#43 全ては唄の為に
ハルナが初めて自分の曲へ手を伸ばしてから、1週間が経った。放課後のミーティングルームには、特進クラスの7人が集まっていた。長机の上にはノートパソコンや譜面、歌詞を書き散らした紙、綾坂が持ち込んだ小型スピーカーが所狭しと並んでいる。それぞれが別の場所で進めてきた作業を、初めて1つの場へ持ち寄る日だった。
「じゃあ、進捗を確認するか」
リョウヘイが全員を見回す。
「まず曲。フミ先輩とハルナ、どこまでいきました?」
「できた」
答えたのはフミだった。
あまりに迷いのない一言に、ユイが目を丸くする。
「できたって、もう?」
「うん」
「1曲まるごと?」
「うん」
「フミ先輩、今の会話、同じ言葉だけで押し切ろうとしてません?」
「だって、できたから」
ユイが感心している横で、ハルナは膝の上に置いた両手を落ち着かなそうに組み直していた。ノートパソコンはすでに開かれている。画面にはDTMソフトの編集画面が表示され、いくつものトラックが色分けされて並んでいた。
「正確には、デモまでです。歌も生演奏も入ってないし、アレンジもまだ直すところがあるけど……曲の形は、最後まで作りました」
「ハルナくんが?」
サクラが驚いたように聞く。
「はい」
ハルナは答えたものの、サクラと目が合った瞬間に視線を画面へ戻した。サクラが聞いていたのは、以前の曲を7人用に組み直し、天瀬サクラ feat. lunatiとして文化祭のトリを飾るという話だった。少なくとも、サクラはそう聞いていたはずだ。
「前の曲をアレンジしたんじゃないんだね」
サクラの声から、普段の柔らかな笑いが少しだけ消える。
ハルナの肩が強張った。
代わりに、フミが口を開く。
「新しい曲」
「どうして?」
「新しいサクラが、見たいから」
短い言葉だった。
サクラはフミの顔をじっと見つめる。長い付き合いの2人にしか分からない何かを、そのわずかな表情から読み取ろうとしているようだった。
フミは視線を逸らさない。
「私が作ると、いつものサクラになる」
「いつもの私じゃ、駄目?」
「駄目じゃない」
フミは1度言葉を切った。
「でも、もっとある」
サクラの目が、ほんの少し見開かれる。
「ハルナなら、見つけられる」
ハルナが隣で息を呑んだ。
自分へ向けられた信頼を、本人の前で改めて言葉にされた。その重さに、指先がまたわずかに震え始める。サクラはしばらく黙っていたが、やがて椅子へ深く座り直した。
「分かった。聴かせてもらおうかな」
その一言で、室内の空気が引き締まった。
ハルナはマウスへ手を置く。
「まだ仮の音ばかりです。ボーカルも、ピアノでガイドメロディーを入れてあるだけで……」
「ハルナ」
ユイが声をかける。
「大丈夫。早く聴かせて」
「それ、励ましてるようで圧が強いよ」
「待てないだけ」
「正直だな」
リョウヘイの言葉に小さな笑いが起こり、ハルナの肩から少しだけ力が抜けた。
1度、大きく息を吸う。
「再生します」
クリック音とともに、スピーカーから静かなピアノが流れ始めた。最初に鳴ったのは、たった1つの和音だった。余韻が消えきる前に、右手のアルペジオがゆっくりと重なる。音数は少ない。派手な仕掛けもない。それでも、1音ごとの間にまで意志があり、次の音を待つ時間さえ曲の一部になっていた。
「バラードか……!」
リョウヘイが呟く。
文化祭のトリと聞けば、多くの人間は観客を跳ねさせる曲を想像する。大きな音、速いテンポ、分かりやすい掛け声。最後に全員で拳を上げられるような、華やかな曲。ハルナが選んだのは、その正反対だった。静かなピアノの奥へ、薄いストリングスが加わる。まだ打ち込みの音ではあるが、旋律を押し上げるのではなく、背中へそっと手を添えるように鳴っている。
ヒナは目を閉じたまま、わずかに身体を揺らしていた。綾坂はスピーカーへ顔を向け、低域と空間の広がりを確かめるように耳を澄ませている。ユイは口を閉じたまま、ガイドメロディーを追っていた。無意識なのか、息を吸う場所までピアノに合わせている。そしてサクラは、動かなかった。曲の最初から、ただ画面を見つめている。
「このキー……」
やがて小さく声を漏らす。
「私が1番、低い声を綺麗に出せるところから始まってる」
ハルナが頷いた。
「はい。サクラ先輩のライブ映像と、前に歌ってもらった音源を何度も聴きました。低音は息を多く残した時が1番綺麗で、そこから上がっていく時は、少しだけ声が掠れる瞬間があって……その音を、最初に聴かせたかったんです」
サクラがハルナを見る。
「私の歌い方、そこまで調べたの?」
「サクラ先輩のために作るなら、知らないままでは作れないと思ったので」
ハルナは再び画面へ視線を戻した。
「この曲は、最初から最後まで、全てがサクラ先輩のために鳴るように作りました」
言葉にすると、急に恥ずかしくなったのだろう。最後の方は少しだけ声が小さくなった。
しかし、曲は止まらない。
Aメロを抜けると、ベースの仮音源が加わった。派手には動かず、ピアノの下でゆっくりと呼吸している。
ユイが反応する。
「ここ、アタシ?」
「うん。大事な言葉は2人で歌ってほしいの」
「サクラ先輩の後ろから入るんじゃなくて?」
「後ろじゃなくて、隣にいてほしいから」
ユイは一瞬、何も言わなかった。それから、嬉しさを隠しきれない顔で頷く。
「分かった。絶対いい声にする」
「うん…!」
曲は少しずつ音数を増やしながら、最初のサビへ向かっていく。ドラムの仮トラックは、キックとスネアを中心にした単純なものだった。だが、その単純さの中にも、サクラの歌が最も前へ出る場所が考えられている。リョウヘイは膝の上で小さく指を動かした。
ここは叩きすぎない方がいい。フィルで次へ押し込むより、サクラの息が切れる瞬間まで待つ。サビの頭も、クラッシュを強く鳴らすのではなく、余韻の長い音で空間を広げた方が曲に合う。聴いているだけで、自分がどこへ音を置くべきかが見えてくる。よくできた曲は、演奏者へ命令しない。代わりに、最も美しい場所を自然と指し示す。
「……すごいな」
リョウヘイの口から、素直な言葉が漏れた。
ハルナがこちらを見る。
「本当?」
「ああ。俺が何を叩けばいいか、もう見えてくる」
その一言に、ハルナの表情が明るくなった。次の瞬間、ピアノの音が1段高い場所へ駆け上がった。
サビだった。
ガイドメロディーが大きく開き、ストリングスが左右へ広がる。それまで抑えられていた感情が、ようやく声を上げるような旋律だった。
「うわ……」
ヒナが小さく声を漏らす。
サクラは、自分の歌が入っていないにもかかわらず、わずかに唇を動かしていた。初めて聴くメロディーを、その場で自分の声へ置き換えている。高音へ上がる直前、旋律は1度だけ低い場所へ落ちる。そこから跳ね上がる音程が、サクラの声にある強さと危うさを同時に引き出すように作られていた。
「これ……私に歌わせる気だね」
サクラが、曲を聴いたまま笑う。
「はい」
ハルナは緊張しながらも、はっきり答えた。
「簡単には歌えないようにしました」
「いいね」
サクラの笑みが深くなる。
「私、簡単な曲を渡されると少し寂しいんだ」
「知ってます」
「そこまで分かったんだ」
「フミ先輩にも聞きました」
サクラの視線がフミへ移る。
「フミ?」
「事実」
「私の扱い方を共有してる?」
「必要だから」
「取扱説明書みたいに言わないでよ」
サクラは笑っていた。
その声には、最初にあったわずかな警戒はもう残っていない。
サビが終わる。
ピアノだけの短い間奏を挟み、音源は2番へ向かわず、そのまま大きな空白を作った。ハルナがマウスを握ったまま、ヒナを見る。
「ここから、ヒナちゃんのギターソロ」
「私の……?」
「うん。泣いてるみたいな、歪んだ音が欲しい」
ヒナの瞳に、はっきりと光が灯る。
「歪んだ、泣きのソロ……!」
「サクラ先輩の歌がサビで1度全部を出し切って、その続きの感情を、ヒナちゃんのギターに引き継いでほしいの」
ヒナは画面の波形を食い入るように見つめた。
「長さは?」
「今は8小節。でも、必要なら伸ばす」
「音数は?」
「任せる」
「MESAを使ってもいいですか!」
「もちろん」
「マルチのディレイも試したいです!」
「綾坂さんと相談して、1番いい音にして」
「はい!」
数秒前まで静かに聴いていた人間とは思えない勢いだった。
綾坂が隣で笑う。
「ヒナっち、もう頭の中で弾いてるでしょ」
「少しだけです!」
「指が動いてるよ」
ヒナは慌てて膝の上の左手を止めた。
曲は最後のサビへ入る。
今度はユイのコーラスが厚く重なり、ピアノ、ギター、ベース、ドラム、ストリングスが1つずつ広がっていく設計になっていた。それでも、中心からサクラの歌が消える瞬間はない。すべての音がサクラを飾るのではなく、彼女がまだ見せていない表情を引き出すために存在している。最後は、最初と同じピアノの和音へ戻った。
長い余韻が消える。
誰もすぐには口を開かなかった。ハルナの指だけが、再生を終えたマウスの上で小さく震えていた。最初に息を吐いたのは綾坂だった。
「驚いた」
画面へ身を乗り出す。
「文化祭のトリだから、もっと分かりやすく盛り上げる曲にすると思ってた。全員で跳べるようなやつ」
「私も最初は、そう考えたんだけど」
ハルナが答える。
「でも、ほかの出演者もきっと盛り上がる曲をやると思うんです。最後まで同じ方向で競うより、その空気を全部壊したくて」
「壊すって…」
ユイが聞き返す。
「私たちが始まった瞬間、会場を静かにするの。みんなが騒ぐのをやめて、サクラ先輩の最初の1声を待つしかなくなるくらい」
ハルナの声は、話すほどに熱を帯びていった。
「静かな曲だから弱いんじゃなくて、静かにさせるくらい強い曲にしたい」
リョウヘイは思わず口元を上げた。文化祭らしい盛り上がりを否定するのではない。その先にあると思われている正解を、真正面から裏切る。以前なら、ハルナがこんな大胆な案を出すとは思わなかっただろう。誰かの意見をまとめ、安全な場所へ着地させることが得意だった彼女が、今は自分から会場全体をひっくり返そうとしている。
「最高だよ、ハルナ!」
ユイが机へ両手をついた。
「やろう! 絶対これがいい!」
「まだサクラ先輩の返事を聞いてないよ」
「断らないでしょ」
「勝手に決めないの」
そう言いながらも、ハルナの顔にはようやく安堵が浮かんでいた。
全員の視線がサクラへ集まる。
サクラは椅子へ座ったまま、閉じたノートパソコンの黒い画面を見つめていた。
やがて、フミへ目を向ける。
「フミは、この曲でいいの?」
「この曲がいい」
「自分で作りたかったんじゃない?」
「ハルナの曲を、私が完成させる」
フミは静かに続けた。
「歌詞は、私が書く。サクラのために」
サクラの表情が止まる。
フミが自分のために曲を書くことは、これまでにもあった。だが今回は、ハルナが作った新しい器へ、フミが言葉を入れる。2人が別々の方向から、自分のまだ知らない歌を引き出そうとしている。
「……ずるいなあ」
サクラが小さく笑った。
目元が、ほんの少しだけ潤んでいた。
「そんなこと言われたら、歌わないなんて言えないじゃん」
「歌って」
「もちろん」
サクラは椅子から立ち上がる。
さっきまでの柔らかな表情が消え、ステージへ立つ時の目に変わっていた。
「天瀬サクラ feat. lunatiの曲は、これでいこう」
その言葉に、全員が頷いた。
「それと、もう1つあります!」
緊張から解放された反動なのか、ハルナが勢いよく手を上げた。
「まだあるの?」
リョウヘイが聞く。
「多分、私たちは文化祭のトリで、すごくいいライブすると思うの」
「ハルナ、自分で言うようになったな」
「そこは言い切った方がいいと思って」
「正しい」
フミが頷く。
「それで、ライブが終わったら、アンコールが来る」
「来なかった場合は?」
綾坂の質問に、ハルナは一瞬だけ詰まった。
「……きっと来るはず…」
「自信持ちなよ」
「今のは忘れてください!」
耳を赤くしながら、ハルナは咳払いをする。
「アンコールが来たら、その時はlunatiの曲をやりたい。このバラードで1度全部を聴かせたあと、最後は4人の曲で一気に盛り上げるんです」
「いいじゃん!」
ユイが即答する。
「最後は暴れて帰ってもらおう!」
「客を追い出すみたいに言うな」
「サクラ先輩も一緒に歌ってください!」
ユイが振り返る。
サクラは少しだけ考えるふりをしてから、口元を上げた。
「ゲストボーカルってこと?」
「はい、師匠!」
「それなら、弟子が恥ずかしくない演奏をしてくれないとね」
「急に条件が重い!」
「でも、やるんでしょう?」
「もちろんです!」
リョウヘイも頷いた。
「アンコールまで含めて、いい流れだと思う。最初は天瀬サクラ feat. lunati。そこで全員の音を聴かせて、最後はサクラ先輩にも入ってもらってlunatiの曲で締める」
「賛成」
綾坂がタブレットへ必要な作業を書き込み始める。
「じゃあ、本番用の音響プランも2曲分作る。バラードは歌を最優先。アンコールはバンドの勢い優先で、最初から音圧を変える」
「照明も変える」
フミが続く。
「最初は、暗く。最後は全部使う」
「歌詞は?」
サクラが聞く。
「明日、渡す」
「早いね」
「もうある」
「あるんだ」
ハルナが驚いてフミを見る。
フミは何も言わず、ノートパソコンの横に置かれた小さなノートを閉じた。曲を作っているハルナの隣で、ずっと言葉を探していたのだろう。
「じゃあ、デモ音源を共有します」
ハルナがクラウドへファイルをアップロードする。
「サクラ先輩とユイちゃんは、歌とコーラス。ヒナちゃんはギターソロ。リョウヘイくんはドラム。綾坂さんは音響、フミ先輩は歌詞とアレンジの仕上げをお願いします」
「ハルナは?」
リョウヘイが尋ねる。
ハルナは自分の名前を言い忘れていたことに気づき、少し困ったように笑った。
「私は、全部がちゃんとサクラ先輩のために鳴っているか、最後まで確認します」
「作曲者らしい仕事だな」
その言葉に、ハルナは照れながらも、今度は否定しなかった。
「3日後、最初の合わせをします」
全員の端末へ、共有されたデモ音源の通知が届く。さっきまで1台のスピーカーから流れていた曲が、今度は7人それぞれの手元へ渡っていく。
まだ、ガイド音源にすぎない。
サクラの歌も、ユイの声も、ヒナのギターも、リョウヘイのドラムも入っていない。綾坂の音響も、フミの歌詞も完成していない。それでも、曲の中心だけは、もう揺らがなかった。
サクラのために。
その1つの目的へ向かって、7人の音が初めて同じ場所へ集まり始めた。




