#48 1もうこないで
長い沈黙が続いた……
「ハルナが学校を辞めるって……どういうこと……ですか……?」
ユイの震えた声が、静まり返った教室に響いた。ティアーユはすぐには答えず、わずかに目を伏せてから、小さく息を吐く。
「……そのままの意味です。昨日、ご家庭から学校へ電話がありました。ハルナさんは転校するので、必要な書類を送ってほしいと」
「転……校……?」
ヒナが呆然と呟く。
「なんですか、それ! 私、そんな話なんにも聞いてない! 意味分かんないですよ!」
ユイは勢いよく立ち上がった。
今にも教室を飛び出してハルナを探しに行きそうな彼女を、サクラが静かな声で制する。
「やめないか、ユイくん。先生の顔を見たまえ」
その言葉に、全員の視線がティアーユへ向いた。いつも冷静な彼女の表情は苦しげに歪み、悔しさと悲しみが隠しきれずに滲んでいた。
「先生だって、まだ受け止めきれていないんだ。そういう状況なんだよ」
「先生……」
リョウヘイが小さく呼びかけると、ティアーユはゆっくりと顔を上げた。
「本当に突然の電話でした。転校するので書類を送ってほしい、と。連絡をくださったのは……お母様です」
教室が再び静まり返る。
「私は本人とも話をしたいとお願いしました。ですが、断られてしまいました……。年末年始の間に、ご家庭で何かあったのかもしれません」
ティアーユの声は、わずかに震えていた。教師として何もできなかった悔しさと、生徒を守れないかもしれない焦り。その両方を無理やり押さえ込んでいるように見えた。
「ですが、このまま書類をお渡しするわけにはいきません。書類を渡すには、本人と保護者を交えた面談が必要だと伝えました」
一呼吸置き、ティアーユが続ける。
「……これは嘘です」
全員が息を呑んだ。
「これから、その3者面談をする予定です」
「じゃあ、ハルナは学校に来るんですね! だったら直接――」
表情を明るくしたユイだったが、ティアーユは静かに首を横へ振った。
「今は……誰とも話したくないそうです」
ユイの表情が再び沈む。
握り締めた拳だけが、小さく震えていた。
「3者面談には、誰も来てはいけません。まずは私が話を聞いてきます」
ティアーユが教室を出ようとした、その時だった。
「先生!」
綾坂が駆け寄り、手のひらに乗るほどの小さな機械を差し出す。
「これ…」
ボタンほどの大きさしかない、目立たない機械だった。ティアーユはその用途を察し、困ったように眉を寄せる。
「綾坂さん。気持ちは分かりますが……」
「先生……!」
フミが1歩前へ出た。
「お願い……」
短い言葉だった。
だが、教室にいる全員の願いが、その一言に詰まっていた。ティアーユはしばらくクラスを見つめたあと、小さく息を吐く。
「……いいでしょう」
綾坂から受け取り、胸元へ取り付ける。
「ですが、皆さんはここから動かないこと。絶対に無茶をしないと約束してください」
そう言い残し、ティアーユは3者面談へ向かっていった。扉が閉まると、教室には重苦しい沈黙だけが残る。
「なんで……なんでだよ……ハルナ……」
リョウヘイは机へ視線を落としたまま呟いた。突然すぎて、怒るべきなのか、悲しむべきなのかすら分からない。
「私……何かしたのかも……」
ユイの声には、いつもの明るさが欠片もなかった。
「私が何か嫌なことしたから、話してくれなかったのかな……。謝ったら、許してもらえるかな……」
「そんなわけない……!」
今にも泣き出しそうなヒナが、強く顔を上げる。
「ハルナさんが……lunatiを……こんな形で終わらせるわけない……! 何も言わずにいなくなるなんて、絶対におかしいです……!」
誰も言葉を返せない。
「君たち……」
サクラが何かを言いかけた、その瞬間だった。
「繋がった!」
綾坂の声に、全員が振り向く。
ノートパソコンの画面には音声受信ソフトが立ち上がり、波形が小刻みに動いていた。先ほどティアーユへ渡したピンマイクから、面談室の音声が送られてきている。教室中の視線が、パソコンのスピーカーへ集まった。
『お待たせしました。担任のティアーユです』
ティアーユの声に続き、柔らかな女性の声が聞こえる。
『ハルナの母、フユミです。いつも娘がお世話になっております』
フユミと名乗った女性は、ハルナによく似た、おっとりとした声で挨拶をした。柔らかな口調も、穏やかな物腰も、一見すれば優しそうな母親にしか思えない。
『早速ですが、先生。転校の書類をいただけます?』
『その前に、まずは少しご本人と話をさせてください』
ティアーユがそう告げると、フユミは隣に座る娘へ声をかけた。
『ほら、ハルナ』
少し間があった。
そして、か細い声がスピーカーから聞こえた。
『先生……今まで、ありがとうございました』
『ハルナさん……』
ティアーユが呼びかけても、返事はない。
『この子ったら、私に内緒でバンドなんてやっていたんですよ』
フユミは、困った子供の失敗を話すように小さく笑う。
『もともとはクラシックを学ばせるために、この学校へ入学させたんです。それなのに、ピアノサークルに入ったなんて嘘までついて。特進クラスに所属していることだって、この前初めて聞いたんですよ?』
『普段は、あまりご自宅にいらっしゃらないのでしょうか』
『はい。母親として、外でやることがありますので』
フユミは悪びれる様子もなく答えた。
『ですが、これからはなるべくそばにいてあげようと思っています。まだまだ子供ですから、少し目を離すとワガママを言ってしまうようですし』
衣擦れのような小さな音が聞こえた。フユミがハルナの肩へ手を置いたのだろう。その直後、ハルナが小さく息を呑む音がスピーカーから漏れた。
姿は見えない。
それでも、身体を強張らせたことだけは嫌でも伝わってきた。教室で聞いていたユイが、口元を押さえる。
ヒナの顔から血の気が引いた。
リョウヘイは何も言えず、ただスピーカーを睨んでいた。
『というわけで先生、書類をいただけます?』
しばらくの沈黙のあと、紙を動かす音が聞こえた。
『ありがとうございます。それでは、失礼いたします』
椅子を引く音と、足音。
扉が開き、2人が面談室を出ていく。ハルナは最後まで、ティアーユにも、自分たちにも何も訴えなかった。扉が閉まってからも、スピーカーからは何の音も聞こえない。
書類を渡してしまった。
その事実を前に、教室の誰も口を開けなかった。
バゴンッ!
突然、パソコンのスピーカーから激しい衝撃音が響いた。ユイの肩が跳ね、ヒナが口元を押さえる。
説明されなくても分かった。
1人になったティアーユが、机を殴った音だった。
しばらくして、ティアーユが教室へ戻ってきた。表面上はいつもの冷静さを取り戻していたが、右手は赤くなり、その声には隠しきれない悔しさが滲んでいる。
「お力になれず……すみませんでした」
「そんなことない……」
綾坂が静かに首を振った。
「先生、ハルナは絶対に言わされてる」
リョウヘイが断言すると、ユイも勢いよく立ち上がる。
「そうだよ! 絶対なんか変だよ! あんなのハルナの言葉じゃない!」
「分かっています」
ティアーユは苦しそうに目を伏せた。
「ですが、教師という立場では、これが限界です。本人が転校に同意し、保護者も手続きを希望している以上、これ以上ご家庭の事情へ踏み込むことはできません」
「そんな……」
ヒナの顔から力が抜けた。
「ただ……ここに」
ティアーユは鞄から1枚の書類を取り出し、机の上へ置く。
「ハルナさんの自宅住所が記載された書類があります」
全員の視線が、その紙へ集まった。ティアーユは書類から手を離すと、わざとらしくこめかみを押さえる。
「私は少し休みます。疲れているので……書類を忘れてしまいそうです」
数秒の沈黙。
最初に意味を察した綾坂が、何も言わずにティアーユを見る。
サクラも小さく頷いた。
「それでは、失礼します」
ティアーユは書類を置いたまま、教室を出ていった。扉が閉まった瞬間、ユイが紙を掴み取る。
「今すぐみんなでハルナの家に行こう! 直接話そう!」
「そうしましょう!」
ヒナも迷うことなく頷く。
「アンタたちだけで行きなさい」
綾坂の言葉に、ユイが振り返った。
「え……?」
「私たちが大勢で押しかけても、ハルナは余計に話せなくなる。それに、向こうのお母さんを警戒させるだけよ」
サクラも静かに頷いた。
「私たちでは、きっと駄目だ。今のハルナくんに必要なのは、クラスメイト全員ではない」
フミがリョウヘイたちを見る。
「……バンドメンバー」
リョウヘイは住所を確認し、短く息を吐いた。
「行こう」
リョウヘイ、ユイ、ヒナの3人は、ハルナに会うため教室を飛び出した。ハルナの家までは、東音から電車を1度乗り換えて、およそ40分。移動中も3人は落ち着かなかった。
駅を出てしばらく歩くと、騒がしい駅前とは打って変わり、静かな住宅街が広がっていた。
その中でも、目的の家は少し目立っている。高い塀に囲まれた広い敷地と、手入れの行き届いた庭。2階建ての立派な1軒家を見上げ、リョウヘイは住所の書かれた紙を確認した。
「清水谷……ここか……」
「チャイム……押す……?」
ユイが不安そうにインターホンを見つめる。
「たぶん、普通に行ってもハルナには会わせてくれないだろうな」
「メールも見てもらえてないです……。どうしたら……」
ヒナが携帯の画面を見つめていた、その時だった。
ピンポーン。
リョウヘイが迷わずチャイムを押す。
「えっ、押しちゃうの!?」
「恐らく、携帯も自由に使えないんだろ。没収されたか……下手したら捨てられたかもしれない。ここを逃したら、もう会えなくなる可能性がある」
リョウヘイは門の横へ視線を送り、声を落とした。
「賭ける。2人は隠れててくれ。ハルナが出てきたら、そのまま連れ出す」
ユイとヒナは顔を見合わせ、真剣な表情で頷いた。2人が塀の陰へ隠れると、インターホンから女性の声が聞こえてくる。
『はい?』
「ハルナさんのクラスメイトです。クラスのみんなで寄せ書きを書いたので、直接ご本人に渡したくて」
母親か……
リョウヘイは顔や服装がカメラへ映りすぎないよう、わざとインターホンへ近づいた。なるべくこちらの情報を与えず、ただのクラスメイトだと思わせる。
『分かりました。少し待ってください』
しばらくして、玄関の鍵が開く音がした。ガチャリと扉が開き、姿を見せたのはハルナではなく、先ほど面談室で声を聞いたフユミだった。
ハズレか……!どうする…!?
「わざわざありがとう。私からハルナに渡しておくわ」
フユミはそう言って手を差し出した。早く寄せ書きを渡せとでも言いたげだった。
リョウヘイは咄嗟に片足を差し込み、扉が閉じるのを止めた。そして、家中へ届くように声を張り上げる。
「ハルナぁ! 聞こえるか!」
「ちょ、ちょっと、何を――」
「ルナを見に行こう! 絶対に! 一緒にルナを見に行こう!」
「なんなの、あなた!」
フユミがリョウヘイの胸を思い切り突き飛ばす。
「う゛っ……!」
リョウヘイは足をもつれさせ、門の前へ倒れ込んだ。
「もう2度と来ないで!」
フユミは吐き捨てるように言い、勢いよく扉を閉めた。
続けて鍵のかかる音がする。
「リョウヘイさん!」
隠れていたヒナとユイが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!?」
「うん。ちょっと尻打っただけ」
リョウヘイは腰を押さえながら立ち上がった。
「リョウヘイ、さっきの……」
「伝わったかな」
「今夜、抜け出してってことですよね……?」
ヒナの言葉に、リョウヘイは頷いた。
それは去年、まだlunatiのロゴを決めていた頃のことだった。ミーティングルームの机いっぱいに紙を広げ、ユイが太いペンを握っている。
「lunatiの“ルナ”って、月って意味もあるんだよ! だからロゴに月とか入れたら、カッコよくない!?」
「いいかも! こんな感じはどうかな?」
ハルナが紙を1枚引き寄せ、慣れた手つきでペンを走らせた。夜空に浮かぶ月と、その下に並ぶlunatiの文字。短い時間で描いたとは思えないほど、綺麗にまとまっている。
「わっ、素敵です!」
ヒナが目を輝かせる。
「おー、上手いもんだな」
「lunatiは、夜空の月がよく似合いそうだなって!」
ハルナは描き上げたロゴを掲げ、嬉しそうに笑っていた。あの時の会話を、ハルナが忘れているはずがない。
「ヒナに伝わったなら、きっとハルナにも伝わってる」
リョウヘイは、カーテンの閉じられた2階の窓を見上げた。
「2人とも、夜まで待てるか? 俺はファミレスでずっと粘るけど」
「アタシも行く」
ユイが即答する。
「私もです」
ヒナも迷わず頷いた。
その頃、家の中では、ハルナが階段の方を気にしていた。
「今の、なんだったの? すごく大きな声がしたけど」
「ハルナに寄せ書きを渡したいって言ってきた男の子がいたの。でも突然、大声で変なことを言い出したから、びっくりしちゃった」
「そう……」
ハルナは俯いた。
リョウヘイくんだ。
ルナを見に行こう。
その言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥で消えかけていたものが、微かに灯った。
「お母さん、携帯貸して」
「どうして?」
「もう来ないでって連絡するから。そうしたら、もう来ないと思う」
フユミは少し考えたあと、ハルナへ携帯を渡す。
「ちゃんと送った画面を見せてね。送ったら、またお母さんが預かるから」
「うん」
ハルナはメッセージ画面を開き、リョウヘイの名前を選んだ。フユミがすぐ隣から画面を見ているため、長い文章は打てない。ほんの一瞬だけ指を止め、それから短いメッセージを送信した。
『1もうこないで』
「ほら」
「……1?」
「間違えて送っちゃった。でも、もう会うこともないから……」
「そうね」
フユミは携帯を受け取り、満足そうに微笑んだ。
「明日は転校先の先生にご挨拶しなくちゃね。そうだわハルナ、新しい靴をプレゼントに買ってきたの。今日からそれを使って。きっと良いところに連れて行ってくれるわ」
「うん、ありがと」
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近くのファミレスでは、リョウヘイたちが窓際の席を陣取っていた。ドリンクバーだけで長時間粘り続けているため、店員から若干怪しまれ始めている。テーブルの上に置いていたリョウヘイの携帯が震えた。
「……ハルナからだ」
その一言で、ユイとヒナが身を乗り出す。画面に表示されたのは、たった1行のメッセージだった。
『1もうこないで』
「もう……こないで……」
ヒナの顔が曇る。
「ハルナ……」
ユイも唇を噛み、俯きかけた。
しかし、リョウヘイは画面を見つめたまま動かなかった。
「……違う」
「え?」
「ハルナが、こんな打ち間違いするわけない」
リョウヘイは、メッセージの先頭にある数字を指差す。
「あいつはメッセージを送る前に、誤字脱字がないか何度も確認しないと気が済まないタイプだ。間違えたまま送るなんて、まずあり得ない」
「……そうだよ!」
ユイも気づき、勢いよく顔を上げる。
「ハルナ、句読点までちゃんと確認するもん! こんな間違い、絶対しない!」
「じゃあ、親御さんがそばで見ている中で……わざと?」
ヒナが数字を見つめる。
リョウヘイは現在時刻を確認した。
「1時だ」
「1時……?」
「日付が変わった深夜1時。ハルナはその時間に家を出るつもりだ」
今は夕方の5時を過ぎたところだった。リョウヘイは椅子の背にもたれ、長く息を吐く。
「あと8時間か……。お前ら、待てるか?」
「うん。ハルナに会えるなら、いくらでも待つ!」
ユイは迷わなかった。
「私も待ちます! お母さんに連絡しておきます!」
ヒナも携帯を取り出す。
3人は、ファミレスの窓から少しずつ暗くなっていく空を見つめた。今できることは、ハルナの合図を信じて待つことだけだった。




