#53 みんな待ってる
病室の扉が閉まってからも、リョウヘイはしばらく動けなかった。ハルナの足音は、もう聞こえない。追いかけようにも、身体はベッドに縫いつけられている。声を上げて呼び戻したところで、今のハルナが戻ってくるとも思えなかった。
――行かないで。
最後に口から出たのは、そんな情けない言葉だった。もっと言うべきことがあったはずだ。
ハルナは悪くない。
学校を辞める必要も、lunatiを辞める必要もない。何度でも説明して、何度でも否定するべきだった。けれど、実際に出てきたのは、ただ自分のそばからいなくならないでほしいという願いだけだった。
リョウヘイは天井を見つめた。
右足が痛む。
包帯に覆われた両手も、心臓の鼓動に合わせて熱を持っている。それでも、ハルナが出ていったあとの胸の痛みに比べれば、どちらもまだ耐えられた。
翌朝。
病室を訪れたユイとヒナは、リョウヘイから昨晩ハルナが来てくれたことを知らされた。
「学校もバンドも辞めるってさ」
ユイの表情が固まる。
「……何それ」
「自分なりのけじめだって」
「そんなの、けじめじゃないでしょ」
すぐにスマートフォンを取り出そうとしたユイを、ヒナが止めた。
「ユイさん」
「止めないで。今すぐ話す」
「今は駄目です」
「じゃあ、いつならいいの!」
ユイの声が病室へ響いた。
ヒナは肩を震わせたが、手を離さなかった。
「今、私たちが戻ってきてくださいと言ったら……ハルナさんは、私たちのために戻ってきてしまいます」
「それでいいじゃん」
「よくないです」
いつもより強い声だった。
ユイが言葉を止める。
「ハルナさんは、ずっと誰かのために選んできたんです。お母さんのためにピアノを弾いて、安心させるために委員長になって……私たちに心配をかけないために、何も言わなかった」
ヒナは俯いた。
「今度は、自分で決めてもらわないといけません」
「でも、このまま本当に辞めたらどうすんだよ」
「分かりません……」
ヒナの声も震えていた。
平気なわけではない。
今すぐハルナのもとへ行き、腕を掴んででも連れ戻したい気持ちは同じだった。
「自分の意識でバンドをやらなくてはいけないと思うんです。lunatiはそういうバンドなはずです」
病室に沈黙が落ちた。
ユイはスマートフォンを握ったまま、悔しそうに唇を噛んだ。リョウヘイは何も言えなかった。昨夜の自分は、まさにハルナへ答えを押しつけようとしていた。
戻ってこい。
学校を辞めるな。
lunatiを続けろ。
どれもハルナを思っての言葉だった。けれど、ハルナが何を選びたいのかを聞く余裕はなかった。
「でもさ」
ユイがベッド脇の椅子へ座る。
「何もしないのは無理だから」
「……そうですね」
「戻ってきてとは言わない。けど、連絡はする」
ヒナも頷いた。
「はい」
「既読無視されても送る。嫌がられても送る」
「嫌がる内容は駄目です」
「分かってるよ」
そう言いながら、ユイはスマートフォンを操作した。カメラで何やら狙いを定めて自撮りを撮影して数秒後、リョウヘイの端末が枕元で振動する。lunatiのグループに、1枚の写真とメッセージが添えられていた。
『リョウヘイが回鍋肉食べたいって』
「おい」
「持ってきてくれるかもしれないじゃん!」
「いや来ないだろ絶対」
「でも、きっとこれでいいと思います」
ヒナが小さく笑う。
そのあと、ヒナもメッセージを送った。
『ハルナさん、お返事は大丈夫です。今日も寒いので、暖かくしてください』
既読はつかなかった。
それでも2人は、送ったメッセージを消さなかった。
同じ日の午後。
ハルナは父親とともに、東音を訪れていた。事件の日と同じ服ではなかった。警察から一時的に父親のもとへ引き取られ、着替えとわずかな荷物だけを用意してもらった。
それでも、顔には疲労が色濃く残っている。廊下を歩く間、何人もの生徒がハルナへ視線を向けた。事件の詳しい内容は伏せられている。だが、学校に警察から連絡が入ったことや、リョウヘイが入院していることまでは広まっていた。
ハルナは誰とも目を合わせず、職員室の前を通り過ぎた。案内された小さな応接室には、ティアーユが待っていた。
「ハルナさん」
名前を呼ばれた瞬間、ハルナの足が止まる。ティアーユはすぐに歩み寄ったが、抱き締めることも、身体へ触れることもしなかった。
今のハルナが何を恐れるか分からない。ただ、逃げ道を塞がない距離から、その顔を見つめた。
「無事でよかった」
「……はい」
それだけの言葉で、ハルナの目に涙が浮かんだ。
父親が隣で深く頭を下げる。
「このたびは、娘が……皆さんに多大なご迷惑を……」
「お父様」
ティアーユが静かに遮った。
「謝罪は結構です。今は、ハルナさんのことを優先してください」
「……はい」
3人が席へ着く。
机の上には、ハルナが用意した退学届が置かれた。
まだ保護者欄は空白だった。
父親は記入を求められたものの、書くことができずに学校まで付き添ってきたという。ティアーユは退学届へ1度だけ視線を落とした。
「これを提出する意思は変わりませんか?」
「はい」
ハルナは膝の上で手を握る。
「学校を辞めます」
「理由を聞いても?」
「もう、ここにはいられません」
「どうしてですか?」
「みんなに会えないからです」
ハルナは俯いた。
「私がいると、みんなが事件のことを思い出します。私も……リョウヘイくんを見るたびに、お母さんがしたことを思い出してしまう」
声が細くなる。
「何もなかったみたいに教室へ戻ることなんて、できません」
「何もなかったように振る舞う必要はありません」
ティアーユの答えは早かった。
ハルナが顔を上げる。
「今回のことは、なかったことにはなりません。リョウヘイさんの傷も、あなたが受けた苦痛も、消すことはできない」
ティアーユは退学届へ手を伸ばした。だが、受け取るのではなく、机の中央からハルナの前へ押し戻した。
「ですから、今日、この書類は受け取りません」
「先生……」
「あなたは今、自分の意思で決断しているつもりなのでしょう」
ティアーユの声は厳しくも、冷たくはなかった。
「ですが、私には罪悪感に決断させられているようにしか見えません」
「違います」
「本当に?」
ハルナは答えようとした。
しかし、声が出てこなかった。
「学校を辞めれば、リョウヘイさんの傷が治りますか?」
「……治りません」
「lunatiを辞めれば、お母様のしたことが消えますか?」
「消えません……」
「では、それは誰のための決断ですか?」
ハルナは膝の上の手へ目を落とした。
自分のためだと言いたかった。
1度すべてを捨てて、自分と向き合うため。
そう病室でも伝えた。
けれど、学校を辞めた先に何をするのか。どこで暮らし、何を学び、何を選びたいのか。
何一つ考えられていない。
ただ、みんなの前から消えなければならないと思っていただけだった。
「辞めるかどうかは、すべてが落ち着いてから決めなさい」
ティアーユは言った。
「今すぐ決める必要はありません」
「でも……」
「当面は欠席、必要であれば休学扱いにします。あなたの席も籍も、そのまま残します」
「戻るか分からないのに……」
「戻らなくても構いません」
ハルナが驚いて顔を上げる。
「私は、あなたを無理に学校へ戻したいわけではありません」
ティアーユは真っすぐにハルナを見た。
「ただし、今のあなたに退学という選択はさせません」
「それは……先生が決めることじゃ……」
「そうです」
ティアーユは認めた。
「あなたの人生は、あなたが決めるものです」
少し間を置く。
「だからこそ、今は決めないでください。誰にも決めさせず、自分で選べるようになるまで待ちなさい」
ハルナは退学届を見つめた。
書いた文字が、自分のものではないように見えた。隣に座る父親は、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「ハルナ」
久しぶりに父親から名前を呼ばれた。子供の頃と変わらない声だった。
「お父さんは、お前に謝らないといけない」
ハルナは父親を見なかった。
「お母さんを止められなかった」
父親の両手が、膝の上で固く握られている。
「何度話しても届かなくなって……最後は、逃げた」
「……」
「お父さんが家を出たあと、お前がどんな生活をしていたのかも、ちゃんと知ろうとしなかった」
言い訳はしなかった。
仕事が忙しかったとも、フユミに会わせてもらえなかったとも言わない。ただ、自分が娘を残して出ていったことを認めていた。
「ごめん」
ハルナの目から、涙が1つ落ちた。
「今さら、お父さんを許してくれとは言わない」
父親は続けた。
「一緒に暮らしたくないなら、それでもいい。別の住む場所も探す。必要なことは全部する」
「……」
「学校を続けてもいい。辞めてもいい」
ハルナが父親を見る。
「ピアノを弾いてもいい。弾かなくてもいい。バンドだって……お父さんは、映像でしか見ていないけど、お前があんな顔で笑っているのを久しぶりに見た」
父親の声が震えた。
「今度は、ハルナが決めていい」
その言葉を、ハルナはすぐに受け取ることができなかった。今まで、自分で決めていいと言われた記憶がほとんどない。
弾く曲も。
進学先も。
将来も。
母親が正しい道を用意し、自分はそこから外れないよう歩いてきた。lunatiに入った時でさえ、母親に隠れて初めて選んだものだった。
「すぐに決めなくていいよ」
父親は言った。
「お父さんは、待つから」
応接室を出る時、退学届はハルナの鞄へ戻されていた。
捨てることはできなかった。
だからといって、もう1度提出する気にもなれなかった。
その日の夜。
父親が用意した部屋で、ハルナはベッドに座っていた。以前暮らしていた家とは違う、父親の暮らす1LDKのアパートだ。
ピアノもない。
母親の声も、決まった時間に始まる祈りも聞こえない。静かすぎて、かえって眠ることができなかった。机の上に置いたスマートフォンが振動する。画面には、lunatiのグループが表示されていた。
ユイが送った3人の写真。
ヒナからの短いメッセージ。
ハルナはしばらく画面を見つめた。
指を動かし、既読をつける。
それだけで胸が痛んだ。
返事を書こうとした。
『ごめんね』
文字を打ち、消す。
『ありがとう』
また消した。
何を返しても、次の言葉を求められる気がした。
戻るのか。
辞めるのか。
リョウヘイに会うのか。
今の自分には、どれにも答えられない。スマートフォンを伏せた直後、再び振動した。
ユイからだった。
『返事いらないから。既読ついたなら今日はそれでいい』
ハルナは口元を押さえた。
泣き声を父親に聞かれないよう、布団へ顔を埋めた。
翌日も、メッセージは届いた。
『リョウヘイさんとハルナさんがいないと、特進クラスは5人だけです。寂しいです』
ヒナからだった。
その下には、ユイの写真が添えられている。教室でリョウヘイの机から何かを探している姿だった。
『ユイさんが、リョウヘイさんの隠していたお菓子を見つけました』
『お菓子はいただいたー!』
『無抵抗なリョウヘイさん可哀想です』
『机の引き出しにお菓子入れとく方が悪い!』
2人のやり取りが続く。
ハルナは返信しなかった。
それでも最後まで読んだ。
その次の日。
『先生、ハルナの席にプリント置いてた』
さらに次の日。
『今日は綾坂さんがユイさんと喧嘩していました』
『喧嘩じゃない。綾坂が勝手に絡んできた』
『ユイが勝手に怒ったんでしょ』
途中からグループチャットに綾坂も会話へ加わっていた。
『ハルナ、こいつら毎日うるさいから、気が向いたら止めてよ』
ハルナは少しだけ笑った。
笑ったあと、また泣いた。
誰も戻ってこいとは言わなかった。
事件の話もしなかった。
学校を辞めるなとも、lunatiを続けろとも言わない。ただ、ハルナが昨日までそこにいたのと同じように、毎日の出来事を送り続けた。ハルナが学校を休み続ける間も、それは変わらなかった。ユイは教室や音楽室の写真を送り、ヒナは授業中にあった小さな出来事を伝えた。綾坂は時々、2人の会話へ割り込み、サクラは長いメッセージを送り、フミは短い1言だけを残した。
『ハルナの席、まだある』
ハルナには、その意味が伝わった。リョウヘイからは、1度も直接連絡が来なかった。送ろうとしていないわけではなかった。病室で何度もスマートフォンを開き、ハルナの名前を選んだ。
『戻ってこい』
打って、消した。
『大丈夫か』
それも消した。
『会いたい』
最後まで送信できなかった。
病室で、もう十分に自分の気持ちを押しつけた。
行かないでと頼んだ。
それでもハルナは出ていった。
今度は、自分の言葉でハルナの選択を変えてはいけない。そう理解していても、何もしないことは苦しかった。
「また開いてる」
見舞いに来ていたユイが、リョウヘイの画面を覗き込む。
「見るなよ」
「送ればいいじゃん」
「送らない」
「なんで?」
リョウヘイは答えなかった。
ユイはしばらく黙り、やがてスマートフォンから目を離した。
「ハルナ、毎日読んでるよ」
「知ってる、俺も見てる」
「既読、前より早くなった」
「……そうか」
グループの会話は見ていたが、ハルナが読む時間まで確認する勇気はなかった。
「リョウヘイの話を出すと、1回既読遅くなる」
「余計な分析すんな」
「でも、絶対読んでる」
ユイは椅子へ座り、窓の外を見た。
「まだ終わってないよ」
その言葉を、リョウヘイは信じることにした。
長い入院生活が続いた。
傷口の状態が安定すると、少しずつ身体を起こす時間が増えた。両手の包帯も薄くなり、指を曲げ伸ばしする訓練が始まった。右足は、思うように動かなかった。医師に言われた通りに力を入れているつもりでも、膝から下がわずかに震えるだけだった。それでも、何も感じなかった頃に比べれば前進だった。
2月が終わり、3月に入った。
リョウヘイは松葉杖を使い、短い距離なら自分で移動できるようになった。両手の傷も、スティックを軽く握る程度なら問題ないと言われた。ただし、右足の機能がどこまで戻るかは、まだ分からない。
退院の日。
病院の玄関には、ユイとヒナが迎えに来ていた。
「おそい」
松葉杖をついて現れたリョウヘイへ、ユイが言う。
「退院患者に最初に言う言葉か?」
「元気そうですね」
ヒナは笑っていたが、目には涙が浮かんでいる。
「おかげさまでな」
リョウヘイは病院を振り返った。
2か月。
長かった。
外の空気は冷たかったが、病室の窓越しに感じていた冬とはまるで違った。
「で、どこ行く?」
ユイが尋ねる。
「家だろ」
「その前に、先生が来てほしいって」
「ん?学校?」
「場所は秘密…」
ユイは少しだけ視線を逸らした。ヒナも落ち着かない様子で、肩にかけた鞄の紐を握り直す。
2人とも、何かを隠している。
「どこだよ」
「行けば分かる」
タクシーで連れていかれた先は、見覚えのある建物だった。lunatiが何度も使ってきたスタジオ棟。入口の前で、リョウヘイの足が止まる。ガラス扉の向こうに、受付が見える。
その奥には、廊下。
さらに先には、いつも使っていた部屋がある。
ユイが先に扉を開けてくれた。
「先生が、中で待ってる」
リョウヘイは右足へ目を落とした。
松葉杖。
まだ思うように力の入らない足。医師からは、無理をしなければ楽器に触れてもいいと言われている。ただし、ドラムを演奏できるとは言われていない。バスドラムを踏める保証もない。以前と同じ音を出せるかどうかも分からない。
怖かった。
病院でどれだけ強気なことを言っても、実際にドラムの前へ座れば、答えが出てしまう。リョウヘイは入口に立ったまま、動けなかった。
ヒナが隣へ並ぶ。
「リョウヘイさん」
「ん?」
「私たちも一緒ですよ?」
反対側には、ユイが立っていた。
「帰るなら、今だけど」
挑発するような口調だった。
だが、その手はリョウヘイが倒れないよう、すぐ支えられる位置にある。リョウヘイは1度だけ深く息を吸った。
「帰るわけないだろ」
松葉杖を前へ出す。
1歩。
もう1歩。
ガラス扉の向こうから、微かにドラムセットが見えた。




