#40 クリティカルヒット
文化祭の課題を告げられてから、まだ数日も経っていなかった。それでも、特別棟のラウンジでは早くも人が動き始めていた。
「じゃあいこうか、ユイくん。この荷物を頼むよ」
サクラがソファから立ち上がり、大きなトートバッグをユイへ差し出す。中には譜面の入ったファイルやタブレット、予備のケーブルが詰め込まれているらしく、受け取った瞬間、鞄の底から硬いものがぶつかる音がした。
「はい、師匠!」
ユイはトートバッグを肩へ掛け、背筋を伸ばして敬礼する。
「本日は鞄持ち、飲み物の手配、客席からの盛り上げ、なんでもお申しつけください!」
「最後のは、お客さんとして参加しているだけじゃない?」
ハルナが呆れたように笑う。
今日は午後の授業がなく、サクラは早めに都内のライブハウスへ入る予定だった。まだ正式な曲作りが始まっていない今のうちにと、サクラの方からユイへ、鞄持ちとしてプロの現場についてこないかと提案したらしい。ユイは2つ返事で飛びつき、今日こうして同行することになった。
「いいなあ。私も1度、ライブの裏側を見てみたい」
ハルナが羨ましそうに言うと、サクラは振り返った。
「ハルナくんも今度おいでよ。客席から見るのと、ステージの裏から見るのじゃ、同じライブでも全然違うから」
「本当ですか? 行きたいです」
「もちろん。フミもどうだい?」
サクラがラウンジの隅へ視線を向ける。ノートパソコンに向かっていたフミは、視線だけを上げた。
「人、多い」
「たまには見にきてよ…」
サクラは即座に諦めた。
ジトっとした目でフミを見る。
ユイがそわそわしながらサクラに聞いた。
「アタシは次に何を?」
「スタッフさんの邪魔にならない」
「いきなり難易度高くないですか?」
「ユイくん、これは一番レベルが低い課題だよ」
サクラは呆れたように頭を抱えた。ユイという人物がだんだんと理解でき始めているようだった。
「なるべく隅っこにいます!」
騒がしい声を残し、2人はラウンジを出ていった。廊下へ消える直前まで、ユイはサクラの横で何度も質問を投げている。ドアが閉まると、それまで2人が占めていた分だけ、室内が急に広くなったように感じられた。
「あの、フミ先輩」
今度はハルナが立ち上がる。
フミの机まで歩いていき、少し緊張した様子でノートを胸へ抱えた。
「今日の作業、見学させてもらえませんか? 前の課題で使っていたソフトの操作、もっと勉強したくて。レコーディングの時もすごかったです……どうやったらあんなふうに…」
フミはキーボードから手を離し、ハルナを見上げる。
「教えることはできない。技術は盗み盗まれるもの」
「大丈夫です。分からないところは、自分で調べます。先輩の技術、盗ませていただきます。」
「構わない。でも私の作業は、長くて退屈」
「何時間でも」
「私は何も、話さない」
「そっちのほうが集中できます」
短い確認を3つ終えると、フミはノートパソコンを閉じた。
「来て」
「はい!」
ハルナの顔が一気に明るくなる。フミが抱えていた周辺機器を半分受け取り、2人で作業室へ向かっていった。廊下へ出る直前、ハルナがこちらを振り返る。
「リョウヘイくん、来週までに案を考えるの、忘れないでね」
「1番忘れそうなユイに言ってくれ」
「ユイちゃんには、さっき3回言ったよ」
「さすが委員長」
「元だから」
訂正しながらも、少し嬉しそうだった。ラウンジに残ったのは、リョウヘイと綾坂、それからヒナの3人だった。つい数分前まで7人いた空間に3人だけとなると、時計の秒針までやけに大きく聞こえる。
「みんな、動くの早いな」
リョウヘイがソファへ座り直しながら言う。
「ユイはサクラ先輩の現場。ハルナはフミ先輩の作業見学。課題を出されたその日に、もう次の経験を取りに行ってる」
「いいことじゃん」
綾坂は机に頬杖をついたまま答える。
「若者は成長が早くていいねえ」
「感想が親なんだよ、バカ」
「精神的には見守る側なんだよ」
「アンタはそのままでいいの?」
リョウヘイが黙ると、綾坂は勝ち誇ったように鼻で笑った。少し離れた椅子では、ヒナが膝の上で指を組み、落ち着かない様子で何度も組み直していた。視線は閉じた扉と、自分の左手を行き来している。
「あの……」
やがて、遠慮がちに口を開いた。
「みんな、もう動き始めてます。私も何かしないと」
「焦らなくていいだろ」
リョウヘイが答える。
「自分がやりたいことは、1週間かけて考えるって決めたばっかりだ。今日中に答えを出せとは言ってない」
「分かってます。でも……何もしていない時間が、少し怖くて」
ヒナは指先へ視線を落とした。
前の課題では、期限ぎりぎりまで1つのフレーズを追い続けた。結果として答えには辿り着いたが、あの時間が彼女の中へ残した焦燥は、まだ完全には消えていないのだろう。止まれば置いていかれる。休めば、また音が見つからなくなる。そんな不安が、言葉の端に滲んでいた。
「考えるのも作業だよ」
綾坂が言った。
「手を動かしてないと不安になるのは分かるけど、焦って適当な音を足しても、あとで消す手間が増えるだけだし」
綾坂は笑いながら椅子を回し、ヒナの方へ身体を向けた。
「じゃあ、ヒナっち。音作り研究する?」
「音作り……?」
「機材庫の奥にMESAがあるよ。ほとんど使われてないやつ。歪みの粒を揃えながら、抜ける音を探してみようと思ってたんだけど。普段のレスポールと倉庫のストラトで弾き比べたり……」
「MESA……!」
ヒナの顔が勢いよく上がった。1秒前まで薄暗かった瞳へ、分かりやすいほど強い光が灯る。
「行きます! 今すぐ!」
返事どころか、もう立ち上がってギターケースへ手を伸ばしている。
「まだ説明の途中なんだけど」
「聞きながら行けます!」
「じゃ、行こっか」
綾坂が立ち上がると、ヒナはギターケースを抱え、綾坂を追い越しかける勢いで扉へ向かった。
2人の声も廊下の奥へ消えていった。ラウンジには、とうとうリョウヘイ1人だけが残された。風に押されたカーテンが膨らみ、戻る。机にはユイが飲みかけた紙パックが置き去りにされ、ハルナの座っていた席だけが几帳面に整えられている。
「……全員いなくなったな」
口にすると、想像以上に寂しい台詞になった。別に仲間外れにされたわけではない。それぞれが、今の自分に必要なものを見つけて動いただけだ。ユイにはサクラがいる。ハルナにはフミがいる。ヒナには綾坂がいる。
では、自分は何をする。
ドラムなら叩ける。前世から数えれば、20年以上続けてきた。基礎練習も、ライブも、レコーディングも、人に教えることも経験している。15歳の学生として見れば、明らかに持っているものは多い。だからこそ、何を学べばいいのかが見えなかった。みんなに追いつかれるのが怖いわけではない。むしろ、追いついてきてほしいとずっと思っていた。
それでも、自分だけが同じ場所へ立ったまま、3人が新しい階段を上っていく姿を見れば、胸の奥が落ち着かなくなる。
「俺はそのままでいいのか…?」
誰もいないから、素直な言葉が出た。少し考えたあと、リョウヘイは立ち上がる。
「……叩くか」
結局、答えが出ない時に行く場所は決まっていた。スタジオの防音扉を閉めると、外の音が途切れた。薄暗い室内に、ドラムセットの金属だけが天井の照明を反射している。リョウヘイはスティックを取り、椅子の高さをわずかに直した。ペダルを踏み、スネアの位置を確かめる。最初はゆっくりと、8分音符を刻んだ。
右手、左手、右足。
身体の各部が、長く使い続けた機械のように迷いなく動く。少しずつテンポを上げ、アクセントをずらし、ゴーストノートを混ぜる。派手なことを考えなくても、手足は勝手に次の展開を選んだ。
上手い。
少なくとも、学生の基準で見れば間違いなく上手い。だが、その事実が今日は妙に邪魔だった。1打1打の細かな差より、「これくらいなら問題ない」という判断の方が先に立つ。少し甘く入ったスネアも、次の音で流してしまう。ライブなら客は気づかない。バンド全体で鳴らせば、なおさら分からない。
――本当に?
疑問が浮かんだ瞬間、スティックの軌道がわずかに乱れた。乾いたリムショットが、狙った場所から少し外れる。リョウヘイは手を止めず、そのまま同じ音を続けた。
同じ強さ、同じ高さ、同じ角度で叩いたつもりだった。しかし耳を澄ませば、アタックの硬さも、胴鳴りの長さも、わずかに違っている。
「6発ですね」
突然、背後から声がした。
リョウヘイの両手が止まる。
振り返ると、いつの間にか開いていた扉の前に、ティアーユが立っていた。
「先生。入る時、声かけてもらえます?」
「かけました。聞こえなかったのでしょう」
「それはすみません」
防音室でドラムを叩いている人間へ普通の声量で呼びかけても、ほぼ届かない。だが、そこを指摘しても勝てる気はしなかった。ティアーユはスタジオへ入り、扉を閉めた。
「1人とは珍しいですね」
「さっきまでは全員いたんすけど、ユイはサクラ先輩のライブ、ハルナはフミ先輩の作業見学、ヒナは綾坂とアンプの研究に行きました」
「それぞれ、自分に足りないものを求めて動いたのですね」
「そうみたいです」
「よい傾向です」
ティアーユは頷き、ドラムセットの正面へ回った。
「それで、リョウヘイさんは?」
「俺は……ドラムを」
「見れば分かります。何を伸ばそうとしていたのでしょうか」
答えが出なかった。
スティックを持ったまま、リョウヘイは視線をスネアへ落とす。何となく叩きに来た。考えがまとまらないから、身体を動かせば何か見つかると思った。だが、具体的に何を直すのか、どこへ進むのかは決めていない。
「決まってません」
正直に答えると、ティアーユは表情を変えなかった。
「では、先ほどの4小節のビートについて考えましょう。リョウヘイさん自身は、何発がクリティカルヒットだったと思いますか?」
その言葉に、リョウヘイは眉を上げた。
クリティカルヒット。
打面の位置、スティックの角度、速度、力の抜け方。そのすべてが噛み合い、自分が頭の中で鳴らした音と、実際に出た音が完全に重なる1打。この学校では、楽器を問わず、狙いどおりの音を出せた瞬間をそう呼ぶことがある。打楽器をやる人間にはわかる、特殊な感覚だ。
リョウヘイ自身も、前世から似た感覚を持っていた。
「7発……いや、6発です」
「謙虚ですね」
「そうすか?」
ティアーユはスネアを指した。
「もう1度、ビートを叩いてください。音量は一定。間隔も一定。すべて同じ音を狙って」
リョウヘイは構え直す。
余計な力を抜き、スティックの先端を見つめた。
パン。
パン。
パン。
1音ごとに耳を澄ませる。普段なら1つの流れとして処理する音を、切り離して確認する。4発目が浅い。6発目は力が入りすぎた。8発目は狙った中心から数ミリずれた。4小節を終えると、ティアーユが尋ねた。
「どうでしょうか」
「左手の精度が低い」
即答すると、ティアーユはわずかに口元を緩めた。
「現在、クリティカルヒットを何パーセント維持できますか。体感で構いません」
リョウヘイは少し考える。
ライブ中なら7割。調子がよければ8割に届く瞬間もある。曲の難易度やテンポ、疲労によって変わるが、平均すれば――。
「60パーセントくらいです」
「甘く見て50パーセントです」
返答は迷いがなかった。
「前回の課題で提出された音源は、綾坂さんが処理する前のデータも確認しました。完成音源では、あなたのスネアは非常に安定して聞こえます。ですが、生音では強さもタイミングも、それほど揃っていません」
胸の奥へ、細い針を正確に通されたようだった。前回の録音で、綾坂はタイミングを大きく直してはいない。だが、音量差を整え、耳につくピークを抑え、1打1打の輪郭を揃えていた。自分の演奏がよく聞こえたのは、演奏そのものの力だけではない。分かっていたはずのことを、改めて他人の口から突きつけられると重さが違った。
「……そのとおりです」
スティックを握る指へ、無意識に力が入る。ティアーユは、それを見逃さなかった。
「力を入れても、精度は上がりません」
リョウヘイの肩に軽く触れる。無意識に腕の筋肉を硬くしていたことにリョウヘイは気がついた。
「はい」
リョウヘイは息を吐き、腕の筋肉を緩めた。
「リョウヘイさん。強いドラマーに共通するものは、何でしょうか」
「タイム感、音量のコントロール、周りを聴く力……色々ありますけど」
「最も根底にあるものです」
リョウヘイは、前世で見てきたドラマーたちを思い出した。派手なフィルで客席を沸かせる者。最小限の音だけで、バンド全体を巨大に聞かせる者。クリックへ正確に合わせる者もいれば、意図的に前後へ揺らしながらグルーヴを作る者もいた。
奏法も考え方も違う。
それでも、本当に強いドラマーは、自分が欲しい音を外さない。
「再現性」
「正解です」
ティアーユが頷いた。
「1度だけ素晴らしい音を出す人は、珍しくありません。難しいフレーズを偶然成功させることもあるでしょう。しかし、必要な瞬間に、必要な音を、同じ質で何度でも出せる人は少ない」
静かな声が、防音室の中へはっきりと響く。
「ステージでは、観客はあなたの事情を知りません。手が冷えていたことも、昨日眠れなかったことも、直前に機材トラブルがあったことも関係ない。最初の1打から最後の1打まで、鳴った音だけが演奏です」
リョウヘイは黙って聞いていた。それは前世で嫌というほど知った現実だった。ライブ後に、今日は調子が悪かったと言い訳をしても、客が見たライブはもう変わらない。1度外した音は戻せない。だから練習する。だから、何年続けても終わらない。だが転生してから、自分はどこかで安心していたのかもしれない。15歳としては上手い。同世代には負けない。3人を支えるには十分な経験がある。
そうやって、自分の基準を知らず知らず下げていた。
「俺、ちょっと逃げてましたね」
「何からでしょうか」
「今の自分を細かく見ることからです。前より上手いかじゃなくて、理想と比べたらどれくらい足りないか。そこを見るのが面倒で、曲を叩いて満足してた」
ティアーユはすぐに肯定しなかった。
「楽しんで演奏することは大切です。プレイングへ没頭することも、悪いことではありません」
1度言葉を切り、スネアへ視線を落とす。
「ですが、楽しさを理由に観察をやめれば、そこで成長は止まります。皆さんは演奏者であると同時に、音の探究者です。自分の音を、最も厳しく聴ける人でいてください」
「はい」
今度の返事は、自然に出た。
ティアーユは扉へ向かいかけ、足を止める。
「100パーセントのクリティカルヒットを、常に維持できる人はいません」
リョウヘイが顔を上げる。
「ただし、100パーセントへ近づこうとし続けることはできます。60パーセントを70へ。70を80へ。1パーセントを軽視しない人だけが、最後まで強くなれるのではないでしょうか」
「その通りです」
「楽器を練習するということは、自分と向き合うということです。楽器を通して己の内側に潜り、最奥にある本物を持って帰ってくるのです。だから音は嘘をつけない。鳴っている音だけが真実なのです。わかりますね」
「はい、俺やってみます」
ティアーユは小さく笑い、スタジオを出ていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
リョウヘイはしばらく、スネアの白い打面を見つめていた。中心には、これまで叩いてきた無数の跡が薄く残っている。
長く続けてきた。
上手くなった。
それでも、まだ外す。
その事実が、今は不思議と嬉しかった。伸ばす場所が見えた。やることがある。それだけで、さっきまで胸へ広がっていた焦りが形を変えていく。リョウヘイはスマートフォンを取り出し、メトロノームを起動した。
テンポは60。
1拍につき、1打。
派手なフィルも、得意なグルーヴも使わない。ただ、同じ場所へ、同じ音を落とす。
パン。
1発目。
少し硬い。
パン。
2発目。
今度は深すぎる。
パン。
3発目。
頭の中で鳴らした音と、現実の音が重なった。
クリティカルヒット。
リョウヘイは、その感触を逃さないように、もう1度スティックを上げた。仲間たちは、それぞれの場所で新しいものを掴もうとしている。自分も、追いつかれるのを待っているだけではいられない。
4発目。
5発目。
1打ごとに耳を澄ませ、外した理由を探し、次の1打へ修正する。秋の光が傾き、スタジオの床へ長い影を作っていく。その日、リョウヘイは曲を1度も叩かなかった。ただ1つの音を、何度も何度も繰り返した。




