋める。
いかにもユイの母親というか、気の強い女性という印象だった。大変失礼だが元ヤン感がある。どこかしら似ている部分もやはりある。
「また、1人で抱えてたの」
母親のその言葉だけで、弟のことを、ユイとの約束を知っているのだと分かった。ティアーユも少し遅れて戻ってきた。ユイと母親の姿を見たあと、リョウヘイたちへ静かに視線を向ける。
「今日は帰りましょう。今後のことは、明日以降に考えます」
誰も反対しなかった。
帰る前、ユイがもう1度スマートフォンを取り出す。
『ごめん』
リョウヘイは首を振った。
「謝るな」
『ライブ』
「今は考えなくていい」
ユイは何かを打とうとしたが、母親がそっとスマートフォンを下ろさせた。
母親はリョウヘイ達の方に目をやる。
「君たちだね、ユイとバンドやってくれてるのは。私は木下メグミ。ありがとう、ごめんね」
反射的にリョウヘイは頭を下げる
「そんな…俺たちの責任です。ユイを…お嬢さんを…」
「君がリョウヘイだね。ユイから聞いてる。わかってるよ、またこの子がバカやったんでしょ。どうしてアンタって子は…」
綾坂は歯を食いしばりながら伝えた。
「ユイを、責めないであげてください…私が悪いんです」
メグミは優しい声で綾坂達を見ながら呟いた。
「いい仲間をもったね、ユイ」
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その後、ユイはメグミに連れられ帰宅することとなった。
ユイは抵抗しなかった。
抵抗する体力はあるのに、それを伝える術がないことを理解していたからだ。
病院を出る直前、振り返る。
声のない口が、何かの形に動いた。何を言ったのかは分からなかった。ただ、リョウヘイには「歌いたい」と言ったように見えた。
その夜、lunatiのグループには誰からもメッセージが送られなかった。10日後のライブをどうするか。
ハルナが本番で歌うのか。
ユイはベースを弾くのか。
仮の形は試していても、まだ何も決まっていない。
時間だけが進んでいく。
けれど、リョウヘイたちは初めて知った。
ユイがなぜ歌っていたのか。
なぜ声を失うまで止まれなかったのか。
いつも誰よりも明るく笑いながら、その奥で何を背負っていたのか。理由を知っても、問題は何ひとつ解決しなかった。
むしろ、簡単には解けないものだと分かってしまった。
ユイのオリジンは、亡くなった弟へつながっている。
その糸を切らずに、ユイ自身を救う方法を、まだ誰も知らなかった。こうして、lunatiは初めて、歌のない時間へ入った。
ここまででユイ編、前編となります。
もうすぐ卒業です。
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バイブス上がります。




