#42 レベルアップ
練習室
乾いたスネアの音が、防音室の壁へ一定の間隔で跳ね返っていた。テンポは60。1拍につき、1打。リョウヘイは曲を叩かず、同じ高さから同じ場所へスティックを落とし続けていた。
パン。
わずかに浅い。
パン。
今度は狙った音に近い。
パン。
左手へ余計な力が入った。
以前なら、その程度の違いは演奏の流れへ押し込んでいた。バンド全体で鳴らせば気づかれない。ライブなら勢いで届く。そう考えて、次の1打へ進んでいた。
今は違う。
スマートフォンで録音した音を止め、1発ずつ波形を確認する。音量だけではない。アタックの硬さ、胴鳴りの長さ、余韻の消え方。同じ音を狙ったはずなのに、並べてみれば1つとして完全には揃っていない。
「もう1度」
誰に言うでもなく呟き、スティックを構える。
そこから10発。
最後の1打を打ち終えたところで、背後から声がした。
「65パーセントほどでしょうか」
リョウヘイは振り返らず、肩を落とした。
「先生、せめて入ってきた時に言ってくださいよ」
「言いました。聞こえていなかったのでしょう」
前回と同じ返答だった。
リョウヘイが振り向くと、ティアーユは防音扉の脇で腕を組んでいた。表情はいつもどおり穏やかで、今の評価が褒め言葉なのか、まだ足りないという宣告なのか判別しづらい。
「65……」
「前回は60でした。改善しています」
「5パーセントか」
「5パーセントです」
数字だけなら小さい。だが、この数日、空き時間のほとんどを1打1打の確認へ使って、ようやく増えた5だった。リョウヘイはスティックを膝へ置き、録音画面を見下ろす。
「自分では、もうちょっと揃ってきたと思ってました」
「揃ってきています。ただし、途中から左手の握りが深くなっています。音を合わせようとするほど、力で制御しようとしている」
言われて右手を見る。確かに、親指の付け根が少し白くなっていた。
「当たった音を再現しようとしすぎて、身体が固まっているのでしょう」
「正解を覚えようとしてるのに、それが邪魔になるんすね」
「音だけを覚えるのではなく、その音が出た時の身体を覚えてください。力の量、呼吸、椅子へ乗っている重心。スティックの先だけを見ていても、同じ1打にはなりません」
リョウヘイは1度、目を閉じた。上手く叩こうとすると、どうしても手先へ意識が集まる。だが、ドラムは手だけで鳴らす楽器ではない。右足が少し強く踏み込めば、上半身の重心も変わる。呼吸が止まれば、肩が固まる。ほんのわずかな変化が、最後にはスティックの先へ現れる。分かっていたはずのことを、精度だけに意識を向けた途端、見失っていた。
「もう1回、お願いします」
ティアーユは頷き、壁際へ下がった。リョウヘイは深く息を吸い、ゆっくり吐く。右足をペダルへ置き、両肩の力を抜いた。
10発。
今度は音だけを追わない。自分の身体がどこにあり、どこへ力が流れ、どこで抜けているのかを確かめる。最後まで叩き終えると、ティアーユは少しだけ間を置いた。
「先ほどより、よいですね」
「何パーセントですか?」
「数字を聞かなければ続けられませんか?」
前に自分へ向けられた言葉を返され、リョウヘイは苦笑した。
「そうでした」
ティアーユは扉へ向かい、そこで1度だけ足を止める。
「ですが、良い変化です。続けてください」
短い言葉を残し、防音室を出ていった。リョウヘイは閉じた扉をしばらく見つめ、それからスティックを握り直す。
「あと35%か」
100パーセントへ届く日が来るとは思っていない。それでも、昨日より1つ近づくことはできる。メトロノームが、次の1拍を告げた。
パン。
また1打目から始める。
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とあるライブハウス
薄暗いフロアでは、開場前のリハーサルが進んでいた。ステージ上をスタッフが行き交い、アンプからは途切れ途切れにギターの音が鳴る。客席後方のPAブースでは、エンジニアが何度もフェーダーを動かしていた。ユイは舞台袖で、サクラから預かったトートバッグを両腕へ抱えている。
「ユイくん。そこだとスタッフさんの通り道になるよ」
マイクの前からサクラに言われ、ユイは慌てて1歩下がった。
「すみません!」
「見学する時は、まず邪魔にならない場所を探す。昨日の課題、まだ継続中だね」
「難しい……!」
サクラは小さく笑い、客席後方へ顔を向けた。
「もう少しハイを削ってください。あと、モニターのボーカルを少し上げてもらえますか?」
『了解です』
返ってきた声を聞き、サクラは短く発声する。学校のラウンジで話す時と、口調そのものは変わらない。それでも、現場では1つ1つの言葉に迷いがなかった。どこが足りず、何を変えれば歌いやすくなるのか。それを自分の感覚だけで終わらせず、スタッフへ正確に渡している。ユイはサクラの背中から目を離せなかった。
ーーワンコーラス合わせてみます
サクラがそう宣言した。
ドラムのカウントが鳴る。
イントロが始まり、照明が切り替わる。サクラが最初の1音を歌った瞬間、まだ誰もいない客席の空気が変わった。大きな声を出したわけではない。派手に動いたわけでもない。それでも、そこへ視線を集める力があった。低い音は床を這うように伸び、高い音は天井へ突き抜ける。フレーズの最後で息を残す場所も、言葉を強く押し出す場所も、すべてが曲の感情へ繋がっていた。
ユイは、トートバッグを抱く腕へ無意識に力を込める。
歌が上手い。
そんな一言では足りなかった。
1曲が終わり、サクラがマイクから口を離す。
「ユイくん、どうだった?」
「……なんていうか、圧倒的…」
「曲を支配してこそボーカリストだよ。曲に振り回されているようでは2流だ」
「誰もいないのに、本番みたいに歌うじゃないですか」
「リハーサルだからね」
「普通、リハーサルってもうちょっと力を抜くものじゃないんですか?」
サクラは額の汗をタオルで拭きながら、少し考える。
「喉を守るために出力を調整することはあるよ。でも、気持ちまで抜いたら確認にならないでしょう?」
「気持ちの確認?」
「本番で初めて本気になる歌は、私は信用してないんだ」
柔らかい声だった。だが、その言葉だけは、ステージ上の照明より強くユイへ届いた。
「どの言葉で客席を見るか。どこで息を吸うか。苦しくなった時に、どこまで声が残るか。全部、本気でやらないと分からないから」
ユイはステージを見上げた。
これまで自分は、感情のまま歌うことを長所だと思っていた。楽しい時は楽しく、腹が立てば強く、悲しければ声を震わせる。その瞬間の気持ちが、そのまま歌になる。
サクラも感情で歌っている。
ただし、感情へ振り回されてはいない。いつでも必要な場所へ届けられるように、技術で道を作っている。
「私、今まで本番の勢いで何とかしてたかも」
「それもユイくんの武器だよ」
サクラはすぐに否定しなかった。
「でも、勢いを100回同じ場所へ飛ばせたら、もっと強いでしょう?」
ユイの脳裏に、リョウヘイが練習室で同じ音を繰り返していた姿が浮かんだ。
歌も同じなのだ。
1度だけ届く声ではなく、届けたい時に届く声へ変える。
「サクラ先輩」
「なに?」
「再現性ってやつですか?」
「そうさ。技術の再現性、それと魂の話さ」
「技術の再現性と、魂…?」
「迷いたまえ子羊。出口に着く頃には立派な猛獣になっているだろうさ。また後でね、リハの続きだ」
ユイはバッグを邪魔にならない場所へ置き、ステージのサクラと同じように足を開いた。
次のカウントが始まる。
誰もいない客席へ歌うサクラのすぐ横で、ユイは声を出さずに、その呼吸を追い始めた。
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レコーディングルーム
「もう1回、同じフレーズお願い!」
コントロールルームから綾坂の声が飛ぶ。防音ガラスの向こうで、ヒナはいつものギターを構え直した。足元には愛用のメタルゾーン。その隣には、学校から借りた大型のマルチエフェクターが置かれている。ヒナは複雑そうに2台を見比べた。
「綾坂さん。本当に、両方使うんですか?」
「使えるものは全部試す。採用するか決めるのは、そのあと」
「でも、マルチを通すと、音が少し綺麗すぎる気がします」
「綺麗なのが悪いんじゃなくて、ヒナっちが汚したいだけでしょ」
「そうです!」
即答だった。
綾坂は吹き出しながら、トークバックのボタンを押す。
「じゃあ、その綺麗な音を、どこまでヒナっちらしく汚せるか試そう。まずストラトで同じ設定」
「ストラトもですか!」
「さっきのハムバッカーと比べる」
ヒナはブースの隅へ立てかけてあったストラトキャスターを手に取った。軽くコードを鳴らしただけで、さっきまでの太い音とは違う、輪郭の鋭い響きが返ってくる。
「……やっぱり、この高音は好きです」
「でしょ?」
「でも、lunatiには細すぎる気もします」
「決めるの早い。MESAへ繋いで、低域を足してみて」
「MESAとストラト……!」
ヒナの目が輝いた。
迷っていた手が急に速くなり、ケーブルを差し替える。アンプの前へ置いたマイクの位置まで自分で確認し、ピックアップを切り替えた。
「綾坂さん、センターじゃなくてリアで録ってください! あと、マイクを少しだけ外側へ! さっきより歪みも上げたいです!」
「はいはい。急に注文が増えたね」
「比較ですから!」
「楽しくなってきただけじゃない?」
「それもあります!」
隠す気はなかった。
録音が始まる。
ヒナが同じギターリフを弾くと、鋭いアタックの後ろから、MESAの厚い低音が押し寄せた。さらにマルチエフェクターで足した短いディレイが、音の輪郭を崩さず奥行きだけを広げている。弾き終えたヒナは、すぐにコントロールルームへ駆け込んだ。
「今の、聴かせてください!」
綾坂が再生ボタンを押す。
スピーカーから流れた音に、ヒナは身を乗り出した。
「すごい……! 細くないです! ちゃんと前に出るのに、低音も残ってます!」
「マルチのディレイも悪くないでしょ」
「……悔しいですけど」
「何と戦ってるの?」
ヒナは愛用のメタルゾーンを両手で持ち上げた。
「これだけで、全部できると思っていたので」
使い込まれたペダルには、塗装の剥がれも、何度も踏み込んだ傷も残っている。8年という時間を、一緒に鳴らしてきた相棒だった。新しい機材を使うことが、古い相棒を否定するように感じていたのだろう。綾坂はペダルとマルチを交互に見て、肩をすくめた。
「捨てるなんて誰も言ってないよ」
「でも、新しい方が便利です」
「便利なやつが増えただけ。ヒナっちの1番が減るわけじゃない」
ヒナは黙って、手の中のペダルを見る。
「それに、そのエフェクターを前段へ繋いだから、今の音になったんだよ。マルチだけじゃ出てない」
「……一緒に使ったから?」
「そう。アナログかデジタルか、どっちかを選ぶ必要ないでしょ」
ヒナは再びスピーカーから流れる音へ耳を澄ませた。長く使ってきた歪みの癖は、確かに残っている。その先へ、今までなかった広がりが足されていた。
「相棒が、増えただけ……」
「重そうだけどね」
「持ちます!」
「文化祭まで毎日?」
「必要なら!」
「そこは台車を使おうか」
綾坂が笑い、ヒナも小さく笑った。守ることと、変わらないことは同じではない。大切な音を残したまま、新しいものを受け入れることもできる。ヒナはマルチエフェクターの前へしゃがみ込み、まだ触っていない項目を指差した。
「綾坂さん。このピッチシフターも試していいですか?」
「もちろん」
「では、全部聴きます!」
その返事を聞いた綾坂は、長くなりそうだと分かっていながら、楽しそうに新しいトラックを追加した。
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ラウンジ
夕暮れのラウンジには、ハルナとフミだけが残っていた。窓の外では山の端へ日が沈みかけ、橙色の光がテーブルの上へ長く伸びている。ハルナのノートには、この1週間で覚えたDTMソフトの操作や、フミが使っていたコード進行、音色の重ね方が細かな字で書き込まれていた。
「ここ、ストリングスを薄く入れた方が、サクラ先輩の歌が広がると思います」
ハルナが画面を指差す。
フミは数秒だけ再生し、首を横へ振った。
「まだ早い」
「サビまで取っておくんですか?」
「うん」
「なるほど……」
ハルナはすぐにメモを取る。見学を始めてから、分からないことは増える一方だった。それでも以前とは違い、分からないまま眺めて終わることはない。自分なりの案を言い、フミの判断と比べる。それを繰り返すうちに、少しずつ音の置き方が見えるようになってきた。
フミが再生を止めた。
「ハルナ」
「はい」
「曲、作って」
ハルナのペンが止まる。
「……どの部分ですか?」
「全部」
「全部?」
「文化祭の曲」
ハルナは目を見開いた。
先日の話し合いでは、サクラが以前の課題で作った曲を7人用に広げ、天瀬サクラ feat. lunatiとして完成させる予定だった。フミとハルナがアレンジを担当することになっていた。
「でも、前の曲を使うんじゃ……」
「あれは、使わない」
フミの返事に迷いはなかった。
「新しく作る」
「フミ先輩が、ですか?」
「ハルナが」
ハルナは自分を指差した。
「私?」
「うん」
「待ってください。私、最初から1曲作ったことなんてありません。今までだって、伴奏を考えたり、コードを直したりしたくらいで……」
「知ってる」
「それなら、どうして」
フミはすぐには答えなかった。
長い前髪の奥から、開いた画面ではなく、ハルナ自身を見ている。
「ハルナの曲が、聴きたい」
短い言葉だった。
だからこそ、冗談でも気休めでもないことが伝わった。ハルナは胸の前でノートを抱える。
「私に、できると思いますか?」
「できる」
「どうしてですか?」
「人を、よく見てる」
フミは画面へ視線を戻した。
「誰を目立たせるか。分かってる」
ハルナの胸へ、少しずつ言葉が染み込んでいく。自分は、強い音を出せるわけではない。ユイのように直感で場を動かすことも、ヒナのように1つの音へ執着することもできない。その代わり、誰が困っているか、何が足りていないかを見つけることは得意だった。クラス委員長をしていた頃から、ずっとそうやって人の間へ立ってきた。フミは、それを作曲の力として見ている。
「少し、長い話」
そう前置きしてから、フミは途切れ途切れに話し始めた。
「去年。特進の先生は、別の人だった」
売れる曲を作ること。人に求められる形へ近づけること。それを何より優先する教師だったという。
「私は、嫌いだった」
年が明け、担任がティアーユへ変わった。課題を越えられず、多くの生徒が普通科へ戻った。
「残ったのは、私とサクラ」
たった2人になった特進クラスで、フミはサクラのために曲を書いた。
「楽しかった」
その一言だけが、他の言葉より少し柔らかかった。フミの曲を、サクラの歌が想像以上の場所まで連れていく。サクラが歌えば、頭の中だけにあった景色が、他人にも見える形へ変わった。2人は、そうしてチームになった。
「サクラは、大事」
ハルナは黙って頷く。
サクラがフミだけを呼び捨てにする理由。フミがサクラの前では、ほんの少しだけ言葉を増やす理由。その間にある時間へ、ようやく触れた気がした。
「だから、私が作るんじゃない」
「え……?」
「私の曲だけだと、サクラは変わらない」
フミはまっすぐハルナを見る。
「広げたい」
「サクラ先輩の可能性を?」
「うん」
「そのために、私の曲が必要なんですか?」
「必要」
フミの答えは短く、強かった。
ハルナの胸へ、怖さと同時に熱が広がる。任されたから作るのではない。課題だからでもない。フミが大切にしてきたサクラへ、自分にしか渡せない歌を作る。責任は重い。今すぐ逃げ出したいほど怖い。それでも、やってみたいという気持ちが、恐怖より少しだけ前へ出た。
「私、サクラ先輩のことを考えて作ります」
フミが頷く。
「声も、表情も、歌ってる時の癖も。全部見て、サクラ先輩が1番綺麗に聞こえる曲を作ります」
「うん」
「でも、分からなくなったら助けてください」
「助ける」
「アレンジも、一緒にやってくれますか?」
「やる」
ハルナは大きく息を吸い、空のプロジェクトファイルを開いた。真っ白な画面の中央で、再生位置を示す細い線だけが点滅している。
何もない。
だから、どこへでも進める。
ハルナは鍵盤へ右手を置き、最初の1音を探した。夜の特別棟では、いくつもの音が同時に鳴っていた。練習室では、リョウヘイが1パーセントを積み重ねている。ライブハウスでは、ユイがサクラの呼吸を追っている。レコーディングルームでは、ヒナが古い相棒と新しい機材を繋いでいる。そしてラウンジでは、ハルナが初めて自分の曲へ手を伸ばした。
同じ課題へ向かっていても、進み方は誰1人として同じではない。それぞれが自分に足りないものを知り、誰かの力を借りながら、昨日まで立っていた場所から1歩だけ前へ出る。文化祭まで、残された時間は多くない。それでも、その1歩が重なった先にしか、7人の音は生まれない。
ハルナが鍵盤を押す。
静かなピアノの1音が、夕暮れを失ったラウンジへ、慎重に響いた。




