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#54 ドンッ

スタジオのガラス扉を抜けた瞬間、懐かしい匂いがした。壁や床へ染みついた汗と埃。古い機材が発するわずかな熱。防音扉の向こうから漏れてくる、誰かのベースの低い振動。入院する前なら、意識することすらなかったものばかりだった。リョウヘイは松葉杖をついたまま、受付の奥へ続く廊下を見つめた。この先に、いつも使っていた部屋がある。


その中に、ドラムがある。


「リョウヘイさん」

隣に立つヒナが、心配そうに顔を覗き込んだ。


「やっぱり、今日は見るだけでも……」

「いや」


リョウヘイは首を横に振った。

「叩く」


迷いを消すように言い切り、松葉杖を前へ出す。1歩進むたび、右足の太ももに鈍い痛みが走った。傷口は塞がっている。医師からも、無理をしなければ楽器に触れていいと言われた。だが、右足はまだ自分のものではないようだった。力を入れているつもりでも思うように動かず、長く立っているだけで震え始める。ユイは何も言わず、リョウヘイの半歩後ろを歩いていた。いつでも身体を支えられる距離を保っている。


「そんなに警戒しなくても転ばねえよ」

「右足、さっきから震えてるよ」

「見張りすぎだろ」

「転ばれるよりはいいでしょ」


ユイの声には普段の軽さがなかった。3人が練習室の前まで辿り着くと、内側から扉が開いた。


「リョウヘイさん」

ティアーユが立っていた。


「退院、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「ですが、退院は完治を意味しません。今日は医師から許可された範囲を1歩たりとも超えないでください」

「1歩たりともって、足だけに?」

「帰りますか?」

「すみませんでした」


ティアーユは真顔のまま、扉を大きく開けた。


いつものスタジオだった。


アンプ。

マイクスタンド。

壁際に置かれたキーボード。

そして、部屋の奥に組まれたドラムセット。


何度も座った椅子。

何度も踏んだペダル。


見慣れているはずなのに、そのすべてがひどく遠く感じられた。リョウヘイは入口で立ち止まった。


病室では、何度も想像した。

退院したらすぐにドラムへ座る。

スティックを握る。

バスドラムを踏む。

少し音が鈍くても、何度か動かせば感覚は戻る。


そう信じていた。


けれど、実際に目の前にすると、右足が以前のように動かない可能性を否定できなくなった。1度でもペダルを踏めば、答えが出てしまう。


「リョウヘイ」

ユイに名前を呼ばれる。


「怖いなら、怖いって言っていいから」

リョウヘイはユイを見た。


「……怖いよ」

素直に口にすると、胸の奥へ溜まっていたものが少しだけ軽くなった。


「でもやる。やりたい。」


ユイが、ほんの少しだけ笑った。

「うん。知ってる」


リョウヘイも口元を緩める。

それから、もう1度ドラムへ目を向けた。


「座るよ」


ユイとヒナに支えられながら、ゆっくりとドラムセットへ近づいた。


松葉杖を壁へ立てかける。


ユイがリョウヘイの左腕を持ち、ヒナが右側から腰を支える。


「せーので座りますよ」

「大丈夫だって」

「大丈夫な人は、さっきから右足が震えていません」


言われて足元を見る。

確かに、右膝がわずかに揺れていた。


「これは武者震いってやつだよ」

「今は武者ではありません、負傷者です」

「ヒナ、たまに容赦ないよな」


2人に支えられながら、リョウヘイはドラムスローンへ腰を下ろした。


それだけで息が上がった。


右足を少し前へ出し、バスドラムのペダルへ乗せる。靴底を通して、フットボードの感触が伝わってきた。


懐かしい。

ただ足を置いただけなのに、胸の奥が熱くなる。


「スティックは?」

ユイが尋ねた。


「持てる、もらっていい?」

「はい、私が」


ヒナがスティックケースを開き、いつも使っていた1セットを取り出した。


リョウヘイは両手を差し出す。


掌には、包丁を掴んだ時の傷が残っている。縫合した跡が赤い線となり、指を大きく開くと皮膚が引きつった。


ヒナはスティックを渡す前に、リョウヘイの手を見て一瞬止まってしまった。思った以上に傷は深そうだった。恐る恐る、リョウヘイにスティックをゆっくり手渡した。


それでも、スティックを握ることはできた。


右手。

左手。


重さも、太さも、指に触れる木の感触も変わっていない。多少手の方が変わっても、長年握ってきたスティックの感覚は変わらなかった。

リョウヘイは試すように、スネアを1度叩いた。


無駄のない、乾いた音が鳴った。


「良い音…!」

ユイが息を漏らす。


もう1度。


今度はハイハット。

続けてスネア。


腕は以前のように速く動かない。掌にも痛みがある。

それでも、音は鳴った。


リョウヘイは少しだけ笑った。

「手は大丈夫そうだな」

「はい!リョウヘイさんの音がしてます!」

ヒナも興奮気味に答えてくれた。


「大丈夫ではありません」

ティアーユが壁際から言う。


「軽く触れるだけです。ルーディメンツはまだ許可しません。パッセージの早い技やビートは禁止です」

「分かってますよ」


答えながら、リョウヘイは右足へ目を落とした。

問題は、こちらだった。


踵を上げる。

膝を動かす。


以前なら、考える必要もなかった。頭の中で音を思い浮かべれば、足が勝手に動いていた。だが今は、膝から下へ命令が届くまでに時間がかかる。


右足へ力を込める。


フットボードが、わずかに沈んだ。ビーターはバスドラムの打面まで届かない。


音は鳴らなかった。

誰も何も言わなかった。


リョウヘイは足の位置を変えた。椅子の高さが悪いのかもしれない。踵の置き方が違うのかもしれない。以前と同じ角度を探し、もう1度力を入れる。


ペダルが少し動く。

ビーターが前へ出る。

だが、打面の直前で戻ってしまった。


音は鳴らない。


「……ペダル、重くなってない?」

ユイが明るく言った。


「調整しますか?」

ヒナもすぐに尋ねる。


「いや、このままでいい」

リョウヘイは答えた。


ペダルのせいではない。


自分の足が動いていない。

痛みに怯えて普段の動きをしないように、無意識に制限をかけねいるのがわかる。


3度目。


鳴らない。


4度目。


ビーターが、打面の手前で揺れた。


5度目。


右足に力を込めた瞬間、太ももの奥に痛みが走った。


「っ……!」

「リョウヘイさん」


ティアーユが1歩前へ出る。


「今日はここまでです!」

「まだ始めたばっかりですよ」

「始めたばかりだからこそです。筋力も神経も戻っていません。無理をすれば、回復を遅らせます」

「分かってます」

「分かっている人の顔ではありません」


リョウヘイは返事をしなかった。

右足をペダルへ乗せ直す。

鳴るはずだ。

ほんの1音でいい。


以前のような重い音でなくていい。小さくても、情けなくても構わない。


ただ、鳴ってほしかった。


「もう1回だけ」

ティアーユは首を横に振った。


「駄目です」

「先生」

「駄目です」

「お願いします」


ティアーユの眉がわずかに動く。


「あと少しだけです」


その言葉が嘘になる可能性を、全員が分かっていた。それでもティアーユは、すぐには止めなかった。


「痛みが強くなったら、即座にやめてください」

「はい」


リョウヘイは両手のスティックを膝の上へ置いた。


余計な力を抜く。

右足へ器力を集中させる。


足首。

膝。

太もも。


1つずつ確認する。

息を吸う。


踏む。

ペダルは沈んだ。

ビーターが前へ動く。


それでも、打面へ届かない。

音は鳴らなかった。


リョウヘイは俯いた。

誰も声をかけられない。


エアコンの風の音だけが、やけに大きく聞こえた。


リョウヘイは右足をペダルから下ろさなかった。いや、下ろせなかった。


「リョウヘイ」

ユイが近づく。


「今日は座れただけでも――」

「座るだけなら、客でもできるだろ」


思ったより強い声が出た。

ユイが口を閉じる。


「リョウヘイさん……」

ヒナの声が震えた。


リョウヘイは自分の右足を睨んだ。


何度もステージを支えてきた足だ。前世から、数えきれないほど踏み続けてきた。ライブで身体が限界になっても止まらなかった。速い曲でも、重い曲でも、リョウヘイが望んだ音を鳴らしてきた。なのに今は、1音すら出せない。


「動けよ……」


右足へ力を込める。

ペダルがわずかに揺れる。


もう1度。


鳴らない。

太ももが震える。

傷の奥が熱を持つ。


「リョウヘイ、もうやめて!」

ユイが肩へ手を置いた。


「もう少し!」

「やめてって!」

「離せよ!」


振り払おうとして、右手の傷が痛んだ。


ユイが息を呑む。

その顔を見て、リョウヘイも言葉を失った。


心配しているだけだ。

分かっている。


それでも、止まりたくなかった。1度止まれば、この足はもう動かないと認めてしまう気がした。


「ごめん……」

リョウヘイは小さく言った。


ユイは肩から手を離した。

けれど、その場からは動かなかった。


「1人でやってるみたいな顔しないで」

「……」

「アタシたちもいるんだから」


ヒナも、反対側からドラムセットへ近づいた。


「リョウヘイさん、次で本当に終わりにしましょう。スタジオの時間もあまりないですから」

「ヒナさん……」

ティアーユはヒナが嘘をついているのがわかった。自身の権限でこのスタジオは丸一日使えるよう手配している。


「わかった…」

リョウヘイは1度、目を閉じた。


焦るな。


音を出そうと力むほど、身体が固くなる。ドラムを始めたばかりの人間にも、何度もそう教えてきた。


自分ができていない。

呼吸を整える。


椅子の位置をわずかに後ろへ動かす。

足裏全体をペダルへ乗せる。


今までの踏み方ではない。

現在の身体で動かせる方法を探す。


「ふぅー……」


大きく息を吐いた。

リョウヘイは右足へ、ゆっくりと力を加えた。


ペダルが沈む。

ビーターが進む。


右足に残った力を、すべて前へ送る。

太ももが焼けるように痛む。


膝が震える。

それでも、力を抜かなかった。


ビーターが揺れながら、少しずつ打面へ近づいていく。


そして。


ドンッ


頼りない音が鳴った。


普段のバスドラムとは比べものにならない。腹へ響く低音でもなければ、曲を支える力もない。スタジオの隅で何かが触れた程度の、小さくて不格好な1音だった。


それでも、確かに鳴った。

誰も動かなかった。

リョウヘイは、バスドラムを見つめた。


「……鳴った」

声が震えた。


もう1度踏もうとはしなかった。


できなかった。


右足には、もう力が残っていない。それでも、リョウヘイは笑った。


「鳴った……!」

ユイが両手で口元を押さえた。


目から涙が溢れている。


「うん……」

声にならないまま、何度も頷く。


ヒナは泣きながら笑っていた。


「鳴りました……! リョウヘイさん、ちゃんと鳴りました!」

ティアーユは目を閉じ、小さく息を吐いた。

「はい」

その声も、少しだけ震えていた。

「確かに鳴りました」



最後に、もう1度だけ右足へ力を入れようとしたが、今度はペダルが動かなかった。


それでも構わなかった。


ゼロではない。

1音は鳴った。

なら、次は2音にすればいい。

その次は4音。


いつか1曲。


どれだけ時間がかかっても、ここから積み上げればいい。


リョウヘイは天井を仰いだ。


「俺、まだドラマーなんだな」

「アンタがドラマーじゃない瞬間なんてないでしょ!」


ユイは泣きながら、乱暴に目元を拭った。


久しぶりに、3人の間へ柔らかな空気が戻った。その様子を、練習室の外から見つめている人影があった。


廊下の突き当たり。


扉の小さな窓から、ハルナが室内を覗いていた。


中へ声が届かないよう、両手で口元を押さえている。涙が指の間を伝い、床へ落ちた。


少し前。


父親の家で過ごしていたハルナのもとへ、ティアーユから連絡があった。


『今日、リョウヘイさんが初めてドラムへ触れます』


その1文を見ただけで、心臓が強く鳴った。


行けない。

見る資格がない。

そう思い、断ろうとした。


しかし、その直後にもう1通届いた。


『あなたに戻ってほしくて呼ぶのではありません』


続けて、ティアーユは書いた。


『彼が何を選んだのか、あなたは見ておく責任があると思っただけです』


ハルナは長い時間迷った末、スタジオまで来た。リョウヘイたちが部屋へ入る前から、廊下の奥に隠れていた。


松葉杖をついて歩く姿も見た。


2人に支えられながら椅子へ座る姿も。何度踏んでも音が出ず、苦しそうに右足を睨む姿も。


全部見ていた。

途中で何度も、扉を開けたくなった。

もうやめてと叫びたかった。

これ以上傷つかないでほしかった。


それでも、ハルナには止められなかった。リョウヘイが自分の意思で選び、音を取り戻そうとしていることが分かったからだ。事件がなかったことにしようとしているわけではない。


痛みが消えたわけでもない。


自分を責めていないと、無理に笑っているだけでもない。傷ついた身体を抱えたまま、リョウヘイはもう1度、自分の人生を選び直していた。


ドンッ


あの小さな音が鳴った瞬間、ハルナの胸の奥で、何かが崩れた。こんな音では、ライブはできない。


曲にもならない。


以前のリョウヘイなら、練習の1音としてさえ数えなかったかもしれない。それでも、3人は泣きながら笑っている。失ったものではなく、今鳴った1音を喜んでいる。


音は嘘をつけない。


ハルナは、自分の手を見た。

何も傷ついていない。

指は動く。

鍵盤にも触れられる。


それなのに、自分はすべてを捨てようとしていた。


リョウヘイの足を理由にして。

母親の罪を理由にして。

自分には演奏する資格がないと決めつけて。それは本当に、けじめなのだろうか。


練習室の扉が開く気配がした。


ハルナは慌てて窓から離れ、廊下の角へ身を隠した。ティアーユだけが部屋から出てくる。まっすぐハルナのいる場所まで歩いてきた。


「見ましたか?」

ハルナは涙を拭いながら頷いた。

「はい……」

「どう思いましたか?」


すぐには答えられなかった。


スタジオの中から、ユイとヒナの声が聞こえる。リョウヘイも何かを返している。


いつもの3人の声だった。


「まだ……分かりません」

ハルナは正直に答えた。


「戻りたいのかも……何をしたいのかも……」

「そうですか」


ティアーユは否定も、急かしもしなかった。


ハルナは胸元で両手を握った。


「でも……」

小さく息を吸う。


「見てよかったです」


ティアーユは静かに頷いた。

「それで十分です」


部屋の中で、何かが倒れる音がした。


続いてユイの声が響く。


「だから勝手に立たないでって言ったでしょ!」

「立ってない! 椅子が動いただけ!」

「同じです、リョウヘイさん!バカなんですから!」


ハルナは涙を残したまま、ほんの少し笑った。その笑顔を見ても、ティアーユは何も言わなかった。


「今日は、リョウヘイさんに会わずに帰りますか?」


ハルナは練習室の扉へ目を向けた。


会いたい。

あの1音を聞いたと伝えたい。

鳴ってよかったと、一緒に喜びたい。


けれど、今の自分が顔を出せば、リョウヘイはまた自分を引き止めるかもしれない。そして自分も、すぐに戻ると言ってしまうかもしれない。


まだ、それでは駄目だった。


ハルナは小さく頷いた。

「はい、今日は帰ります。家に帰って、1人でしっかりと、たくさん時間をかけて、真剣に考えたいことがあります」


「分かりました」

ティアーユは道を空けた。


ハルナは廊下を歩き出す。


数歩進んだところで、もう1度だけ振り返った。閉じた扉の向こうから、リョウヘイたちの声が聞こえている。ハルナは胸の前で、右手の指をゆっくりと動かした。


鍵盤を押すように。

何かを確かめるように。


そして今度こそ、振り返らずにスタジオをあとにした。

挿絵(By みてみん)

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