#36 REC
その朝。
9月29日、午前8時40分。
特進施設のラウンジには、昨夜からほとんど時間が進んでいないような4人が集まっていた。ソファではハルナが紙コップを両手で包み、湯気の向こうで眠そうに目を細めている。ヒナはギターケースを抱いたまま壁へ寄りかかり、瞬きをするたびに瞼が少しずつ長く閉じていた。リョウヘイも椅子へ座ってはいるが、背もたれへ預けた身体が今にも床へずり落ちそうになっている。
その中で、ユイだけが妙に背筋を伸ばしていた。
「おはよー! みんな、生きてる?」
「ユイちゃん、うるさい……」
ハルナが紙コップの縁へ口をつけたまま呟く。
「おはようございます……ユイさん、元気ですね……よかった」
ヒナは半分眠った目で、眩しいものを見るようにユイを見た。
「昨日はほんとにお疲れさま! 綾坂も、朝までデモ作ってくれてありがとう!」
ミキサールームへ持ち込む機材を確認していた綾坂が、ゆっくり顔を上げる。
「早いって」
「え?」
「お礼は録り終わってから。レコーディングはこれからでしょ」
声に張りはない。目の下には濃い隈があり、金髪も普段より少し乱れていた。それでも、ケーブルを確認する手だけは正確に動いている。
「あー、眠い。もう3時間か…」
リョウヘイが大きな欠伸をして目覚めた。
「なんかごめん! アタシだけたくさん寝てごめん!」
ユイが両手を合わせ、3人へ順番に拝んでいく。
「謝り方が元気で腹立つ……」
珍しく荒れたハルナの返事に、ヒナが小さく笑った。その笑いで、重かった朝の空気がほんの少しだけ緩む。綾坂は時計を確認すると、機材の入ったケースを持ち上げた。
「9時からブース押さえてる。19時完全撤収だから、18時には片付け始めるよ。セッティングと音決めを考えたら、録音に使えるのは実質8時間くらい」
「8時間?結構あるね」
ユイが余裕そうに言う。
「8時間しかないの!」
綾坂の声が一気に鋭くなった。
「今日は1曲を最初から最後まで録って、ラフミックスまでは終わらせたい。ミックスやマスタリングは泊まり込みでやる。特進のミキサールームは音がいいからなるべく時間を残して編集に使いたいの。分かった?」
「はい!」
4人の返事が揃う。
「よし。行くよ」
眠気を引きずっていた身体が、その一言で少しだけ前を向いた。レコーディングブースへ入ると、ひんやりとした空調と独特の静けさが5人を迎えた。昨日まで使っていた練習スタジオとは違う。音を鳴らすための部屋ではなく、鳴った音を逃さず残すための空間だった。
中央の広いブースには、事前に綾坂に発注した通りにドラムセットが組まれていた。セットがその四方にはガラスで仕切られた小部屋があり、ユイ、ハルナ、ヒナがそれぞれの楽器を準備できるようになっていた。互いの音は遮られても、ガラス越しに姿は見える。その全体を見下ろす少し高い位置に、ミキサールームがある。無数のフェーダーとモニター、ラックに収められた機材。そこだけは完全に綾坂の領域だった。
「はい、セッティング!」
綾坂の号令が飛ぶ。
リョウヘイはスネアの角度を決め、タムの位置を確認する。ヒナはアンプの前へしゃがみ、昨日見つけた音が同じように鳴るまでつまみを細かく調整した。ハルナはキーボードとシンセサイザーを接続し、ユイはベースを抱えたまま、まだ寝起きの声で鼻歌を繰り返している。綾坂は各ブースを行き来し、マイクの位置を数センチ単位で動かしていった。
スネアの上、キックの穴、タムの縁、左右のオーバーヘッド。アンプのコーンへ向けるマイクは、中心からわずかに外す。床へ引かれたケーブルは誰も足を引っ掛けないよう壁際へ寄せる。さっきまで眠そうだった姿が嘘のようだった。
「綾坂、これでいい?」
ユイがヘッドホンを耳へ当てながら尋ねる。
「それでいいよ。みんなもヘッドフォンつけてね」
午前9時20分。
全員の準備が整い、ガラスで隔てられた各ブースへ分かれた。ヘッドホンを装着すると、外の空気が途切れる。代わりに、呼吸や服の擦れる音まで耳のすぐそばへ現れた。
やがて、綾坂の声が聞こえる。
「もしもし。聞こえてる?」
「聞こえてる」
「うん」
「聞こえます」
「ばっちり!」
返事が重なる。
「まずリョウヘイのサウンドチェック。ほかのみんなは楽器を鳴らさないで。手元のミキサーで、自分に返す音量だけ調整して」
綾坂の声は、昨日の作業中とは別人のように落ち着いていた。怒鳴り声も焦りもない。必要な言葉だけが、耳元へまっすぐ届く。
「リョウヘイ。キックから」
リョウヘイはペダルを踏む。
低い1音が鳴り、ヘッドホンへ返ってくる。
リョウヘイは何度もバスドラを打ち鳴らした。
「オッケー。次、スネア」
1つずつ音を出しているうちに、さっきまで頭へまとわりついていた眠気が消えていった。音量のバランスがいい。ただ大きいのではなく、自分の欲しい音が欲しい場所から聞こえる。キックは身体の中心へ返り、スネアは耳元で鋭く立ち上がる。ほかの3人の気配も、演奏が始まれば必要な分だけ届くのだろう。それ以上に、綾坂の声が不思議なほど聞きやすかった。急かされているはずなのに、焦りが薄れていく。
「昨日はめちゃくちゃ怒鳴ってたのにな……」
「聞こえてるよ、リョウヘイ」
「独り言まで拾うなよ」
「何本マイク立てたと思ってんの?」
ミキサールームの向こうで、綾坂が笑う。ただ、声のトーンを穏やかにしているだけではない。返す音量、左右の位置、余計な低音の処理。綾坂は4人それぞれが演奏へ集中しやすいよう、別々のモニターバランスを作っていた。リョウヘイにはドラムとベースを太く。ヒナには自分のギターを中心に、クリックを輪郭だけ残して。ハルナには全体を広く見渡せるよう、4人の音を均等に。
ユイにはリズムをはっきり返し、頑張りすぎない音量へ抑える。綾坂の調整を通るたび、5人の間にあった疲れや焦りが少しずつ削られていった。
最後にヒナの音が決まる。
「ヒナっち、パンチラインを1回」
「はい」
ヒナが短いフレーズを弾く。
あの間の抜けた最後の1音が鳴ると、ミキサールームから小さく息を漏らす音が聞こえた。
「……やっぱ、おもしろ」
「笑わないでください」
「褒めてるって。もう1回。今度はライブ本番だと思って弾いて」
ヒナが頷く。
2度目のフレーズは、最初よりも鋭かった。
「オッケー。全員、準備できたね」
綾坂の声が切り替わる。
さっきまで柔らかかった言葉に、細い緊張が混じった。
「今回は時間がないから1発で通して録る。個別に録音重ねてる時間はないし、アンタ達はそのスタイルできっと大丈夫。多少ミスっても止まらないで。1発目のバンドの熱と全体の流れを残す。細かい修正は、そのあと必要な場所だけ録り直す。あとこれは……助言じゃなくて……ウチの経験なんだけど」
少し間を置く綾坂。
「本当にヤバいバンドの曲は最初の1テイクで決まるよ」
ガラス越しに、4人が頷く。
「もちろんそのつもり」
リョウヘイが頷く。いつになく真剣な声だ。
「ヒナっち。2小節、8カウントしたら入って」
「はい。8カウントですね」
ヒナは冷静に答えた。自分はギターを奏でるロボットだと自分を騙していた。そうすると、不思議とミスする気がしなかった。
「じゃあ――始めようか」
クリック音が鳴り始める。
コッ、コッ、コッ、コッ。
機械的な音が、4人のヘッドホンへ同時に刻まれる。
1、2、3、4。
2度目の4拍。
8カウント目が通り過ぎた瞬間、ヒナの指が弦の上を滑った。
鋭い音が空間を切り裂く。
何日も、数百回も繰り返し、失敗の中から掴み取ったパンチライン。練習スタジオで初めて聞いた時、リョウヘイたちはその妙な着地に笑った。
だが、今は違った。
静まり返ったブースで、録音されることだけを待っていた空気の中へ放たれた音は、ひどく生々しかった。最初の数音には、格好よく駆け抜けようとする力がある。そこから急に足を取られ、開放弦が泥臭く響く。最後の1音だけが少し遅れ、転びながらも平然と元の道へ戻ってくる。
間抜けなのに、格好いい。
笑えるのに、身体が動く。
「……いいじゃん」
リョウヘイは小さく呟き、スティックを構えた。決めていた位置で、ドラムを叩き込む。キックとスネアが、ヒナのいびつなフレーズを地面へ繋ぎ止める。パンチラインの不安定さを消すのではなく、転びそうな足元ごと前へ押し出すようにビートを置いた。続いてユイのベースが滑り込む。
太く、しなやかな低音が、ドラムとギターの間を縫う。昨日の作曲中に最初に出た、余計なことをしていないフレーズだった。だからこそ、ヒナのギターが好き勝手に転がっても、曲の中心がぶれない。
ハルナの鍵盤が重なる。
柔らかな和音が、剥き出しだった3人の音へ色を与える。整えすぎず、奇妙さを隠さず、それでも1曲として聞けるぎりぎりの輪郭を描いていく。4人の音が、1つの塊へ変わった。
Aメロへ入る。
ユイはまだ歌わない。今日はまず楽器を同時に録り、そのあと歌を重ねる段取りだ。身体を揺らしながら、歌が入る場所を口の動きだけで追っている。
サビ前。
2拍半の空白。
演奏している4人でさえ、一瞬、曲が止まったように感じる。
だが、誰も焦らない。
全員が同じ場所を見たまま、その不自然な沈黙を抱える。次の瞬間、リョウヘイのスネアを合図に、4人が同時にサビへ飛び込んだ。ガラス越しに、ユイが大きく笑う。
ヒナも笑っていた。
昨日まで、1人きりの部屋で音へ追い詰められていた顔ではない。自分の弾いた1音へ、ドラムが返り、ベースが寄り添い、鍵盤が景色を与える。そのたびに、目の前で曲が大きくなっていく。リョウヘイにも、3人の音がいつもより鮮明に聞こえていた。
疲れているはずだった。
睡眠も足りていない。指も肩も重い。昨日作ったばかりの曲で、身体へ馴染んでいるはずもない。それでも、次に誰が何をするかが分かる。ハルナがコードを広げれば、ユイが低音を引く。ヒナが音を前へ出せば、リョウヘイが1歩下がって場所を空ける。リョウヘイがフィルで次の景色を示せば、全員が同じ場所へ飛び込む。譜面をなぞっているだけでは、絶対に生まれない呼吸だった。
ミキサールームで、綾坂は画面から目を離した。フェーダーへ置いた指が止まる。技術的に見れば、完璧ではない。クリックからわずかに前へ出る場所もある。ユイのベースには、ほんの少し粒の揃わない音がある。ヒナのギターも、狙った荒さと単純な粗さの境目を行き来している。普通なら、録り直す箇所を考える。だが今、綾坂の耳へ飛び込んでくる音には、直した途端に失われそうなものがあった。
4人とも、疲労で限界に近い。
それなのに、音が鳴り始めた瞬間だけ、昨日までより生き生きとして見える。ガラス越しのリョウヘイは、歯を見せて笑いながらドラムを叩いている。ユイは歌っていないのに、身体全体でメロディを叫んでいる。ハルナは全体を見ながら、次の1手を待ちきれないように鍵盤へ指を走らせる。ヒナは、自分のギターへ食らいつくように弦を押さえている。誰か1人だけが目立とうとしているわけではない。
全員が自分の音をぶつけながら、同時にほかの3人の音を聞いていた。
「……なに、これ」
綾坂の口から、無意識に言葉が漏れる。上手い演奏なら、いくらでも聞いてきた。正確な演奏も、美しい音も、幼い頃からティアーユのそばで嫌というほど知っている。だが、目の前の4人は、そのどれとも少し違った。自分たちの音に夢中になりすぎて、正しさより先へ行こうとしている。
危うい。
馬鹿みたいに純粋で、どこか狂っている。
それでも、耳を離せなかった。
綾坂はヘッドホンを押さえ、もう1度目を閉じた。余計なことを考えるのをやめる。今はただ、この瞬間の音を1つも逃さず残す。
スネアの余韻を切りすぎない。
ヒナの開放弦に混じる指の擦れる音も消さない。ユイのベースが少し強く弦へ当たった瞬間も、そのまま残す。ハルナの鍵盤は、ほかの3人を包みながら埋もれない位置へ置く。フェーダーを動かす指へ、自然と力が入った。
曲は2番へ進む。
最初より短いAメロから、景色が急に切り替わる。昨日ハルナが組み込んだ転調へ入り、序盤では間抜けに聞こえたパンチラインの最後の1音が、今度は正しい着地点として響いた。
「ハルナはこれが聞こえてたんだ……」
綾坂は思わず笑う。
最初に聞き手を外した音が、あとになって曲を繋ぐ鍵になる。冗談だったものが、曲の中で意味を持つ。それでも説明臭くならず、音だけで納得させてくる。
ティアーユを笑わせる。
その課題へ、4人が出した答えが少しずつ見えてきた。
最後のサビ。
リョウヘイのドラムが大きく広がる。ユイのベースが追いかけ、ヒナのギターがその上を暴れ、ハルナの鍵盤が全体を1つに束ねる。
そして、最後。
全員が止まったあと、ヒナのギターだけが残る。
冒頭と同じ、少し遅れた1音。
音が消える。
ブースへ静寂が戻った。
誰もすぐには動かなかった。
リョウヘイはスティックを握ったまま、大きく息を吐く。ガラスの向こうでは、ハルナが鍵盤へ手を置いた姿勢で固まり、ヒナはギターを抱えたまま目を閉じていた。ユイは音を出していないのに、なぜか1番息を切らしている。
ミキサールームを見る。
綾坂は画面を見つめたまま、微動だにしていなかった。
「綾坂?」
返事がない。
「おーい。終わったぞ」
リョウヘイがヘッドホン越しに声をかける。
「……はっ!」
綾坂が弾かれたように顔を上げた。
「ご、ごめん! ちょっと待って!」
慌てて画面を確認し、録音が止まっていることを確かめる。自分で操作したはずなのに、演奏を聞いている間の記憶が一瞬抜けていた。
「どうだった?」
ユイが不安そうにマイクへ近づく。
「ミス、あったよね?」
ハルナも尋ねる。
ヒナは何も言わず、ガラス越しに綾坂を見つめている。
綾坂は録音された波形を見た。
直す場所はある。
このあと録り直しも必要だ。歌もまだ入っていない。編集もミックスも残っている。終わったどころか、ここからが本番だった。それでも、最初の一言だけは迷わなかった。
「最っ高……!マジでファーストテイクで決まったかも!」
4人の表情が一斉に緩む。
綾坂は椅子から立ち上がり、ガラスの向こうへ大きく手を振った。
「戻っておいで! 1回、みんなで聞くよ!」
ブースの扉が次々と開く。
リョウヘイたちは疲れ切った足取りでミキサールームへ向かった。それでも、昨日まで存在しなかった曲が初めて音源として残ったことに、誰も笑顔を隠せていなかった。レコーディングは、まだ始まったばかりだ。
残り時間は、7時間と少し。
だが最初の1回で、5人は確かに掴んだ。
この曲は、間に合う。
それどころか、自分たちが思っていたより、ずっと面白いところまで行ける。




