#45 東音祭、大トリ
ADAMASの演奏が終わったあとも、大音楽室を揺らす歓声は、しばらく収まらなかった。ステージ袖から見える客席では、興奮した生徒たちが腕を上げたまま、隣同士で何かを叫び合っている。床には、つい先ほどまで鳴っていた低音の振動が残っているようだった。転換スタッフがステージへ駆け込み、ドラムセットやアンプの位置を素早く入れ替えていく。
その横を通り抜けながら、リョウヘイは1度だけ客席を覗いた。
1階席はほぼ満席。
後方まで人が立ち、通路脇にも生徒が集まっている。2階席には、保護者や学校関係者に交じって、スーツ姿の大人たちが座っていた。胸元へ関係者証を下げ、資料を手にしている者もいる。
――思ってたより多いな。
緊張はなかった。
正確には、緊張を感じるより前に、身体がライブへ向けて切り替わっていた。
客席の人数。
会場の広さ。
天井の高さ。
前のバンドが残していった熱。
そのすべてを見た瞬間、前世から何度も繰り返してきた感覚が戻ってくる。ここから先は、考える場所ではない。
音を出す場所だ。
「リョウヘイ」
ユイの声に振り返る。
ベースを抱えたユイが、いつになく静かな顔で立っていた。
「どうした?」
「……人、多くない?」
「多いな」
「だよね」
「今気づいたのか?」
「さっきまではADAMASが格好よすぎて、客席まで見てなかった」
「見ても見なくても一緒だよ。演奏が始まっちゃえば関係ない」
ユイは小さく息を吐き、ベースのネックを握り直した。顔には笑みが残っている。
けれど、右足のかかとが細かく上下していた。
「緊張してる?」
ハルナが隣から尋ねる。
「し、してない」
「足がすごく動いてるよ」
「これは準備運動」
「どこの筋肉ほぐしてるの?」
「アキレス腱?」
「なんで疑問系?」
ハルナはそう言いながらも、自分の両手を何度も擦り合わせていた。冷えているのだろう。
演奏前になると指先が冷たくなる。その癖を、サクラにはすでに見抜かれている。ヒナは3人の会話へ加わらず、ギターの弦を1本ずつ小さく鳴らしていた。足元には、使い慣れたメタルゾーンと、新しく加わったマルチエフェクター。
アンプはMESA。
ギターは、今回の曲に合わせて選んだストラトキャスターだった。
普段の愛用機とは違う。
それでも、もう借り物を抱えているようには見えなかった。自分の音を出すための道具として、ヒナの身体へ馴染み始めている。
「ヒナは?」
リョウヘイが呼ぶ。
「はい」
ヒナはギターから視線を上げなかった。
「緊張してる?」
「してません」
「ユイと同じ答えだな」
「私は、本当にしてません」
「手、震えてるけど」
ヒナの右手が止まる。
数秒、自分の指先を見たあと、静かに答えた。
「ふふ。これは……武者震いです」
「格好いい言い方を選んだな」
「今日は、格好よく弾くので」
小さな声だった。
だが、迷いはなかった。
その先で、サクラがマイクを持ったまま客席を見ていた。
姿勢はいつもどおり。
表情にも余裕がある。
数百人の観客を前にしても、普段のラウンジで歌う時と何も変わらないように見えた。
「師匠」
ユイが呼びかける。
サクラは客席から視線を外さずに答えた。
「なんだい、我が愛弟子や」
「緊張しないんですか?」
「するよ、それなりにね」
意外な答えに、ユイが目を丸くする。サクラはそこで初めて振り返った。
「緊張するから楽しいんだ。怖くても戦うから面白いんだよ」
口元に笑みを浮かべる。
「何も感じなくなったら、その時は歌うのをやめた方がいいね。ボーカリストにとって大事な感性が足りないよ」
「師匠でも緊張するんだ……」
「私を何だと思ってたの?」
「歌の神様」
「分かっているじゃないか」
「ホントにすごいなぁ…」
ハルナが思わず笑う。
その笑いで、5人の間に張っていたものが少しだけ緩んだ。インカムをつけたスタッフが走ってくる。
「転換完了です。照明が落ちたら、位置についてください」
「ありがとう。ご苦労様」
サクラが代表して答える。
その直後。
大音楽室の照明が、ゆっくりと暗くなり始めた。客席から、わずかなざわめきが聞こえる。
「え、もう終わり…?」
「違うよ、特進!」
「大トリだ!」
声が暗闇の中で交差する。
ステージ袖も、次第に光を失っていく。
「行こうか」
サクラが言った。
その声を合図に、5人はステージへ出た。客席からは、まだ姿が見えない。足元の小さな誘導灯だけを頼りに、それぞれの位置へ向かう。
ハルナはグランドピアノへ。
ユイはステージ左手のベースアンプ前へ。ヒナは反対側のギターアンプ前へ。リョウヘイは中央後方のドラムセットへ座った。サクラは、何も置かれていないステージ中央へ立つ。
綾坂は客席後方の音響卓。
フミはその隣の照明卓。
全員が所定の位置へついた。
それでも、音は鳴らない。
大音楽室は完全な暗闇へ沈んでいた。客席のざわめきだけが聞こえる。リョウヘイはスティックを握り、暗闇の中でゆっくりと息を吸った。
客の声。
足音。
誰かが椅子へ座り直す音。
遠くで小さく咳き込む音。
まだ、こちらを待つ空気にはなっていない。ハルナが考えた演出は、照明が消えた瞬間に始まっている。客席が静かになるまで、何もしない。焦って音を鳴らせば、ただの空白になる。待ち切れば、静寂そのものを演奏の一部へ変えられる。
1秒。
2秒。
3秒。
ざわめきが少しずつ小さくなる。大音楽室にいる全員が、暗闇の中で何かを待ち始める。照明卓の前で、フミはフェーダーへ指を置いていた。暗いステージの中央には、フミにしか見えないサクラの姿がある。
何度も確認した立ち位置。
何度も試した光の角度。
それでも本番のサクラは、フミの予想より遥かに大きく見えた。フェーダーを上げる前から、そこに光が集まっているようだった。
「……サクラ」
小さく名前を呼ぶ。
誰にも届かない。
届かなくてよかった。
フミはゆっくりと指を動かした。1本のピンスポットが、真上からステージ中央へ落ちる。暗闇の中に、サクラの姿だけが浮かび上がった。白い光が長く細い髪を照らし、肩と頬の輪郭を切り取る。サクラは目を伏せたまま、静かに立っている。
フミは息を止めた。
「……とても、綺麗」
舞台上のサクラが、ゆっくり顔を上げた。
客席を見る。
そして、深く一礼した。
拍手が起きた。
最初は前方から。
すぐに後方と2階席へ広がり、まだ1音も鳴っていないステージへ、大きな拍手が降り注ぐ。ドラムセットへ座るリョウヘイは、暗闇の中で客席を見渡した。
(サクラ先輩の学校での知名度は、もちろん知ってたけど)
入学前からプロとして活動し、学校でも知らない者はいない。文化祭で彼女が歌うことを目当てに来た観客も多いのだろう。
それにしても。
(ここまでとはな)
頭を下げただけで、客席が沸く。まだ歌っていないのに、全員の視線がサクラから離れない。
(すごいカリスマだ……)
サクラは拍手が鳴り止むまで動かなかった。
早く始めようともしない。
自分へ向けられた期待も、拍手も、すべて当然のように受け止めている。やがて、会場が再び静かになる。
フミが次のフェーダーへ手を伸ばした。
ステージ右手へ、淡く柔らかな光が灯る。グランドピアノの前へ座るハルナの姿が、暗闇から浮かび上がった。ハルナは鍵盤へ手を置かず、膝の上で指を握っていた。客席からもう1度、拍手が起きる。
自分へ向けられた拍手。
作曲者としてではない。
まだ、観客は何も知らない。
ただ、今から音を鳴らす1人の演奏者へ向けられたものだ。
ハルナの目が、少し赤くなった。既に集中してゾーンに入っている。
(落ち着いて……まだだよ)
すぐに弾き始めてはいけない。
拍手が残ったまま音を出せば、最初の1音が埋もれる。
自分で決めたことだった。
静寂を作る。
その静寂の中心へ、音を落とす。
ハルナは客席を見た。
最前列。
後方。
2階席。
以前なら、大勢の人間の顔が見えた瞬間に、指が動かなくなっていたかもしれない。
今は違う。
怖さはある。
それでも、この人たちへ曲を聴かせたいという気持ちの方が強かった。
最後の拍手が消える。
大音楽室の中から、余計な音がなくなる。ハルナはゆっくりと両手を持ち上げた。今回のために用意されたのは、いつもの電子キーボードではない。
本物のグランドピアノ。
黒い艶のあるボディー。
蓋の内側には、客席の光がかすかに反射している。
ハルナは右手を下ろした。
最初の和音が鳴る。
低く、柔らかい響きがステージから客席へ広がった。音を出した指先へ、木と弦の振動が返ってくる。
電子音ではない。
鍵盤の重さ。
ハンマーが弦を打つ感触。
生まれた音が、巨大な空間の中で広がっていく時間。
(いつものキーボードも悪くないけど…)
次の音を鳴らす。
余韻が消える前に、静かなアルペジオを重ねる。
(グランド……やっぱり気持ちいい……!)
そんなことを考えながら演奏できている。その事実に、ハルナ自身が驚いていた。緊張で手が止まると思っていた。最初の1音を外したらどうしようと、昨夜は何度も考えた。けれど、実際に音を出した瞬間。ここが自分の場所だと分かった。この曲を誰より知っているのは自分だ。
次にどの音が鳴るのか。
どこでサクラが息を吸うのか。
どこからユイたちが入るのか。
全部、自分が最初に思い描いた景色だった。
ハルナはもうミスをする気がしなかった。
ピアノの旋律が静かに続く。
サクラが目を閉じた。
胸へ息を入れる。
最初の歌声が、大音楽室へ響いた。
空気が変わった。
大きな声ではない。
むしろ、低く、息を多く含んだ声だった。それでも、会場の最も遠い場所まで、一言一言が明確に届く。
誰も咳をしない。
誰も身動きしない。
サクラの声が、観客の呼吸まで支配していた。高校生のライブにある、必死さや危うさとはまるで違う。難しい音程を取るために力んでいる様子もない。声量を見せつけようともしていない。ただ自然に歌っているだけで、圧倒的な差が伝わってくる。
それでも。
――まだ、本気を出していない
観客の表情を見れば分かった。
最初の1節を聴いただけで、全員が同じ予感を抱いている。この先、もっと大きなものが来る。
今は、まだ入口にすぎない。
ハルナのピアノへ、リョウヘイのドラムが加わった。
スティックを最小限の動きで小さなリズムを積み重ねていく。
人力でドラムをディレイさせて、サクラの声の下へ小さな波を作る。
ユイのベースも入る。
音数を抑え、低音を長く伸ばす。ヒナのギターは、歪みをほとんど感じさせないほど小さく鳴っていた。音の輪郭だけを残し、ピアノの間へ1音ずつ置いていく。
1人ずつ。
サクラの歌の周りへ、lunatiの音が集まっていった。
歌を囲む。
だが、閉じ込めない。
声が進む道を作り、その両側を支える。
最初のサビが近づく。
ハルナの左手が、少しずつ力を増していく。ユイのベースが次のコードへ向かう。ヒナが足元のペダルを踏む。
綾坂は音響卓の前で、深く息を吸った。
そして、目を閉じる。
視覚を切る。
客席も、ステージも、フェーダーの位置も見ない。
耳だけへ意識を集中させる。
サクラの声。
ユイのコーラス。
ハルナのピアノ。
ヒナのギター。
リョウヘイのキックとスネア。
会場の反響。
客席が吸い込む音。
スピーカーから出る音だけではない。大音楽室で起きているすべての響きが、綾坂の中へ流れ込んでくる。
サビの頭。
リョウヘイのキックが落ちる。
スネアが続く。
綾坂の眉が動いた。
次の1打。
その次。
さらに次。
目を開く。
「マジなの……リョウヘイ……」
思わず声が漏れた。
クリティカルヒット。
狙った音と、実際に鳴った音が完全に重なる1打。以前のリョウヘイは、それを6割ほどしか維持できていなかった。
決して低い数字ではない。
学生としては、異常なほど高い。それでも、綾坂には分かっていた。タイミングが合っていても、音量がわずかに違う。打点が数ミリずれ、倍音の出方が変わる。完成音源では補正できる程度の差。ライブなら、ほとんどの観客は気づかない差。だが今日のリョウヘイには、その差がない。
小さなゴーストノート、2拍目と4拍目のアクセント。
1つ1つが、狙った場所へ正確に落ちている。
(クリティカルヒットしまくってる……!)
ただ正確なだけではない。
強く鳴らしたい場所は強く。
抑えたい場所は、芯を失わずに小さく。同じ音量を繰り返すのではなく、必要な音を必要な強さで、迷いなく出し続けている。音量差を整えるために設定したコンプレッサーが、ほとんど反応していない。
(仕上げてきたってレベルじゃないよ……!)
綾坂は無意識にフェーダーへ手を置いた。
補正する場所を探す。
見つからない。
むしろ処理を加えることで、リョウヘイの音が持つ自然な強弱を潰してしまう。
(コンプなんていらない!)
設定をわずかに緩める。
余計な処理を外す。
(そのままの…)
ドラムの生音が、スピーカーから大音楽室へ広がる。
(純粋なリョウヘイの音を聴きたい……!)
綾坂の操作によって、リョウヘイの音が1段前へ出た。だが、サクラの歌を邪魔しない。声の背後から、巨大な手で押し上げるように支えている。
サクラも、その変化へすぐに気づいた。サビの高音を伸ばしながら、背中から届くドラムを聞く。
(リョウヘイくん……!)
強い。
ただ音が大きいのではない。
こちらが歌を強くすれば、それ以上の力で返してくる。抑えれば、息の隙間へ正確に音を置く。サクラの歌がどこへ行きたいのか、すべて理解されているようだった。
(すごいな……!驚いたよ……!)
さらに声を押し出す。
その瞬間も、ドラムは遅れない。
(この私が、パワー負けしそうだよ……!)
楽しくて仕方がなかった。
自分の声を壊すほど強い音ではない。それでも、一瞬でも気を抜けば置いていかれる。歌を支えてもらっているのに、同時に勝負を挑まれている。その感覚が、サクラの歌をさらに熱くしていく。
いつのまにかリョウヘイのドラムはステージだけではなく、会場全体を支配していた。誰も彼のリズムに逆らうことはできなかった。身体が勝手にリズムを取ってしまう。
リョウヘイから器力が溢れ出ていた。それを見たサクラは安心して声を委ねる事にした。
(もうミスる気がしないな…それに…)
視線をわずかに横へ動かす。
ユイがいる。
マイクへ向かい、サクラの旋律へ声を重ねている。この数週間、何度も練習したハーモニー。
音程は合っている。
呼吸の位置も、声の強さも間違っていない。けれど、それだけではなかった。以前のユイなら、サクラの声に引っ張られていた。圧倒的な歌へ近づこうとして、必要以上に力を入れ、自分の声を見失っていたかもしれない。今のユイは、サクラを追っていない。
後ろへ隠れてもいない。
前へ出ようともしていない。
自分の声を保ったまま、サクラの隣を走っている。
(いいぞ、ユイくん)
2人の視線が重なった。
ユイはハーモニーを崩さないまま、わずかに目を見開く。サクラは笑った。
(私の鞄持ちは、正解だったろう?)
口には出していない。
けれど、ユイには伝わったらしい。一瞬だけ頬を緩め、そのまま嬉しそうに笑い返した。ユイの声が、さらに自然に伸びた。無理にサクラへ合わせていない。自分の声を使いながら、1つの歌を作っている。サクラの胸へ、熱いものが込み上げた。
(あぁ…)
視界の端。
客席中央に、ティアーユの姿が見えた。腕を組むこともなく、ただまっすぐステージを見ている。
(ティアーユ先生…)
ハルナが作った曲。
フミが書いた言葉。
綾坂が届ける音。
lunatiの演奏。
すべてが、自分の歌をこれまで知らなかった場所へ運んでいる。1人で歌っていた時には、辿り着けなかった場所。
(見ていますか…?)
声を伸ばす。
観客の表情が変わる。
驚きから、感動へ。
曲の中へ引き込まれ、目元を押さえる者までいる。
(今日は…)
サクラの目が、少しずつ赤くなる。ゾーンへ深く潜り込んでいるのがわかる。
曲と自身の魂が一つになったような感覚をサクラは覚えた。
(なんて素晴らしい日なんだろう…)
サビが終わった。
サクラの声が静かに引き、ハルナのピアノだけが残る。次に来るものを、会場全体が待っていた。
その空白へ、ヒナのギターが入った。
最初の1音は、長いロングトーンだった。
MESAの厚い低音。
ストラトの鋭い輪郭。
使い慣れたメタルゾーンが作る、少し荒れた歪み。その後ろへ、マルチエフェクターのディレイが短い影を重ねる。
強く歪んでいる。
それでも、音の芯は潰れていない。美しく、痛いほど真っすぐな音が、大音楽室の奥まで伸びていく。
ヒナは前へ出なかった。
ステージ中央へ歩くことも、派手に身体を反らすこともしない。自分の立ち位置から1歩も動かず、ただ全身でサクラだけを見ていた。
左手で弦を押し上げる。
音程がゆっくりと上がる。
指先が痛い。
弦が皮膚へ食い込む。
それでも止めない。
派手な速弾きは必要なかった。
音数を増やせば、言いたいことが薄くなる。この1音を、最後まで鳴らし切る。
それだけでいい。
(全部…!)
歯を食いしばる。
次の音。
さっきより強く、右手のピックが弦へ食い込む。
音が泣く。
ヒナ自身の喉から出せない声が、アンプを通して会場へ広がる。
(サクラ先輩のために…!)
目元が熱くなる。
視界が少し滲む。
それでも、サクラの姿だけは見失わない。サクラが歌った感情を、ここで途切れさせたくなかった。その続きを、自分のギターが引き受ける。
(死んでも弾く!!)
次のロングトーン。
ディレイが音を追いかける。
会場の壁へぶつかり、さらに遠くまで広がっていく。サクラは歌わずに、赤い目を真っ直ぐに向けてくる、ヒナのギターソロを見ていた。
(ヒナくん…)
逃げていない。
隠れてもいない。
すべてを音へ変え、正面からぶつけている。
(すご…すぎる…)
サクラは驚いた。
先程のリョウヘイ以上の器力を見せつけてきたヒナにだ。
リョウヘイの支配領域内にヒナ専用の領域が犯すように展開されている。
ある種の催眠状態になった客は自然とヒナを見てしまう。
サクラもそうだった。目が離せなかった。
ヒナの最後の音が、ゆっくりと消えていく。ディレイの残響だけが、空間へ薄く残った。その余韻を切るように、曲が一気に萎む。
ドラムが消える。
ベースが消える。
ギターも消える。
ブレイク。
暗闇の中で、フミが照明のフェーダーを操作する。
ステージに残った光は2つ。
サクラ。
そして、グランドピアノのハルナ。冒頭を思い返すような、静かな景色だった。
ハルナが鍵盤を押す。
1音。
その余韻へ、サクラの歌が重なる。
落としサビ。
先ほどまで会場を満たしていた音圧が消えたことで、サクラの息遣いまで客席へ届いていた。
誰も声を上げない。
誰も手を叩かない。
数百人の観客が、たった1人の歌と、1台のピアノだけを見つめている。ハルナは鍵盤を弾きながら、サクラの背中を見た。
――この曲を作ってよかった。
自分が置いた音へ、サクラが声を乗せている。
想像していたより美しく。
想像していたより強く。
それでも、自分が作った曲だと分かる。サクラの歌が曲を別物へ変えたのではない。ハルナが描いた景色を、さらに遠くまで広げてくれている。
(フミ先輩…)
照明卓にいるフミの姿は見えない。それでも、今どんな顔でサクラを見ているのか、少しだけ分かる気がした。
(やっぱりサクラ先輩、すごいです)
落としサビが終わりへ近づく。
暗闇の中で、リョウヘイはスティックを構えた。次の1打から、最後のサビまで全員を連れていく。
派手なフィルは必要ない。
ここで自分が目立てば、サクラとハルナが作った静寂が壊れる。必要なのは、観客全員へ次の1拍を予感させる音。
小さなキック。
深いスネア。
1打1打、少しずつ重さを増やしていく。
ユイのベースが戻る。
ヒナのギターも、小さな音で加わる。ステージ上の人間だけではない。客席にいる全員が、次の1拍を身体で待ち始めていた。
誰も声を上げていない。
それでも、会場全体の呼吸が同じ場所へ集まっている。
リョウヘイは赤い目で客席を見た。
一瞥しただけで求められているグルーヴがわかった。
最後のサビ。
ほんの少しだけ、重く入る。
1打。
その音に合わせて、会場にいる人間の身体が一斉に動いた。
頭が揺れる。
肩が上がる。
誰かの足が床を踏む。
音が、観客全員の身体を動かした。音響卓の前で、綾坂が歯を食いしばる。
「くぅ……!」
(なによ、それ……!)
予告されていた1打だった。
何度もリハーサルで聞いた。
タイミングも知っていた。
それなのに、本番の音はまるで違った。会場全体が、1発のスネアへ引っ張られた。
(気持ちいぃ……!)
背中から、ぞくぞくとした感覚が駆け上がる。フェーダーへ置いた指から、力が抜けそうになる。
このまま音へ身体を預けたい。
卓から手を離し、観客の1人になりたい。
(ダメ…!)
綾坂は自分の頬を軽く叩いた。
(仕事しなきゃ!)
どの音も、少しでも判断を誤れば全体の中へ埋もれる。全員が最高の演奏をしているからこそ、綾坂が失敗すればすべてが崩れる。
フェーダーを動かす。
サクラの高音へ合わせて、わずかに空間を広げる。ヒナのギターを前へ出しすぎず、それでもソロの余韻は残す。
ユイの声をサクラの隣へ置く。
リョウヘイのドラムは、もう触らない。
そのままで完成している。
口元の笑みだけは、どうしても消せなかった。
照明卓では、フミが進行表を見ずにフェーダーを動かしていた。
すべて覚えている。
サクラが息を吸う場所。
ハルナのコードが変わる場所。
ヒナの音が伸びる時間。
リョウヘイが最後のサビへ入れる1打。
曲のすべてを知っている。
それでも、実際の演奏は想像を越えてくる。
サクラへ当てる光を強くする。
その周囲へ、少しずつ色を足す。
最後のサビでは、赤い目をした5人全員の姿が見える。
ユイはコーラスを歌いながら、胸がいっぱいになっていた。
サクラの声が、隣から飛んでくる。
もう怖くない。
自分の声も、ちゃんと同じ場所へ届いている。
リョウヘイのドラム。
ハルナのピアノ。
ヒナのギター。
客席後方には綾坂。
その隣にはフミ。
(みんな、すごいよ……!)
心の中で、1人ずつ名前を呼んだ。
何を伝えたいのか、自分でも分からない。
ありがとうなのか。
楽しいなのか。
ここにいられて嬉しいのか。
全部なのかもしれない。
言葉にしようとすれば、どれも少し違う。
だから歌う。
今出せる声を、サクラの隣へ置く。気づけば、ユイの目も赤くなっていた。
最後のフレーズへ入る。
サクラが声を伸ばす。
ユイが重ねる。
ヒナのギターが、その周囲を上がっていく。ハルナのピアノが、曲の始まりから続いてきた旋律を最後の場所へ導く。リョウヘイは、最後の1打を狙う。
呼吸。
重心。
再現性。
そして魂。
体全体が、自然に1つの動きへ繋がる。
スティックを振り下ろした。
最後の和音。
ハルナが鍵盤を押さえる。
ヒナが音を伸ばす。
ユイとサクラの声が重なる。
シンバルが、大音楽室いっぱいに広がった。
曲が終わった。
誰も動かなかった。
ステージ上の5人も。
客席の人間も。
音響卓の綾坂も。
照明卓のフミも。
最後の余韻が消える。
それでも、反応がない。
数秒。
会場には、何の音も返ってこなかった。
リョウヘイは客席を見た。
最前列の生徒が、口を開けたまま動いていない。2階席の大人たちも、資料へ何かを書き込むことさえ忘れている。
失敗したわけではない。
分かっていた。
観客が、まだ曲の中から戻れていない。
まるで夢でも見ているかのような錯覚を起こしていた。
やがて。
パチ…パチ…
前方から、弱々しい拍手が1つ聞こえた。
別の場所から、もう1つ。
パチ。
パチ、パチ。
1つずつ重なる。
拍手は急速に数を増やしていった。
大音楽室全体へ広がる。
音が重なり、嵐のような拍手へ変わる。
歓声が上がった。
立ち上がる観客。
隣の人間と顔を見合わせ、何度も手を叩く生徒。
目元を押さえながら泣く者。
2階席の関係者たちも、ステージへ向けて拍手を送っていた。
サクラが1人で前へ出る。
中央へ立ち、ゆっくりと頭を下げた。
拍手がさらに大きくなる。
その後ろで、リョウヘイ、ユイ、ハルナ、ヒナの4人も揃って一礼した。この順番も、ハルナが仕込んだ演出だった。
誰が主役なのか。
誰のために作った曲なのか。
客席から見れば、すぐに分かる。4人が先に頭を上げ、ステージ袖へ向かう。
サクラだけは、中央に残った。
客席へ手を振る。
笑顔には余裕がある。
ゆっくりと歩き出し、退場していく。
最後まで観客の視線を受け止めながら、少し遅れて袖へ下がった。
誰が主役だったのか。
最後の瞬間まで、疑う余地はなかった。音響卓の前で、綾坂が大きく息を吐く。
握っていた指を開く。
手のひらには、薄く汗が滲んでいた。
「さ」
隣のフミへ顔を向ける。
「いろんな意味で、本番はこれからだよ……」
フミは客席の拍手を聞きながら、短く頷いた。
「うん」
ーーーーーーーーーー
ステージ袖へ戻ったユイは、ベースを抱えたまま両腕を上げた。
「終わったーー!」
「まだだよ」
ハルナが即座に止める。
「アンコールあるから」
「確定なの?」
「聞いてくださいユイさん」
ヒナが客席側へ顔を向ける。
拍手は鳴り止んでいない。
それどころか、1度退場した5人を呼び戻そうと、次第に一定のリズムへ変わっていく。
アンコール!
アンコール!
声が重なる。
1階席から2階席へ広がり、ステージ袖の壁まで震わせる。リョウヘイは客席の方向へ耳を澄ませ、口元を上げた。
「どうやら、おかわりみたいだな」
「本当に来た……」
ハルナが小さく呟く。
自分でアンコールまで計画していた。来る可能性が高いとも思っていた。それでも、実際に数百人から求められる声を聞くと、身体が震えた。
ユイは飛び跳ねる。
「行こう! 早く!」
「待って」
サクラが4人の前へ立った。
先ほどの曲を歌い切った直後とは思えないほど、呼吸は落ち着いている。
「ここからは、君たちが主役だよ!」
4人を順番に見渡す。
「私のことは心配しなくていいから、思いきりカマすといいよ!ここじゃあカマす事が礼儀作法だよ!」
「天才の心配なんかしない。バッチリカマしてやるからついてこいよ!」
リョウヘイが答えた。
サクラは一瞬だけ目を丸くする。
そのあと、声を上げて笑った。
「君は本当に面白いね!」
マイクを握り直す。
「さあ、行こうか! 声援に応えようじゃないか!」
「はい!」
ユイが真っ先に答える。
ヒナとハルナも頷いた。
5人は再びステージへ向かった。暗かった会場へ、今度は一気に照明が戻る。鮮やかな色が、ステージを横切った。客席は、5人の姿が見えた瞬間にさらに沸いた。待っていたと言わんばかりの拍手と歓声。先ほどまでの静かな空気は、もうどこにもない。
ユイがマイクの前へ走り出る。
ベースを肩へ掛けたまま、客席へ大きく手を振った。
「アンコールありがとう!」
歓声が返ってくる。
音の塊が、ステージへぶつかる。ユイはその声を身体いっぱいに受け止め、さらに叫んだ。
「みんな最高!」
その一言だけで、会場の熱が1段上がった。先ほどまで椅子へ座り、静かにサクラの歌を聴いていた観客たちが、今度は一斉に腕を上げる。ユイは嬉しそうに笑い、ベースのネックを掲げた。
「最後は、ぶち上げていくよ!」
リョウヘイがスティックを構える。ヒナがギターのボリュームを上げる。ハルナの両手が鍵盤の上へ置かれる。サクラもユイの隣へ立ち、マイクを握った。
ユイが大きく息を吸う。
「みんな、準備はいい!?」
大音楽室が揺れた。
観客の声。
床を踏む音。
手拍子。
そのすべてを切り裂くように。
ジャーン!
5人全員が、まったく同じタイミングで音を鳴らした。
ギター。
ベース。
鍵盤。
ドラム。
そこへ2人の声が重なる。
巨大な1つの音の塊が、ステージから客席へ叩きつけられた。
観客がさらに沸く。
1曲目とは、何もかもが正反対だった。静かにさせるための音ではない。考える時間も与えず、全員を巻き込み、身体を動かさせるための音。
ユイが歌う。
サクラが隣で声を重ねる。
今度はサクラが主役ではない。
ユイの歌を押し上げながら、同じステージを楽しんでいる。リョウヘイのドラムが、全員を前へ押し出す。ヒナのギターが、客席の歓声の上を走る。ハルナの鍵盤が、曲の隙間へ鮮やかな音を足す。綾坂は1曲目とは異なる音響プランへ切り替え、最初から最大の熱量を客席へ届ける。フミの照明も、曲の展開へ合わせて激しく動いた。
色が切り替わるたび、同じステージが別の場所へ変わっていく。
ユイが客席を煽る。
観客が応える。
その声を受けて、演奏がさらに強くなる。演奏が強くなれば、客席も負けじと大きな声を返す。互いに熱を投げ合い、会場全体が1つのライブを作っていた。ヒナは、先ほどのソロとは別人のように身体を動かしていた。
派手に前へ出ることはない。
それでも、足元のペダルを切り替え、荒々しい歪みを会場へ放つ。
長いロングトーンではない。
短く鋭いフレーズを、何度も客席へ突き刺していく。ユイは歌いながら、何度もヒナを見る。
ヒナも一瞬だけ視線を返す。
ハルナは鍵盤を弾きながら、2人の様子を見て笑っていた。リョウヘイは、その全員をドラムの後ろから眺める。4月には、まだバンドですらなかった。ギターと間違えてベースを買ったユイ。人前で弾くことを怖がっていたハルナ。壁の向こうからしか音を出せなかったヒナ。
それが今。
数百人の観客を相手に、1歩も引かずに演奏している。
リョウヘイはスティックを振り下ろした。
スネアが鳴る。
1発。
2発。
すべてが狙った場所へ落ちる。
クリティカルヒット。
だが、もうそれを数えてはいなかった。
数える必要がない。
音を出したい場所へ、身体が自然に動く。目の前の仲間と客席を見ながら、必要な1打を選び続ける。綾坂は音響卓で、その完璧なドラムを聞いて笑った。
1曲目とは違う。
精密さは変わらない。
だが、今度は荒々しい。
正確なまま暴れている。
「ほんと、なんなの……!」
嬉しそうに呟き、ドラムのフェーダーを少しだけ前へ出す。
客席がさらに跳ねた。
ユイが最後のサビへ入る。
サクラも横で声を重ねる。
2人の歌が、大音楽室の天井へ突き抜けた。ハルナが演奏しながら、フミのいる照明卓を見る。遠すぎて、表情までは分からない。
それでも照明が変わる。
自分が欲しいと思った瞬間に、欲しい色が落ちる。
言葉にしなくても、曲を通して繋がっている。
ハルナは鍵盤を強く押した。
その音へ合わせて、フミが照明を1段明るくする。
ステージ全体が光に包まれた。
曲が終わりへ向かう。
リョウヘイが最後のフィルへ入る。
タムを回し、スネアへ戻る。
全員が最後の1音を待っている。アイコンタクトは必要なかった。
何度も合わせた。
5人の呼吸は揃っている。
最後の1拍。
全員が同時に音を鳴らした。
巨大な和音が、客席へ飛んでいく。
照明が一斉に白く弾けた。
次の瞬間。
すべての音が止まる。
大音楽室へ、この日1番の歓声が響いた。
ユイはベースを掲げた。
ヒナはギターを抱えたまま、息を切らして笑っている。ハルナは鍵盤へ両手を置き、客席を見つめていた。サクラは隣で、満足そうに4人を見ている。リョウヘイはスティックを持った両腕を上げた。客席後方では、綾坂が音響卓へ身体を預け、大きく息を吐いている。フミは照明卓のフェーダーから手を離し、光の中に立つサクラとlunatiを見つめていた。
7人で作ったステージだった。
誰か1人が欠けても、同じ景色にはならなかった。
静寂から始まり。
最後には、音と光と歓声がすべて混ざり合った。こうして、天瀬サクラ feat. lunatiによる文化祭ライブは、大成功のうちに幕を閉じた。東音祭の最後に残ったのは、演奏の余韻と、鳴り止まない拍手。
そして。
7人全員が、次の音を鳴らしたくて仕方がないという、どうしようもない衝動だった。
イメージソング
ENDLESS STORY/YUNA ITO
でーれえれぇ/鳴ル銅鑼




