↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/99

#38 課題曲審査

「う……午前中の授業、無理かも……」


特進クラスの入口で、綾坂が壁へ片手をついた。昨夜のレコーディングを終えたあとも、綾坂だけは帰っていない。録音した全トラックを整理し、ノイズを処理し、音量と定位を整え、最後に曲全体の質感を揃える。ミックスとマスタリングを終えたのは、登校時間のほんの少し前だった。


目の下にある隈は、化粧で誤魔化せる段階をとうに越えている。普段なら背筋を伸ばして歩く綾坂が、今は壁を支えにしなければ教室まで辿り着けそうになかった。


「フラフラする……床、揺れてない?」


「揺れてない。綾坂が揺れてる」

リョウヘイが顔を覗き込むと、綾坂は焦点の合いきらない目で見返してきた。


「ごめんな。1番きつかったよな」


パンチラインができてから録音まで、実質1日。そこから発表用の音源へ仕上げる作業を、綾坂はほとんど1人で背負った。リョウヘイたちがどれだけ演奏を頑張っても、録った音を作品にできなければ今日の発表には持ち込めなかった。綾坂がいなければ、あの曲はまだスタジオの中にしか存在していない。


「もっと褒めて……」

消え入りそうな声で、綾坂が呟いた。


「お、おう……」

あまりにも素直な要求に、リョウヘイは一瞬だけ固まる。それでも今の綾坂には、その権利があると思った。そっと頭へ手を伸ばし、乱れた金髪を撫でる。


「ありがとうな、綾坂。マジですごかった。曲を作ってる時も、録ってる時も、仕上げてる時も。かっこよかったよ」


「も、もういい!」

綾坂が勢いよく顔を上げた。


さっきまで白かった頬が、一気に赤く染まる。


「何考えてんの、バカ!」


「えー……そっちから言ったのに」


「褒めろとは言ったけど、頭を撫でろとは言ってない!」


「恥ずかしがんなよ、綾坂~」

ユイが楽しそうに肩をぶつける。


「本当にお疲れさま、綾坂さん。昨日からずっと動きっぱなしだったもんね」

ハルナも柔らかく微笑んだ。


「綾坂さん……私のフレーズを、あんなに格好よくしてくださって、ありがとうございました」


ヒナはギターケースを抱えたまま、深く頭を下げる。四方から感謝を浴びせられ、綾坂は真っ赤な顔で口を開閉した。褒められることには慣れているはずなのに、真正面から労われるのは苦手らしい。


「もういいって言ってんでしょ! ほら、入るよ! 遅刻したら全部アンタらのせいだから!」


綾坂は逃げるように教室の扉を開けた。

足元はまだふらついていた。


「着席してください」


ティアーユの声が教室へ落ちた瞬間、眠気と疲労で緩んでいた空気が一気に引き締まった。7人はそれぞれの席へ向かう。綾坂は椅子へ腰を下ろすというより、ほとんど崩れ落ちるように座った。ユイも机へ肘をつきかけ、ハルナに横からそっと下ろされている。ヒナは瞼を開いているだけで精いっぱいらしく、背筋だけを意地で伸ばしていた。教壇に立ったティアーユは、そんな生徒たちを静かに見渡した。


「今日は、課題の発表日ですね」


誰もが小さく息を呑む。


「いつものように、午前中は英語の授業を――」


そこで、ティアーユの言葉が止まった。視線が、綾坂の隈、ユイの眠そうな目、机の下で指を揉んでいるヒナ、そして全員の疲れ切った顔を順番に辿る。


「――行う予定でしたが」


わずかな間があった。


「本日も午後から別件の仕事があります。予定を変更し、午前中に課題を評価します。午後は自習としますので、英語課題を進めてください」


綾坂の肩が、目に見えて落ちた。


「助かった……」


声には出さなかったが、唇が確かにそう動いた。リョウヘイも胸の内で息を吐く。ティアーユが単に予定を前倒ししただけなのか、それとも自分たちの様子を見て変更したのかは分からない。ただ、もし気を遣ってくれたのだとしても、本人は絶対に認めないだろう。


「それでは、始めましょう」


ティアーユは教壇の前で腕を組む。


「今日の発表を、とても楽しみにしていました。サクラさんから聴かせてください」


「はい! よろしくお願いいたします!」


サクラが勢いよく立ち上がった。普段の大仰な身振りは残っているが、ティアーユへ向ける声だけは整った敬語だった。憧れを通り越して信仰に近いものを抱いているサクラにとって、今日の発表は単なる課題ではない。女神へ捧げる奉納演奏に近いのだろう。綾坂はノートパソコンを開き、教室のスピーカーへ接続する。眠気で指先は重そうだが、音源を扱う動きに迷いはない。


「それじゃ、サクラ先輩の曲から流すよ」


2台のスピーカーの中央。音が最も均等に届く位置へ座ったティアーユが、静かに頷いた。


「お願いします」


「曲のタイトルは『アイドル』です! どうぞ、お聴きください!」


再生ボタンが押される。


眩しいシンセサイザーの音と、弾むようなビートが教室いっぱいに広がった。王道のアイドルソングだった。思わず手を振りたくなるテンポ。覚えやすいメロディ。明るいコード。だが、その中心で歌っているサクラの声だけは、王道という言葉で収まるような代物ではない。


高音は天井を突き抜けるように伸び、低音には揺るがない芯がある。可愛らしく笑った次の瞬間には、聴く者を正面から射抜くような強さへ変わる。そして歌詞は、最初から最後まで一切の遠慮がなかった。私はアイドル、可愛いからすべて許して。私はアイドル、誰より目立ってごめんなさい。


1歩間違えれば、自意識が暴走しただけの歌になる。だが、サクラは1度も照れない。自分が可愛いことも、歌が上手いことも、人の視線を奪うことも、太陽が東から昇るのと同じくらい当然の事実として歌い切っている。その徹底ぶりに、嘘が入り込む隙はなかった。


「ふふっ」


ティアーユの口元から、小さな笑いが漏れた。ユイが素早くリョウヘイを見る。リョウヘイもわずかに頷き返した。


笑った。


課題の条件は、もう満たしている。


「おもしろ……」


リョウヘイも堪えきれずに呟いた。半端なら痛々しい。少しでも自信のなさが見えれば、聴いている側が気まずくなる。だが、サクラは自分自身を最後まで疑わなかった。突き抜けすぎた自己肯定は、もはや清々しい。聴き手へ反論する余地すら与えず、その強引さが笑いへ変わっていた。最後の決めポーズまで見えるような歌声を残し、曲が終わる。


「ありがとうございました。面白かったですよ」


ティアーユが告げる。


サクラの顔が一気に輝いた。


「では、私は――」


「結果は後ほどまとめて伝えます」


「承知いたしました! なんという冷静さ……やはり素敵です……!」

判定を遮られたことさえ、サクラにとっては褒美らしい。


「次。フミさん、お願いします」


「はい」

綾坂が音源を差し替える。

フミは席を立ったが、曲について説明する様子はなかった。


「話すことはない」

少し間を置き、スピーカーへ視線を向ける。


「曲が、全部話す」

それだけ言って座った。


再生が始まる。


最初の数秒で、教室の床が傾いたような錯覚に襲われた。ドラムは一定に進んでいるようで、気づけば拍の頭が別の場所へ移っている。鍵盤は4拍子を示しているように聞こえるのに、その上では別の周期のフレーズが回り続ける。ベースを追えばドラムを見失い、ドラムへ戻れば今度は旋律が遠ざかる。変拍子とポリリズムが複雑に絡み合い、聴く側の足元を少しずつずらしていく。


「いまどこー!?」

ユイが頭を抱えながら叫んだ。


「待って、分かりそう……あ、また分からなくなった!」

ハルナも机を指で叩いて拍を探していたが、途中で諦めたように笑い始める。


「あっ、掴めそうです! ……掴めません! 面白いです!」

ヒナは目を輝かせ、混乱さえ楽しむように身体を揺らしている。リョウヘイも頭の中で必死に拍を数えていた。前世から数えれば、変拍子の曲はいくらでも演奏してきた。複数の周期が重なるポリリズムも知っている。それでも、フミの曲は知識だけで追えるようには作られていなかった。頭を見つけたと思った瞬間、半歩だけ横へずらされる。置いていかれるほどではない。だが、絶対に安心させてもらえない。


事故を起こす寸前の車へ乗せられ、運転手だけが涼しい顔をしているような音楽だった。


怖いのに、降りたくない。


その危うさが可笑しくて、リョウヘイの口元にも笑いが浮かぶ。そして曲が終盤へ差しかかった瞬間、それまでばらばらに動いていたすべての周期が、1つの場所へ向かって収束し始めた。


迷子になっていた拍が戻る。


別々の道を走っていた楽器が、同じ地点へ集まってくる。最後の1小節。すべての音が、最初からここを目指していたとしか思えない形で重なった。


「――このための変拍子だったのか」


リョウヘイは思わず唸った。


単に複雑なだけではない。聴き手を迷わせた時間そのものが、最後の着地を気持ちよくするための準備になっていた。


音が止まる。


教室には、長い道を走り切ったあとのような興奮が残った。


「面白い。また腕を上げましたね」

ティアーユが満足そうに頷く。


フミは小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

それ以上は何も言わず、静かに席へ戻る。


「では、最後に。lunatiの皆さん、聴かせてください」


その一言に、4人の背筋が同時に伸びた。

何度も演奏した曲だ。


自分たちで作り、自分たちで録った。それなのに、完成した音源を最初から最後まで聞くのは、今が初めてだった。綾坂がマスタリングを終えたのは今朝。教室へ来るまで再生する時間さえなかった。自分たちの課題でありながら、綾坂が最後にどんな姿へ仕上げたのか、4人も知らない。


「それじゃ、流すよ」


綾坂がこちらを見る。

リョウヘイは小さく頷いた。


再生ボタンが押される。


教室へ最初に現れたのは、ヒナのギターだけだった。鋭く格好いい音で始まり、次の瞬間には行き先を見失う。開放弦が間の抜けた響きを残し、最後の1音だけが遅れて転がり込む。


何度聞いても妙なフレーズだ。


だが、録音された音は、個人スタジオで聞いた時よりもはるかに存在感があった。弦を擦る指の音まで近く、目の前でヒナが弾いているように聞こえる。ティアーユの眉が、ほんの少し動いた。


これは……


無表情の奥で、そう考えているのが分かる。そして、奇妙なリフがもう1度着地した瞬間。ドラム、ベース、キーボードが一気に飛び込んだ。リョウヘイのキックが床を押し上げ、ユイのベースが低音を走らせる。ハルナの鍵盤が空間を広げ、さっきまで間抜けに聞こえていたヒナのギターを、一瞬で曲の主役へ変えた。


「ふっ」


ティアーユの口から、小さく息が漏れた。


笑った。

30秒も経っていない。


ほんの一瞬、口元が緩んだだけ。それでも、教室にいる全員が見逃さなかった。


ヒナの目が大きく見開かれる。


ユイとハルナが顔を見合わせる。リョウヘイの心臓も、スネアを強く叩いたように跳ねた。


狙った場所で、届いた。


曲はそのままAメロへ入り、ユイの歌が前へ出る。サクラに叩き込まれたブルースノートが、明るい旋律へ少しだけ泥臭い粘りを与えていた。綺麗に歌い切らず、ほんのわずかに音を汚す。その遊びが、ヒナのパンチラインと同じ匂いを持っている。サビへ入る直前、演奏が不自然な長さで止まった。


1拍ではない。


2拍でもない。


聴き手が「止まった?」と不安になった、その半歩先で、全員が一斉にサビへ飛び込む。ヒナのギターは、ここで一気に牙を剥いた。間の抜けたパンチラインを細かく切り刻み、鋭いカッティングへ変える。ユイのベースとリョウヘイのドラムが複雑に噛み合い、ハルナの鍵盤がその上へ曖昧な色を重ねる。サクラがユイへ教えた、正解と不正解の間にある音。フミが歌詞へ作った、舌が自然に流れる隙間。


綾坂が残した、演奏の粗さと熱。この数日で7人が差し出したものが、lunatiの曲の中で1つになっていた。


サビが終わる。


再び、最初のパンチラインへ戻る――そう予想したところで、1音だけが外れる。


次はリズムがわずかにずれる。


同じフレーズなのに、戻ってくるたび違う顔を見せる。聴き手は次こそ形を掴めると思い、そのたびに少しだけ裏切られる。それでも、曲の中心はぶれない。外されるたびに、むしろ次を聞きたくなる。2番の途中、序盤では間抜けに響いた最後の1音が、転調した先では正しい音として着地した。綾坂がミキサールームで思わず笑った、あの仕掛け。冗談だった音が、後になって曲を繋ぐ鍵へ変わる。


リョウヘイ自身、完成した音源で聞くと鳥肌が立った。


「綾坂……すごいな…」

小さく呟く。


最後のサビでは、すべての音が1段大きく広がった。歪んだギター、押し寄せる鍵盤、太い低音、身体を前へ運ぶドラム。その中心で、ユイの声が笑うように突き抜ける。


そしてエンディング。


全員の音が止まったあと、ヒナのギターだけが残った。


冒頭と同じ、少し遅れた1音。


最初は間抜けに聞こえた音が、最後には曲の帰る場所になっていた。


余韻が消える。


教室へ静寂が戻った。


「綾坂、すごい! 超カッコよくなってる!」

最初に声を上げたのはユイだった。


「あったりまえでしょ」

綾坂が眠たそうに椅子へ沈みながらも、少しだけ胸を張る。


「誰だと思ってんの?」


「別の曲みたい……。私たちが弾いた音なのに、ちゃんと作品になってる」

ハルナは、まだ余韻の抜けない顔で呟いた。


「私のギター……こんな音だったんですね」

ヒナは感嘆したように目を輝かせている。


「さすがだな、綾坂」

リョウヘイが深く頷き、綾坂の肩を軽く叩いた。


「あなたたち…」

ティアーユの静かな声が割り込む。4人と綾坂が一斉に教壇へ向き直った。


「この音源を、今初めて聞いたのですか?」


「あ、えっと……」

ハルナが少し気まずそうに答える。


「はい。今朝完成したばかりで……本当に、さっきマスタリングが終わったところなんです」


「つまり、完成確認もせずに提出したのですね」


「ご、ごめんなさい……」

ハルナが小さくなる。


ティアーユは、そんな5人を見つめたあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「構いません。お疲れさまでした」


その一言で、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。綾坂は机へ突っ伏しそうになる身体を、両腕でどうにか支えている。


「では、結果を伝えます」

一瞬にして、全員の背筋が伸びた。


「皆さん、合格です。楽しませてもらいました」


「やったぁ! 合格だぁ!」

ユイが椅子から飛び上がる。


「はしゃがない!」

サクラの鋭い声が飛んだ。


「まだティアーユ先生のお話の途中だよ! 座りたまえ、ユイくん!」


「はい……」

ユイは慌てて椅子へ座り直す。


ティアーユは教壇の中央へ歩き、7人をゆっくりと見渡した。


「先ほど、私は笑いました」

教室が静まり返る。


「皆さんは、あれを偶然だと思いますか?」

誰も答えない。


「違います。皆さんが意図して作り出した笑いです」

ティアーユはチョークを取り、黒板へ1つの言葉を書いた。


『予想』


「人は常に、次に何が起こるかを無意識に予想しながら生きています。会話でも、映画でも、小説でも。そして、音楽でも同じです」


その下へ矢印を引き、もう1つの言葉を置く。


『予想 → 結果』


「予想どおりなら、人は安心します。予想からあまりにも遠ければ、混乱します。では、笑いはどこで生まれるのでしょうか」


ティアーユは2つの言葉の間へ、静かに書き足した。


『予想外+納得』


「予想していなかった。しかし、結果を見れば納得できる。ここに、笑いが生まれます」


教室の空気が少しずつ変わる。

7人は疲労も眠気も忘れ、黒板へ視線を集めていた。


「例えば、lunatiの皆さんの曲です」


ティアーユの視線が、4人へ向く。


「最初のギターリフは、少し間が抜けています。聴き手は、妙なフレーズがこのまま続くのだろうと予想します」


ヒナがわずかに背筋を伸ばした。


「ところが、その直後にバンドが飛び込む」


ティアーユは小さく指を鳴らした。


「一瞬で、意味が反転しました。間抜けなリフだと思っていたものが、突然格好よく聞こえ始めたのです」


その時の感覚を思い出すように、ティアーユの口元が少し緩む。


「私の中で、『そう来ましたか』という反応が起こりました。私はその瞬間に笑ったのです」


誰も言葉を挟まない。


「面白かったから笑った。それも間違いではありません。ですが、本質はもう1段深い場所にあります」


黒板へ、もう1つの言葉が加えられる。


『期待』


「私は、自分の予想を書き換えられたことに対して笑いました」


チョークが黒板を打つ小さな音さえ、教室中へはっきり響く。


「音楽とは、期待を作る芸術です。笑いとは、期待を裏切る芸術です。そして優れた音楽は、その両方を同時に行います」


ティアーユは7人へ向き直った。


「サビが気持ちいいのは、サビだからではありません。その前に期待を積み重ねているからです」


「ブレイクが鳥肌を生むのは、音が止まるからではありません。その静寂を予想していなかったからです」


「転調、変拍子、ブレイク、テンポチェンジ、リズムのずれ。これらはすべて、聴き手の予想を操作する技術です」


リョウヘイは、無意識に指で机を叩いていた。前世でも、サビ前に音を抜くことはあった。フィルで期待を煽り、次の1拍を強く聞かせることも知っていた。だが、それを『予想を設計する』という言葉で捉えたことはなかった。感覚でやっていたことへ、輪郭が与えられていく。


「サクラさん」


「はい!」


サクラが勢いよく背筋を伸ばす。


「私は、あなたの曲でも笑いました」


サクラの瞳が一気に輝いた。


「ありがとうございます!」


「ですが、勘違いしないでください」


「はい!」

叱られているわけでもないのに、返事だけは誰より真剣だった。


「歌が下手だからでも、歌詞がおかしいからでもありません」


ティアーユは1拍置く。


「徹底して、尖っていたからです」


サクラが瞬きをする。


「普通の人が『私は誰よりも可愛い』『私はアイドル』と歌えば、先に違和感が立つでしょう。少しでも照れや迷いが混じれば、聴いている側は笑うより前に心配になります」


教室の何人かが、小さく頷いた。


「ですが、あなたは一切疑いませんでした。歌唱力も、表現も、曲のすべても、その歌詞を当然の事実として成立させていた」


ティアーユの表情がわずかに柔らかくなる。


「中途半端では、人は笑えません。突き抜けたからこそ、私は笑いました」


サクラの頬が、誇らしげに紅潮していく。


「あ、ありがとうございます……!」


サクラは両手を胸元で組み、今にも涙を流しそうな顔でティアーユを見つめている。


「ティアーユ先生にそこまでご理解いただけるなんて……私は、今日まで生きてきて本当によかったです……!」


「話はまだ終わっていません。座ってください」


「はい!」


即座に座る。


「人は、中途半端なものには違和感を覚えます。しかし、1周回って突き抜ければ、その違和感は感心へ変わる」


ティアーユは静かに締めくくった。


「あなたは、自分自身というキャラクターを最後まで貫きました。それが、とても面白かったです」


サクラはもう何も言えず、感動したまま何度も頷いていた。


「フミさん」


「はい」


フミが顔を上げる。


「あなたの曲は、正直に言うと途中で混乱しました」


教室に小さなどよめきが起こる。フミは表情を変えず、続きを待った。


「今、どこにいるのでしょう、と。拍子がずれているのか、それとも私がずれているのか、一瞬、本気で分からなくなりました」


ティアーユは、その時の感覚を再現するように少し眉を寄せた。


「掴めそうで掴めないをずっと繰り返されているようでした」


教室へ小さな笑いが広がる。


「そう考えている自分がおかしくなり、私は笑いました」


ティアーユ自身も、思い出したように少し口元を緩める。


「ですが、その意地悪さが心地よかったのです。私は何度も『次はこうでしょう』と予想しました。そのたびに、ほんの少しだけ外される」


机を指先で軽く叩く。


「完全に見失わせるわけではない。しかし、決して安心もさせない。まるで手を引かれ、迷路を歩かされているようでした」


フミは黙って聞いている。


「そして最後に、すべてを元の場所へ戻した」


ティアーユの声へ、確かな評価が宿る。


「だから私は、『騙された』ではなく、『連れていかれた』と感じました。聴き手を迷わせることは難しくありません。最後に納得させることが難しいのです」


1拍置き、フミをまっすぐ見る。


「そこまで設計できていたからこそ、この曲は面白かった。フミさん、また1段、面白い作曲家になりましたね」


「……ありがとうございます」


フミはいつもより少しだけ深く頭を下げた。ティアーユはチョークを置いた。


「では、これが笑いではなく、怒りだったらどうでしょうか」


教室が静まり返る。


「悲しみだったら。喜びだったら。恐怖だったら。あるいは、言葉では名前をつけられない感情だったら」


窓から差し込む9月最後の日差しが、黒板に書かれた『予想外+納得』の文字を白く照らしていた。


「音楽とは、不思議な芸術です。言葉だけでは届かない感情を、たった数分で人の心へ生み出すことがあります」


ティアーユは、7人を1人ずつ見渡していく。


「もちろん、それは偶然ではありません」


「期待を積み重ね、揺さぶり、解放する」


「予想を作り、裏切り、納得させる」


「その積み重ねが、人の感情を動かしています。笑いも、涙も、鳥肌も、本質は同じです」


誰も視線を逸らさなかった。


「感情は、無理に起こさせるものではありません。導くものです」


ティアーユの声が、いつもより少しだけ優しくなる。


「作曲とは、音を並べる作業ではありません。演奏とは、正しく音を鳴らすだけの技術でもありません」


「聴く人の心に、どのような感情を生み出したいのか」


「その答えを、音で語ることです」


少し間を置く。


「では、これが怒りなら? 喜びなら? 名前のつけようのない感情も、音楽なら感じさせられる」


ティアーユは、微かに微笑んだ。


「あなたたちはもう、やり方を知っているはずです」


その言葉が、静かに教室へ沈んでいく。サクラは胸の前で両手を組み、フミは黒板をじっと見つめていた。綾坂は眠気を忘れたように顔を上げ、ユイもハルナも、ティアーユの言葉を1つも逃さないように聞いている。ヒナの目には、薄く涙が浮かんでいた。何日も個室へ籠り、指先を傷だらけにして探したフレーズ。偶然の失敗から生まれ、自分でも笑ってしまった、少し間抜けな音。


それが単なる変なフレーズではなく、人の予想を動かし、感情を生み出す音だったのだと、今ここで証明された。リョウヘイは隣に座るヒナへ、何も言わず小さく頷いた。ヒナも涙を落とさないよう何度か瞬きをして、強く頷き返す。


泣くのは、演奏の後。


もう演奏は終わっている。


それでも今は、涙より先に胸を満たすものがあった。


「改めて、皆さん合格です」


ティアーユが告げる。


「おめでとうございます」


今度こそ、教室に歓声が上がった。ユイが両腕を突き上げ、ハルナが安心したように息を吐く。ヒナはギターケースを抱き締め、綾坂は机へ突っ伏したまま親指だけを上げた。サクラはティアーユへ向かって深々と頭を下げ、フミは静かに目を閉じる。リョウヘイは椅子へ身体を預け、黒板に残った言葉を見つめた。予想を作り、裏切り、最後には納得させる。


前世で数千回とドラムを叩いてきた自分にとっても、それは新しい音楽の見方だった。技術を見せるのでも、複雑なことをするのでもない。聴いている人間の心が次にどこへ動くのかを考え、その道筋を音で作る。音楽は、感情の設計図なのかもしれない。窓の外では、9月最後の日差しが山の緑を静かに照らしていた。


長かった課題の日々が終わる。


だが、7人の中には、始まる前とは違う音の聴き方が確かに残っていた。特進クラスでの最初の課題は、全員合格。そしてlunatiは、自分たちの音で初めて、誰かの感情を狙って動かした。

挿絵(By みてみん)

イメージソング

可愛くてごめん/HoneyWorks

Utzp/Angine de Poitrine

D RADIO/鳴ル銅鑼

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。