#55 私のピアノ
リョウヘイが初めてバスドラムを鳴らした日から、3日が過ぎた。
ハルナは東音の校門前に立っていた。
授業はすでに終わり、部活動へ向かう生徒たちが校舎を行き交っている。制服姿ではないハルナを見て、何人かが振り返った。視線を感じるたびに、足が止まりそうになる。
あの事件について、学校がどこまで説明しているのかは知らない。リョウヘイが入院していたこと。
自分が長く欠席していること。
母親が逮捕されたこと。
すべてを知っている生徒はいないはずだった。それでも、誰かと目が合うたび、責められているような気がした。
帰ろう。
何度もそう思った。
けれどハルナは、鞄の中にある退学届を握り締め、校舎へ足を踏み入れた。今日は、教科書や私物を引き取るために来た。
それだけだ。
ティアーユには、父親から事前に連絡してもらっている。荷物を持ち帰ったら、もうここへ来る理由はなくなる。そう自分へ言い聞かせながら、ハルナは教室へ向かった。
廊下に生徒の姿は少なかった。
教室の前まで来ると、扉が少し開いていた。中には、ティアーユが1人で待っていた。ハルナが入口で立ち止まると、ティアーユがすぐに気づいて顔を上げる。
「ハルナさん」
「先生……」
「来ていたのなら、声をかけてください」
「ごめんなさい……なんて声をかければいいか、わからなくて」
「謝る必要はありません」
ティアーユは教室の扉を大きく開けた。
「どうぞ」
ハルナは小さく頭を下げ、中へ入った。
ほかに誰もいない教室。
黒板には、今日の授業で使った文字が残っている。机も椅子も、以前と同じように並んでいた。
その中に、自分の席がある。
机の上には、配布されたプリントが日付順に重ねられていた。中を開くと、授業の板書を写したノートのコピーまで入っている。1番上に、小さな付箋が貼られていた。
『分からないところは聞いてください ヒナ』
その下には、別の字がある。
『別に全部やらなくていいから ユイ』
『困ったらいつでも力になる サクラ』
『席、ある』
フミの字だった。
ハルナは机へ手を置いた。
冷たい木の感触が、掌へ伝わる。
「先生……」
「はい」
「どうして、私の席をそのままにしてるんですか?」
「あなたが休んでいるからです」
「戻るって、言ってないのに……」
「退学届を受け取っていませんから、あなたは今もこの学校の生徒です」
ティアーユは、それが当然であるかのように答えた。
「ですが、荷物を持ち帰りたいのであれば止めません」
机の中には、教科書と筆箱が残っていた。持って帰れば、この席は空になる。いつか別の誰かが使うのかもしれない。
ハルナは鞄を開けた。
けれど、教科書を1冊取り出したところで手が止まった。
「少し…校内を歩いてきてもいいですか?」
「もちろんです」
ティアーユは理由を尋ねなかった。ハルナは教科書を机へ戻し、教室を出た。目的地を決めていたわけではない。ただ、今すぐ荷物を持って学校を去ることができなかった。
廊下を歩く。
階段を上がる。
窓の外から、吹奏楽部の音が聞こえてくる。自分がいなくても、学校は変わらず動いていた。当然のことなのに、少しだけ寂しかった。気づけば、スタジオ棟の前まで来ていた。
扉には鍵がかかっていない。
取っ手へ手を伸ばし、1度止める。
ここへ入れば、ピアノがある。
母親の顔が浮かんだ。
幼い頃、鍵盤へ届かなかった自分を膝に乗せてくれたこと。指の形を褒めてくれたこと。
初めて曲を最後まで弾けた日に、誰よりも喜んでくれたこと。その記憶のあとに、血まみれの包丁が浮かぶ。ハルナは取っ手から手を離した。
やっぱり無理だ。
振り返ろうとした時、部屋の中から、わずかに風の音が聞こえた。
窓が少し開いているのだろう。
誰もいない。
ハルナはもう1度取っ手へ手をかけ、扉を開いた。
夕方の光が差し込む音楽室。
並んだ机の向こうに、黒いグランドピアノが置かれている。
何度も見たピアノだった。
授業でも、特進クラスでも弾いた。文化祭の曲を作った時も、この鍵盤へ触れた。それなのに今は、初めて見る楽器のように感じられた。ハルナはピアノの前まで歩いた。
椅子を引く。
座る。
鍵盤の蓋へ手を置くが、開けることができない。ここに来てまで、何をしようとしているのだろう。ピアノを弾いても、リョウヘイの傷は消えない。
母親が元に戻るわけでもない。
自分がみんなへついた嘘も、なかったことにはならない。
ハルナは蓋から手を離した。
そのまま帰ろうとした。
けれど、スタジオで聞いた小さな音を思い出した。
曲にもならない、頼りないバスドラムの1音。それでもリョウヘイは笑っていた。
鳴った、と。
失ったものではなく、自分に残されたものを見つけたように。ハルナは目を閉じ、ゆっくりと鍵盤の蓋を開いた。
白と黒の鍵盤が現れる。
右手を持ち上げる。
指は震えていた。
最初に弾こうとしたのは、幼い頃に母親から教わった曲だった。
簡単なクラシックの小品。
母親が隣に座り、間違えるたびに優しく指を直してくれた。
最初の音を押す。
静かな音楽室に、ピアノの音が広がった。
2音目。
3音目。
身体は曲を覚えている。
何年も弾いていなくても、指は迷わず次の鍵盤へ向かう。
母親の声が聞こえる気がした。
そう、上手よ。
ハルナならできる。
もっと練習すれば、絶対に1番になれる。
音が重くなる。
優しかった声に、別の言葉が混じり始める。
金賞を取りなさい。
ピアノだけを見なさい。
余計な音楽は、あなたを不幸にする。
バンドはやめなさい。
彼らと会ってはいけません。
ハルナの指が止まった。
曲は途中で途切れた。
最後の音だけが、音楽室の中へ長く残る。
「違う……」
ハルナは鍵盤の上で拳を握った。これは、自分が弾きたい曲ではなかった。母親との思い出が嫌いなわけではない。優しかった母親を消したいわけでもない。
けれど、今このピアノを弾く理由まで、母親に決められたくなかった。
「これは……お母さんのピアノじゃない」
誰もいない音楽室で、ハルナは呟いた。自分へ言い聞かせるように、もう1度口にする。
「私のピアノだ……」
ハルナは両手を鍵盤へ置き直した。
何を弾きたいのか。
考える必要はなかった。
右手が、旋律を奏でる。
それはlunatiの新曲だった。本当は冬休みが終わったらみんなで仕上げる予定だった新しい曲だった。
最初の和音は震えていた。
テンポも一定ではない。
それでも、1つ音を鳴らすたびに、別の記憶が浮かんだ。
ユイが楽しそうに歌う顔。
ヒナがギターへ夢中になる横顔。ドラムの向こうから、全員を見ているリョウヘイ。演奏中に目が合うと、いつも少しだけ笑ってくれた。
母親に褒めてもらうためではない。
賞を取るためでもない。
失敗しないためでもない。
ただ、みんなと音を出すことが楽しかった。ハルナの指が、少しずつ滑らかに動き始める。
左手の和音へ力が戻る。
震えていたテンポが整っていく。
涙が鍵盤へ落ちた。
それでも、演奏は止めなかった。
(演奏中に泣くのは二流だったよね……でも音は絶対濁さない……)
ーーーーーーーーーーーー
スタジオ棟の外。
廊下を歩いていたユイが突然足を止めた。
「……ピアノ?」
隣にいたヒナも顔を上げる。
2人は、学校復帰の手続きに来たリョウヘイへ付き添っていた。そのリョウヘイは少し遅れて、松葉杖をつきながら廊下を進んでいる。
「このコード……」
ヒナの目が大きく開いた。
ユイは返事をせず、スタジオ棟へ駆け出した。
「ユイ!」
リョウヘイが呼び止めるが、届かない。ユイは扉の前まで来ると、勢いのまま開けようとして手を止めた。窓越しに、ピアノを弾くハルナの姿が見えた。
泣いている。
それでも指を止めず、lunatiの曲を弾き続けている。
ユイの目にも涙が浮かんだ。
ヒナが追いつき、同じように中を見る。
「ハルナさん……」
「入ろう」
ユイが言った。
「でも……」
「戻ってきてって言わない」
ユイは扉の取っ手を握る。
「ただ、一緒にやるだけ」
扉が静かに開いた。
ピアノの前にいるハルナが、音に気づいて顔を上げる。
「ユイちゃん……ヒナちゃん……」
演奏が止まりかける。
「止めないで。そのまま弾いて」
ユイはピアノのそばまで歩き、そのままハルナの演奏に合わせて歌い始める。
最初は小さな声だった。
教室の壁へ吸い込まれるほどの、柔らかな歌声。ヒナもケースからギターを取り出した。本来はリョウヘイの学校復帰に付き添うだけの予定だったが、練習後だったため背負ったままだった。音楽室のアンプへつなぎ、ピアノと歌を邪魔しない程度まで音量を絞る。椅子へ座ると、2人の音へ旋律を重ねた。
ハルナの手は止まらなかった。
2人の音が重なって、より魂を解放していった。
ユイとヒナは、戻ってこいとは言わない。どうして辞めるのかとも聞かない。ただ、ハルナが弾いていた曲へ入ってきた。
まるで、昔と同じように。
ハルナは涙を拭うこともせず、もう1度鍵盤を押した。
3人の音が重なる。
ドラムはない。
低音も足りない。
完璧な演奏にはほど遠い。
それでも、ハルナにはこれがlunatiの音に聞こえた。自分がずっと帰りたかった音だった。
曲の途中で、スタジオの扉がもう1度開いた。松葉杖をついたリョウヘイが、息を切らして立っている。
「ハルナ…!」
3人の演奏が止まった。
「リョウヘイくん……」
ハルナの指が、鍵盤の上で固まる。
松葉杖の音が、1歩ごとに床へ響く。ユイが支えようと近づいたが、リョウヘイは首を横に振った。ゆっくりと、ピアノの前まで歩く。ハルナは立ち上がることができなかった。
「あの時、スタジオに来てたのか?」
リョウヘイが尋ねた。
何のことか、すぐに分かった。
ハルナは小さく頷いた。
「うん……」
「先生に呼ばれた?」
「うん……ごめんね。隠れて見てた」
「別に謝らなくていいよ」
リョウヘイは笑った。
以前のような余裕のある笑顔ではない。松葉杖をついてここまで来ただけで、額には汗が浮かんでいる。それでも、あの病室で見た弱々しい顔とは違った。
「1音しか鳴らなかったけどな」
「鳴ってたよ」
ハルナの声が震える。
「ちゃんと……鳴ってた…」
「そっか」
短い会話のあと、沈黙が落ちた。ユイとヒナは、少し離れた場所から2人を見守っている。ハルナは鍵盤から手を下ろした。
「私……」
言葉が喉につかえる。
何度も考えた。
自分は何をしたいのか。
学校へ戻りたいのか。
lunatiに戻りたいのか。
みんなの優しさに甘えているだけではないのか。答えは、まだ完璧ではなかった。母親をどう思えばいいのかも分からない。事件の記憶が消えたわけでもない。リョウヘイの右足を見ると、今でも息が苦しくなる。それでも、1つだけ分かったことがあった。
「私……ピアノが弾きたい」
リョウヘイは、すぐに頷いた。
「うん」
「お母さんのためじゃなくて……賞を取るためでもなくて……」
涙が頬を伝う。
「私が好きな曲を、私が好きな人たちと弾きたい」
「ああ」
「みんなと、音楽がやりたい」
ユイが顔を伏せた。
ヒナは両手で口元を覆い、すでに泣いていた。ハルナはリョウヘイを見つめる。
「でも……私、戻ってもいいのかな」
リョウヘイは少しだけ眉を寄せた。
「戻る?」
「lunatiに……」
ハルナは膝の上で手を握る。
「こんなことになって、みんなを傷つけて……1度辞めるって言って……それでも、戻りたいなんて……」
「戻るんじゃない」
リョウヘイが言った。
「え……?」
「最初から、lunatiはお前の居場所だよ」
ハルナの目が見開かれる。
「ハルナが休んでる間も、誰もお前の代わりを探してない」
リョウヘイはピアノへ目を向ける。
「キーボードも、曲も、席も、そのままだ。なんも変わってねぇんだよ」
「でも……」
「俺の足のことなら、ハルナが背負うな」
リョウヘイの声は穏やかだった。
「俺は自分であの公園へ行った。自分で立って、自分で包丁を掴んだ。誰かにやらされたわけじゃない」
包帯は外れている。
両手には、まだ赤い傷跡が残っていた。
「だから俺の傷は、俺のものだ」
リョウヘイは右足へ目を落とした。
「治すのも、もう1回踏めるようにするのも、俺がやる」
そして、もう1度ハルナを見る。
「ハルナは、自分のことを決めろよ」
母親ではなく。
罪悪感でもなく。
リョウヘイたちでもなく。
ハルナ自身が。
ハルナは目を閉じた。
すぐに全部が元通りになるわけではない。明日、教室へ戻れるかも分からない。演奏中に事件を思い出し、手が止まるかもしれない。母親を嫌いになることも、許すことも、まだできない。それでも、今の自分が選びたいものは分かった。ハルナは椅子から立ち上がった。
リョウヘイ。
ユイ。
ヒナ。
3人の顔を順番に見る。
「私……」
声が震える。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「lunatiにいたい、私も自分の音に、嘘をつきたくない」
ユイが1歩で距離を詰めた。
「ハルナ!」
勢いよく抱きつく。
「わっ……!」
ハルナの身体が後ろへ傾き、ピアノへぶつかりそうになる。
ヒナが慌てて2人を支えた。
「ユイさん、危ないです!」
「ハルナぁ……!」
「ユイちゃん、苦しい……」
「知らない!」
ユイはハルナの肩へ顔を埋め、子供のように泣いている。ヒナも我慢できず、2人へ腕を回した。
「ハルナさん……おかえりなさい……!」
「ヒナちゃん……」
3人は抱き合ったまま泣いた。
謝罪も説明も、今は必要なかった。
会いたかった。
一緒にいたかった。
その気持ちだけで十分だった。
少し離れた場所で、リョウヘイが3人を見ている。
笑っていた。
けれど、誰も自分を呼ばない。
「俺も混ぜろよ」
3人が同時に顔を上げる。
ユイが涙を拭いながら言った。
「じゃあ、こっちまで来てよ」
「松葉杖の人間に言うことか?」
「だって、こっち3人で手が塞がってるし」
「ヒナ、助けて」
「すみません。今はハルナさんを離せません」
「お前まで……」
ハルナが泣きながら笑った。
3人の腕から抜けると、リョウヘイのもとへ歩いていく。
「リョウヘイくん」
「ん?」
ハルナは松葉杖へ当たらないよう、そっと身体を寄せた。
以前の病室とは違う。
傷ついたリョウヘイにすがるためではなく、自分から選んで戻るための抱擁だった。
「ただいま」
リョウヘイは一瞬だけ目を見開いた。それから、傷跡の残る手をハルナの頭へ置いた。
「おかえり」
ユイとヒナも近づき、今度は4人で肩を寄せる。松葉杖が床へ倒れそうになり、ユイが慌てて足で押さえた。
「危なっ!」
「雑に扱うなよ。今の俺の足だぞ、それ」
「足じゃないでしょ」
「半分くらい足だよ」
「意味分かんない」
「リョウヘイさん、あまり体重をかけないでください…重ぃ…!」
「お前らが寄ってきたんだろ」
言い合いながら、誰も離れなかった。4人の声が、夕方の音楽室に重なる。
事件の前と同じではない。
リョウヘイの右足には傷が残った。ハルナの心にも、簡単には消えないものが残っている。ユイもヒナも、あの夜の光景を忘れることはできない。それでも4人は、もう1度ここに集まった。
壊れる前へ戻ったのではない。
傷ついた場所から、新しく始めるために。
ハルナはピアノへ戻った。
椅子へ座り、鍵盤の上へ両手を置く。
「最初から、もう1回やってもいい?」
「当たり前」
ユイがピアノのそばで息を整える。
ヒナもギターを構えた。
「お願いします、ハルナさん」
リョウヘイは壁際の椅子へ腰を下ろす。今はまだ、ドラムセットがあっても演奏には加われない。それでも、悔しそうな顔はしなかった。
「テンポずれたらリョウヘイのせいね」
「え、叩いてないのに?」
「目で支えて」
「目で!?」
ハルナは笑いながら、最初の音を鳴らした。今度の音は、震えていなかった。
母親のためでもない。
賞のためでもない。
誰かへ許してもらうためでもない。ハルナが、自分の意思で選んだ音だった。
ユイの歌が重なる。
ヒナのギターが続く。
まだドラムのないlunatiの演奏が、スタジオを満たしていく。リョウヘイは膝の上で指を動かし、音のないリズムを刻んでいた。
ハルナが顔を上げる。
演奏中に、リョウヘイと目が合った。一瞬だけ、事件の夜が頭をよぎる。
血。
包丁。
倒れる姿。
指が止まりそうになる。
けれどリョウヘイは、いつものように少しだけ笑った。ハルナも涙を浮かべながら笑い返す。そして、鍵盤から手を離さなかった。
イメージソング
This Love/アンジェラ・アキ
いつもご愛読ありがとうございます。
ここまででハルナ編となります。
嘘みたいな話ですが、半分本当の話。ヤバい家庭ってのは意外と近くにあります。
ブックマーク、高評価。何卒よろしくお願いいたします。
引き続きlunati(c)をお楽しみくださいませ。




