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50/99

#50 殺す

「おかあ……さん……?」


ハルナの掠れた声が、夜の公園に落ちた。


誰も動かなかった。


誰も、目の前で起きていることを理解できなかった。街灯の下に立つフユミは、寝間着の上から薄い上着を羽織っている。呼吸は乱れておらず、髪もほとんど崩れていない。まるで娘を迎えに散歩へ来ただけのような姿だった。


フユミはハルナへ顔を向けると、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。


「さあ、帰りましょう、ハルナ」

優しい声だった。


幼い子供に、もう遊ぶ時間は終わりだと諭すような声。


「こんな時間に女の子を連れ出すなんて、本当に困った人ね」


フユミの足元では、リョウヘイが右膝を地面についている。右の太ももには、細身の包丁が深く突き刺さっていた。ズボンの生地が傷口の周囲から黒く変色し、その範囲がゆっくりと広がっていく。


「リョ……」

ユイが1歩後ろへ下がった。


足がもつれた。

そのまま地面へ尻餅をつき、両手を後ろにつく。


「あ……あ、リョ……」


名前を呼びたいのに、声にならない。口だけが何度も動き、浅い呼吸が漏れる。ヒナは立ち尽くしたまま、リョウヘイを見つめていた。


「リョウヘイさん……?」

理解が追いついていない。

今まで話をしていた人が地面に崩れ、その足に包丁が刺さっている。


血が流れている。


ハルナの母親が、包丁でリョウヘイを刺した。目には映っているのに、それらが1つの出来事として頭の中でつながらなかった。リョウヘイ自身も、まだ状況を認識できていなかった。


右足の感覚が消えている。


太ももに何かが触れていることは分かる。だが、それが自分の身体に突き刺さっているとは、どうしても思えなかった。


「ぐ……っ」

喉の奥から、かすかな息が漏れる。


次の瞬間だった。


身体が、ようやく傷を理解した。右の太ももの奥から、熱が弾けた。焼けた鉄を押し込まれ、そのまま内側を掻き回されているような激痛が、一気に腰まで駆け上がる。


視界が白く染まった。

「ううゔぁぁああああああっ!」


自分のものとは思えない叫び声が、喉を引き裂いて飛び出した。


リョウヘイは地面を掴む。

指が土を掻き、身体が大きく反った。


息が吸えない。


口を開いているのに、肺へ何も入ってこない。脈打つたびに、太ももの中で刃が動く。逃げることも、押さえることもできない。ただ、痛みに身体を振り回されるしかなかった。フユミは悲鳴を上げるリョウヘイを見下ろし、困ったように眉を下げた。


「こんな夜中に、なんて声を出すの……」

包丁の柄へ両手を添える。


「本当に非常識な人」

次の瞬間、刃が一気に引き抜かれた。


鈍く湿った音がした。

「がぁぁぁあっ!」


身体の奥に食い込んでいたものが消え、代わりに熱い液体が傷口から一気に溢れ出す。


ズボンがみるみる濡れていく。

血が膝を伝い、地面へ落ちた。


1滴。


2滴。


すぐに数えられないほどの量になった。リョウヘイは傷口を押さえようとした。だが、手が激しく震え、狙った場所へ届かない。身体を少し動かすだけで、激痛が足の根元から頭まで突き抜ける。


「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ」

視界が揺れている。


耳鳴りがする。

それでも、リョウヘイは顔を上げた。


ハルナ。


ユイ。


ヒナ。


3人とも動けていない。


ユイは地面に座り込んだまま、震えている。ヒナは両手を胸の前で固め、目を見開いている。ハルナはベンチに座ったまま、母親を見つめていた。このままでは、次に何をされるか分からない。リョウヘイは歯を食いしばった。


「にげ……ろ……!」

声を絞り出しただけで、傷口が大きく脈打った。


「ぐぅぅぁ……!」

再び身体が地面へ沈む。


ヒナは両手で頭を抱えた。

「あ……あ……」


息が浅い。

吸っても吸っても足りない。

助けなければならない。

救急車を呼ばなければならない。

包丁を持った人から離れなければならない。


頭の中にいくつもの考えが浮かぶのに、どれ1つとして行動に変わらない。


ハルナはベンチの上で、小さく身体を震わせていた。視線はフユミの右手から離れない。包丁の刃先から、リョウヘイの血が静かに滴り落ちている。


「おかあ……さん……なに……やってるの……? なんで……?」


1つ1つの言葉を、喉の奥から引きずり出すような声だった。フユミは不思議そうに首を傾げた。まるで、どうしてそんなことを聞くのか分からないとでも言うように。


「右足を潰したのよ」

あまりにも平坦な答えだった。


「アナタも音楽をやる人間ならわかるはずよ、ハルナ」

フユミは包丁をわずかに傾け、その刃を確認する。


「これがハルナのためなのよ」


「わたしの……ため……?」

ハルナの目から、涙がこぼれた。


「そうよ。ハルナを悪い道へ連れていった人でしょう?」

フユミは微笑んでいた。


「なら、できなくしてあげればいいの。そうすれば、もうハルナをバンドへ誘えないもの」


言葉だけを聞けば、娘の将来を案じる母親のものだった。だが、その手には血まみれの包丁が握られている。フユミの中では、何も矛盾していなかった。リョウヘイの足を刺したことも。


バンドを奪うことも。

娘の友人たちを恐怖で支配することも。すべてがハルナを幸せにするための、正しい行いだった。


「急にスマホに通知が来たからビックリしちゃったわ。公園の中、たくさん探したのよ?」


フユミの視線が、ハルナの足元へ落ちる。


「ハルナの靴にGPSタグをつけておいたの。これで、どこにいても分かるわ」


ハルナは自分の靴を見下ろした。

昨日フユミからもらった靴。

音を立てないように玄関を出た。

何度も背後を確認した。

住宅街を抜け、15分も歩いた。


全部、意味がなかった。


最初から、母親には居場所を知られていた。フユミは血に濡れていない左手を、ハルナへ差し出した。


「さあ、帰りましょう。ハルナ」


その手は、昔と同じだった。

ピアノを教えてくれた手。


コンクールの前に、緊張するハルナの手を握ってくれた手。転びそうになった幼いハルナを支えてくれた手。


大好きだった母親の手。


けれど今、その隣には、人を刺した包丁がある。ハルナはベンチに座ったまま動けなかった。母親の左手と右手を、何度も交互に見る。過去と現在が、同じ人物の中に存在している。その事実を受け止めることができなかった。


「う……っ」


地面に倒れていたリョウヘイが、両手をついた。

腕に力を込める。

上半身を持ち上げるだけで、右足が裂けるように痛んだ。


「リョウヘイ……?」

ユイの声が震える。


リョウヘイは左足を地面へつけた。

右足にもわずかに力がかかる。

その瞬間、視界が激しく明滅した。


「ぐぅ……っ!」

膝が落ちかける。


それでも、地面を掴んでいた手を離した。左足だけで身体を支え、ふらつきながら立ち上がる。右足からは血が流れ続けている。


1歩も歩ける状態ではない。


立っているだけで、意識が飛びそうになる。それでも、リョウヘイはフユミとハルナの間へ身体を入れた。


「リョウヘイ!」

ユイが叫んだ。


「駄目! 立たないで! バカ!」


リョウヘイには、その声さえ遠く聞こえていた。頭の中にあるのは、ただ1つだった。


ハルナを連れていかせない。

「やめろよ……!」


息をするたびに、全身が震える。

「近づくな……!」


フユミは目を丸くした。


倒れたまま動けなくなると思っていたのだろう。しかし驚きは、すぐに小さなため息へ変わった。


「はぁ……。ドラマーって、本当に頑丈なのね」


フユミは右手の包丁を持ち上げた。街灯の光を受け、赤く濡れた刃が鈍く光る。


「手も潰したら、今度こそ絶望してくれるかしら?」


ユイの呼吸が止まった。

ヒナの目がさらに見開かれる。

ハルナはベンチの上で首を横に振った。


「やめて……」

声が出ない。


「やめて……おかあさん……」


それでもフユミの視線は、リョウヘイだけへ向けられていた。


「おまえら……にげろ……!」

リョウヘイは振り返らずに叫んだ。


3人から返事はなかった。


ユイは立ち上がろうとするが、足に力が入らない。ヒナは頭を抱えたまま震えている。ハルナは母親を見つめたまま、ベンチに縫いつけられたように動けない。


フユミは迷わなかった。


包丁を握る右腕を高く振り上げる。そして、そのままリョウヘイへ振り下ろした。


「いやぁぁぁぁああああ!」


ヒナの絶叫が、公園中に響き渡った。


刃が迫る。


右足は動かない。


逃げられない。


避ける時間もない。


リョウヘイは反射的に両手を伸ばした。


「うっ!」


左右の掌で、振り下ろされた包丁を思い切り挟み込む。


刃が肉へ食い込んだ。


鋭い痛みが両手を貫き、指の間から血が溢れる。


刃先が胸の前で止まる。


あと少しでも遅ければ、身体へ突き刺さっていた。


「……っ!?」


フユミの顔から、初めて笑みが消えた。まさか刃を素手で掴むとは思っていなかった。その一瞬だけ、腕から力が抜ける。リョウヘイは、血に濡れた両手へさらに力を込めた。


掌の傷が深くなる。


それでも離さない。


包丁を横へ捻る。


フユミの手首がつられ、指が開いた。リョウヘイはそのまま包丁を奪い取った。


掴んだ柄が血で滑る。


それでも腕を振り、暗い公園の奥へ投げ捨てた。


包丁が地面を跳ねる。


金属音が1度だけ響き、そのまま茂みの中へ消えた。


フユミが数歩後ずさる。


リョウヘイは逃がさなかった。


血だらけの両手でフユミの服を掴む。


指がまともに動かない。


それでも生地へ爪を食い込ませ、力任せに引き寄せた。もう右足の痛みも、両手の傷も、流れ続ける血も考えていなかった。


殺す。


その1つだけが、薄れかけた意識の中に残っていた。リョウヘイは殺すつもりで、フユミの身体を引き寄せた。咄嗟の反撃にフユミは勢いよくリョウヘイに引っ張られた。


自分の額を、フユミの額へ思い切り叩きつける。

鈍い衝撃音が響いた。


「あうっ!」


フユミの身体が大きくのけぞった。リョウヘイ自身の頭にも強い衝撃が返り、視界が歪む。


フユミの足元がふらつく。


2歩。


3歩。


そのまま糸が切れたように身体から力が抜け、地面へ倒れ込んだ。


後頭部が芝生へ落ちる。

フユミは目を閉じたまま、動かなくなった。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


リョウヘイはその場に立ち尽くした。


止めた。

包丁はない。

フユミも動かない。

もう大丈夫だ。


そう思った途端、身体を支えていたものが消えた。


膝から力が抜ける。


左足だけでは、もう体重を支えられなかった。リョウヘイはフユミの隣へ倒れた。


肩が地面へぶつかる。


だが、その痛みさえほとんど感じなかった。右足から流れ続けた血が、地面へ黒い染みを作っている。


両手からも血が滴っている。

指先が冷たい。


身体がひどく重い。

音が遠ざかっていく。


目の前の景色が、端からゆっくり暗くなり始めた。


「リョウヘイくん……?」


ハルナの声が聞こえた。


朦朧とする意識の中で、リョウヘイはベンチを見る。ハルナは座ったまま、両手で頭を抱えていた。身体を小さく丸め、歯が鳴るほど震えている。


「あ……あぁ……」


息を吸うたびに喉が引きつり、呼吸が細かく途切れていた。


母親が人を刺した。

その母親を、リョウヘイが倒した。

自分のためだと言いながら。


すべてが1度にハルナへ押し寄せている。


リョウヘイは唇を動かした。

喉が乾き、声がほとんど出ない。


「ご……めん……な……」


何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。


母親を倒したことか。


怖い思いをさせたことか。


守ると言いながら、目の前で倒れていることか。ハルナの顔を、こんなふうにさせてしまったことか。言葉を続ける力は残っていなかった。


「リョウヘイさん!」


ヒナがようやく動いた。


挿絵(By みてみん)

イメージソング

殺す/ナサガシ

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