#56 2年生
3月の体育館は、春を迎えるには少しだけ寒かった。天井近くの窓から差し込む光は白く、並べられたパイプ椅子の背を淡く照らしている。
壇上には校旗と卒業証書の束。その手前には、今日で東音を去る2年生たちの背中が並んでいた。リョウヘイは、1年生の列の端で右足を少し前へ伸ばして座っていた。
歩くこと自体には、もう大きな問題はない。ただ、長い時間同じ姿勢でいると、傷の周囲がじわじわと重くなる。体育館の冷えも相まって、右足だけが他人のものになったような感覚があった。
「痛む?」
隣から小さく声をかけたのはハルナだった。
「ちょっとな。でも、平気」
「リョウヘイくんの平気は、あんまり信用ならないからなぁ」
「あれから2ヶ月も経つんだ。いい加減大丈夫」
「だからって…」
ハルナはそう言うと、膝の上で揃えていた手を少しだけ伸ばし、リョウヘイの制服の袖をつまんだ。止めるほどではない。でも、無理をしたらすぐ分かるからね――そんな控えめな牽制だった。そのさらに向こうで、ユイがちらりとこちらを見る。
「ちょっとー、卒業式でいちゃつかないでくれる?」
「い、いちゃついてないし」
ハルナは恥ずかしそうにしながらも袖から手を離さなかった。
「ハルナ、袖つかんでるじゃん」
「これは、その……心配なんだもん」
直後、前の席に座る綾坂が肩越しに振り返った。
「いいから、アンタ達今日ぐらい静かにしてなさいよ。卒業する先輩達が恥かくんだからね」
「綾坂が1番声でかいよ」
「しゃべんな!」
綾坂の横では、ヒナが背筋を伸ばしたまま、前方をじっと見ていた。緊張しているようにも見えるが、ヒナは式典でも普段の授業でもだいたいこの姿勢なので判別がつかない。やがて、卒業生の名前が1人ずつ呼ばれ始めた。
「天瀬サクラ」
「はい!」
体育館の空気を1人で明るくするような返事だった。サクラは立ち上がり、堂々と壇上へ向かう。いつもの大げさな身振りはなく、背筋を伸ばして卒業証書を受け取る姿は、意外なほど凛としていた。証書を抱えて振り返った瞬間だけ、サクラの視線が1年生の列へ飛ぶ。リョウヘイたちを見つけると、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「雨宮フミ」
「はい」
フミの返事は、サクラの半分ほどの音量だった。それでも、聞き慣れた者には十分届く。フミは壇上へ上がり、淡々と証書を受け取った。表情はいつもと変わらない。だが、降りる直前、客席へ向けて軽く頭を下げた。その一瞬の動作を見て、ユイが小声でつぶやく。
「フミ先輩、今日めっちゃ声出るじゃん」
「きっと今日は声を出すのがめんどくさくないんですよ」
ヒナが真顔で返した。
卒業式は滞りなく進んだ。
校長の長い話も、在校生代表の送辞も、卒業生代表の答辞も終わる。最後に校歌が流れ、卒業生たちが立ち上がった。サクラは誰よりも大きな口を開けて歌っていた。フミも静かに歌っている。大きな声ではないが、歌詞を追う唇は確かに動いていた。ユイも在校生の列で歌っている。その声は、周囲の誰よりもよく通った。リョウヘイは前を向いたまま、その声を聞いていた。いつもと同じ、迷いのない声だった。
式が終わると、体育館は一気に騒がしくなった。卒業生を囲む在校生、写真を撮る保護者、花束を抱えて泣く生徒。さっきまでの厳粛さが嘘のように、あちこちから笑い声とすすり泣きが重なっている。
「リョウヘイ、立てる?」
ユイが尋ねた。
「そこまで重病人じゃない」
「じゃあ早く。サクラ先輩、捕まえないと人混みに飲まれる」
「サクラ先輩が人混みを飲み込む側だろ」
「それなぁ…」
リョウヘイが椅子から立ち上がると、右足に鈍い痛みが走った。顔には出さなかったつもりだったが、ハルナとヒナが同時にこちらを見る。
「大丈夫だって」
「まだ何も言ってないよ」
ハルナが困ったように眉を下げる。
「顔に書いてあるんです」
ヒナも続けた。
「見過ぎだろおまえら」
「リョウヘイが分かりやすいだけでしょ」
ユイは笑いながら、リョウヘイの歩幅に合わせて進んだ。体育館の出口付近で、サクラはすでに大勢の生徒に囲まれていた。両腕には花束。首には誰かがかけた紙製のメダル。頭には、なぜか小さな王冠まで載っている。
「サクラ先輩、卒業おめでとうございます」
ハルナが言うと、サクラはぱっと表情を輝かせた。
「ありがとう、ハルナくん! みんなも来てくれたんだね」
「式にいたよ」
ユイが即座に返す。
「知ってるよ。壇上からちゃんと見えてたから」
「じゃあ今の、再会みたいな反応は何?」
「卒業生には、1つ1つの瞬間を盛り上げる権利があるんだよ」
「めんどくせーなサクラ先輩」
リョウヘイが言うと、サクラは花束の隙間から指を差した。
「リョウヘイくん。今日は先輩に対して、もう少し感傷的になってもいいんじゃないかな」
「足が痛くて、それどころじゃないです」
「そういう大事なことは先に言いなよ!」
サクラの顔から冗談が消える。
「座る? 保健室行く? 誰か先生を――」
「すんません、冗談です。普通に歩けます」
「本当?」
「マジっすよ、ほら」
リョウヘイが足踏みしてみせようとすると、ユイとハルナに左右から止められた。
「証明の仕方が馬鹿なんだよ」
「無理しない、ふざけない、調子に乗らない」
「はい…」
そのやり取りを見ていたサクラが、安心したように息を吐く。
「相変わらずだね、君たちは」
「サクラ先輩もね」
ユイが笑った。
「フミ先輩は?」
綾坂が辺りを見回す。
「さっきまで一緒だったんだけど……あ」
サクラが指差した先では、フミが壁際の机を借り、卒業生の寄せ書きへ何かを書いていた。フミはこちらに気づくと、ペンを置いて歩いてきた。
「写真、撮ろう」
「フミ先輩から言うの珍しいね」
ユイが笑う。
フミはいつもの無表情で答える。しかしどこか熱い眼差しがそこにはあった。
「今日とみんなを忘れたくない」
フミらしくない発言に皆が少し驚いた。
「大丈夫。きっと、忘れる方が難しいさ」
サクラは優しく囁いた。
「でも撮ろう!」
すぐにいつもの調子に戻った。
通りかかった生徒に頼んで、8人で写真を撮った。中央にはサクラとフミ。その後ろにティアーユも加わる。
「先生、もっと寄ってください」
サクラに言われ、ティアーユはわずかに眉を上げた。
「十分近いと思いますが」
「今日くらいは教師と生徒の適切な距離を忘れてみませんか?」
「いいえ、それは無理です。私はずっと、アナタの先生です」
そう答えながらも、ティアーユは半歩だけ前へ出た。シャッターが切られる瞬間、ユイがフミの頭に紙の王冠を移した。フミは無表情のまま王冠をかぶり、サクラだけが腹を抱えて笑っている。写真を確認したサクラは、目元を細めた。
「いい写真だね」
その声だけ、少し静かだった。
ティアーユが腕時計を見る。
「そろそろ教室へ移動しましょう。最後に伝えておくことがあります」
その1言で、7人の間に薄い沈黙が落ちた。何を言われるのかは、全員が分かっていた。特進クラスの教室へ向かう廊下には、卒業を祝う飾りが残っていた。色紙で作られた花。窓に貼られた文字。すれ違う卒業生たちは、写真を撮りながら何度も立ち止まっている。リョウヘイたちも、いつもよりゆっくり歩いた。リョウヘイの足に合わせているだけではない。
この廊下を7人で歩くのが最後だと、誰もが分かっていたからだ。特進クラスの扉を開けると、教室はすでに片づけが始まっていた。壁に貼られていた資料は外され、棚の中も半分ほど空になっている。机と椅子はまだ7人分残っていたが、黒板には授業内容ではなく、白いチョークで大きく1言だけ書かれていた。
『卒業おめでとうございます』
サクラが立ち止まる。
「先生が書いたんですか?」
「はい」
「字、かわいいですね」
「消します」
「褒めたのに!?」
7人は、いつもの席へ座った。
サクラとフミ。
リョウヘイ、ユイ、ハルナ、ヒナ、綾坂。
教壇にはティアーユ。
文化祭も、騒がしい自習時間も、どうしようもなく重かった冬の日々も、すべてこの並びで過ごした。ティアーユは教卓の上へ1枚の書類を置いた。
「すでに聞いている方もいると思いますが、改めて正式に伝えます」
いつもと同じ、落ち着いた口調だった。
「今年度をもって、特進クラスは解体されます」
誰も声を上げなかった。
分かっていたことでも、言葉にされると重さが変わる。
「先日の事件を受け、学校は特進制度の運用と、生徒への支援体制に問題がなかったかを検討しました。その結果、この形での継続は困難だと判断されました」
ハルナが膝の上で手を握る。
ユイが気づき、机の下でそっとその手に触れた。
「ハルナさん」
ティアーユが呼ぶ。
ハルナは顔を上げた。
「これは、あなたの責任ではありません」
「……はい」
「リョウヘイさんもです」
「俺、まだ何も言ってませんけど」
「言いそうな顔をしていました」
「だから、見過ぎだろ」
「リョウヘイさんはわかりやすいですから」
小さな笑いが起きた。
ティアーユの表情も、ほんの少しだけ緩む。
「学校が責任を取るというのは、誰か1人へ責任を押しつけることではありません。制度を作り、運用した側が、その結果を引き受けるということです」
ティアーユは1度、7人全員を見渡した。
「サクラさんとフミさんは、本日をもって卒業します。残る5人は、新年度から通常の音楽科へ戻ってもらいます。私も音楽科の授業へ戻ります」
「先生も、いなくなるわけじゃないんですよね?」
ヒナが確かめるように尋ねる。
「はい。一般の軽音楽の授業を担当することになりました」
「先生の授業、また受けれるんですね!」
ユイが笑う。
「はい、特別扱いはしませんよ。みなさん」
「大丈夫ですよ、私たちは既に特別ですから」
「ヒナ、言うようになったな……」
リョウヘイが言うと、教室にまた笑いが広がった。けれど、笑いが消えたあとの静けさは、さっきより深かった。
サクラが黒板を見上げる。
「この教室、もう使わないんですか?」
「現在のところ、来年度の使用予定はありません」
「そっか」
サクラはそれだけ言った。
いつもなら、もっと何か言うはずだった。記念館にしようとか、自分たちの銅像を建てようとか、少なくとも1度は話を大きくする。だが今日は、何も続かなかった。代わりにフミが机へ両肘をつき、教室を見回した。
「特進クラス、楽しかった…」
簡潔な1言だった。
サクラがふっと笑う。
「ああ、楽しかったね」
「たくさん曲を作った」
「ああ」
「全部思い出せる」
「私もだよ、歌詞を間違えたこともない」
フミの目から涙がどうしようもなく溢れた。
「もっとみんなと遊びたかった…」
「また遊べるじゃないか。普段からそれくらい喋ろうよ、フミ」
「疲れる…」
ユイが吹き出し、綾坂も顔を背けながら笑った。サクラはしばらく机の上の卒業証書を見ていた。
「私も、楽しかったよ」
今度はふざけなかった。
「このクラスに入る前は、自分が卒業する頃に、こんなに別れたくない人が増えてるなんて思ってなかった」
サクラは1人ずつ顔を見る。
「みんな、ありがとう」
サクラは笑い、最後にティアーユへ向き直った。
「先生。ありがとうございました」
深く頭を下げる。
ティアーユはすぐには答えなかった。
「サクラさん、卒業おめでとう」
短い言葉だった。
それでも、教壇の端を握る指に力が入っているのを、リョウヘイは見た。
「あなたたちは、私が想定していた以上によく学びました」
ティアーユが続ける。
「同時に、私の想定していた以上に問題も起こしました」
「最後にそこ足します?」
ユイが不満そうに言う。
「事実です」
「否定できないのが腹立つな」
「ですが」
ティアーユの声が、少しだけ柔らかくなった。
「この教室がなくなっても、ここで得たものまでなくなるわけではありません。環境が変われば、今まで通用していたやり方が通用しなくなることもあります。それでも、自分たちで選び、考え、音を鳴らしてください」
誰も軽口を挟まなかった。
「特進クラスとしての授業は、これで終了です」
ティアーユが頭を下げる。
「皆さん、お疲れさまでした」
7人も立ち上がった。
「ありがとうございました」
声が重なる。
教室を出る前、サクラは何度も振り返った。フミも扉の前で1度だけ足を止め、黒板を見た。そして、7人で最後の教室を後にした。昇降口では、卒業生たちが次々と校門へ向かっていた。サクラとフミも、ここからは別の道を歩く。
「じゃあ、みんな。またね」
サクラは明るく言った。
「また、ですよね?」
ハルナが確認する。
「もちろん。卒業したからって、会えなくなるわけじゃないんだから」
サクラはそう言って、ハルナの頭を優しく撫でた。
「ライブも呼んでね。絶対行くから」
「サクラ先輩、最前で暴れそう」
ユイが言う。
「違う違う。私は後ろの方でひたすら頭振ってるタイプだよ」
「あー、たまにいますね、そういう人」
ヒナが小さく笑う。
フミはリョウヘイの前へ立った。
「足、早く治して」
「言われなくても治しますよ」
「でも無理しないで」
「注文多いなぁ」
「私には恩があるはず」
「あるけどさぁ」
フミは1度だけ間を置いた。
「リョウヘイの音が、また聴きたい」
リョウヘイはその言葉を見つめるように聞いた。
「あぁ、待っててくれ」
今度は冗談を挟まなかった。
「早く追いついて。頼みたい仕事がたっぷりある」
フミは小さくうなずく。
サクラとフミが校門の向こうへ歩いていく。サクラは何度も振り返って手を振り、フミは1度だけ振り返った。
「またね」
5人も手を振りかえした。
2人の姿が見えなくなっても、しばらく誰も動かなかった。
「……2年生になっちゃったね、アタシたち」
最初に口を開いたのはユイだった。
「実感ないな」
リョウヘイが答える。
「リョウヘイさんとハルナさんは、1月から3月までお休みしてたのもありますしね」
何故かヒナは説明口調だった。
「リョウヘイはまず、ちゃんと1人で歩けるようになるところからだね」
「2年生としての第1歩が物理的すぎる」
「でも、新年度から通常の音楽科へ戻るんですよね」
ヒナが言う。
「クラス分けも変わるのかな」
ハルナが少し不安そうに首を傾げる。
綾坂は校舎に向かって歩き出した。
「別のクラスになったって、午後は音楽の授業で絶対会えるじゃん」
「まあ、どこになっても同じでしょ」
ユイが笑う。
「アタシたちはlunatiなんだから」
綾坂が、横目でユイを見る。
「その『アタシたち』に、ウチも入ってる?」
ユイは、何を今さらとでも言いたげに頷いた。
「入ってるに決まってるじゃん。綾坂はlunatiの専属オペレーターでしょ?バンドメンバーみたいなもんでしょ?」
「まぁ、作曲から関わったりしてるしね…」
「文化祭も録音もライブも、ずっとやってくれてたじゃん。今さら外部スタッフは無理があるよ」
綾坂が言い返す前に、リョウヘイも続けた。
「演奏するのは4人。でも、俺たちの音を1番分かってる綾坂がチームにいたら嬉しい。ライブも音源も絶対良くなる」
ハルナは大きく頷くいた。
「2年生になったら、学内のライブハウスも使えるようになる。きっと綾坂さんの力が必要になると思うの」
ヒナも、揃って頷く。
「なんなら卒業してもずっとオペレーションしてほしいです!私も綾坂さんがチームにいてくれると、とっても嬉しいです!」
綾坂は4人の顔を順に見たあと、諦めたように息を吐いた。
「うん、わかった。ウチ、lunatiに入る!」
「やったぁ!」
ユイの声が、校門の外まで響いた。春の風が校門を抜け、5人の制服を揺らした。
特進クラスはなくなった。
サクラとフミは卒業した。
7人で過ごした教室には、もう戻れない。それでも、lunatiは続いていく。そのときのリョウヘイは、そう信じていた。変わるのは教室だけで、自分たちの音は何も変わらないのだと。
イメージソング
LETTER FOR BETTER feat.ZORN/the BOSS
いつもご愛読ありがとうございます。
2年生、最終学年となりました。
ここからはユイ編となります。
高評価、ブックマーク、何卒よろしくお願いします。
引き続き、lunati(c)をお楽しみください。




