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#39 新たな課題

9月最後の課題が終わった翌日、特別棟のラウンジには、久しぶりに目的のない時間が流れていた。窓の外では、山の木々がほんの少しだけ色づき始めている。夏のあいだ校舎へ張りついていた蝉の声は消え、開け放した窓から入る風にも、もう汗の匂いは混じっていなかった。ソファの中央を占領したユイが、両腕を天井へ伸ばす。


「終わったあああ……!」

背中を反らした拍子に、関節が2度鳴った。


「今の、15歳の音じゃなかったよ」

向かいの椅子でノートを整理していたハルナが言う。


「そりゃ3日間ぶっ通しで作業すれば、こうもなるよ…」


「忙しかったな…」

リョウヘイが笑うと、ユイはソファへ沈んだまま片手だけを上げた。


「もうしばらく、予想を裏切るとか、笑いとは何かとか、考えたくない。普通に笑いたい。転んだ人を見て笑うくらい単純な人間に戻りたい」


「それは戻りすぎ。助けてあげて」


ハルナの隣では、ヒナが自分の左手を眺めていた。指先にはまだ薄く弦の跡が残っている。3日間、まともに眠らず探し続けた、あの1音。偶然のミスから生まれた間抜けなフレーズは、昨日の発表で確かに曲の景色をひっくり返した。


「でも……終わったんですね」

確かめるような声だった。


「終わった終わった」

ユイが起き上がり、ヒナの肩を2度叩く。


「ヒナが最後に変な音を出して、アタシらが受かって、ティアーユ先生も何も言わずにちょっと笑った。完璧」


「変な音ではありません。狙って出した音です」


「3日前まで偶然だったじゃん」


「今は狙えます」


ヒナの返事は静かだったが、そこだけは譲らなかった。以前なら自分の演奏について褒められても俯くだけだった彼女が、今は音の価値を自分で言い切っている。リョウヘイはそれを聞きながら、背もたれへ深く身体を預けた。


1か月前、特進クラスへ入ったばかりの4人は、この場所で息をすることさえ少し遠慮していた。サクラとフミは2年生で、綾坂は一足先にティアーユから認められていた。自分たちだけが、4人まとめて加わった新参者だった。それが今では、ユイはキッチンに置かれた菓子の場所を覚え、ハルナは共有棚の書類を勝手に分類し、ヒナは誰にも断らずアンプの電源を入れる。慣れとは恐ろしい。


「これで、しばらく平和だな」

リョウヘイが何気なく口にした瞬間、3人の視線が集まった。


「やめて」

ユイが真顔で言う。


「何が」


「そういうこと言うの。リョウヘイの言い方だと、この後平和じゃなくなる可能性が存分にあるでしょ」


ハルナは扉の方を気にするように視線を動かした。


「でも、ちょっと分かるかも。ティアーユ先生、昨日の最後に『次の話は明日』って言ってたよね」


「言ってました」

ヒナも顔を上げる。


「やっと忘れそうだったのに…」

ユイがもう1度ソファへ倒れた、その時だった。


ラウンジの扉が静かに開いた。


「お忙しいところ、申し訳ありません」


金色の髪を揺らし、ティアーユが室内へ入ってくる。ユイは倒れた姿勢のまま固まり、数秒かけてゆっくり身体を起こした。


「先生。今の、どこから聞いてました?」


「平和、というあたりから」


「忘れてもらっても…?」


リョウヘイが呟くと、ティアーユは口元へわずかな笑みを浮かべた。ラウンジの奥では、フミがノートパソコンから顔を上げていた。長い前髪の隙間から、何も言わずこちらを見ている。キッチンスペースでは、サクラがコーヒーへ砂糖を入れている途中だった。ティースプーンを持ったまま、興味深そうに身を乗り出す。最後に機材庫の扉が開き、両腕へケーブルを抱えた綾坂が出てきた。


「なになに。昨日受かったばっかなのに、もう次?」


「ちょうどよかったです。全員、揃っていますね」


ティアーユがラウンジの中央へ立つ。それだけで、さっきまでソファへ溶けていた空気が自然と形を取り戻した。


「11月に、本校の文化祭があります」


「文化祭?」

ユイの目がわずかに輝く。


「屋台とか出せるんですか? アタシ、焼きそばなら作れます!」


「ユイちゃん、静かに」

ハルナが注意する。


「たこ焼きもいいよな」


「リョウヘイくん、急に屋台側へ立たないで」


ティアーユは4人のやり取りが収まるのを待ち、続けた。


「特進クラスには、ライブステージの最後を任せることになりました」


ラウンジから、生活音が消えた。コーヒーへ落ちかけていたサクラの砂糖だけが、さらさらとカップの中へ流れ続けている。


「最後って……トリ?」


サクラがようやくスプーンを止めた。


「はい」


「誰が出るんですか?」


ハルナの問いに、ティアーユは7人を順に見渡した。


「全員です」


短い返答だった。


意味を理解するまでに、1拍かかった。


「全員って」


ユイが自分たち4人、綾坂、サクラ、フミを指で数える。


「7人?」


「7人で、ライブを作ってください」


リョウヘイは無意識に座り直していた。4人で1曲を作るだけでも、全員の好みと得意分野を並べれば簡単にはまとまらない。そこへ、圧倒的な歌唱力を持つサクラ、変拍子と空間設計を得意とするフミ、音響と機材に異常な執着を持つ綾坂が加わる。豪華という言葉で片づけるには、材料の主張が強すぎた。


「確認なんすけど」


リョウヘイが手を上げる。


「7人全員が、演奏者としてステージへ立つって意味ですか?」


「形は問いません。演奏、作曲、編曲、音響、照明、演出。どこを担当しても構いません。ただし、誰か1人を客席へ置いたまま、残りだけで完成させることは認めません」


その言葉に、綾坂が抱えていたケーブルを近くの机へ置いた。


「じゃ、普通のバンド編成を作れって話じゃないんだ」


「普通である必要はありません。むしろ、普通に収まる程度なら、皆さんへ任せる意味がないでしょう」


ティアーユの声音は穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、逃げ道を1つずつ塞いでいく硬さがある。


「期限は文化祭当日。約1か月です。使用するスタジオ、レコーディング設備、照明機材は、必要に応じて申請してください」


「1か月……」


ハルナが小さく繰り返す。頭の中では、すでに日数を逆算しているらしい。膝の上へ置いた指が、見えない予定表をなぞるように動いていた。ティアーユは、そこで1度言葉を切った。


「もう1つ、伝えておきます。文化祭には、音楽業界の関係者も招待されています」


サクラの表情から、さっきまでの柔らかさが消えた。綾坂も笑みを引っ込める。フミはほとんど動かなかったが、ノートパソコンの端へ置いていた指だけが止まった。


「学園として、外部へ成果を示す場でもあります。皆さんの家族や友人だけを相手にする発表ではありません。音楽を仕事として見ている人間が、皆さんの音を聴き、判断します」


「ずいぶん、話が大きいな」


リョウヘイは軽く言ったつもりだったが、声は思ったより低くなった。前世でも、業界関係者が来るライブは何度も経験している。客席の後方で腕を組み、演奏よりも動員や客の反応を見ている者。終演後に名刺を差し出し、褒めた直後に数字の話を始める者。もちろん、音だけをまっすぐ聴いてくれる人間もいた。15歳の3人に、その目を必要以上に意識させたくはない。


けれど同時に、外から評価される場を避け続けていては、音楽を続けることはできない。それも知っていた。


「これまでの課題は、私1人へ音を届ければ成立しました」


ティアーユの視線が、7人をゆっくり巡る。


「今回は違います。年齢も、好みも、音楽経験も異なる、不特定多数の観客が相手です。全員へ好かれる曲を作れとは言いません。ですが、誰の記憶にも残らない音を鳴らすことは許しません」


ラウンジの窓から、冷たい風が1度だけ吹き込んだ。テーブルに置かれていた譜面の端が持ち上がり、乾いた音を立てて戻る。


「あの……」


ヒナが膝の上で手を握りながら、声を出した。


「本当に、まとまるんでしょうか」


全員がヒナを見る。注目を浴び、彼女の肩が少し縮んだ。それでも、言葉を引っ込めなかった。


「サクラさんの歌と、フミさんの曲と、綾坂さんの音作りと……私たちの音は、全部、違います。どれかに合わせたら、ほかの誰かが消えてしまう気がして」


ヒナらしい不安だった。


上手くできるかではなく、誰かの音が失われることを怖がっている。ティアーユはすぐには答えなかった。ヒナの言葉を最後まで受け取ってから、静かに口を開く。


「異なるものを、異なるまま1つにする方法を考えてください」


「異なるまま……」


「同じ音へ揃えることだけが、まとまるという意味ではありません。譲ることも、ぶつかることも、黙ることも音楽です。7人の違いを削って平均にするのではなく、7人でなければ成立しない形を探しなさい」


その言葉に、リョウヘイは4月の音楽室を思い出した。何も知らずベースを買ったユイ。人前へ立つことが怖くても、クラスのために鍵盤へ向かったハルナ。壁の向こうから、姿も見せずにギターで殴り込んできたヒナ。4人とも、最初から噛み合っていたわけではない。


むしろ、合わないところばかりだった。ユイは走り、ハルナは考えすぎ、ヒナは逃げ、リョウヘイは3人を待たずに先へ進みがちだった。それでも、一緒に鳴らす理由だけは手放さず、少しずつ4人の音になった。


――同じことを、今度は7人でやれってことか。


規模は大きい。年齢も経験も、立場も違う。けれど、根っこにある問題は確かに似ていた。


「質問はありますか?」


ティアーユが尋ねる。


サクラが手を上げた。


「まとまらなかった場合は?」


いつもの明るい声ではない。プロの現場を知る者として、失敗の可能性を真正面から確認する声だった。ティアーユは、少しだけ目を細めた。


「まとまるまで、やってください」


「本番は待ってくれませんよ」


「だから期限を伝えました」


サクラは数秒黙ったあと、ふっと笑った。


「厳しいなあ」


「知っていたでしょう」


「はい。知ってました」


それ以上、質問は出なかった。


ティアーユは7人の顔をもう1度見渡す。


「皆さんなら、簡単なものでは終わらないと考えています。期待しています」


そう言い残し、ラウンジを出ていく。扉が閉まったあとも、ヒールの音は廊下の奥へ一定の間隔で遠ざかっていった。


誰もすぐには話さなかった。


さっきまで穏やかだった秋の午後が、扉1枚を隔てた向こうへ置いていかれたようだった。


「7人で、1曲」


ユイが指を7本立てようとして、両手の形に迷う。


「数え方まで難しくなってるじゃん」


ハルナが言う。


「問題はそこじゃないよ。分かってるけど、頭が現実逃避してる」


「焼きそばよりは、難しそうですね……」


ヒナの呟きに、ユイがゆっくり頷いた。


「比べないでよ!焼きそばと!」


張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。その隙間へ、綾坂が声を入れた。


「正直、かなりヤバいよ」


机の上のケーブルへ腰を預け、指を1本立てる。


「まずボーカルがサクラ先輩とユイ。歌の強さも、声の使い方も違う。適当にツインボーカルにしたら、どっちかが邪魔になる」


2本目の指が立つ。


「フミ先輩の曲は、普通のバンドアレンジへそのまま入れると良さが死ぬ。ハルナの鍵盤も、ヒナっちのギターも、音域がぶつかりやすい。そこへリョウヘイのドラムがいつもどおり全部前へ出たら、たぶん曲が渋滞する」


「最後だけ悪口じゃない?」


「分析」


「便利な言葉だな」


3本目の指が立つ。


「しかも文化祭。初めて聴く客へ1回で届かせながら、業界の人間にも浅いって思われないものを作る。難易度は相当高い」


「綾坂さん、そこまで言われると、少し胃が……」

ハルナが制服の上から腹部を押さえる。


「でもさ」

綾坂の口元が、ゆっくり上がった。


「面白くない?」

その目には、機材庫で未知の機械を見つけた時と同じ光があった。


「バラバラの音を、全部1番いい状態で客席まで持っていくんでしょ。こんなの、普通の授業じゃ絶対やらせてもらえないじゃん」


「綾坂、嬉しそうだな」

ユイが半分呆れ、半分感心したように言う。


「嬉しいよ。面倒な方が、成功した時に気持ちいいし」


「私は、やる」

壁際からフミの声がした。


短い一言だった。

ノートパソコンを閉じ、長い前髪の奥から全員を見る。


「7人の曲。作りたい」


サクラがフミへ視線を向ける。2人の間にだけ通じる何かを確かめるように見つめ、それから立ち上がった。


「私もやるよ」


コーヒーカップを机へ置く。


「業界の人が来るなら、ちょうどいい。客席の肩書きなんて関係ない。私の歌、ちゃんと聴かせたい」


普段の明るさは残っていたが、その目はすでにステージへ立つ歌手のものだった。ユイが立ち上がり、サクラの隣へ並ぶ。


「アタシも。せっかく師匠と一緒に作れるんだし、逃げる理由ない」


「誰が師匠?」


「サクラ先輩」


「初めて聞いたけど、悪くないね」


「受け入れるの早いなぁ」


ハルナも苦笑しながら立ち上がった。


「私もやる。怖いけど……全員の良さを消さずにまとめる方法、考えてみたい」


「私もです」


ヒナが続く。


「7人でしか出せない音があるなら、聴いてみたいです。自分で弾くのは、少し怖いですけど」


「聴く側へ逃げるなよ」


「逃げません。少しだけ言ってみただけです」


6人の視線が、最後にリョウヘイへ集まった。前世で15年、バンドを続けた。メンバー同士の好みが噛み合わず、何時間話しても1音も決まらない夜もあった。全員が自分の正しさを持っているからこそ、曲がまとまらないこともある。それでも、誰か1人で作った正解より、全員で揉めて辿り着いた1音の方が、ステージでは強かった。


「やるに決まってるだろ」


リョウヘイはソファから立ち上がる。


7人の顔を順に見る。


「ただし、最初から無理に1つへまとめるのはやめよう。まず全員、自分がこの7人で何をやりたいか考える。遠慮して薄めた案はなし。来週、ここへ持ってくる」


「1週間?」


ユイが聞く。


「ああ。7人分の我がままを並べてから、喧嘩する」


「喧嘩する前提なんだ」


「仲良く決まったら、それはそれで怖いだろ」


綾坂が笑い、サクラも頷く。フミはすでにノートパソコンを開き直していた。ヒナは指先を動かし、ハルナは予定を書き込むためにノートを開く。ユイだけは立ったまま、しばらく天井を見上げていた。


「全員でアカペラとか?」

割と真剣な顔で提案してくるユイ。


「悪くないけど1週間ちゃんと考えて」

苦笑いしながらリョウヘイは答えた。


「今、候補が12個ある!」


「最初の1個目以外は全部却下だ」


「横暴!」


その声に、ようやく全員が笑った。窓の外では、秋風が色づき始めた山の木々を揺らしている。


昨日、1つの課題が終わった。


今日、7人でなければ始められない新しい課題が、静かに動き出した。


挿絵(By みてみん)

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