#49 ハルナ・オリジン
深夜1時。
住宅街は、昼間とはまるで別の場所のように静まり返っていた。一定の間隔で並ぶ街灯が、誰もいない道路を白く照らしている。遠くを走る車の音さえ、すぐ近くを通ったように大きく聞こえた。3人で固まって動けば、近所の人間から見ても不自然に映る。ハルナに会う前に警察へ通報でもされたら、すべてが台無しだ。
リョウヘイは1人で清水谷家の玄関付近に立ち、少し離れた場所からユイとヒナがその様子を見守っていた。背後を振り返ると、街灯の陰に隠れたユイが小さく拳を握る。その隣では、ヒナが胸元で両手を組み、祈るようにこちらを見つめていた。リョウヘイは人影や窓の明かりに注意を払いながら、何度も周囲を確認する。
――本当に、1時で合ってるよな。
ハルナから届いた、最後のメッセージ。
『1もうこないで』
文章の先頭に置かれた、不自然な数字。あれを深夜1時の合図だと判断し、3人はここまで来た。もし読み違えていれば、今のリョウヘイは深夜に同級生の家へ押しかける、かなり危険な男子高校生でしかない。だが、ハルナが意味もなく誤入力するとは思えなかった。
恐らく監視が厳しいのだろう。あんなやり方でした伝えられなかったんだ。
リョウヘイがもう1度、清水谷家を見上げる。大きな1軒家はすべての窓が暗く、建物そのものが深く眠っているように見えた。インターホンを押すわけにはいかない。
電話もできない。
あとは、ハルナが自分たちの意図に気づいていると信じて待つしかなかった。その警戒とは裏腹に、玄関の扉はあっさりと開いた。リョウヘイの身体が反射的に強張る。細く開いた扉の隙間から、ハルナが顔を出した。淡い色の寝間着の上にカーディガンを羽織り、胸元には小さな鞄を抱えている。ハルナは左右を何度も確認すると、音を立てないよう、ゆっくりと外へ出た。扉を閉める動作さえ慎重だった。
最後まで取っ手に手を添えたまま、蝶番が軋まないよう少しずつ押していく。扉が枠に触れる直前で動きを止め、それからさらにゆっくりと力を加えた。かすかな音すら鳴らさないように。
扉が閉じる。
ハルナとリョウヘイの目が合った。
2人とも、何も言わなかった。
ハルナの瞳が揺れている。
会えた安堵と、家族に見つかる恐怖。その2つが入り混じり、今にも声を上げてしまいそうな顔をしていた。リョウヘイは口元へ人差し指を立てる。続けて、ユイとヒナが待つ場所を指差し、そのまま住宅街の外へ向かうよう手で示した。
静かに。
ここを離れよう。
ハルナは唇を結び、小さく頷いた。3人は合流してからも言葉を交わさず、住宅街を抜けていった。足音さえ響かないよう、自然と歩幅が小さくなる。
ユイは何度もハルナへ顔を向けていた。今すぐ手を握りたい。声をかけたい。そんな気持ちが横顔から痛いほど伝わってくる。
ヒナも同じだった。
けれど2人とも、ハルナを連れ出すまでは我慢していた。誰かの家の前を通るたび、4人の会話は奪われる。角を曲がるたび、後ろから誰かが追ってきていないかを確認する。まるで悪いことをしているようだった。
本当はただ、友達に会いに来ただけなのに。
15分ほど歩いた先にあったのは、遊具や広場のある大きめの公園だった。
住宅街からも距離があり、この時間なら人の姿もない。多少話し声が出ても、清水谷家まで届くことはなさそうだった。公園の奥へ入り、木々に囲まれた広場まで辿り着く。そこでようやく、リョウヘイは足を止めた。
もう静かにしなくていい。
そう伝えるより早く、ユイが堪えきれずに駆け出した。
「ハルナ……!」
「ユイちゃん……!」
ハルナもユイへ駆け寄る。
2人の身体がぶつかるように重なり、ユイが強くハルナを抱き締めた。
「ハルナ……っ、ハルナ……!」
「ごめんね、ユイちゃん……ごめんね……!」
「なんで謝るのよ……! ハルナは何も悪くないでしょ……!」
ユイの声は、途中から言葉になっていなかった。ハルナの肩へ顔を押しつけ、子供のように泣いている。ハルナもユイの背中へ腕を回し、堪えていた涙を流していた。その2人の少し後ろで、ヒナが立ち尽くしている。近づきたいのに、2人の間へ入っていいのか迷っているようだった。ハルナは涙で濡れた顔を上げると、ヒナへ手を伸ばした。
「ヒナちゃん……! 会いたかった……!」
「ハルナさん……!」
その言葉に背中を押され、ヒナも2人のもとへ駆け寄った。
3人はそのまま抱き合った。
ユイもヒナも、もう涙を隠そうとはしていなかった。ハルナも2人の背中へ腕を回し、押し殺していた感情を吐き出すように泣いていた。
「会いたかった……2人とも、本当に……会いたかった……」
「私もです……! ずっと、ハルナさんに会いたくて……!」
「もう勝手にいなくならないでよ……。アタシたち、何もできないままだったじゃん……!」
「ごめんね……ごめんね……」
3人の声が、夜の公園に溶けていく。リョウヘイは少し離れた場所から、その姿を眺めていた。
自分も会いたかった。
顔を見た瞬間から、胸の奥に溜め込んでいたものが込み上げている。だが、ユイとヒナが泣いている横で、自分まで飛び込んで4人で抱き合うのは、何かが違う気がした。少なくとも、絵面がかなり暑苦しい。そんなくだらないことを考えなければ、目の奥が熱くなってしまいそうだった。
「ハルナ……」
リョウヘイの声に、ハルナが顔を上げた。ユイとヒナからゆっくり身体を離し、涙で濡れた頬を手の甲で拭う。それから、リョウヘイの前まで歩いてきた。
「リョウヘイくんも……会いたかった……」
「俺もだよ」
それだけで十分だった。
声を聞けた。
自分の名前を呼んでもらえた。
ハルナが目の前に立っている。
それだけで、この数日間ずっと胸の中にあった不安が、ようやく少しだけほどけていった。ハルナは何かを言おうとして口を開く。
だが、言葉が出てこない。
代わりに唇が震え、また涙が溢れそうになる。リョウヘイはハルナの頭へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。今ここで触れたら、自分まで耐えられなくなる気がした。
「無事でよかった」
絞り出すように言うと、ハルナは何度も頷いた。
「うん……」
ユイとヒナも2人のそばまで戻ってくる。
4人が揃った。
いつも教室で、スタジオで、当たり前のように並んでいた4人。けれど、今はただ同じ場所にいるだけで、奇跡のように思えた。ハルナはもう1度涙を拭うと、3人の顔を順番に見た。何から話せばいいのか分からないように口を開いては閉じる。
母親のこと。
転校のこと。
家へ連れ戻されてからのこと。
そして、これまで3人に隠していたこと。話さなければならないことが多すぎて、最初の言葉を選べないようだった。しばらく迷ったあと、ハルナは震える声で言った。
「少し……長い話を、聞いてもらえるかな……」
4人は、公園のさらに奥へ移動した。木々に囲まれた場所に、古びたベンチが1つだけ置かれている。入口からは遊具と植え込みが重なって死角になっており、住宅街からも離れている。人に話を聞かれる可能性は低そうだった。ハルナとヒナが並んでベンチへ腰を下ろす。リョウヘイとユイは座らなかった。2人を囲むように、それぞれベンチの左右へ立つ。ユイの意識は、目の前のハルナだけに向けられていた。
だが、リョウヘイは違った。
公園の入口。
木々の隙間。
遊具の陰。
住宅街へ戻る道と、反対側の道路へ抜ける道。話が始まってからも、周囲への警戒を解くことができなかった。ここはハルナの家から15分ほど離れている。すぐに連れ戻されるような距離ではない。それでも、絶対に安全だという保証はどこにもなかった。何かが起きた時には、ハルナを逃がす。
自分が守らなければならない。
そう考えながら、リョウヘイはベンチの右側へ立ち、4人以外の気配がないかを探り続けていた。ハルナは膝の上で両手を重ねた。何度か指を組み直してから、わずかに顔を上げる。
「前にさ……私の音楽のルーツ、聞きたがってたよね」
突然出てきた言葉に、リョウヘイは視線だけをハルナへ戻した。
「夏祭りの時か……」
みんなで行った夏祭りの、あの夜。ハルナは、また今度話すと言って笑っていた。
「そう。リョウヘイくんと、ヒナちゃんがオリジンを話してくれたよね」
ハルナも思い出したように、ほんの少しだけ口元を緩める。
「そこから話そうかな」
夜風が木々を揺らした。
葉の擦れる音が途切れるのを待ってから、ハルナは静かに話し始めた。
「私のお母さんもね、ピアニストだったんだ」
「だった……?」
ヒナが小さく聞き返す。
その言葉が過去形であることに気づいたのだろう。ハルナはヒナの疑問には答えず、そのまま続けた。
「小学生の頃に、お母さんに憧れてピアノを教えてもらうようになったの。私、なんか才能あったみたいでさ。コンクールとかにも出て、たくさん賞をもらったりしてたんだよ」
少しだけ胸を張り、冗談めかして笑う。まるで昔の自慢話を披露しているような口調だった。だが、笑っているのはハルナだけだった。
ユイもヒナも、何も言わない。
リョウヘイも笑えなかった。
その笑顔が、楽しそうに見えなかったからだ。笑わなければ、話を続けられない。今にも崩れそうな自分を支えるために、無理やり口元を持ち上げているようにしか見えなかった。
「でも、中学生になるとね……周りにもすごい子がいっぱいいて」
ハルナは自分の指先へ目を落とす。
「私なんて、すぐに埋もれちゃったんだよね」
よくある話だと、リョウヘイは思った。
幼い頃は周囲より優れていた。
だが、年齢が上がり、本格的に音楽を学んできた人間たちと競うようになると、その差は少しずつ縮まっていく。才能がなくなったわけではない。本人が下手になったわけでもない。ただ、競争する相手が変わっただけだ。それでも、幼い頃から勝つことを求められてきた人間にとっては、そんな理屈だけで受け入れられるものではない。
「子供の時みたいに、賞も取れなくなって……」
ハルナの声が細くなる。
「その頃かな……お母さんが、だんだんおかしくなっていったの……」
ユイの表情が険しくなる。
リョウヘイも、周囲へ向けていた意識の一部をハルナへ戻した。ハルナは泣きそうな顔のまま、それでも笑おうとしていた。
「急に壺とか買ってきてね……」
「壺……?」
ユイが眉をひそめる。
「うん。すごく高い壺。変なお祈りもするようになって……毎日決まった時間に、私の部屋にも来るようになったの」
ハルナは両手を握り締めた。
「でも、これは全部、私のためなんだって言ってた」
声が震え始める。
「これでもっと私が幸せになるからって。たくさんコンクールで金賞を取れるようになるからって……」
――宗教か。
リョウヘイの頭に、その言葉が浮かんだ。単なる教育熱心な母親ではない。ハルナの母親は、娘の成績が伸び悩んだことを受け入れられず、その原因も解決策も、まともではないものに求めてしまった。そして、その負担をすべてハルナへ背負わせた。
「それがきっかけで……お父さんも出ていっちゃって」
「お父さんが……?」
ヒナの声が揺れる。
「何度もお母さんを止めようとしてた。でも、喧嘩がどんどん増えて……最後には、家を出ていったの」
ハルナは俯いた。
「私、ピアノ……頑張ったんだけどなぁ……」
膝の上へ、1粒の涙が落ちる。
「もっと賞が取れたら、お母さんも元に戻ってくれると思って……。お父さんも帰ってきてくれると思って……。毎日、ずっと練習したんだけど……」
笑おうとした口元が、とうとう崩れた。
「ダメだったんだ」
隣に座っていたヒナが、そっとハルナの手を握る。ハルナの指は驚くほど冷たかった。ヒナも泣きそうな顔をしている。それでも何も遮らず、両手でハルナの手を包み込んだ。
「東音に入ったのもね……お母さんが決めたの」
ハルナはヒナの手を握り返した。
「ここでピアノを勉強して、プロのピアニストを目指してねって。もっといい先生に習って、もっと難しい曲を弾いて、今度こそ絶対に成功してねって……」
そこまで話したところで、ハルナは3人の顔を見た。
「でも……みんなと出会った」
リョウヘイは、静かに頷いた。
「ああ」
「私とユイちゃんがリョウヘイくんを誘って、3人でバンドを始めて……それから、ヒナちゃんとも出会って」
ハルナの瞳に、ほんの一瞬だけ柔らかな光が戻る。
「楽しかった」
誰に言うでもなく、噛み締めるように呟いた。
「ピアノを弾いてて、初めて楽しいって思えた。上手く弾けたからでも、先生に褒められたからでも、賞を取れたからでもなくて……」
ハルナがヒナの手を強く握る。
「みんなと一緒に音を出せることが、楽しかったの」
ユイが唇を噛み、俯いた。
リョウヘイも何も言えなかった。喜んでいい話のはずなのに、その楽しさがハルナを今の状況へ追い込んだのだと思うと、素直に受け取ることができない。
「委員長に立候補したのも……お母さんを安心させたかったから」
ハルナは続けた。
「学校でもちゃんと頑張ってるよって、アピールしたかっただけなの。本当は……やりたくなかった」
「うん……」
ユイが小さく返事をする。
「ああ……」
リョウヘイも頷いた。
入学初日。
誰も手を挙げなかった教室で、ハルナは自ら委員長へ立候補した。あの時は、真面目で責任感の強い人間なのだとしか思わなかった。
何も考えていなかった。
ハルナがどれほどの覚悟で手を挙げたのか。その行動の裏側に、どんな家庭があったのか。
――ハルナは、あの頃からずっと辛かったのか。
「夏の合宿も、特進クラスのことも……全部、嘘で通したの。ほとんど家に帰ってこなかったから……簡単に嘘をつけたよ」
ハルナの声が再び震える。
「ちゃんとピアニストになるために頑張ってるって、ずっと嘘をついてた。学校の特別な授業だとか、ピアノの勉強に必要なんだとか……」
「ハルナさん……」
「この前の文化祭ライブがきっかけで、lunatiのことがバレちゃったみたい……」
文化祭ライブの映像は、YouTubeに投稿されている。フユミが実際にライブを見に来たわけではない。だが、どこかでその映像を目にし、ハルナがバンド活動をしていたことを知ったのだろう。
「そしたら……」
言葉が途切れる。
ハルナの肩が大きく震えた。
「そしたら……もう東音には行かなくていいって……!」
堪えていたものが、ついに決壊した。
「バンドはもうやっちゃダメって……! ピアノ以外の音楽なんて、私を不幸にするだけだって……!」
「ハルナ……」
「みんなとも……会っちゃ……ダメって……!」
ハルナはヒナの手を握ったまま、声を上げて泣き出した。
「そんな……!」
ヒナが身を乗り出す。
「おかしいです、そんなの! ハルナさんが誰と会うかまで、お母さんが決めるなんて……!」
ハルナは泣きながら、何度も首を横に振った。
「私のせいなの!」
「違います!」
「お母さんを騙して……みんなのことも騙した! ずっと嘘ばっかりついてたから……こうなって当然なの……!」
「違うよ!」
ユイの声が、公園へ響いた。
「ハルナのせいじゃない!」
ベンチの前へ歩み寄り、ユイがハルナを真っすぐ見つめる。
「そんな母親の言うこと、聞くことないよ! ハルナは好きなことやっていいんだよ! ピアノだって、バンドだって、友達だって、全部ハルナが自分で決めていいの!」
「お母さんのこと、悪く言わないで!」
ハルナが反射的に叫び返した。
ユイが息を呑む。
ハルナ自身も、声を荒らげたことに驚いたようだった。それでも、すぐには言葉を取り消さなかった。
「昔は……とってもいい人だったの」
嗚咽を堪えながら、ハルナは言う。
「優しくて……いつも私のピアノを褒めてくれて……。失敗しても、次があるよって笑ってくれて……」
涙が次々と頬を伝う。
「大好きだったの……」
「ハルナ……」
リョウヘイは名前を呼ぶことしかできなかった。何が正しいのか、答えが出ない。ハルナをあの家から連れ出せば、それですべてが解決するわけではない。
住む場所。
学校。
生活費。
父親の所在。
母親との関係。
今夜だけ自由になったところで、根本にある問題は何一つ片付いていない。だからといって、このまま転校を受け入れさせることなどできるはずもなかった。ハルナが望んでもいない場所へ連れていかれ、ピアノだけを弾き続ける。
lunatiを奪われる。
ユイやヒナと会えなくなる。
自分とも。
そんな未来を、認められるはずがない。
何か方法があるはずだ。
父親を探すか。
ティアーユへ相談するか。
学校へ事情を話すか。
警察や児童相談所という選択肢もある。リョウヘイが必死に考えを巡らせた、その時だった。右側から、何かがぶつかってきた。
強く押されたわけではない。
肩がぶつかった程度の、ごく小さな衝撃。
「……え?」
右隣へ顔を向ける。
そこに、フユミが立っていた。
いつからいたのか分からない。
息を切らしている様子もなく、乱れた髪の隙間から、焦点の定まらない目でリョウヘイを見ている。
「おかあ……さん……?」
ハルナの掠れた声が聞こえた。
次の瞬間、右足から力が抜けた。
地面が傾く。
踏ん張ろうとしても、足が言うことを聞かなかった。
「リョウヘイ?」
ユイの声が聞こえる。
リョウヘイは、その場へ崩れ落ちた。
「リョウヘイさん!」
何が起きたのか分からない。
右足の感覚がない。
ただ、太ももの奥に異物が入り込んでいるような、吐き気を催すほど強い違和感があった。
リョウヘイは震える手を地面につき、ゆっくりと自分の右足を見る。
細身の包丁が、右の太ももに深く突き刺さっていた。




