#35 とくべちゅ!
特進クラスの扉が、勢いよく開いた。
「みなさん!」
教室中の視線が、入口へ集まる。そこに立っていたのは、ケースにも入れていないギターを背負ったヒナだった。ほどけかけた3つ編みが肩へ落ち、額には汗が浮いている。膝へ両手をつき、大きく息をしていた。
「でき、ました……! パンチライン……私、やっと……!」
言葉が息に追いつかない。
「お待たせ、して……ご迷惑を……でも、あの、聞いてほしくて……!」
ユイが椅子から腰を浮かせた。
「ヒナ!」
「ヒナちゃん……!」
ハルナも目を見開く。
リョウヘイの胸にも、熱いものが込み上げた。顔色はひどい。それでも、その瞳には確かな自信が宿っている。
――だが。
「ヒナ」
リョウヘイは、できるだけ静かに呼びかけた。
「今、ホームルーム中だ」
「……え?」
ヒナの呼吸が止まる。
恐る恐る教壇へ視線を向けると、黒板の前にはティアーユが立っていた。腕に資料を抱え、いつもと変わらない静かな表情でヒナを見ている。教室にはサクラもフミも綾坂もいる。全員の目が、扉を開け放ったまま固まっているヒナへ向けられていた。遅刻しただけでなく、朝礼まで中断させた。理解した瞬間、ヒナの顔から血の気が引く。
「も、申し訳ありません……!」
頭を下げようとしてギターがずり落ち、慌てて抱え直した。
「ヒナさん」
ティアーユの声は、怒鳴るよりもよほど教室を静かにした。
「私の授業に遅刻し、そのうえ話を中断させましたね」
「はい……」
「私が外部で行うセミナーには、抽選を通過した人しか参加できません。参加者は一言も聞き逃すまいと耳を傾け、その内容を自分の音楽へ持ち帰ろうとします」
ヒナはギターを抱えたまま、小さくなっていく。
「その私の話を止めてでも、今すぐ聞かせる価値が、そのパンチラインとやらにはあるのでしょうか」
教室の空気が張り詰めた。
ヒナの全身から血の気が引く。今にもその場へ倒れそうなほど動揺していたが、最後の問いかけが、胸の奥に残っていた火を強く燃やした。
「あ、ああありましゅ! 価値、あります! だって……!」
盛大に噛んだ。それでもヒナは止まらず、震える両手でギターを抱き締める。
「私たちは……と、とくべちゅだから!」
2度目も噛んだ。
教室の空気が一瞬だけ止まる。ユイとハルナが顔を見合わせたが、ヒナは真っ赤になりながらも、ティアーユから目を逸らさなかった。ティアーユはしばらくヒナを見つめ、やがて口元をわずかに緩めた。
「そうですか」
サクラは隣の席で両手を胸の前に組み、感動を噛みしめている。ティアーユは教壇の資料を閉じた。
「先ほど伝えたとおり、私は本日から別件の仕事へ移ります。月末の発表日には戻りますので、今日と明日は自習してください」
全員へプリントが配られる。
「英会話のルーティンは必ず行うこと。こちらのプリントは発表日に提出してください。特進課題を理由に、午前の授業を疎かにすることは認めません。どちらも抜かりなく進めてください」
「はい!」
サクラだけが、ほとんど敬礼の勢いで返事をした。ティアーユが扉へ向かう。ヒナは慌てて道を空け、廊下へ出るその背中へ深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
ティアーユは足を止めずに答える。
「月末、価値があったか確かめます」
静かな足音が遠ざかっていった。
扉が閉まる。
誰も、すぐには動かなかった。
教室には妙な静けさが残る。
最初に立ち上がったのは、リョウヘイだった。
「ヒナ、できたのか!」
「はい!」
さっきまで青ざめていたヒナの顔へ、再び光が戻る。
「早く聞いてください。今すぐ、スタジオで!」
「行くぞ!」
「待ちたまえ!」
サクラの声が教室を貫いた。
立ち上がった4人が、揃って振り返る。サクラは配られたばかりのプリントを掲げながら、呆れたように眉を寄せた。
「なんで君達はいつもそう慌ただしいのかね! 今、英語の宿題を頂いたばかりだろう!? 結構な量があるし、午前中は英語の自習時間だよ!」
「無理っす! 今すぐ作らないと、クオリティ上げらんない!」
ユイが即座に切り返す。
「行こう、スタジオ! 時間がない!」
ハルナも鞄を掴みながら立ち上がった。
「んなもん後回しだ! まずは曲!」
リョウヘイが断言する。
その時、フミが無言のまま手を差し出した。
「プリント」
「フミ先輩……?」
ハルナ達はフミの行動を理解できなかった。
「プリント」
端的すぎる言葉に、4人は戸惑いながら顔を見合わせる。その様子を見たサクラが、何かを察して大きくうめき声を上げた。
「あー! もう! リョウヘイくん達、プリントを渡したまえ! 私とフミででっち上げる!」
「そんなんで騙せるの?」
リョウヘイが恐る恐る尋ねる。
サクラは、信じられないものを見るように目を見開いた。
「君はバカなのか!相手は女神なんだよ!騙せるわけがないだろう!」
「じゃあ無理じゃん!」
「それでも、何もしないよりはマシさ! やるべきことをやれと、ティアーユ先生もいつも仰っているだろう!」
サクラは4人分のプリントを奪うように受け取った。
「ほら、綾坂くんも行きたまえ! 君の課題でもあるだろう?」
「言われなくても行くって。今は1分でも惜しいし」
綾坂はノートパソコンとオーディオインターフェースを鞄へ押し込み、立ち上がった。フミはプリントの束へ視線を落としたまま、静かに口を開く。
「応援してる」
4人の足が止まった。
長い前髪の隙間から覗く瞳が、まっすぐlunatiの4人へ向けられている。
「急いで」
「ありがとうございます、フミ先輩!」
ハルナが深く頭を下げる。
「あざっす!」
ユイも続いた。返事が軽い。
ヒナはギターを抱えたまま、何度も頷く。
「必ず、いい曲にします」
「うん」
フミは短く答えると、もうプリントへ視線を戻していた。
「さ! 行くよ、バカ共!」
綾坂の声が響く。
「今は1分でも惜しい!」
「行くぞ!」
リョウヘイの号令とともに、5人は一斉に教室を飛び出した。廊下を走るたび、ヒナの剥き出しのギターから弦の鳴る音がする。残された時間は、あとわずか。それでも、誰の足取りにも迷いはなかった。
特進スタジオへ到着すると、それぞれが機材の前へ散らばった。ヒナだけが緊張した面持ちでギターを構える。
「っ……弾きます!」
短く告げ、弦へ指をかけた。
響いたのは、なんとも不思議で、なんとも間の抜けた旋律だった。鋭く格好よく始まったはずなのに、予想した場所へ音が来ない。来るはずのない場所へ音が転がり込み、最後には置いていかれたような1音が遅れて着地する。
「――っ、それそれそれそれ!」
最初に弾けたのはリョウヘイだった。腹を抱えながら、膝を叩く勢いで笑う。
「なんだよそれ、ヒナ! 最高じゃん!」
「なにそれ、ヒナ! 最初すごい格好よかったのに!」
ユイも目を見開いたまま、口元を押さえて笑い始める。
「ちょっと……これは……」
ハルナは顔を背けていたが、肩が小刻みに震えていた。
「ヒナっち……おもしろ……!」
綾坂も震える手で口元を覆い、笑いを堪えている。
「こ、このフレーズから曲を始めたいです!」
ヒナが少し頬を膨らませながら宣言した。
「あたりめーだ!」
リョウヘイが涙を拭いながら立ち上がる。
「ここから発展させていくぞ!」
「このフレーズのあと、一気にバンドイン!」
ハルナが堰を切ったように話し始める。
「それからAメロの手前で2拍ブレイクしてボーカルイン! それから――」
「ちょ、ハルナ待って!」
綾坂が慌ててノートパソコンを立ち上げ、片手を上げた。
「ヒナっち! 今のもう1回!」
「は、はい!」
ヒナが再びフレーズを弾く。
綾坂は目を閉じたまま1度だけ聴き終えると、信じられない速さでキーボードを叩き始めた。ヒナのギターと先ほどハルナが口にした構成が、ものの数分でDTM上へ組み上げられていく。
あっという間にイントロが完成した。
「す、すごい……!」
ハルナが思わず声を漏らす。
「次! ドラム! 叩け!」
「お、おう!」
リョウヘイは慌ててスティックを握り、頭の中にあったグルーヴを叩き始めた。
綾坂は目を閉じた。
視界を閉ざすことで、音をより細かく聴き取る。いや、それだけではない。綾坂は五感のうち聴覚だけを残し、それ以外の感覚を意識から完全に切り離すことができた。その状態では、周囲に何が起きても反応できない。完全に無防備になる代わりに、鳴っている音の情報を余すことなく拾い上げられる。
キックの重さ。スネアの位置。ハイハットの細かな揺れ。基音の帯域だけじゃない。
リョウヘイがどこで前へ押し、どこでわずかに引き、どんな意図でそのグルーヴを叩いているのかまで、綾坂の中へ流れ込んでいく。
(……少しハネた8ビートのグルーヴ。キックの基音は…53Hz。スネアは212Hz。ハットは8.2kHz……いいキットバランス……ってかファンクもイケるんだ……てっきりロック屋だと思ってたけど……)
ほんのわずかに、綾坂の口元が緩んだ。
(ハットを細かく揺らして、スネアを少し後ろに置いてる……バーナード・パーディっぽいグルーヴだね……オッケー)
綾坂が目を開いた。
「うるさい! もういい!」
「お、おう……」
リョウヘイが困惑しながら手を止める。綾坂は構わず、そのわずかな演奏から先のリズムパターンを一気に打ち込んでいった。画面上へ組み上げられたドラムは、リョウヘイの頭の中にあった構想とほとんど一致している。手直しする場所すら見当たらなかった。続けてユイのベースも数秒だけ聴き、その場で打ち込んでいく。
「綾坂お前……AIか?」
「ウチをやめてもらっちゃ困るよ!」
リョウヘイは呆然と、その手元を見つめた。絶対音感、リズム感、エディット能力、エンジニアリング、そしてディレクション力。ほんの一瞬で、綾坂の実力の全貌が垣間見えた気がした。ティアーユが綾坂を気に入っている理由も、今なら心から納得できた。
「このあとにサビ! サビ前でブレイクして!」
ハルナが画面を覗き込みながら指示を飛ばす。
「オッケー!」
綾坂の目が、完全に集中の色へ染まった。
「サビのあとはギターだけ鳴らして! ……ああ、違う! やっぱり3裏でドラムイン!」
「ここ!?」
綾坂が目を丸くする。
「いや、でも……面白いかも」
半信半疑ながらも、その手はすでに打ち込みを始めていた。
「あのぅ……」
ユイが恐る恐る手を挙げる。
「なに!」
鬼の形相で睨まれた。
「ひっ! あの……メロディ浮かんできたら、作ってもいい……ですか?」
「個室でやれ!」
綾坂の一喝が飛ぶ。
「リアルタイムでクラウドのプリプロが更新されるから、30分ごとに確認! 以上! 行け!」
「うぅ……綾坂、怖いよぅ……」
ユイが涙目になりながら後ずさる。
「ヒナ、俺達も移動しよう」
リョウヘイがヒナへ声をかける。
「2人でセッションして、ネタ増やすぞ」
「はい!」
「うるさいって言ってんでしょ! とっとと出てけー!」
綾坂の怒声に追い立てられ、リョウヘイたちはスタジオを後にした。廊下へ出るなり、ヒナが小さく息を吐く。
「綾坂さん、すごいですね……」
「すごいけど、あの状態の綾坂へ逆らうのはやめよう」
「はい。命が惜しいです」
2人は少しだけ笑い、別の個人スタジオへ入った。
「じゃあ、パンチラインのあとから広げてみよう。考えすぎなくていい。今度は1人で探すんじゃなくて、2人で鳴らす」
「はい!」
リョウヘイがカウントを出す。
何日も1人で閉じこもっていたヒナの音へ、初めてドラムが重なった。ギターが投げ、ドラムが返す。ドラムが空けた隙間へ、ギターが飛び込む。失敗しても止めない。思いついた音を、その場で次の音へ繋げていく。音が返ってくるたび、ヒナの表情が明るくなった。
一方、元のスタジオに残ったハルナと綾坂の作業は、さらに速度を上げていた。
「2番は1番と同じにしない。Aメロの長さを半分にして、すぐ別の景色へ行きたい」
「迷わせるね」
「迷わせる。でも、サビへ戻った時に納得させる」
「簡単に言うなぁ……」
綾坂は文句を言いながらも、ハルナの指示どおり小節を切り、コードと仮音源を並べていく。
「2番サビ前で転調」
「ここで?」
綾坂の手が初めて止まった。
「パンチラインの妙な着地を、転調後の正しい音へ繋げるの。最初は間抜けに聞こえた音が、あとで意味のある音だったって分かるようにしたい」
綾坂は画面とハルナの顔を交互に見た。
「……ハルナ、何が見えてんの?」
「まだ…全部は見えてないよ」
ハルナはトラックの並んだ画面を睨みながら答える。
「でも、この音なら次はここへ行きたいって、少しずつ分かる」
「いいよハルナ。速攻で作ってあげるから全部言ってみて」
綾坂にとって、この速度で組み立てることは珍しくない。だが、隣から同じ速度で案が飛んでくる経験はほとんどなかった。以前のハルナは、全員の意見をまとめることを優先し、自分の案を押し通さなかった。今は、曲に必要だと思ったものを迷わず口にしている。
綾坂は横目でハルナを見た。彼女の全身から器力が溢れ出ていた。
(ハルナ……こんなに強かったんだ。いや、違う……今、強くなってるんだ)
各部屋から、ユイの仮歌やリョウヘイとヒナのセッションが共有される。綾坂は届いた素材を切り分け、仮音源へ重ねていった。30分ごとに全員が集まり、再生して、修正点を言い合い、また別の部屋へ散る。夕方が過ぎ、窓の外が暗くなる。夜12時になったところで、リョウヘイはユイの作業を止めた。
「12時か。ユイはここまで。仮眠室で寝てこい」
「なんでよ!シンデレラ!?」
「明日は歌録りだ。喉が死んだら全部終わる」
「でも、まだ曲が――」
「声出なかったら殺す」
反論を続けようとしたユイだったが、最後にはリョウヘイと綾坂に押し切られ、渋々仮眠室へ向かった。ユイが仮眠室へ向かったあとも、残った4人の作業は止まらなかった。
深夜2時。
曲の頭から最後まで、初めて仮音源が繋がった。4人で聞き終えたあと、誰もすぐには口を開かなかった。完成ではなく、直す場所だらけだ。それでも、ヒナの数秒から始まったものが、1曲の形になっている。
「できた……」
ヒナが呟く。
「骨組みだけね」
綾坂が釘を刺す。
そこからさらに4時間、4人は仮音源を繰り返し再生した。綾坂が音を繋ぎ直し、ハルナが構成の細部を詰め、リョウヘイとヒナが接続の違和感を演奏で潰していく。1つ直すたびに別の粗が見つかり、誰も止まるとは言わなかった。朝6時、綾坂がようやく椅子の背へ身体を預けた。
「今日の9時からレコーディングブースが使える。ユイ以外はそれまで仮眠。起きたらパートを固めて、録れるものから録る」
「3時間後か…」
リョウヘイがフラフラしながら時計を見る。
「少し寝ます……もう限界です……」
パンチラインが完成した時もヒナはまともに寝てなかった。そのままスタジオに来て曲を作り今に至る。
かれこれ30時間以上が経っている。
「6時……?」
ハルナが呟いた直後、机へ突っ伏した。
「ブースは9時から……3時間、寝られる……最高……」
綾坂はすでに目を閉じている。ハルナも腕を枕にしたまま動かない。リョウヘイは2人へ毛布を掛け、パソコンの画面を見る。昨日まで存在しなかった曲が、確かにそこにあった。その始まりには、ヒナが何日も自分を追い込んで見つけた、少し間抜けな1音がある。
「3時間後、地獄だな」
リョウヘイが小さく言う。
窓の向こうで、山の端が薄く白み始めていた。
発表まで、あと1日。
レコーディング開始まで、あと3時間。




