#29 ヒナのおかあさん
夏休みも、そろそろ折り返しに差しかかろうとしていた。合宿から帰った翌々日。4人は昼過ぎの住宅街を、ハルナが買ってきたケーキの箱を手に歩いていた。空はよく晴れ、家々の塀からこぼれた蝉の声が、細い道いっぱいに降り注いでいる。
「この辺で合ってるよね?」
ハルナがスマホの地図と目の前の番地を見比べる。その横でユイは、朝から何度目か分からない台詞を繰り返した。
「ヒナん家のご飯、楽しみだなあ」
「まだ会ってもないのに、ご飯だけを目的に来たみたいな言い方するなよ」
「ご挨拶も楽しみだよ。ご飯はもっと楽しみ」
「正直すぎて訂正になってない」
予定では、お茶を飲んで少し話し、そのまま夕食をご馳走になることになっている。先日の旅行のお礼をしたいという、ヒナの母からの招待だった。やがて地図が示す家の前まで来ると、門扉の向こうにヒナが立っていた。こちらが呼び鈴を押すより早く扉が開く。
「いらっしゃいませ! お待ちしていました!」
いつもより1段明るく、よく通る声だった。背筋も伸びていて、学校で人に話しかけられるたび肩を跳ねさせている少女と同1人物には見えない。
「ヒナ、今日めっちゃ喋れそうじゃん」
「ここは私の家ですから。地の利があります」
「戦う気で待ってたの?」
「皆さんをきちんとお迎えするため、朝から練習しました!私にとっては勝負なんです!」
「やっぱり戦う気だったんだな」
リョウヘイが笑うと、ヒナも少し照れながら笑った。
「お邪魔します。これ、みんなで食べようと思って」
ハルナがケーキの箱を掲げる。
「ありがとうございます! 冷蔵庫に入れてきますね!どうぞ上がってください!」
ヒナは受け取ると、弾むような足取りで廊下の奥へ消えた。残された3人は玄関で靴を揃える。こぢんまりとした1軒家だったが、床も窓もきれいに磨かれ、棚には小さな花が飾られていた。視線を上げれば、壁に掛かった家族写真の中で、幼いヒナが今より短い3つ編みを揺らしながら笑っている。
「なんか緊張するな……」
リョウヘイが小声で漏らすと、ユイがすかさず振り向いた。
「ざまみろ」
「なんでだよ」
「アタシたちをいきなり1人暮らしの部屋に呼んだ罰」
「あれ、罰が発生するようなことだったの?」
「こっちがどれだけ緊張したと思ってんの」
「アイス食って昼寝してたじゃん」
「途中からはね!こういのうは最初緊張するもんなの!わかった!?」
威張るところではない。リョウヘイが呆れていると、廊下の奥で扉の開く音がした。現れた女性を見て、3人は揃って姿勢を正した。柔らかく波打つ長い髪。目元や鼻筋にはヒナの面影があり、娘をそのまま大人びさせたような美しい人だった。淡い色のワンピースを上品に着こなし、歩き方にまで自然な気品がある。ただし、3人を見つけた瞬間の反応だけは、想像よりずっと賑やかだった。
「あらあら!まあまあ!本当に来てくださったのね!」
澄んだ声が玄関へ明るく響く。
「あ、紹介します。私のおかあさんです」
戻ってきたヒナが、どこか誇らしげに母の隣へ立った。
「いつも娘がお世話になっております。母のヒメです。今日は自分の家だと思って、ゆっくりしていってくださいね」
「は、はい。こちらこそ、お世話になります」
リョウヘイは反射的に深く頭を下げた。ライブハウスの店長や年上のミュージシャンを相手にしても、ここまでかしこまった記憶はない。
「ヒナ、そっくりだね」
ユイが2人を見比べる。
「うん。並ぶと本当によく分かるね」
ハルナも頷くと、ヒナは嬉しそうに頬を緩めた。
「はい。自慢のおかあさんです」
「まあ、ヒナさんったら」
ヒメは口元へ手を添えた。照れているようにも見えるが、隠しきれないほど喜んでいる。似ているのは顔だけではないらしい。リビングへ案内され、4人は低いテーブルを囲んだ。ハルナが買ってきたケーキをヒメが手際よく取り分け、その間にヒナがお茶を運んでくる。
「リョウヘイさんは、コーヒーでよかったかしら?」
当然のように自分の前へ置かれたカップを見て、リョウヘイは瞬きをした。
「え。なんで知ってるんですか?」
「ヒナさんから聞いていますよ。いつもコーヒーを、バカみたいに飲んでいるって」
「ヒナ?」
「言ってません! 私は『リョウヘイさんはコーヒーをよく飲みます』としか言ってません!バカみたいにって言ってるのはユイさんです!」
「ちょっと!?」
「もういいよ、自覚あるし」
ヒナが真っ赤になって抗議する向かいのユイにまで飛び火した。
「自覚あったんだ、ウケる」
「うるさいな。お前もカフェイン中毒にしてやろうか」
「きゃー、眠れなくなるよー」
棒読みだった。
「この子、家に帰ると毎日、皆さんのお話をするんですよ」
ヒメは楽しそうに続けた。
「今日はこんなことがあった、こんな曲ができそうだ、ユイさんがこんなに元気だった、ハルナさんがこんなに優しかったって。学校のお話をしてくれるようになっただけでも嬉しいのに、本当に楽しそうで。特にリョウヘイさんの話になると――」
「おかあさん!」
ヒナが母の口を両手で塞いだ。
「それ以上は駄目です!私めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないですか!」
「いいじゃないの。地の利があるんでしょ?」
「制空権を取られた気分です…」
ユイとハルナが同時に吹き出した。合宿の夜に秘密を共有した2人は、一瞬だけ目を合わせ、すぐ何も知らない顔でケーキへフォークを入れる。リョウヘイだけが意味を分かっていなかった。
「俺の話って、そんなにすることある?」
「ありません!」
「ないのかよ」
「あるけど!今は!ありません!」
矛盾した返答に、リビングがまた笑いに包まれた。お茶を飲みながら、ヒメは合宿の様子を熱心に聞いた。海で4人揃って転んだこと、ほとんどの時間を音楽室で過ごしたこと、ヒナが休憩中にもギターを触ろうとして何度も止められたこと。
「ヒナさん。皆さんといる時くらい、ちゃんと休まなくては駄目ですよ」
「皆さんといるから弾きたくなるんです……」
「気持ちはとっても嬉しいけど弁明するには厳しいかな」
ハルナにたしなめられ、ヒナはしゅんと肩を落とす。そんな娘を見つめるヒメの眼差しは、笑っていながらも、どこか眩しいものを見るようだった。夕方になると、テーブルの上はちょっとした宴会のようになった。肉料理に魚料理、色鮮やかなサラダ、炊き込みご飯。4人を喜ばせようと準備したことが一目で分かる量だった。
「すごい! アタシ、lunati入ってから美味しいものばっかり食べれてる気がする!」
「人のお弁当パクったりな」
「遠慮しないで、たくさん食べてくださいね」
「はい! もう遠慮は捨てました!」
「最初から持ってないんだよな、お前の場合」
ユイは1口食べるたびに大げさなくらい喜び、そのたびヒメの表情も明るくなる。ヒナは恥ずかしそうにしながらも、母の料理が褒められるたび、本人以上に嬉しそうだった。
「ユイさん。ヒナさんを学校中追いかけ回して、バンドへ誘ってくれたんでしょう?」
「ほらリョウヘイ、謝って」
「ふざけんな、一緒に謝れ」
『マジすいませんでした』
2人の声が重なる
「でも、あの子を諦めずに追いかけてくれた。おかあさん、感動しました」
「いやあ……最初はギターがうまいから欲しかっただけで」
ユイが頬を掻く。
「今は違うでしょう?」
「今は、ヒナじゃなきゃ嫌です」
照れくさそうな、けれど迷いのない答えだった。隣に座るヒナが目を丸くし、俯いて箸を動かすふりをする。
「それから、ハルナさん」
ヒメが視線を移した。
「ヒナさんが苦しい時、いつも優しくしてくださったそうですね。本当にありがとうございます」
「そんな、私は何も……。それに、私だってヒナちゃんにたくさん助けてもらってます」
「ハルナさん……」
「2人とも、私のいる所で私を褒めるのはやめてください……恥ずかし過ぎます…!」
ヒナは耐えきれなくなったように顔を伏せた。
1通り笑ったあと、ヒメの視線が最後の1人へ向いた。今まで以上に目を輝かせている。
「そして、リョウヘイさん!」
「はい」
「YouTube動画は全部拝見しました。今もプレイリストを作って、家事をする時に毎日聴いているんですよ。親子揃ってファンなんです!」
「おおおおおかあさん! もう!」
今日1番の声が上がった。ヒナは母の肩を掴んで揺らし、ヒメは「あらあら」と楽しそうにされるがままになっている。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるの、普通に嬉しいです」
リョウヘイが素直に頭を下げると、ヒナの動きが止まった。母に何を暴露されても恥ずかしいが、本人が喜んでいるなら強く否定することもできない。しばらく迷った末、赤い顔のまま小さく座り直した。
「……私も、毎日聴いています」
「それは知ってる。再生数の3分の1くらいヒナなんじゃないかと思ってる」
「そんなには聴いてません」
「4分の1?」
「割合の問題ではありません!」
笑いの絶えない夕食が終わり、皿がほとんど空になった頃だった。ヒメは食器を重ねながら、ふと思い出したように言った。
「ヒナさん、お風呂のお掃除をお願いできる?」
「え、今ですか?」
「ええ。皆さんが入るかもしれないでしょう。浴槽だけでなく、床と壁と排水口も丁寧にね」
「そうですね!いっその事泊まっていってもらいましょう!そうしましょう!」
「30分くらいかけてくれると助かるわ」
「承知しました!」
母娘の視線が合った。
「そんな!お構いなく!」
ハルナは慌てて遠慮したが、ヒナは勇み足でお風呂掃除に向かっていった。
やがて浴室から水音が聞こえ始める。それを確かめてから、ヒメは手にしていた皿を静かに置いた。
「あの子は、変わりました」
先ほどまでと同じ穏やかな声だった。けれど、そこに混じった重さを感じ取り、3人は自然と姿勢を正した。
「小学生の頃までは、ギターが好きな、少し内気な普通の女の子でした。中学校で……ちょっと失敗してしまって。それから、人と関わることを極端に避けるようになったんです」
「聞きました、人前だと…ギター弾けなかったって。バンドも呼ばれなくなったって」
ハルナは悲しい顔で俯いた。
「中学の間は、見ているこちらまで苦しくなるほどでした。『学校は楽しい?』なんて、そんな簡単なことすら聞けなかった。楽しくないと答えさせることも、楽しいふりをさせることも怖くて、かわいそうで」
ユイの膝の上で、握った手に力が入る。ハルナも俯き、黙って続きを待った。
「部屋から聞こえてくるギターの音も、どんどん歪んでいって……。チューニングもいつのまにかドロップDが標準になっていました。」
苦笑いしながら話すヒメのマニアックな冗談に、リョウヘイもつられて笑いそうになっている。
「高校へ上がっても、最初は何も変わりませんでした。東音を勧めたのは私なんです。家から近いから、嫌になったらすぐ帰ってこられる。少なくとも、好きなギターのそばにはいられる。親なのに、そんなことしか考えられなかった」
リョウヘイの中で、以前から抱えていた小さな疑問が解けた。人と話すことさえ怖がっていたヒナが、なぜ大勢の音楽好きが集まる学校を選んだのか。無理に尋ねたことはなかったが、その選択の裏には、娘を外の世界と細い糸1本でもつないでおきたい母親の願いがあったのだ。
「入学してしばらくしたある日、あの子が汗だくで帰ってきました。学校で女の子に追いかけられたって」
3人の視線がユイへ集まる。
「……ホントにすみませんでした」
ユイは膝へ手をつき、深く頭を下げた。
「いいの。あの時は驚いたけれど、今は追いかけてくれてよかったと思っています」
ヒメは優しく笑った。
「それから少しして、ヒナさんが『バンドに入る』と言ったんです。最初は、聞き間違えたのかと思いました。けれど、その日から毎日、本当に楽しそうにギターを弾くようになった。今までの、ひとりで何かに耐えているような悲しい音ではなくて……誰かへ届くことを願っている、優しい音になったんです。あの子の音は、昔から嘘をつけません」
その言葉を聞いたハルナの目に、薄く涙が浮かんだ。
「最近は、よく笑います。自分から学校の話をしてくれます。自分が何をしたいか、何が嫌なのか、それもちゃんと言えるようになりました。皆さんと出会って、あの子は――」
ヒメはそこで1度言葉を止め、唇を結んだ。笑顔を保とうとしているのに、声だけがわずかに震えている。
「本当は、母親の私が何とかしなければならなかったのに。傷つけるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、私はずっと踏み込めなかった。逃げていたんです。だから……皆さんがあの子を見つけてくれて、手を引いてくれて、本当に……」
最後まで言葉にならず、ヒメの目から涙がこぼれた。
「それは違います!」
ハルナが真っ先に声を上げた。椅子から立ちかけるほど身を乗り出し、普段の柔らかさの奥にある強さを、そのまま言葉へ乗せる。
「ヒメさんは逃げてなんかいません。ヒナちゃんが戻れる場所を、ずっと守っていたじゃないですか。安心して帰れる場所があったから、ヒナちゃんは外へ出られたんだと思います。たくさん愛されてて羨ましいぐらいです」
「そうです」
ユイも強く頷いた。
「それに、助けてもらったのはこっちです。ヒナのギターがなかったら、lunatiは今のlunatiになってません。特進に受かったのもヒナがいたから。追いかけたのはアタシだけど、今はアタシたちの方が、置いていかれないように必死なんです」
ヒメは涙を拭わず、2人の言葉を受け止めた。リョウヘイも、静かに口を開く。
「ヒメさん。ヒナが変わったのは、俺たちのおかげじゃないです」
ヒメが顔を上げる。
「俺たちは、きっかけにはなったかもしれない。でも、ユイに追いかけられても学校へ来るのをやめなかったのも、怖いのにバンドへ入ると決めたのも、ステージへ上がったのも、全部ヒナです。あいつは誰かに引っ張られただけじゃない。自分で道を選んで、自分の足でここまで来た」
初めて会った日の姿が、リョウヘイの脳裏に浮かぶ。声をかけただけで怯え、ギターケースを抱えて逃げようとしていた少女。それでも、演奏を始めれば、誰よりも雄弁に音を鳴らした。
「ヒナは、もともと強いんです。本人も、周りも、それを知らなかっただけで。ヒメさんがずっと守ってきたから、その強さが消えなかったんだと思います」
こらえていたものが切れたように、ヒメの頬をもう一筋、涙が伝った。
「ヒナさんが、よく言うんです。リョウヘイさんは、誰よりも強いのに、誰よりも優しいから最強なんだって。今なら、よく分かります」
「おかあさん! また私を使ってリョウヘイさんを褒めていますね!」
浴室の方から声が飛んできた。
直後、廊下を駆ける足音が近づき、掃除用のゴム手袋をつけたままのヒナがリビングへ飛び込んでくる。
「やっぱり変な話をしていました! また私をおもちゃにしてましたね!」
「そんなことしていないわ。少し話をしていただけよ」
ヒメは指先で涙の跡を拭い、何事もなかったように微笑んだ。ヒナは疑いの目で母を見たあと、3人へ順番に視線を向けた。
「何の話をしていたんですか?」
「俺が最強って話」
リョウヘイが即答する。
「そんなこと、わざわざ確認するまでもないですよ」
ヒナも1秒とかからず断言した。そして何故か自慢げだった。
「ほら、言ってたでしょう?」
ヒメが得意げに笑う。その横で、ユイとハルナも涙を隠すように笑い出した。
「なんですか。みんなして……」
「何でもないよ、ヒナちゃん」
ハルナは立ち上がり、まだ濡れているヒナの手からゴム手袋を外した。
「お風呂、ありがとう」
「……はい」
何を話していたのかは分からない。それでも3人の目に浮かぶものが嫌な感情ではないことだけは伝わったらしく、ヒナはそれ以上追及しなかった。
その後、ヒメの強い勧めで4人は順番に風呂を借りた。最後に入ったリョウヘイが、火照った顔でリビングへ戻ってくる。首には借りたタオルをかけ、肩を回すたびに満足そうな息が漏れた。
「いやあ、すみません。すっかりお世話になっちゃって」
「いいのよ。自分の家だと思って、くつろいでくださいね」
「やっぱ湯船に浸かると全然違うな。俺ん家ユニットバスだから、こんなにゆっくり入ったの久しぶりです」
「遅いよ、リョウヘイ! ずっと待ってたんだから!」
リビングのテレビ前では、ユイがコントローラーを握って待ち構えていた。ヒナもすでにソファへ座り、画面には見慣れたレースゲームのタイトルが映っている。
「マリカー?」
「そう。4人でやろうよ」
「いいけど、俺、最強だよ?」
リョウヘイは髪をタオルで拭きながら、当然の事実を教えるように言った。前世からゲームは好きで、今も時間があればオンライン対戦をしている。少なくとも、この場の4人を相手に負ける想像はしていなかった。
「残念ながら、いくらリョウヘイさんでもおかあさんの敵ではありません」
ヒナが静かに告げる。
「ヒメさん、ゲームやんの?」
「テレビの下にあるSwitch2、おかあさんのですよ」
「えっ」
「今回も『旅行のお礼』とか言っていましたけど、たぶん皆さんとゲームをしたかっただけです」
「人聞きの悪いことを言わないで」
飲み物を載せた盆を手に、ヒメがリビングへ戻ってきた。テーブルへグラスを並べ終えると、どこからともなく自分専用らしいコントローラーを取り出す。
「お礼もしたかったわ。ゲームもしたかっただけで。それにリョウヘイさんもゲームを嗜むとか」
「否定できてませんよ、おかあさん」
「ゲームは、みんなでした方が楽しいでしょう?」
「それは間違いない。じゃあ、誰から負ける?」
リョウヘイが不敵に笑い、ソファへ腰を下ろした。
「くーっ! こいつにだけは絶対勝ちたい!」
ユイがその隣へ陣取る。
「私は見てようかな。ゲーム、あんまりやったことないし」
ハルナだけは少し離れた椅子へ座った。コントローラーを持つ姿すら想像しにくい彼女に、3人も無理に勧めなかった。
こうして、ヒメ、リョウヘイ、ユイ、ヒナによる最初のレースが始まった。スタート直後、リョウヘイはきれいに加速を決めた。ユイが横から体当たりを仕掛け、ヒナがその隙に前へ出る。最初の数秒だけを切り取れば、実力の拮抗した楽しい勝負だった。1つ目のコーナーを抜けるまでは。
リョウヘイが、遠ざかるヒメの車を見て声を上げた。
「速い…!」
「そうかしら?」
画面の中で、ヒメの車だけが別のゲームをしているように遠ざかっていく。コーナーでは一切速度を落とさず、最短距離を滑るように抜け、アイテムは相手が最も嫌がる瞬間にだけ使う。隠された近道も当然のように通り、後続が潰し合っている間に差は広がる一方だった。ヒナが思わず画面へ身を乗り出した。
「ちょ、待って! おかあさん、手加減なしですか!?わたし娘なんですけど!」
「娘だからよ。ヒナさん」
リョウヘイまで、画面を追いながら呆れた声を漏らす。
「いい教育方針だな。きっと立派に育つよ。」
ヒナは慣れているのか堅実に2位を守っていたが、ヒメの背中には届かない。リョウヘイはユイの投げた甲羅に2度当たり、ユイはリョウヘイを狙うことに夢中でコースから落ちた。ヒメが余裕の1位でゴールし、かなり遅れてヒナが2位。そのさらに後ろで、リョウヘイとユイがほとんど同時にゴールした。
「速すぎる……何もできなかった……」
リョウヘイが、コントローラーを握ったまま呆然とする。
「アタシら2人でワーストトップだよ……」
ユイがソファへ沈み込んだ。
「お前の邪魔がなければ…!俺が…!」
「はいザコー!ザーコ!ザーコ!」
「うるせぇ!小学生か!」
互いに睨み合う2人を置いて、ヒナは離れた椅子にいるハルナを振り返った。
「ハルナさんもやりませんか?」
「でも、私、本当にやったことないよ」
「操作なら教えます」
「1度だけでも遊んでくださらない?」
ヒメにまでコントローラーを差し出され、ハルナは断りきれずに受け取った。
「じゃあ、1回だけ……」
アクセル、ブレーキ、曲がり方、アイテムの使い方。ヒナが隣で1通り説明すると、ハルナは確認するようにボタンを1度ずつ押した。ヒメは観戦に回り、今度はlunatiの4人だけで再戦する。リョウヘイたちは先ほどの惨敗を引きずりつつも、初心者が1人いるなら今度こそ勝てると思っていた。
スタートの合図が鳴った。
ハルナは少し遅れて発進した。最初の直線では3人の後ろ。やはり初めてならこんなものだと、誰もが思った。だが1つ目の曲がり角で、ハルナの車は迷いなく内側へ入った。壁すれすれを抜け、リョウヘイの横へ並ぶ。次のコーナーでは短い説明で覚えたばかりの技を使い、先頭へ出た。
「ハルナ、やったことないんだよね?」
「うん。これで合ってる?」
「合いすぎてる!」
1度前へ出てからは、追いつく隙がなかった。後ろから飛んでくる攻撃を適切なアイテムで防ぎ、必要のない争いには加わらず、最短のコースだけを淡々と進む。初めて見るはずの道なのに、1周目で地形を覚え、2周目には無駄な動きが消えていた。そして3周目。ハルナは後続を大きく引き離し、そのまま1位でゴールした。
「あ、勝っちゃった」
本人だけが、画面を見て不思議そうに呟く。
「速すぎる……何もできなかった……」
リョウヘイが、数分前とまったく同じ言葉を繰り返した。
「アタシ、才能ないかも……」
ユイはコントローラーを膝へ置き、遠い目をしている。
「負けました……初心者さんに……」
ヒナまで深く項垂れた。
「みんな……」
ハルナが3人を見回す。いつもの彼女なら、ここで大丈夫だよと励ますはずだった。3人も無意識に、その優しい言葉を待って顔を上げる。
ハルナはにっこり笑った。
「遅いね」
「ぐっ……!」
「うっ……!」
「はひっ……!」
3人分の呻きが重なった。
それまで上品に観戦していたヒメが、ついに耐えきれず腹を抱えた。
「ハルナさん……最高……! 駄目、息が……!」
目尻に涙を浮かべながらハルナの肩を叩く。母の見たことのない笑い方にヒナは唖然とし、ハルナは自分の発言を思い返して、少しずつ頬を赤くした。
それでもハルナは楽しくてイジワルをしたくなった。
「みんなもうちょっと頑張ってくれないと楽しくないな」
「くー!ハルナにも絶対勝ちたい!」
「わ、私も!朝比奈家代表として負けられないです!」
「そうよヒナさん!日頃のおかあさんとの特訓を思い出すのよ!」
「タイヤだ…!タイヤがよくないんだ…!もっと直線で加速できるやつ…!」
リョウヘイは真顔でコントローラーを構え直した。
「やるぞ!次だ!」
「熱くなってんじゃん、リョウヘイ!」
「うん!私も、結構ゲーム好きかも」
ハルナの目にも、普段は見せない勝負欲が宿っている。
「まあ! 他にも4人でできるゲームがたくさんありますよ。次はこれにしましょう、その次はこちらで――」
ヒメは棚から次々とケースを取り出したあと、突然、名案を思いついたように手を叩いた。
「皆さん、もう今日は泊まっていって! お願い!」
「そうですみなさん!今日は泊まっていってください!ユイさんとリョウヘイさんは一人暮らしだし、ハルナさんさえ良ければ!」
「アタシ泊まるー!ハルナはー?」
「私もお世話になろうかな。家、誰もいないから連絡もいらないし」
「すんません、ご厄介になります」
時刻を見れば、帰るには少し遅くなり始めていた。その日は結局、全員でヒナの家に泊まることになった。
夜が更けても、リビングの明かりは消えなかった。協力するはずのゲームでユイが勝手に先へ進み、リョウヘイが仕返しをして2人揃って失敗する。ヒナは自分の番になるたび真剣に悩み、ハルナは初心者とは思えない速さで要領を掴んでいく。そしてヒメは、その全部を誰よりも楽しそうに笑っていた。
翌朝。
カーテンの隙間から入った光に照らされ、リビングには夜更かしの結果が広がっていた。テーブルの上には空になった菓子の袋、床には4人分のクッション、テレビの前には並べたままのコントローラー。朝食の匂いに起こされ、4人は眠い目をこすりながら席へ着いた。
「引き止めてしまって、すみませんでした」
ヒナが申し訳なさそうに頭を下げる。
「おかあさんがあんなワガママを言うなんて、娘として恥ずかしいです……」
「ヒナも引き止めてただろ。昨日は超楽しかったぞ」
リョウヘイがあくびを噛み殺しながら笑った。
「ビリでも楽しかった?」
向かいのユイが、にやにやしながら尋ねる。
「お前もほとんどビリだっただろうが」
「でも最後のゲームはアタシの方が上だった」
「チーム戦で味方を置いてった結果な」
「勝ちは勝ち!勝った人が全てなの!」
「またゲームしようね」
ハルナがパンへジャムを塗りながら、ぽつりと言った。昨夜見つけた新しい楽しみを、まだ手放したくなさそうだった。
「もちろん! いつでも、どれだけでも来てくださいね」
朝食を並べていたヒメが、心から嬉しそうに答える。それから、ヒナの前へ皿を置き、3人へ向き直った。
「その代わりと言ってはなんですけれど、これからも、この子をよろしくお願いします」
昨夜とは違う、母親の顔だった。
「逆ですよ、ヒメさん」
ハルナが静かに首を振る。
「これからも、私たちがヒナちゃんに助けてもらうんです」
「うん。ヒナがいないと困る」
ユイも、今度は照れずに言った。
「俺たちからも、よろしくお願いします」
リョウヘイが頭を下げると、ヒメは少し目を潤ませながら、深く頷いた。
「はい。どうぞ、よろしくお願いします」
「……皆さん、本人を挟んで勝手に契約を結ばないでください」
ヒナは困ったように言いながらも、口元を隠しきれずに笑っていた。朝食が終わりかけた頃、ヒメが思い出したように手を合わせた。
「そうだわ。来週、この近くで盆踊りがあるんです。私、町内会の幹事をしていて。皆さんも来てくださるなら、サービス券を差し上げますよ」
「祭り!」
ユイが真っ先に食いついた。
「屋台、ありますか?」
「もちろん。焼きそばも、かき氷も、金魚すくいもありますよ」
「行く!」
「返事がヒナより早いな」
「私も、皆さんと行きたいです」
ヒナが期待を込めて3人を見る。ハルナもすぐに頷いた。
「うん。せっかくだし、みんなで行こうよ」
3人の視線が最後にリョウヘイへ集まった。
「俺も行く。祭りって、ちゃんと行ったことないんだよな」
口にしてから、リョウヘイは自分でも少し意外に思った。この身体になってから、家族に連れられて近所の祭りを見たことくらいはあったのかもしれない。けれど、はっきりと思い出せる記憶はない。前世でも、夏は練習やライブやバイトに追われ、祭りの夜を横目に通り過ぎてばかりだった。
「じゃあ決まりね。サービス券、たくさん取っておきます」
「ヒメさん。ユイに全部渡すと、1人で使い切りますよ」
「失礼な。ちゃんと4人で分けるよ。アタシが2、みんなが1ずつ」
「配分からもう失礼なんだよ」
笑い声の向こうで、朝の光が窓いっぱいに広がっていた。合宿が終わっても、4人で過ごす夏は終わらない。ヒナの家で生まれた新しい約束が、次の夜へと彼らを連れていく。祭りという言葉は、リョウヘイの胸に小さな引っかかりを残していた。懐かしいような、それでいて1度も触れたことのないものを待つような、不思議な感覚だった。夏休みは、まだ折り返したばかりだった。




