#50 殺す
「おかあ……さん……?」
ハルナの掠れた声が、夜の公園に落ちた。
誰も動かなかった。
誰も、目の前で起きていることを理解できなかった。街灯の下に立つフユミは、寝間着の上から薄い上着を羽織っている。呼吸は乱れておらず、髪もほとんど崩れていない。まるで娘を迎えに散歩へ来ただけのような姿だった。
フユミはハルナへ顔を向けると、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「さあ、帰りましょう、ハルナ」
優しい声だった。
幼い子供に、もう遊ぶ時間は終わりだと諭すような声。
「こんな時間に女の子を連れ出すなんて、本当に困った人ね」
フユミの足元では、リョウヘイが右膝を地面についている。右の太ももには、細身の包丁が深く突き刺さっていた。ズボンの生地が傷口の周囲から黒く変色し、その範囲がゆっくりと広がっていく。
「リョ……」
ユイが1歩後ろへ下がった。
足がもつれた。
そのまま地面へ尻餅をつき、両手を後ろにつく。
「あ……あ、リョ……」
名前を呼びたいのに、声にならない。口だけが何度も動き、浅い呼吸が漏れる。ヒナは立ち尽くしたまま、リョウヘイを見つめていた。
「リョウヘイさん……?」
理解が追いついていない。
今まで話をしていた人が地面に崩れ、その足に包丁が刺さっている。
血が流れている。
ハルナの母親が、包丁でリョウヘイを刺した。目には映っているのに、それらが1つの出来事として頭の中でつながらなかった。リョウヘイ自身も、まだ状況を認識できていなかった。
右足の感覚が消えている。
太ももに何かが触れていることは分かる。だが、それが自分の身体に突き刺さっているとは、どうしても思えなかった。
「ぐ……っ」
喉の奥から、かすかな息が漏れる。
次の瞬間だった。
身体が、ようやく傷を理解した。右の太ももの奥から、熱が弾けた。焼けた鉄を押し込まれ、そのまま内側を掻き回されているような激痛が、一気に腰まで駆け上がる。
視界が白く染まった。
「ううゔぁぁああああああっ!」
自分のものとは思えない叫び声が、喉を引き裂いて飛び出した。
リョウヘイは地面を掴む。
指が土を掻き、身体が大きく反った。
息が吸えない。
口を開いているのに、肺へ何も入ってこない。脈打つたびに、太ももの中で刃が動く。逃げることも、押さえることもできない。ただ、痛みに身体を振り回されるしかなかった。フユミは悲鳴を上げるリョウヘイを見下ろし、困ったように眉を下げた。
「こんな夜中に、なんて声を出すの……」
包丁の柄へ両手を添える。
「本当に非常識な人」
次の瞬間、刃が一気に引き抜かれた。
鈍く湿った音がした。
「がぁぁぁあっ!」
身体の奥に食い込んでいたものが消え、代わりに熱い液体が傷口から一気に溢れ出す。
ズボンがみるみる濡れていく。
血が膝を伝い、地面へ落ちた。
1滴。
2滴。
すぐに数えられないほどの量になった。リョウヘイは傷口を押さえようとした。だが、手が激しく震え、狙った場所へ届かない。身体を少し動かすだけで、激痛が足の根元から頭まで突き抜ける。
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ」
視界が揺れている。
耳鳴りがする。
それでも、リョウヘイは顔を上げた。
ハルナ。
ユイ。
ヒナ。
3人とも動けていない。
ユイは地面に座り込んだまま、震えている。ヒナは両手を胸の前で固め、目を見開いている。ハルナはベンチに座ったまま、母親を見つめていた。このままでは、次に何をされるか分からない。リョウヘイは歯を食いしばった。
「にげ……ろ……!」
声を絞り出しただけで、傷口が大きく脈打った。
「ぐぅぅぁ……!」
再び身体が地面へ沈む。
ヒナは両手で頭を抱えた。
「あ……あ……」
息が浅い。
吸っても吸っても足りない。
助けなければならない。
救急車を呼ばなければならない。
包丁を持った人から離れなければならない。
頭の中にいくつもの考えが浮かぶのに、どれ1つとして行動に変わらない。
ハルナはベンチの上で、小さく身体を震わせていた。視線はフユミの右手から離れない。包丁の刃先から、リョウヘイの血が静かに滴り落ちている。
「おかあ……さん……なに……やってるの……? なんで……?」
1つ1つの言葉を、喉の奥から引きずり出すような声だった。フユミは不思議そうに首を傾げた。まるで、どうしてそんなことを聞くのか分からないとでも言うように。
「右足を潰したのよ」
あまりにも平坦な答えだった。
「アナタも音楽をやる人間ならわかるはずよ、ハルナ」
フユミは包丁をわずかに傾け、その刃を確認する。
「これがハルナのためなのよ」
「わたしの……ため……?」
ハルナの目から、涙がこぼれた。
「そうよ。ハルナを悪い道へ連れていった人でしょう?」
フユミは微笑んでいた。
「なら、できなくしてあげればいいの。そうすれば、もうハルナをバンドへ誘えないもの」
言葉だけを聞けば、娘の将来を案じる母親のものだった。だが、その手には血まみれの包丁が握られている。フユミの中では、何も矛盾していなかった。リョウヘイの足を刺したことも。
バンドを奪うことも。
娘の友人たちを恐怖で支配することも。すべてがハルナを幸せにするための、正しい行いだった。
「急にスマホに通知が来たからビックリしちゃったわ。公園の中、たくさん探したのよ?」
フユミの視線が、ハルナの足元へ落ちる。
「ハルナの靴にGPSタグをつけておいたの。これで、どこにいても分かるわ」
ハルナは自分の靴を見下ろした。
昨日フユミからもらった靴。
音を立てないように玄関を出た。
何度も背後を確認した。
住宅街を抜け、15分も歩いた。
全部、意味がなかった。
最初から、母親には居場所を知られていた。フユミは血に濡れていない左手を、ハルナへ差し出した。
「さあ、帰りましょう。ハルナ」
その手は、昔と同じだった。
ピアノを教えてくれた手。
コンクールの前に、緊張するハルナの手を握ってくれた手。転びそうになった幼いハルナを支えてくれた手。
大好きだった母親の手。
けれど今、その隣には、人を刺した包丁がある。ハルナはベンチに座ったまま動けなかった。母親の左手と右手を、何度も交互に見る。過去と現在が、同じ人物の中に存在している。その事実を受け止めることができなかった。
「う……っ」
地面に倒れていたリョウヘイが、両手をついた。
腕に力を込める。
上半身を持ち上げるだけで、右足が裂けるように痛んだ。
「リョウヘイ……?」
ユイの声が震える。
リョウヘイは左足を地面へつけた。
右足にもわずかに力がかかる。
その瞬間、視界が激しく明滅した。
「ぐぅ……っ!」
膝が落ちかける。
それでも、地面を掴んでいた手を離した。左足だけで身体を支え、ふらつきながら立ち上がる。右足からは血が流れ続けている。
1歩も歩ける状態ではない。
立っているだけで、意識が飛びそうになる。それでも、リョウヘイはフユミとハルナの間へ身体を入れた。
「リョウヘイ!」
ユイが叫んだ。
「駄目! 立たないで! バカ!」
リョウヘイには、その声さえ遠く聞こえていた。頭の中にあるのは、ただ1つだった。
ハルナを連れていかせない。
「やめろよ……!」
息をするたびに、全身が震える。
「近づくな……!」
フユミは目を丸くした。
倒れたまま動けなくなると思っていたのだろう。しかし驚きは、すぐに小さなため息へ変わった。
「はぁ……。ドラマーって、本当に頑丈なのね」
フユミは右手の包丁を持ち上げた。街灯の光を受け、赤く濡れた刃が鈍く光る。
「手も潰したら、今度こそ絶望してくれるかしら?」
ユイの呼吸が止まった。
ヒナの目がさらに見開かれる。
ハルナはベンチの上で首を横に振った。
「やめて……」
声が出ない。
「やめて……おかあさん……」
それでもフユミの視線は、リョウヘイだけへ向けられていた。
「おまえら……にげろ……!」
リョウヘイは振り返らずに叫んだ。
3人から返事はなかった。
ユイは立ち上がろうとするが、足に力が入らない。ヒナは頭を抱えたまま震えている。ハルナは母親を見つめたまま、ベンチに縫いつけられたように動けない。
フユミは迷わなかった。
包丁を握る右腕を高く振り上げる。そして、そのままリョウヘイへ振り下ろした。
「いやぁぁぁぁああああ!」
ヒナの絶叫が、公園中に響き渡った。
刃が迫る。
右足は動かない。
逃げられない。
避ける時間もない。
リョウヘイは反射的に両手を伸ばした。
「うっ!」
左右の掌で、振り下ろされた包丁を思い切り挟み込む。
刃が肉へ食い込んだ。
鋭い痛みが両手を貫き、指の間から血が溢れる。
刃先が胸の前で止まる。
あと少しでも遅ければ、身体へ突き刺さっていた。
「……っ!?」
フユミの顔から、初めて笑みが消えた。まさか刃を素手で掴むとは思っていなかった。その一瞬だけ、腕から力が抜ける。リョウヘイは、血に濡れた両手へさらに力を込めた。
掌の傷が深くなる。
それでも離さない。
包丁を横へ捻る。
フユミの手首がつられ、指が開いた。リョウヘイはそのまま包丁を奪い取った。
掴んだ柄が血で滑る。
それでも腕を振り、暗い公園の奥へ投げ捨てた。
包丁が地面を跳ねる。
金属音が1度だけ響き、そのまま茂みの中へ消えた。
フユミが数歩後ずさる。
リョウヘイは逃がさなかった。
血だらけの両手でフユミの服を掴む。
指がまともに動かない。
それでも生地へ爪を食い込ませ、力任せに引き寄せた。もう右足の痛みも、両手の傷も、流れ続ける血も考えていなかった。
殺す。
その1つだけが、薄れかけた意識の中に残っていた。リョウヘイは殺すつもりで、フユミの身体を引き寄せた。咄嗟の反撃にフユミは勢いよくリョウヘイに引っ張られた。
自分の額を、フユミの額へ思い切り叩きつける。
鈍い衝撃音が響いた。
「あうっ!」
フユミの身体が大きくのけぞった。リョウヘイ自身の頭にも強い衝撃が返り、視界が歪む。
フユミの足元がふらつく。
2歩。
3歩。
そのまま糸が切れたように身体から力が抜け、地面へ倒れ込んだ。
後頭部が芝生へ落ちる。
フユミは目を閉じたまま、動かなくなった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
リョウヘイはその場に立ち尽くした。
止めた。
包丁はない。
フユミも動かない。
もう大丈夫だ。
そう思った途端、身体を支えていたものが消えた。
膝から力が抜ける。
左足だけでは、もう体重を支えられなかった。リョウヘイはフユミの隣へ倒れた。
肩が地面へぶつかる。
だが、その痛みさえほとんど感じなかった。右足から流れ続けた血が、地面へ黒い染みを作っている。
両手からも血が滴っている。
指先が冷たい。
身体がひどく重い。
音が遠ざかっていく。
目の前の景色が、端からゆっくり暗くなり始めた。
「リョウヘイくん……?」
ハルナの声が聞こえた。
朦朧とする意識の中で、リョウヘイはベンチを見る。ハルナは座ったまま、両手で頭を抱えていた。身体を小さく丸め、歯が鳴るほど震えている。
「あ……あぁ……」
息を吸うたびに喉が引きつり、呼吸が細かく途切れていた。
母親が人を刺した。
その母親を、リョウヘイが倒した。
自分のためだと言いながら。
すべてが1度にハルナへ押し寄せている。
リョウヘイは唇を動かした。
喉が乾き、声がほとんど出ない。
「ご……めん……な……」
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
母親を倒したことか。
怖い思いをさせたことか。
守ると言いながら、目の前で倒れていることか。ハルナの顔を、こんなふうにさせてしまったことか。言葉を続ける力は残っていなかった。
「リョウヘイさん!」
ヒナがようやく動いた。
イメージソング
殺す/ナサガシ




