#30 リョウヘイ・ヒナ・オリジン
夏休みも後半へ入ったある日の昼下がり、lunatiのグループチャットが震えた。
ユイ『夏祭りどうする?』
短い一文だった。けれど、末尾に見えない勢いがついている。相談の形をしているだけで、ユイの中ではすでに参加が決まっているのだろう。ベッドに寝転がっていたリョウヘイは、スマホを片手に返信を待った。
ヒナは先日の朝から楽しみにしていた。問題があるとすれば、賑やかな場所を好みそうにないハルナくらいだ。先に返事をして逃げ道を塞ぐのも気が引けて、しばらく様子を見る。
ハルナ『みんなで行こうよ』
予想よりずっと早く、しかも乗り気な返事だった。
「そういえばハルナ、家に誰もいないって言ってたな。暇なんだろな」
独り言を漏らしたところへ、続けてヒナからメッセージが届く。
ヒナ『おかあさんが、3人分の浴衣を用意するそうです。皆さん、着ていきますか?』
ユイ『着たい! ヒナん家集合!』
ハルナ『私も着たいな。ヒメさんにお礼を伝えておいてね』
浴衣。
その2文字を見た瞬間、リョウヘイの頭に3人の姿が浮かんだ。海で水着を見た時とは違う、涼しげな布地と帯。髪も普段とは違って――そこまで想像したところで、自分が妙に具体的な絵を作っていることに気づく。何となく落ち着かなくなり、枕元の練習パッドを叩いた。
直後、新しい通知が出る。
ヒナ『リョウヘイさんは現地集合でお願いします』
リョウヘイ『分かってるよ。先に行って、捕まった金魚を助けてくるわ』
ユイ『リョウヘイバカだなー』
ハルナ『毎年たくさん捕まってるらしいから、みんな助けてあげてね』
ヒナ『どちらにせよ金魚は捕まっていますよ』
最後にユイが金魚のスタンプを送りつけ、話は決まった。
祭りの日。
日が落ちても、昼間に焼かれた道はまだ熱を抱えていた。住宅街を抜け、神社へ近づくほどに人の数が増えていく。遠くから盆踊りの太鼓が聞こえ、提灯の赤い光と、醤油や油や砂糖の匂いが夜風に混じって流れてきた。鳥居をくぐったリョウヘイは、思わず立ち止まった。
想像していた町内の盆踊りより、ずっと規模が大きい。参道の両側には屋台が隙間なく並び、境内の中央に組まれた櫓を、人の輪が幾重にも囲んでいる。賽銭箱へ続く列は鳥居近くまで伸び、最後尾がどこなのかも一目では分からなかった。
30分早く来て正解だった。
もっとも、待ち合わせ場所へ向かうより先に金魚すくいの屋台へ吸い込まれた時点で、その余裕は別の用途に使われている。
「兄ちゃん下手だなぁ」
屋台の主人から親切な助言が飛ぶ。
「だって逃げるんだもん…」
「金魚の気持ちにもなってみろや。兄ちゃんだって、いきなり巨人に連れていかれそうになったら逃げるだろ?」
「駆逐してやる!」
隣にいた小学生が1匹すくった。リョウヘイは黙って新しいポイを水へ入れる。狙った赤い金魚が悠々と方向を変え、濡れた紙の中央へ無慈悲な穴だけを残していった。
「あぁ、くそ……!」
敗北を突きつけるように垂れ下がった紙を睨んでいると、背後から笑いを含んだ声がした。
「なんにも救えてないじゃん、ヒーロー気取り」
背後から投げられたユイの声へ、リョウヘイは振り返らないまま答える。
「助かる気のないやつは、助けようがねえんだよ」
「金魚のせいにしちゃダメだよ?」
ハルナのいつものツッコミも聞こえる。
振り返って最初に目へ入ったのは、ユイだった。白地に鮮やかな橙色の朝顔が咲く浴衣。いつもの高いポニーテールには小さな簪が挿され、歩くたび飾りが揺れている。その隣で、ハルナは淡い水色の浴衣を着ていた。白い花の模様と帯の薄紫が、涼しげな色の中に柔らかさを添えている。短い髪の片側には、小さな花飾りが留められていた。
最後に立つヒナの浴衣は、夜空に近い深い藍色だった。細く描かれた金魚が裾を泳ぎ、いつもの3つ編みには白い紐が編み込まれている。3人とも浴衣の柄は違うのに、並ぶと不思議なくらい調和して見えた。ヒメが1人ずつ選んだのだろう。リョウヘイは破れたポイを持ったまま、素直に感嘆した。
「おお、すごいな。3人ともめっちゃ似合ってる。なんていうか、大人っぽいな」
3人の動きが、見事に同時に止まった。ユイとハルナは一瞬だけ目を合わせる。ヒナまで含めた3人だけが、合宿の夜から共有している秘密。その中心にいる本人は、浴衣の柄でも褒めたような顔をしている。
「リョウヘイって、またそういうこと普通に言うよな……」
ユイが先に視線を逸らした。言葉ほど呆れてはいないらしく、耳の先が少し赤い。
「全然ダメって言うべきだった?」
「いいわけないでしょ!」
「それがリョウヘイさんのいいところじゃないですか」
ヒナが嬉しそうに言う。
「ヒナちゃんは迷わず味方するね」
ハルナも頬に残った熱を隠すように笑った。
「リョウヘイくんも、甚平とか着ればよかったのに」
「持ってない。あと、俺だけ先に来て1人で甚平は、祭りが好きすぎる人みたいでちょっと恥ずかしい」
「1人で金魚を救おうとしてた人は平気なんだ」
「それは目的があるからいいんだよ」
「1匹もいませんけどね」
ヒナに事実だけで刺され、リョウヘイは破れたポイを屋台の返却箱へ置いた。
「よし。参拝行くぞ」
リョウヘイが話を切り上げると、ユイがすぐに笑った。
「あ、逃げた」
「戦略的撤退だ」
最後にハルナが、破れたポイを見ながら首を傾げる。
「金魚相手に使う言葉じゃないよ」
4人はヒナが持ってきたサービス券を分け、賽銭箱へ続く列の最後尾へ並んだ。ヒメはユイの食欲を正確に見抜いていたらしく、券は1人分ずつ名前を書いた小さな封筒へ分けられていた。勝手に配分を変える余地がない。
「信用されてない……」
ユイは自分の封筒を覗き込み、少しだけ傷ついた顔をした。
「おかあさんは、1晩でユイさんのことをよく理解したんです」
「理解が速すぎるよ」
「食事中ずっと見本を見せてたからな、お前食い過ぎなんだよ」
列は人1人分ずつ、じりじりと前へ進む。左右には、焼きそば、たこ焼き、りんご飴、かき氷。威勢のいい呼び込みが途切れることなく飛び交い、立ち止まるたび別の匂いが鼻をさらっていく。参拝へ向かう道というより、誘惑を順番に耐える試験会場だった。
「長いなあ……」
ユイがりんご飴を齧りながら言った。
「もう買ってるじゃん」
ハルナが笑う。
「待ってるだけだとお腹減るでしょ」
「ヒナん家でお菓子食べてきたんじゃなかったの?」
「それはそれ、これは祭り」
隣から、ソースの匂いが漂ってきた。見れば、リョウヘイまで焼きそばのパックを開けている。
「リョウヘイくん、いつ買ったの?」
「列が曲がったところに屋台あっただろ。3人が浴衣の帯の話してる間に」
「女子の会話から消えるの上手すぎない?」
「聞いても分かんないし、腹減ってたし」
「もぐもぐしながら言われても、説得力が全部焼きそばです」
3年ぶりだというヒナは、人の波に少し緊張しているようだった。それでも、学校で大勢に囲まれた時のように俯いてはいない。ハルナの隣を歩き、時折ユイの袖を掴みながら、屋台の光を楽しそうに目で追っている。
「ヒナ、平気か?」
「はい。人は多いですけど、皆さんがどこにいるか分かるので」
「はぐれたらグループチャットな」
「リョウヘイが1番、勝手に屋台へ消えそうだけど」
「ちゃんと焼きそば持って戻っただろ」
「戻ればいいという話ではありません、そもそも勝手に離れないでください」
叱られながら残りを平らげた頃には、賽銭箱までまだ半分以上あった。手持ち無沙汰になったユイが、りんご飴の棒を小さく振る。
「ねえ、リョウヘイって、なんでドラム始めたの?」
「なんだよ、急に」
「いいじゃん、話してよ暇なんだし。オリジンだよオリジン。」
「なんだ弁当か?どんだけ食うんだよお前は」
「ち!が!う!なんでドラム始めたのかを話せって言ってんの!」
「やっぱり家にドラムがあるとか?誰かの影響?」
ハルナが冗談めかして言う。
「そんなカッコいい話じゃないよ」
「やっぱり、モテたかったからですか?」
ヒナも興味津々で乗ってくる。
「お前ら、俺の原点を何だと思ってんの?」
「男子ってモテたいから音楽やるんじゃないの?」
ユイが即答した。
「そういうやつは大体ギターかボーカルやるんだよ。俺のは、そんな大した話じゃないけど……」
リョウヘイはそこで、少しだけ考えた。今の身体でドラムを叩き始めたのは3歳の頃だ。前世の記憶に身体が突き動かされ、台所の鍋を叩いた。それをそのまま話すわけにはいかない。けれど、自分がどうして最初のスティックを握ったのかと問われれば、答えはもっと遠い場所にある。リョウヘイは肝心な1語だけを胸の内へ伏せ、嘘ではない前世の昔話を始めた。
「昔、ゲームセンターにドラムマニアってゲームがあってな」
「今もありますよ?」
ヒナがすぐに言った。
「あるよ、ドラマニ。何なら新しい曲も入ってる」
ユイまで当然のように続ける。
「え、まだあるの?」
「そこから驚くんですか?」
「最近ゲーセン行ってないから。話を戻すぞ」
危うく自分の時間感覚を疑われかけ、リョウヘイは軽く咳払いした。
「子供の頃、それにハマったんだよ。電子ドラムみたいにパッドを叩くゲームでさ。曲に合わせて叩くのが、とにかく面白かった」
「それで本物もやりたくなったの?」
ハルナが尋ねる。
「最初はゲームだけで満足してた。俺がやると後ろに人だかりができるくらいうまかったし」
「はい、自慢入りましたー」
「事実を説明しただけですー」
「ユイさんうるさいです!」
「続けて、リョウヘイくん」
ハルナが笑いを含んだ声で促す。
「ずっとやってたら、親が『そんなに好きなら本物をやれ』って言ってきてな。多分、ゲームよりは健全だと思ったんだろうけど。近所のドラム教室に通ってたんだ」
「本物の方が、練習時間もお金も大変そうですけどね」
「親もあとから気づいたと思う。高校からは自分の金で頑張れってな」
「だからいつも金欠だったんだ」
「今はドラム講師のバイトがあるからな。安定してる」
前世の両親の顔が、祭りの光の向こうに浮かんだ。古い記憶なのに、初めて練習用のスティックを渡された日の手触りだけは、今も妙にはっきり残っている。
「でも、生のドラムも面白かった。ゲームと違って、同じ場所を同じ強さで叩いても、毎回まったく同じ音にはならない。最初は全然思ったように動けなくてさ。夜中までゴムパッド叩いて、うるさいってよく怒られたよ」
「ご自宅でドラムを叩いていたんですか?」
「普通の家だったから、さすがに生ドラムは無理。パッドだけ。それでも床とか壁に結構響くんだよ。小遣いでスタジオ入りまくってたな」
「リョウヘイくんでも、最初は難しかった?」
「そりゃ難しいよ。今だって難しい」
3人が同時に、少し意外そうな顔をする。
「またまた」
ユイが疑うように目を細めた。
「いや、本当に。できることが増えるほど、できてないことも見えるんだよ。手足を別々に動かせるようになったら、次は4つの音をどう1つに聴かせるか。速く叩けたら、今度は小さい音で同じ速さを出せるか。新しい技を覚えたら、曲のどこで使わないかまで考える。終わりがない」
屋台の喧騒の中で、リョウヘイの声が少しずつ熱を帯びていく。
「俺よりすごいドラマーなんて、いくらでもいる。正確さが化け物みたいな人もいれば、たった一発で空気を変える人もいる。全員やり方が違うし、昨日できなかったことが今日できる時もある。逆に、昨日まで何も考えずできてたことが、急に気に入らなくなる時もある。ずっと発見が止まらないんだ。だから飽きない」
「すごく、リョウヘイくんらしいね」
ハルナが静かに笑った。
「ドラムってまだ存在してから100年しか経ってない、比較的新しい楽器というか概念なんだ。新しい技やビートが今も開発され続けているんだ。そんな大きい渦の中にいるんだと思うと俺はワクワクするんだ」
ヒナは、少し考えるように首を傾げる。
「でも、リョウヘイさんはドラマーであること以上に、バンドへこだわっているように見えます」
柔らかな口調だったが、問いはまっすぐ核心へ届いた。サポートだけなら、今のリョウヘイにもいくらでも話があった。実際、中学の頃から大人のバンドに呼ばれ、そのたび期待以上の演奏を返してきた。それでも東音へ来て、3人を探し、4人でlunatiを組んだ。
「サポートは、その1回を最高にする仕事だ。呼ばれたバンドの曲を理解して、必要な音を置いて、終わったら次へ行く。それも好きだし、やりがいはある」
リョウヘイは、少し先を歩く3人の横顔を順番に見た。
「でも、バンドは1回で終わらない。今日うまくいかなかったところも、次に持っていける。誰かが変わったら、ほかの3人も変わる。同じ曲を何十回やっても、その4人にしか作れない形へ、ずっと磨いていける」
前世で重ねた無数のステージが、胸の奥を通り過ぎる。うまくいった夜も、客がほとんどいなかった夜もあった。音のことで本気で喧嘩し、翌日には同じ車で次の街へ向かった。解散して、離れて、もう2度と揃わなかった仲間もいる。そのすべてを知った上で、それでもまたバンドを選んだ。
「みんなが俺を信じてくれるから、俺も自分を信じられる。俺が3人を信じるから、まだ聴いたことのない音にも飛び込める。その信頼が、そのまま音になって返ってくる瞬間があるんだよ」
口にしながら、リョウヘイは不意に照れくさくなった。だが、ここで誤魔化す方が格好悪い気がして、最後まで言い切る。
「だからずっとバンドをやってくれる音楽にイカれたメンバーが必要だったんだ。」
少しの間、誰も喋らなかった。
太鼓の音、呼び込み、子供の笑い声。祭りのすべては変わらず騒がしいのに、4人の間だけが奇妙に静かだった。ユイは食べ終えたりんご飴の棒を見つめ、ハルナは胸元の巾着をそっと握っている。ヒナはまっすぐリョウヘイを見ていた。
3人は知っている。この男が、思いつきでバンドを始めたわけではないことを。演奏を褒められるためでも、学校で目立つためでもなく、ずっと探し続けた末に自分たちを選んだことを。だから、その言葉は3人の胸へ、それぞれ違う熱を持って落ちていった。
「……なんだよ、これ」
沈黙へ耐えられなくなり、リョウヘイが頭を掻く。
「インタビューかよ。祭りで焼きそば食いながら話す内容じゃないだろ。ちょっと恥ずかしいわ」
「いやいや、すごくいい話でした!」
ヒナが両手を振る。
「うん。もっと聞きたい」
ユイも素直に頷いたあと、照れ隠しのように笑った。
「あとで記事にして新聞部に売ろう」
「やめろよ、人権ないのか俺は」
「サービス券1枚で黙っててあげる」
ユイが商売人のような顔で答えた。
「そんなんだからギターと間違えてベース勝っちゃうんだぞ」
「今は関係ない!」
笑いが戻る。
リョウヘイは、このまま自分だけ話したことにされてはたまらないと、すぐ隣のヒナへ話を振った。
「次、ヒナな。なんでギター始めたんだ?」
「えっ。リョウヘイさんのあとに話すんですか?」
「自分から核心突いといて逃げるなよ」
「私の話は、そんなに格好よくありません」
「決めるのは聞いた側だ。はい、どうぞ」
「急に司会者にならないでください……」
ユイまで面白がって手を叩く。
「ご指名だぞ、ヒナー!」
「あっ、賽銭箱です! もう着きました!」
前を指差すヒナの声に嘘はなかった。話している間に長い列を進み切り、4人はすでに石段の前まで来ていた。
「ちっ、逃したか」
「神様に助けられました……」
「そのために並んでたわけじゃないよ、ヒナちゃん」
4人は賽銭を入れ、並んで手を合わせた。願い事を声に出す者はいない。リョウヘイは目を閉じたものの、何を願うべきか迷った末、結局、4人で長く音を鳴らせますようにとだけ念じた。自分たちで叶えるつもりのことを神様へ頼むのは、少し違う気もする。けれど、こういう場所では形にしておいて損はない。目を開けると、隣のハルナもちょうど顔を上げた。
「正月でもないのにな」
「こういう時は、やっておいて損ないよ」
「そうだな」
2人で小さく笑い、参拝を終える。
リョウヘイはみんなの健康とバンドの成功を願った。帰り道も、行きと変わらず人で詰まっていた。屋台を見て回るには都合がいいが、ヒナが話から逃げ切れるほど速くは進めない。
「ヒナ、逃げ場なんてないぞー」
ユイが肩を寄せ、にやにやしながら顔を覗き込む。
「……分かりました。話しますから、近いです」
ヒナは観念したように息を吐いた。
「私のお父さん、海外で仕事をしているんです」
「すごいね!」
ハルナが優しく聞き返す。
「はい。今も、ほとんど海外にいます。お父さんはギターが趣味で、私が小さい頃、家にいる日はよく弾いてくれました」
夜店の光が、ヒナの横顔を赤や青に染めては過ぎていく。
「曲の名前も、歌詞の意味も分かりませんでした。でも、お父さんがギターを持つと、家の空気が変わるのが好きだったんです。私が頼めば、何度でも同じ曲を弾いてくれました」
話す声は穏やかだった。けれど、遠い場所を見る瞳には、幼い頃の寂しさが薄く残っている。
「私が5歳になった頃から、お父さんの仕事がもっと忙しくなりました。家へ帰れない日が増えて、ギターも弾いてもらえなくなって……そしたらある日、海外便で大きな荷物が届いたんです」
「まさか、ギター?」
ユイが聞く。
「はい。それも1本ではありませんでした。子供用の小さなものから、大人が使うサイズまで、何本も」
「成長を見越しすぎだろ」
リョウヘイが思わず笑う。
「おかあさんも、同じことを言っていました。箱の中には手紙が入っていて――」
ヒナは1度言葉を止めた。何度も読み返して覚えているらしく、記憶の中の文面をゆっくり口にする。
「『ヒナ、ギターを弾いてやれなくてごめんな。忙しい父を許してほしい。でも、ギターはヒナにも弾ける。小さいものから大きいものまで送ったから、成長に合わせて好きな1本を使うといい』って。大体、そういう内容でした。5歳だったので、その時はよく分からなかったんですけど」
「大胆なお父さんだなあ」
「弾いてあげられないなら、自分で弾けるようにすればいいって、なかなか考えないよね」
ハルナが感心したように言う。
ヒナは少し誇らしげに胸を張った。
「おかあさんが好きになった人ですから」
「その一言で急に全部納得できるの、ヒメさんすごいな」
リョウヘイの脳裏に、ゲーム棚の前で目を輝かせていたヒメの姿が浮かぶ。離れていても、夫婦の大胆さはどこか似ているらしい。
「教室には通わなかったの?」
ハルナが尋ねた。
「……人が怖かったので」
ヒナは小さく苦笑した。
「知らない先生と2人で話すのも、ほかの生徒さんと一緒になるのも無理でした。だから、インターネットで独学しました」
「5歳から?」
「最初は、お父さんがよく弾いていた曲を真似するだけでした。もう少し大きくなってから、動画を探して、1音ずつ耳で拾うようになりました。有名なギタリストのライブ映像を、速度を落として何度も見て」
「それで今の弾き方になったのか」
リョウヘイは納得する。
ヒナの演奏は、誰か1人の型に収まらない。教則本どおりの綺麗さより先に、耳で聴いた音へ指を近づけようとした執念がある。動画の向こうにいる何人ものギタリストから、好きな音だけを貪欲に奪い、自分のものへ変えてきたのだ。
「誰をコピーしてた?」
リョウヘイは興味津々だった。
「ジミー・ペイジや、アンガス・ヤング。ジミヘンはもちろん、山下達郎さんも!」
「渋っ!おっさんか!」
「カート・コバーンやフルシアンテも好きですよ!」
「フォローになってないんだよな。でもロックだけじゃなくてメタルも好きだよな?」
ユイがヒナの顔をまじまじと見た。
「この顔でメタラーなの今だに信じられない、なんでメタル好きになったの?」
ヒナの顔が赤くなる
「メタルは……叫べない私の代わりに叫んでくれるので。私の怒りや醜い感情を肯定してくれるから……好きです」
「ヒナちゃんのギター、いつも叫んでるもんね」
ハルナが笑顔で答える。
照れくさそうにヒナは返した。
「ギターは私の声で……感情そのものなんです」
「名言出たね」
「茶化さないでください!」
「もー!ユイちゃん!」
3人が笑い、ヒナも少し遅れて頬を緩めた。かつては、父がいない寂しさを埋めるために触れたギターだったのかもしれない。人が怖くなった中学時代には、ひとりで自分を支えるものにもなった。けれど今、その音は壁の外にいる3人へ届き、4人を1つのバンドへ結びつけている。
本人がそこまで意識しているかは分からない。ただ、始まりを聞いた今なら、ヒナのギターが時折ひどく寂しく、それでも誰かを求めるように響く理由が、少しだけ分かる気がした。
「……もういいですか?」
長く話し続けたヒナが、目に見えて息を切らしている。
「こんなに喋ったの、久しぶりで……人混みもあって……ちょっと疲れました……」
「演奏なら2時間止まらないのにな」
「ギターなら無尽蔵にエネルギーが湧いてくるんですが……」
「今のは名言っぽく言っても、ただ喋るのが苦手な人だよ」
ハルナが笑いながら、ヒナの背中を優しく撫でる。
「お疲れ様。もうすぐ鳥居だよ」
「はぁぁ……やっとゴール……これで帰れます……」
「祭りを脱出する人の言い方じゃん」
人の流れに押されながら鳥居へ近づいたところで、リョウヘイはふと思いついた。
「じゃあ今度は、ユイとハルナのルーツも聞かせろよ」
その瞬間、ハルナの笑顔がわずかに固まった。本当に一瞬だった。すぐにいつもの柔らかな表情へ戻り、胸元で巾着の紐を握る。
「うん。今度ね」
穏やかな返事なのに、その先へ踏み込ませない響きがあった。
「アタシも今度ねー!」
ユイも明るく続ける。笑顔は普段と変わらない。それでも返事が少しだけ早く、冗談で話を閉じようとしていることには、ヒナとハルナの方が先に気づいた。リョウヘイは、2人が単に恥ずかしがっているのだと思った。
「忘れんなよ」
「リョウヘイこそ、今日喋ったからって逃げないでよ。まだ聞きたいことあるんだから」
鳥居の近くで、4人は足を止めた。浴衣を返す3人は、ここからヒナの家へ戻る。リョウヘイの駅は反対方向だった。祭りはまだ続いている。境内からは盆踊りの太鼓が響き、提灯の光の下を人の波が絶えず行き交っていた。けれど、別れ際に立つと、それまで近かった音が少しだけ遠く感じられる。
「月末、もう1回集まろう!」
リョウヘイは、人混みに負けないよう声を張った。
「学校始まる前に、練習もしよう。夏休みの締めだ」
「最後まで練習なんだ」
ユイが笑う。
「当たり前だろ。遊ぶのも込みでな」
「分かった! 予定、空けとく!」
ハルナも頷き、ヒナは両手で巾着を握ったまま嬉しそうに笑った。3人は笑いながら歩き出す。
少し離れたところで、ユイが振り返った。
「リョウヘイー! 気ぃつけて帰れよー!」
「お前がなー!」
「アハハ!」
ハルナとヒナも振り返って手を振る。3人の浴衣の袖が夜の人混みの中で揺れ、やがて提灯の光へ溶けて見えなくなった。
夏休みは、終わりへ向かっている。けれど4人の物語は、ようやく最初の季節を越えようとしていた。
いつもご愛読ありがとうございます。
ここまでで夏休み編となります。
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次回から特進クラス編となります。
特進クラスのメンバーとティアーユの授業。
乞うご期待




