#31 私を笑わせて
8月も終わりに近づいた夕方。
いつものファミレスの窓際には、見慣れた4人が集まっていた。ガラスの向こうでは、駐車場のアスファルトが昼間の熱を抱えたまま揺らいでいる。夏休みは残りわずかだというのに、蝉だけはまだ終わりを認めていないらしい。
「あー……来週から学校かぁ」
メニューを閉じたユイが、背もたれへ沈みながら天井を仰いだ。
「夏休み、短くない?」
「長いぐらいだったよ。私、家族が今家にいないからずっと暇でさ。練習ばっかりしてたから早くスタジオ入りたいよ。新曲もストック増えたし」
ハルナがストローを咥えたまま笑う。
「そうですね!やっぱり使い慣れた学校のスタジオの方が安心して弾けます!」
ヒナは興奮を隠せていない。早くスタジオに入りたくてウズウズしている。
「やっぱりBスタのアンペグが一番音いいよね!」
ユイも腕を組んで冷蔵庫みたいな大きさの黒いベースアンプを思い浮かべる。
「わかります!しかもBスタはオレンジですし!」
ヒナは両手を組み祈りを捧げるようにオレンジ色のデカいアンプを思い浮かべた。
「それで言うと、これからは特進クラスの専用スタジオになるのかな」
すぐさま返され、リョウヘイはドリンクバーのコーヒーへ視線を落とした。2人の顔が一気に暗くなる。
「特進、クラス……」
ヒナが小さく呟く。
ストローの紙を指先で細く丸めながら、視線はずっとテーブルの木目へ落ちていた。声がいつもより低い。楽しみよりも緊張が勝っているらしい。
「授業、実際どんな感じなんだろうね」
ハルナが首を傾げる。
「普通の授業と同じではないと思うけど……時間割も、まだ詳しく聞いてないし」
「そこなんだよな」
リョウヘイは腕を組み、椅子へ深く座り直した。
「ティアーユ先生が、選んだやつを集めて教科書を読ませるだけとは思えない。たぶん演奏絡みで、何かしら無茶を振ってくる」
「えー、怖っ」
ユイが即座に顔をしかめる。
「まだ何も始まってないよ?」
「リョウヘイが嫌な予想、なんか当たりそうだもん」
「私も……それは少し、思います」
ヒナまで静かに頷いた。
「妙なところで信頼されてるな、俺」
「うーん。信頼とはまた少し違うような」
ハルナは不安を飲み込むように、明るい声を出して続けた。
「でもティアーユ先生の授業、絶対に普通じゃないでしょ? せっかく特進に入れたんだし、できることが増えるなら嬉しいよ」
「ハルナって、怖いの分かっててもちゃんと前に進むよね、すごい」
「ユイちゃんは、とりあえず勢いで飛び込んで、着地してから考えてるからすごいよ」
「それでなんとかなってきたから!」
「成功体験にしちゃ駄目なやつだろ、それ」
笑いが重なり、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。リョウヘイは3人の顔を見回してから、テーブルへ身を乗り出した。
「まあ、今日はその景気づけだ。これから頑張ろうってことで、好きなもん頼め。俺が出す」
「えっ、マジで!?」
ユイの目が一瞬で輝いた。
「待って。今の、録音したかった。もう1回言って」
「証拠を残そうとすんな」
「いいよ、そんな。悪いって」
ハルナは慌てて手を振ったが、その隣ではユイがすでにデザートのページを開いている。
「ハルナ、ここは甘えるところだよ。遠慮は奢る人に対して失礼だから」
「1番高いパフェを指差しながら言う言葉じゃないよ」
「私は……普通ので、大丈夫です」
ヒナも遠慮がちにメニューを閉じようとする。
「普通って何だ。食いたいもん頼めよ」
「じゃあ……この、季節限定の……」
「ヒナちゃん、それユイちゃんが見てるのより高いよ」
ハルナの指摘に、ヒナの手が止まった。
「……やっぱり普通ので」
「そこで戻るな。全員好きにしろ。夏はバイトも入ったし、みんなで色々できて楽しかった。その礼みたいなもんだ」
リョウヘイが気負いなく言うと、ハルナは困ったように笑った。
「じゃあ、今日は甘えさせてもらうね。ありがとう、リョウヘイくん」
「よし! 店員さーん!」
「ユイちゃん、まだ私たち決まってない!」
賑やかな注文の声がテーブルを飛び交う。この夏、4人は学校の外でも随分長い時間を一緒に過ごした。リョウヘイの家へ集まり、ハルナの別荘へ泊まり、海へ行った。楽器を持たずに笑っている時間が増えても、4人の間から音楽が消えることはなかった。そうして夏休みの最後に待っているのが、特進クラスだった。
4人はまだ知らない。
その教室が、これまで以上に自分たちの足りない部分を容赦なく突きつけてくる場所になることを。そして、今まで出会ったことのない種類の人間たちが待っていることを。
翌週。夏休み明けの朝。
校舎へ続く石段には、まだ朝の涼しさが残っていた。リョウヘイが昇降口の前で待っていると、規則正しい足音とともにハルナが上ってきた。制服のリボンはきっちりと整えられ、長期休暇明けとは思えないほど隙がない。
「あ、リョウヘイくん。おはよう。早いね」
「おはよ。俺も今来たとこ」
「流石に初日は早く来るよね」
「どういう意味だよ」
「リョウヘイくん、普段は待ち合わせ時間ぴったりだから」
図星だった。
「なんか妙に早く目が覚めたんだよ。遠足の日みたいな感じで」
「やっぱり緊張してるんだ」
「楽しみが7、嫌な予感が3だな」
「嫌な予感、ちゃんとあるんだね」
少し遅れて、石段の下からユイとヒナが現れた。
「おっはよー! って、2人とも早くない!?」
「お、おはようございます。お待たせしてしまいましたか?」
「全然。今来たところ」
4人が揃い、特別棟へ向かう。
普段使っている校舎から渡り廊下を進むほど、人の声が遠ざかっていった。特進クラスのある階は、生徒の数そのものが少ない。朝だというのに廊下は静かで、靴音ばかりが妙に大きく響いた。やがて、重厚な木製の扉の前へ辿り着く。ほかの教室とは明らかに違う。まるで校長室か、入ったら2度と出られない部屋のようだった。
「なんか……緊張するね、この扉」
ユイが小声になる。
「扉に負けないでよ」
そう言うハルナも、取っ手へ伸ばした手を1度引っ込めた。ヒナはギターケースの肩紐を握りしめている。
「せーので開けるか」
「4人で持つほど重くないでしょ」
「気持ちの話だよ」
「せ、せーのって、そんな軽く……」
ヒナが戸惑う横で、リョウヘイは扉を押し開けた。
教室には、すでに3人の生徒がいた。
最初に目へ飛び込んできたのは、窓際に座る黒髪の美人だった。
艶のある髪にはピンクのインナーカラーが入り、机に頬杖をついているだけなのに妙に絵になる。
「おや?君達がスカウトされた1年生かい?」
声が教室へ伸びた瞬間、ユイの表情が変わった。透き通っているのに芯が太い。何気ない一言だけで、歌う人間の声だと分かる。
東音マガジンでも、校内のフライヤーでも何度も見た事がある。
彼女の名前は天瀬サクラ。校内のマンスリークローザーという月末のライブイベントにレギュラーで出ている、校内でも有名人だ。
「はい。今日からです」
ハルナが答えると、少女は満足そうに笑った。その隣には、深緑色の長い髪をした女子生徒が座っていた。前髪が目元まで覆っていて、表情はほとんど見えない。リョウヘイたちへ、わずかに顎を引く。
「……」
それだけだった。すぐにノートへ視線を戻してしまう。
「静かな人だね」
ユイがハルナの耳元へ顔を寄せる。
「ユイちゃん、聞こえるよ」
「……聞こえている」
前髪の向こうから低い声が返ってきた。
「す、すんませんでしたぁ!」
ユイが一瞬で姿勢を正した。
その時、教室の奥から椅子を引く音がした。
「来た来た! 待ってたんだけど!」
明るい金髪を高い位置で結んだ少女が、こちらへ駆け寄ってくる。小さなピアス、華やかな見た目と、人の懐へ迷わず飛び込む笑顔。リョウヘイには見覚えがあった。
「あ。オーディションの時の」
「覚えてんじゃん! 嬉し!」
その勢いのままリョウヘイの腕へ自分の腕を絡めた。
「オーディション、めちゃくちゃ良かったよ! 今度うちで録らせてよ。ドラムだけでもいいから!」
「いや、いいけど……近いな」
「あ、ごめん。テンション上がると距離バグるんだよね」
口では謝りながら、まだ離れない。その様子を、ユイとヒナが横からじっと見ていた。
「へえ。録音だって。よかったね、リョウヘイ」
「よ、よかったですね。腕まで予約されてます」
「そこまで含めて録られないだろ」
「もう慣れようよ、2人とも」
ハルナが苦笑しながら間へ入る。少女はようやく腕を離すと、今度は4人を順番に見回した。
「改めて、綾坂ナルミ。エンジニア志望。楽器は大体なんでもやるし、作曲も映像も触る。音楽関係なら、とりあえずなんでもやる人!」
「広いな」
「音楽業界のよろず屋って感じ。趣味は録音、特技も録音!」
差し出された手を、ハルナ、ユイ、ヒナの順に握る。
「よろしくね、綾坂でいいから」
「よろしく! ……握力強っ」
「機材は重いからね」
ユイが握られた手を振りながら、綾坂を見つめた。
「綾坂も確かオーディション受けてたよね?」
「そうだよ。まぁ、オーディションは儀式みたいなもんだったけどね」
「儀式?」
「ウチ、ティアーユ先生のお気に入りだから」
教室の空気が、一瞬で止まった。あのティアーユ先生が、誰かを気に入る。その言葉だけで、目の前の少女が急に得体の知れない存在へ見えてくる。
「ど……どういう意味?」
ハルナが慎重に尋ねる。
「あと、いとこなんだ。ウチとティア姉さん」
「いとこ!?」
ユイの声が裏返った。
「子どもの頃から、ずっと音楽教えてもらってたんだよね。ティアーユ先生と同じで、できない楽器の方が少ないよ。伝わるかな?ウチの器力」
綾坂は自身の楽器演奏能力、通称「器力」を解放した。リョウヘイ達が冷や汗をかくほどの強者感があった。ヒナは圧倒的な器力の差に身震いした。
「ギタリスト…ですか…?」
「いやいや、ギターもできるってだけ。テクだけならヒナっちと同じぐらいかな」
続けてユイは質問した。
「綾坂は音響科なんだっけ?」
「あー、それね。学校へ入る前に日本1周してたら、戻った頃には音楽科の枠が埋まっててさ。だから音響科入っただけ。ま、どっちでもよかったんだけど」
「待ってください…!情報が全部強いです…!」
ヒナが目を見開く。呼吸が少し荒い。
リョウヘイはふんわり聞いてみた。
「日本1周って、何で?」
「したかったから」
「あー、うん。あるよね、そういう時」
リョウヘイは理解を諦めるように頷いた。ティアーユの身内で、幼い頃から直接指導を受け、オーディションではハイクオリティな音楽と映像を1人で組み上げた。選ばれて当然と言われても納得するしかない。
「まあ、オーディションは公平に受けたけどね。受かって当然って言われてたし」
「その自信、少し分けてほしいです……」
ヒナが本気で呟いた。
綾坂の衝撃が冷めないまま、突如教室の扉が開く。
「席についてください」
ティアーユの声が響いた瞬間、それまでの騒がしさが嘘のように消えた。全員が慌てて席へ向かう。綾坂だけは焦る様子もなく、リョウヘイの近くの席へ腰を下ろした。教壇に立ったティアーユは、7人を静かに見渡した。
「本日より、後期の学園生活が始まります。特進へ入った以上、これまでと同じ生活を送れるとは思わないでください」
初日最初の一言から、逃げ道がない。
「まずは自己紹介をしましょう。音楽業界に限らず、挨拶は基本です。相手への敬意を忘れず、自分が何者なのかを伝えてください。サクラさんから」
黒髪の少女が勢いよく立ち上がった。
「はいっ! 天瀬サクラ、2年生さ! 目指すはもちろん、世界中を虜にするトップアイドル! 困ったことがあれば、何でもこのサクラ先輩に頼りたまえ!」
マイクもないのに、声が教室の隅まで鮮明に届く。
ユイが小さく息を呑んだ。
同じボーカルでも、声の質がまるで違う。サクラの声は、出した瞬間に空間の中心を奪う。
「次、フミさん」
深緑の髪の少女が、ゆっくりと立った。
「……雨宮フミ。2年。作家志望」
それだけ言って座る。
「終わり…?」
ユイが思わず呟く。
「終わり」
短い返事だけが戻ってきた。
この学校は2年制だ。つまり、サクラとフミは最上級生であり、特進で1年過ごしてきた先輩でもある。続いて綾坂が名乗り、lunatiの4人も順番に立った。たった7人。改めて数えると、この場所が選ばれた人間だけの教室なのだと実感する。全員が座ると、ティアーユは黒板へ向き直った。
「特進クラスでも、午前中は一般科目を受けてもらいます。特に英語には力を入れます。これからの音楽活動において、海外への発信は避けて通れません」
英語詞、海外公演、配信、インタビュー。淡々と並べられる言葉は、学校の授業というより、卒業後に待つ現実の説明だった。
「午後は特進課題です。課題をこなせない場合、特進へ残ることはできません」
「先生、その課題って――」
リョウヘイが口を挟むと、ティアーユの視線がまっすぐ飛んできた。
「今は英語の授業について説明しています。リョウヘイさん」
「……はい。すみません」
「初手で怒られてる」
ユイの囁きが聞こえた。
ティアーユの英語授業は、リョウヘイたちが想像していたものとは違った。配られたのは問題集ではなく、1曲分の英語詞だった。比喩表現、言葉が置かれた時代背景、母音と子音がメロディへ与える影響。発音だけでなく、なぜその単語をその音へ乗せるのかまで問われる。ユイが歌うたび、ティアーユの指摘が飛んだ。
「今の母音では、意味が変わって聞こえます。もう1度」
「はい!」
「舌の位置が違います」
「はい……!」
「息を逃がさないでください」
「は、はい……」
休み時間になった頃、ユイは机へ突っ伏していた。
「もう無理……心が英語圏から入国拒否された……」
「大丈夫? ユイちゃん、少し小さくなってない?」
ハルナが背中を撫でる。
「なってる。自信が縮んだ」
「でも、言ってることは分かるだろ。海外でも通じる発音ができれば、聴いてもらえる範囲が一気に広がる」
リョウヘイが言うと、ユイは机に頬をつけたまま睨んだ。
「分かるけど! アタシは日本語の歌詞が好きなの! それじゃ駄目なの!?」
「それだけで満足するのであれば、構いません」
背後から声がした。
ユイの身体が跳ねる。
いつの間にか、ティアーユがすぐ後ろに立っていた。
「ですが、日本の中だけで完結する道を選ぶのですか?海外で先に評価され、日本へ戻ってくる音楽家も珍しくありません。選択肢を持たないことと、選んで使わないことは違います」
ユイは背筋を伸ばし、神妙に頷いた。
「イエス・マム……」
「発音が違います」
「そこも!?」
ティアーユは何事もなかったように去っていく。
「……勝てる気がしない」
「お前じゃ相手になんないだろ…」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
昼休み。
特進の生徒は一般生徒より30分早く食堂を利用でき、料金も割引される。朝から削られ続けたユイは、その待遇だけで少し復活していた。
「特進最高じゃん!」
「もうお弁当も必要なくなっちゃったね」
「少し寂しいけど、今までありがとうな」
「必要ならいつでも言ってね」
4人で席を探していると、トレーを持ったサクラが近づいてきた。後ろにはフミもいる。
「やあ。君達、私達と一緒に食べないかい?」
「もちろんです」
6人でテーブルを囲む。
「先輩たちは、1年生の時からずっと特進なんですか?」
ハルナが尋ねると、サクラは大きく頷いた。
「その通りさ。私もフミも、1年生の頃からずっと特進だよ。去年の今頃、9月頃にティアーユ先生が担任になったんだ」
「ティアーユ先生の課題って、どんなことをするんですか?」
「残念だけど、それは教えられないんだ。課題の内容を外へ漏らさないのが、特進のルールでね」
「同じクラスでも駄目なんですか?」
ヒナが不安そうに聞く。
「先に知っていたら、課題にならないだろう? なに、心配はいらないさ。君達なら、きっと大丈夫だよ!」
サクラは根拠を一切説明しないまま、眩しい笑顔を向けた。
「特進に入って1か月で戻されたら、恥ずかしくて学校来られません……」
ヒナがぼそりと漏らす。
「やめて。なんか具体的に想像できた」
「最悪のシナリオだね。メンタル保つかな」
ユイが胸を押さえ、ハルナまで顔を曇らせた。
リョウヘイは3人を見回した。
「まあ、やるしかないだろ。ドキドキを楽しもうぜ」
「うん」
「もちろん!」
「が、頑張ります」
4人は小さく頷き合った。
午後。
教室へ戻ると、ティアーユがすでに教壇の前へ立っていた。午前中と同じ無表情。だが、その瞳だけがわずかに楽しそうに見える。7人が席へ着くのを待ち、ティアーユは口を開いた。
「それでは、最初の課題を発表します」
教室の空気が一気に張り詰める。リョウヘイは無意識に姿勢を正した。隣ではユイが唾を飲み込み、ヒナは膝の上で両手を握っている。ティアーユは7人を見渡し、静かに告げた。
「私を、音楽で笑わせてください」
誰も動かなかった。
聞き間違いかと思った。だが、ティアーユは何の補足もせず、こちらの反応を待っている。数秒遅れて、リョウヘイの口から本音が落ちた。
「……は?」




