#34 パンチライン
綾坂から、発表前日のレコーディングを引き受けるという言葉をもぎ取った翌朝。
9月26日、午前8時。
リョウヘイは、廊下の最奥にある個人スタジオの前で立ち尽くしていた。扉の横には、『朝比奈ヒナ』と印字された小さなプレート。防音扉の向こうからは、短いギターフレーズがかすかに漏れている。
何度も聞いた音だった。
数音だけを鳴らし、止まる。少し間を置いて、また最初から。昨日より音数は減っているが、ヒナが探しているものには、まだ届いていない。リョウヘイは右手を持ち上げた。あとは拳を2度、扉へ当てるだけだ。
それなのに、腕が止まる。
1度下ろし、また上げる。拳を作っては開き、取っ手へ伸ばしかけて引っ込める。ドラムスティックなら、どれほど大勢の客が見ていようと迷わず振り下ろせる。だが、扉1枚の向こうにいる仲間へ声をかけるだけのことが、今は妙に難しかった。ここ数日、ヒナはほとんど1人で音と向き合っている。無理をさせたくない。休ませたい。期限も伝えなければならない。
だが、扉を開けた瞬間に、ようやく見つけかけた何かを逃がしてしまうかもしれない。
「……何やってんだ、俺は」
答えが出るまで待っていたら、いつまでもノックできない。リョウヘイは小さく息を吐き、扉を2度叩いた。
コン、コン。
防音扉の向こうで、ギターの音が止まる。
「ヒナ?」
返事はない。
寝ているのかと思い、もう1度ノックしようとしたところで、内側から鍵の外れる音がした。
扉が、ほんの少しだけ開く。
「あ……リョウヘイさん。お疲れ様です」
隙間から顔を出したヒナの声は、現実から半歩ほど離れた場所を漂っていた。3つ編みは途中でほどけ、髪は頬へ張りついている。目の下の隈は以前より濃く、頬も少し痩せたように見えた。それでも、瞳の奥だけは異様なほど冴えている。
明らかに作った笑顔でヒナは応対した。
「こんな夜中に……どうしたんですか?」
「ヒナ。今、朝の8時だ」
「……え?」
ヒナは何度か瞬きをした。
扉の向こうにある小窓から朝日が差し込んでいることへ、今初めて気づいたらしい。ゆっくり窓を見て、次にリョウヘイへ戻り、最後に壁の時計を確認する。
「お、おかしいですね。さっきまで、夜だったような……」
「昨日の夜から寝てないって事か?」
「わ、分かりません……」
「わかんないって……おまえな……」
正直すぎる返事だった。
リョウヘイはスタジオの中を覗く。床には書き殴られた譜面やメモが散らばり、机の上には空になった水のボトルが並んでいる。ギターアンプの前には椅子が置かれているが、座面には1度も休んだ形跡がない。壁には、ユイとハルナが置いていったらしい菓子パンの袋。リョウヘイが以前残した栄養補助食品も、包みだけは開いていた。
食べたことだけは確認できた。
ただ安心できる材料としては、あまりに小さい。
「あと2日だ」
リョウヘイは、なるべく事務的な声で告げた。
ヒナの表情が止まる。
「29日に録音する。綾坂には話をつけた。28日までに曲を固めて、全員が演奏できる状態にする必要がある」
「あと……2日」
かすれた声が落ちる。
期限そのものは、ヒナも分かっていたはずだ。だが、音へ潜り続けている間に、数字が現実感を失っていたのだろう。青ざめた顔で、ヒナはギターのネックを握りしめた。
「も、もう少しなんです!」
「わかってる」
リョウヘイは何もわかっていなかった。
「まだ形にはできていません。でも、何か……すぐ近くにある気がするんです。聞こえそうで、手を伸ばすと消えてしまって……」
言葉が次第に速くなる。
「もうちょっとだけ弾かせてください。今日中に……できるとは言えません。でも、絶対に見つけます。だから……別の人に頼んだり、今あるもので決めたりしないでください…!」
縋るような目だった。
自分が遅れていることも、3人を待たせていることも、綾坂へ無理を頼んだことも理解している。その全部を抱えたうえで、それでも譲れないと訴えている。
「自分の音に、嘘をつきたくないんです!」
リョウヘイは一瞬だけ黙った。
そして、表情を緩める。
「もちろん」
ヒナが息を止めた。
「最初から、待つつもりだ。28日を楽しみにしてる」
リョウヘイは手を伸ばし、乱れた髪を押さえるように、ヒナの頭を軽く撫でた。子ども扱いしたかったわけではない。ただ、言葉だけでは足りない気がした。ヒナの目に、みるみる水分が集まっていく。
「リョウヘイ…さん……」
「おはよー! 生存確認に来たよー!」
廊下の向こうから、遠慮のない声が響いた。ユイが紙袋を抱え、その後ろからハルナが飲み物を持って駆けてくる。
「ヒナ……って、なんか痩せてない!?」
「ヒナちゃん、顔色悪いよ。昨日、ちゃんと寝た?」
2人に挟まれ、ヒナは答えに詰まった。
「寝ようとは、しました」
「寝たかどうかを聞いてるの」
ハルナの声は優しいが、逃がす気はない。
「横には……なりました」
「仮眠室行った?」
「いえ、個室の床で寝ました」
「それ、倒れただけじゃん!」
ユイが紙袋をリョウヘイへ押しつけ、ヒナの両肩を掴んだ。
「今から30分だけでも寝よ。アタシが一緒に寝てあげるから!」
「でも、今止めたら……」
「大丈夫。ギターは逃げないよ」
ハルナが優しく諭したがヒナはすぐ反論した。
「音は逃げます」
「追いかけすぎなんだよ、ヒナちゃん」
思わぬ即答に、ユイが1歩引く。ハルナは困ったように笑い、紙パックの飲み物をヒナへ渡した。
「せめて、これを飲んで。あとパンも食べて。弾くのはそれから」
「……はい」
3人の視線に負け、ヒナは素直に受け取った。ストローを刺そうとする手が、わずかに震えている。弦を押さえ続けた指先は赤く、細い傷まで増えていた。その手を見た瞬間、ハルナの眉がさらに下がる。
「ヒナちゃん、本当に無理はしないでね」
「すみません」
「謝ってほしいんじゃないよ」
「でも、皆さんを待たせて……」
「待つって決めたのはアタシたちだから」
ユイが言った。
いつもの勢い任せではない、まっすぐな声だった。
「ヒナが適当なやつ持ってきたり誤魔化したりしたら、そっちの方が怒るよ。だから、ちゃんとヒナが1番いいって思うやつ作って」
「ユイさん……」
「ただし、ご飯と睡眠は別。倒れたらギターも弾けないからね」
「はい……」
ヒナの目から、今にも涙が落ちそうになる。リョウヘイは、その前に声をかけた。
「ヒナ。泣くのはまだ早いぞ」
「分かって、ます」
ヒナは何度も瞬きをし、涙を引っ込めようとする。
「泣くのは、演奏の後です。演奏中に泣いて音を濁らせるのは二流だって……ティアーユ先生が」
「覚えてるなら大丈夫だな」
「はい」
声は震えていたが、最後には小さく笑った。リョウヘイたちは、ヒナがパンを半分食べ、飲み物を飲み切るところまで見届けた。扉が閉じる直前、ハルナがもう1度念を押す。
「1時間したら、絶対に休憩してね」
「はい」
「絶対だよ?」
「……努力します」
「そこは約束して!」
ユイの声とともに扉が閉まり、再び防音室の中へ静けさが戻った。ヒナはギターを抱え、アンプの前へ座る。
信じて待っていると言われた。
嬉しかった。
同時に、その言葉は逃げ道を完全に消した。中途半端なものでは、3人の前へ戻れない。以前のヒナにとって、ギターは人と話さなくても自分を保てる場所だった。言葉にできないことも、弦へ触れている間だけは形にできた。だからこそ、誰かのために音を作ることが怖かった。自分だけが好きな音では足りない。3人が演奏したくなり、ティアーユを笑わせ、曲を聞いた人間の記憶へ残らなければならない。
けれど今は、その重さを手放したくなかった。自分のギターが必要だと、3人が言ってくれた。パンチラインを任せると、リョウヘイが決めてくれた。ならば、上手く弾けることを証明するだけでは駄目だ。ヒナにしか持ってこられない1音を探さなければならない。ヒナは目を閉じ、最初から考え直した。格好いいフレーズなら、いくつも作れた。
細かく刻む速いリフ。大きく跳躍するメロディ。低音から駆け上がり、最後に高い音を伸ばす派手なフレーズ。どれも演奏すれば映える。ギタリストとして褒められるものもある。
だが、笑えない。
予想を裏切ろうとして、急に外れた音を混ぜたこともある。休符を増やし、拍をずらし、変な場所でチョーキングを入れたこともある。
どれも「面白くしようとしている音」にしか聞こえなかった。音は嘘をつけない。
狙って転んでいる。
転ぶ場所を先に教えてから転んでも、誰も驚かない。リョウヘイが求めているのは、格好いい曲の中へ突然現れ、聞いた人間を一瞬だけ置き去りにする音だ。それでいて、1度聞けば忘れられない。
「格好いいのに……間抜けで、変なフレーズ…」
ヒナは呟き、弦を鳴らした。
短いフレーズ。
違う。
1音減らす。
違う。
最後を伸ばす。
違う。
入りをずらす。
違う。
弾くたび、録音する。聞き返し、消す。また弾く。
午前の授業が終わり、午後になり、夕方になり、窓の外が暗くなった。ユイたちに言われた通り、途中で横にはなった。だが、目を閉じると頭の中で続きを弾いてしまい、10分もしないうちに起き上がった。
翌日も同じだった。
ヒナの世界は、個室の中へ狭まっていく。時計の針も、食事の時間も、廊下を通る人の気配も遠くなった。残ったのは、6本の弦と、アンプから返ってくる音だけ。
9月28日。レコーディング前日の朝。ヒナの身体は、いよいよ限界へ近づいていた。目が霞む。肩が重い。指先の感覚が薄く、ピックを持っているのかさえ分からなくなる。頭の中では、数百回も弾いたフレーズの断片が混ざり合っていた。
それでも、止められない。
ここで止めたら、もう届かない気がした。ヒナは立ったままギターを構え、もう1度、作りかけのフレーズを弾く。
最初の2音。
3音目。
次に入るはずの音へ、疲れた指が届かなかった。ピックも弦を浅く擦り、鳴るはずのない開放弦が混じる。さらに焦って戻ろうとした指が、半端な位置で別の音を鳴らした。
間が空く。
最後に、頼りない1音だけが落ちた。
あまりにも不格好だった。
それまで組み上げてきた緊張感を、自分で踏んで転ばせたようなフレーズ。
「……ぷっ」
ヒナの口から、笑いが漏れた。
すぐに口元を押さえる。
何日も追い詰められ、ついに自分の演奏がおかしくなったのかと思った。だが、笑った理由は疲労だけではない。今の数秒には、明確に何かがあった。格好よく始まったはずなのに、途中で急に足元を見失い、最後だけ何事もなかったように戻ってくる。
予想していた続きが来ない。
代わりに、絶対に選ばないはずの音が来る。
「今の……」
ヒナは慌てて録音機器を確認した。
録れている。震える指で再生する。
スピーカーから、偶然生まれたフレーズが流れた。
やはり変だった。そして、やはり少し笑えた。
「なに、それ……」
疲れ切った顔で、ヒナはもう1度笑う。狙って作ったどのフレーズよりも自然に、聞き手の予想を外している。
ヒナはギターを構え直した。
同じ失敗を、今度は意識して再現する。1度目は失敗する。2度目は音が整いすぎる。3度目は間が長い。何度も弾き、偶然の形を壊さないように、少しずつ輪郭だけを整えていく。
余計な音を削る。
開放弦の響きは残す。
最後の1音は、少しだけ遅らせる。上手く弾きすぎると、急につまらなくなる。下手に弾けばいいわけでもない。演奏として完璧に制御しながら、制御を失ったように聞かせる。その危うい境目を探し、ヒナは繰り返した。やがて、短いフレーズが完成する。音と音の間には、大胆な隙間がある。格好いいリフになりそうな顔をして始まりながら、最後に少しだけ間抜けな着地をする。それなのに、もう1度聞きたくなる。
次も同じ場所で外されると分かっているのに、待ってしまう。ヒナの背中を、ぞくりと震えが走った。もう1度、録音したフレーズを再生する。最初は格好よく、途中で妙に力が抜け、最後の1音だけが遅れて追いついてくる。完璧に整った音ではない。けれど、その不完全さまで含めて意志がある。
何日も探していたのは、難しいフレーズではなかった。自分が正しいと思い込んでいた選択肢の外側に、ずっと答えは転がっていた。
「――これだ」
声に出した瞬間、何日も絡まっていた思考が一気にほどけた。
リョウヘイの言葉。格好いいのに、間抜け。
聞いた人間が一瞬置いていかれ、そのあと笑う。
忘れられない、曲の顔。
すべてが、目の前の数秒へ重なった。
「これなら……笑ってもらえる」
ティアーユだけではない。
ユイも、ハルナも、リョウヘイも。きっと最初は驚き、次に顔を見合わせ、最後には笑う。そう思った途端、胸の奥から熱いものが込み上げた。
泣きそうになる。
だが、ヒナは目元を乱暴に拭った。
「泣くのは……演奏の後……です」
まだ、3人へ聞かせていない。
まだ、この音を曲にしていない。
泣くには早い。
ヒナは録音データを保存し、予備としてスマートフォンにも送った。名前を入力する手が震え、何度も文字を打ち間違える。ようやく保存を終えると、ギターを肩へ掛けた。ケースへ入れる時間さえ惜しい。立ち上がった瞬間、長時間同じ姿勢でいた脚がもつれ、机へ手をつく。それでも止まらなかった。
重い防音扉を開ける。
何日ぶりか分からない廊下の光が、霞んだ目へ突き刺さった。ヒナは眩しさに顔をしかめながら、教室の方角を見る。
今すぐ、聞いてほしい。
待ってくれた3人へ、自分が見つけた音を届けたい。
「みなさん……!」
掠れた声を振り絞り、ヒナはギターを抱えたまま走り出した。足元はふらつき、息もすぐに切れた。それでも、今だけは身体の限界より、胸の中で鳴り続けるフレーズの方が強かった。廊下の先にある特進クラスへ向かって、ヒナは転がるように駆けていった。




