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#52 行かないで……

消灯時間を知らせる院内放送が、静かな病室に流れていた。リョウヘイが顔を向けると、開いた扉の前にハルナが立っていた。


「リョウヘイくん……」


見間違えるはずがない。

ずっと待っていた声だった。


「ハルナ……」


その名を口にしただけで、胸の奥に張りつめていたものが緩んだ。ハルナは、事件の日と同じ服を着ていた。髪も少し乱れ、目元は赤く腫れている。

事情聴取が終わってから、着替えることも休むこともせず、その足で病院まで来たのだろう。病室へ入ったハルナは、後ろ手で静かに扉を閉めた。

その場から、すぐには動かなかった。


固定された右足。

両手を覆う包帯。

額に貼られたガーゼ。


白いベッドの上で横たわるリョウヘイを、入口から呆然と見つめている。


「来てくれたんだな」


リョウヘイが笑う。

自分では、いつも通りに笑ったつもりだった。だが、ハルナの顔はさらに悲しそうに歪んだ。


「私のせいで……」

小さな声だった。


「違うよ」

「でも……」

「ハルナのせいじゃない」


リョウヘイは、はっきりと繰り返した。


「刺したのはハルナじゃない。ハルナが謝ることじゃないよ。事故みたいなもんだ」


ハルナは俯いたまま、病室の中央まで歩いてきた。1歩進むたび、ベッドの上の傷が近くなる。

近づけば近づくほど、リョウヘイが負ったものを見ないふりができなくなる。ベッドのそばまで来たハルナは、空いていた椅子へ手をかけた。

しかし座ることはせず、立ったままリョウヘイを見つめた。


何かを言わなければならない。


それなのに、言葉が出てこない。事件から今まで、頭の中で何度も考えていた。


病院へ着いたら、まず謝ろう。

無事でよかったと伝えよう。


母親のしたことを、できる限り説明しよう。けれど、実際に傷ついた姿を目の前にすると、用意していた言葉はすべて消えてしまった。リョウヘイは、そんなハルナを見つめていた。


会いたかった。


目を覚ましてからずっと、ハルナのことばかり考えていた。


無事なのか。

泣いていないか。

自分を責めていないか。


もう2度と、会いに来てくれないのではないか。考えるたび、胸の奥が冷たくなった。


今、ハルナは目の前にいる。

それだけで、身体中の痛みが少し遠のくような気がした。


「ハルナ」

「うん……」


リョウヘイは少し迷った。


今までなら、こんなことは言わなかった。心配をかけないように笑い、何もなかったように振る舞っていたはずだった。けれど今は、取り繕う余裕がなかった。


「抱き締めさせてくれないか……」

ハルナが顔を上げた。


リョウヘイの声は、聞いたことがないほど弱々しかった。頼むというより、すがっているようにさえ聞こえた。


「うん……」

ハルナは小さく頷いた。


(こんな声……初めて聞いた)


いつも先頭を歩いていた。

何があっても、次にどうするかを考えていた。失敗しても笑って、落ち込んでいる人がいれば手を差し伸べていた。

そのリョウヘイが今、自分に触れてほしいと頼んでいる。ハルナは傷に触れないよう、ゆっくりとベッドへ身を寄せた。


点滴の管を避ける。


包帯の巻かれた手を押さえつけないようにする。右足へ体重がかからないよう、慎重に身体を傾ける。そして、リョウヘイの胸元へそっと抱きついた。

リョウヘイは包帯で覆われた右手を持ち上げた。思うように指は動かなかったが、それでもハルナの頭へ手を置く。


髪を撫でる。

力を込めることはできない。

触れているだけに近い、弱い動きだった。


「嬉しい……」

耳元で、リョウヘイの声が聞こえた。

「ハルナがここにいてくれて……本当に嬉しい……」


ハルナはリョウヘイの服を掴んだ。包帯や傷に触れないようにするあまり、指先にはほとんど力を入れられない。


「ずっと会いたかった……」

リョウヘイの手が、もう1度ハルナの髪を撫でる。

「会いたかった……」

1度目より、さらに弱い声だった。


「うん……私も……」

ハルナは目を閉じた。


リョウヘイの身体が、わずかに震えていた。


痛みのせいだけではない。

怖かったのだ。

死ぬかもしれなかった。

ドラムを失うかもしれない。

仲間を守れないかもしれない。


ずっと押し殺していた恐怖が、ハルナを抱き締めたことで溢れ出している。


(リョウヘイくん、震えてる……)


ハルナはそれに気づいてしまった。リョウヘイが自分へ甘えている。リョウヘイが、自分にだけ弱った姿を見せてくれている。本来なら、嬉しかったはずだった。


頼られたことが。

自分を求めてもらえたことが。


けれど、リョウヘイをここまで弱らせた原因は、自分の母親だった。その事実が、胸の奥を鋭く抉る。ハルナは顔を上げることができなかった。

このまま、ずっと抱き締めていたかった。全部忘れて、この場所にいたかった。


だが、忘れてはいけない。

自分が来た目的は、別にある。


「ユイちゃんとヒナちゃんから聞いた……」


ハルナが胸元から呟いた。

「ドラム……やるんだね」


リョウヘイの手が止まる。

「うん」


迷いのない返事だった。

「ハルナとやる」


ハルナは息を止めた。

「ユイとヒナも一緒」


当たり前の未来を話すような声だった。


退院したら、また学校へ行く。

リハビリをする。

スティックを握る。

右足を動かす。


そして4人で、再びステージに立つ。リョウヘイの中では、それ以外の未来など存在していなかった。ハルナは目を閉じたまま、唇を噛んだ。


(嬉しい……)


その未来に自分がいることが、どうしようもなく嬉しい。


でも、できない。

もう同じ場所には戻れない。


ハルナはゆっくりと、リョウヘイの身体から離れた。頭に触れていたリョウヘイの手が、力なくベッドへ戻る。


「ごめんね……」

ハルナは涙を堪えながら、リョウヘイを見た。

「それはできない」


「え……」

リョウヘイの顔から、安堵が消えた。


「何言ってるんだよ……」


ハルナは両手を強く握った。

自分の爪が掌へ食い込む。

それでも、言わなければならなかった。


「もう……どんな顔して演奏したらいいか、分かんない……」

「ハルナ……」

「演奏中に……もうリョウヘイくんのこと見られない」


涙が頬を伝う。

「みんなのことも見られない……」


ドラムの音を聞くたびに思い出す。


血に濡れた右足。

両手で掴んだ包丁。


自分を守るために立ち上がったリョウヘイ。鍵盤に触れるたび、隣に座る仲間の姿ではなく、事件の夜の公園が浮かぶ。自分の母親が、仲間を壊そうとした光景が。


「ハルナは悪くない!」

リョウヘイが身体を起こした。


「うっ!」

右足に激痛が走り、顔が歪む。身体が前へ傾く。


「リョウヘイくん!」

ハルナは慌てて手を伸ばした。


肩と背中へ腕を回し、傷に触れないようリョウヘイをベッドへ戻す。


「動いちゃダメ!」

「でも、ハルナ……」

「お願いだから……今は動かないで……」


ハルナは掛け布団を整えた。

その手は震えている。


ほんの少し身体を起こしただけで、リョウヘイは苦しそうに息をしている。自分と話すために、また傷を悪化させるかもしれない。そう思うだけで、ハルナは逃げ出したくなった。 


2人の間に、重い沈黙が落ちた。


廊下の奥で、看護師が別の病室の扉を閉める音がした。規則的な電子音だけが、2人の時間を刻んでいく。リョウヘイは呼吸を整えながら、ハルナを見ていた。


ハルナはベッドの端へ視線を落としたまま、顔を上げない。


「学校も辞める」

沈黙を破ったのは、ハルナだった。


リョウヘイは言葉を失った。


「ハルナ……」

「もう決めたの」

「これは、私なりのけじめなの」


ハルナはゆっくりと顔を上げる。


泣いていた。


それでも、瞳の奥には決意があった。


「1度、全部捨てて……自分と向き合わないといけないって思うの」

「捨てるって……」

「学校も、バンドも」

「なんでだよ」


リョウヘイの声が掠れた。


「お前が捨てる必要なんてないだろ!」

「あるよ…あるんだよ」

「ない!」


声を張ろうとして、右足が再び痛んだ。リョウヘイは顔を歪め、枕へ頭を戻す。ハルナはその姿を見ることができず、視線を逸らした。


「私、ずっと逃げてたの」

「逃げてない」

「お母さんに嘘をついて、みんなにも何も話さなくて……何かが起きるまで、ずっと大丈夫なふりをしてた」

「それはハルナが悪いんじゃない」

「でも、結果は変わらないよ」


ハルナは固定された右足を見た。

すぐに目を逸らす。


「リョウヘイくんが、こんなことになった」

「俺は自分で決めて行ったんだ」

「それでも!」


ハルナの声が病室に響いた。

すぐに自分で驚き、口元を押さえる。少し間を置き、声を抑えて続けた。


「それでも……私が何も話さなかったから」

「話せるわけないだろ、あんなこと」

「だから、今度は逃げないようにしたいの」

「学校を辞めるのが、逃げないってことなのかよ」


ハルナは答えなかった。

リョウヘイの言葉は、痛いほど正しかった。


学校もバンドも辞める。

仲間から離れる。


それは別の形で逃げているだけなのかもしれない。それでも今は、ほかの道が見つからなかった。


仲間の前で笑えない。

鍵盤を弾けない。


母親を憎みきれない自分も許せない。そんな状態でlunatiに戻れば、またみんなを傷つける。


ハルナはそう信じていた。


「いやだ……」

リョウヘイの声が聞こえた。


ハルナは顔を上げる。


「え……?」

「いやだ」


リョウヘイは子供のように、もう1度言った。

泣きそうな顔をしていた。


「学校も辞めて、バンドも辞めるなんて……いやだ」

「リョウヘイくん……」

「俺、ハルナとやるって決めたんだよ」

「ごめんね……」

「なんで謝るんだよ……!」


リョウヘイは包帯の巻かれた手を、わずかに動かした。


ハルナへ伸ばそうとしている。


だが、腕には力が入らず、手は途中でベッドへ落ちた。その姿に、ハルナの胸が締めつけられる。


「今日は、それだけ言いに来たの」


これ以上ここにいれば、決意が揺らぐ。ハルナは椅子の背へかけていた手を離した。


「会えてよかった」

「ま、待って…」

「また、みんなと来るから」

「ハルナ……!」

「その時に、また話すね」


ハルナは病室の扉へ向かって歩き出した。


1歩ごとに、足が重くなる。

背中に、リョウヘイの視線を感じる。

振り返ったら戻ってしまう。

このままずっと、そばにいたいと言ってしまう。


だから、前だけを見て歩いた。


「ハルナ……」

声が追いかけてくる。


ハルナは足を止めなかった。

扉まで、あと数歩。


「行かないで……」


ハルナの足が止まった。


身体が強張る。


聞き間違いかと思い、耳を疑った。


リョウヘイが、そんな言葉を口にするはずがない。いつも余裕ぶって、冗談ばかり言って、怖いものなんてないような顔をして。そんな彼が。


ハルナはゆっくりと振り返る。

振り返ってはいけないとわかっていても、身体は勝手に動いた。


リョウヘイはベッドの上から、まっすぐこちらを見ていた。 


涙は出ていなかった。

それでも、今にも壊れてしまいそうな顔だった。


ハルナは驚いた。

こんなに弱いリョウヘイを、初めて見た。


いつも強かった。


誰かが困っていれば、迷わず助けに行った。どれだけ無茶をしても最後には笑い、周りを安心させた。優しくて、頼りになって、誰よりも真っすぐだった。

だからこそ、分かってしまった。今のリョウヘイは、強がることさえできないほど追い詰められている。


ドラムを失うかもしれない。

自分の身体が元に戻らないかもしれない。その恐怖の中で、さらにハルナまで失おうとしている。


「お願いだから……」

リョウヘイは息を詰まらせる。


「今、ここにいてほしい……」


ハルナの目から、新しい涙が溢れた。


戻りたかった。


リョウヘイのそばへ駆け寄り、もう1度抱き締めたかった。


辞めないと言いたかった。

ずっと一緒にいると約束したかった。


けれど、足は動かなかった。


今ここで戻れば、リョウヘイの優しさに甘えてしまう。すべてを許してもらい、自分を責めることからも、母親と向き合うことからも逃げてしまう。


ハルナは両手を強く握った。


「ごめんね……」

それだけを残し、病室の扉を開けた。

「ハルナ!」


リョウヘイの声が響く。


ハルナは振り返らなかった。

扉を閉める直前、もう1度だけ、小さく呟いた。


「ごめんね……リョウヘイくん……」


扉が閉まる。


病室に、再び静けさが戻った。

リョウヘイは閉じた扉を見つめ続けた。


開く気配はない。

廊下を遠ざかっていく足音も、すぐに聞こえなくなった。


右足が痛む。

両手が痛む。


けれど今は、胸の奥の方がずっと痛かった。リョウヘイは天井へ顔を向けた。声を出せば、何かが溢れてしまいそうだった。だから歯を食いしばり、目を閉じた。


白い天井の裏側に、ハルナの泣いた顔だけが残っていた。


挿絵(By みてみん)

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