#28 パジャマパーティー
千葉の夜は、都会の夜よりも輪郭が深かった。街灯の少ない別荘地では、日が沈むと窓の外が1枚の黒に塗り替えられる。けれど、静かではない。少し離れた海から、波の崩れる音が何度も届く。昼間はしゃいでいた海が、夜になっても眠らずに呼吸を続けているようだった。
合宿も半ばを過ぎた、その夜。
2階には個室が4つあったが、使われているのは2部屋だけだった。リョウヘイが1部屋。残る3人は、初日の夜から当然のように同じ部屋へ布団を並べている。誰が誘ったわけでもない。風呂から上がったユイが枕を持ち込み、ヒナがギターごとついてきて、最後にハルナが3人分の布団を敷いた。それ以来、この並びが定位置になっていた。
「じゃあ、消すよ」
ハルナが壁のスイッチを押す。ぱちん、という音とともに天井の明かりが消え、代わりに3台のスマホが淡く浮かんだ。
「あー……疲れたぁ」
真ん中の布団で、ユイが手足を投げ出す。
「今日、何時間やった? 起きてる時間のほとんど、あの部屋にいた気がするんだけど」
「休憩とご飯とお風呂は出てたよ」
「ハルナ、それ刑務所の説明みたいになってる」
「失礼だな。ちゃんと海も見える別荘だよ」
「見てないじゃん、今日。窓に背中向けて歌ってたもん」
ハルナが笑いを噛み殺す隣で、ヒナが申し訳なさそうに布団の端をつまんだ。
「リョウヘイさん、今日もスパルタでした……」
「ヒナちゃん今日結構くらってたね。8回ぐらいやり直しあったもんね」
「数えていたんですか?」
「途中からね。どこまで伸びるか気になって」
「すみません、うまく弾けなくて……」
「別に嫌じゃなかったって。最後のはかなり良かったし」
ユイが寝返りを打ち、ヒナの額を指先で軽くつつく。
「ただし、明日は休憩中に休憩すること。弦を触るのは禁止」
「それは休憩ではなく、罰では……?」
「休憩と練習の境目が曖昧なんだよ、ヒナちゃんは」
ヒナは思い出したように話題を変えた。
「そういえばユイさんも結構言われてましたね」
「ユイちゃん、チラチラ海見ながら演奏するのよくないよ」
「だってー!」
「音が海に行きたいって言ってるんですよ」
3人の笑い声が、暗い天井へ柔らかく溶けた。そこから話は、演奏とは関係のない方向へ転がっていった。海で1番ひどい転び方をしたのは誰か。夏休みの宿題をどこまで終わらせたか。学校で1番、私服の想像がつかない先生は誰か。ユイが持ってきた化粧水をヒナが気に入り、ハルナが使い方を説明しているうちに、今度は髪型の話になった。
何を話しても、結論は出ない。出なくてもよかった。眠るまで同じ部屋にいるというだけで、昼間には必要のなかった言葉が、次々と口からこぼれていく。やがてスマホの画面が1つ消え、もう1つ消え、最後の1つも伏せられた。
波の音が近くなる。
「あの…」
ヒナが暗闇へ向かって、緊張した声で恐る恐る言った。
「リョウヘイさんって、彼女とかいるんですか」
あまりにも脈絡がなく、だからこそ、その一言が部屋の中央へ重く落ちた。
「……急だね、ヒナちゃん」
「前置きしたら恥ずかしいです」
「もう十分、恥ずかしい質問だと思うけど」
「い、意地悪しないで教えてください」
布団の擦れる音がした。暗くて顔は見えないのに、3人とも誰がどちらを向いたのかだけは分かった。
「いない…と思うよ」
ハルナが慎重に答える。
「少なくとも、私は聞いたことない」
「そういうヒナは? なんか知ってそう」
「どうして私なんですか」
「リョウヘイのこと、よく見てるから」
「ユイさんも見てるじゃないですか!」
返された言葉に、今度はユイが黙った。ハルナの胸の奥で、夕方の砂浜に浮かんだ問いが再び顔を出す。リョウヘイを見つめていたヒナの横顔。あの時は聞けなかった。けれど今、暗闇が3人の表情を隠してくれている。ヒナは少し考えてから、正直に答えた。
「彼女がいるかはわかりません。でも、告白されているのは何度か見ました。うちのクラスの人からも」
「えっ、誰?」
「言えませんよ。人の話を勝手にするのは駄目です」
「そこまで出したなら、もう教えてくれてもよくない?」
「駄目です。その人にもリョウヘイさんにも失礼です」
「固いなあ」
「ユイちゃんが緩すぎるの」
ハルナにたしなめられ、ユイは「だって気になるじゃん」と枕へ顔を埋めた。
「まあ、モテるんじゃないかな」
ハルナがぽつりと続ける。
「顔もいいし、優しいし。普段は適当そうなのに、誰かが本当に困ってる時は気づくし……ドラムを叩いてる時は、ちょっと格好いいし」
最後だけ声が小さくなった。
「ちょっと?」
ユイがすぐに拾う。
「ちょっと…」
「海で髪上げてた時も、ちょっと?」
「それは今、関係ないでしょ」
「ハルナ、あの時ずっと見てたもんね」
「ユイちゃんだって見てたよね?」
「み、見てたよ。だから聞いたんじゃん」
開き直られると、ハルナは言い返せない。ヒナが、布団から目元だけを出して小さく頷いた。
「リョウヘイさんは、自分がどう見られているか分かっていないんだと思います。初日も普通に、かわいいと言っていましたし」
「そう! あれ、おかしいよね。言われた方だけ慌てて、本人は何とも思ってないの」
「わからないと言うか、興味ないんだと思う。でも、嘘で言う人ではないよ」
ハルナの一言で、部屋が急に静かになった。3人とも、初日の浜辺で聞いた「みんなかわいい。似合ってる」という声を、思い出してしまったからだ。
「……だから困るんだよなぁ」
ユイが布団を鼻まで引き上げる。
「多分、彼女を作る気もないんじゃないかな」
ハルナは熱くなった頬を隠すように、暗い天井へ顔を向けた。
「そういう話題になるといつも面倒そうな顔するし、ドラムとバンドがあればいいって、本気で思ってそう」
「言いそう。すごく言いそう」
「顔がもう思っていそうです」
3人の中に、同じリョウヘイの顔が浮かぶ。少し眉を寄せて、恋愛なんて必要か、と本気で不思議がっている顔だ。ユイが吹き出し、ハルナも笑った。その笑いが収まりかけたところで、ヒナが言う。
「では、私たちの誰が告白しても、たぶん失敗ですね」
「うん、それはまあ――」
ハルナは反射的に頷きかけ、止まった。
私たちの誰が。
言葉の意味が遅れて胸へ届く。
「……私たち?」
ユイも同時に起き上がったらしい。隣で布団が大きく鳴った。
「はい。少し安心しました」
「何に?」
「私だけが振られるわけではないので」
今度こそ、沈黙が落ちた。
スマホの光はもうない。それでもハルナには、ヒナがこちらを真っすぐ見ているのが分かった。
「私、リョウヘイさんのことが好きです」
迷いも、照れ隠しもなかった。
波が1度、遠くで崩れる。その音が消えるまで、ユイもハルナも声を出せなかった。
「……え、待って」
先に動いたのはユイだった。枕元のスマホをつけ、ヒナの顔を照らす。
「今、とんでもないこと普通の声で言ったよね?」
「大声で言うことではないので」
「声量の話じゃなくて!」
「ユイちゃん、うるさいよ」
ハルナがユイを止める。けれど、自分の動揺までは隠せなかった。
「ヒナちゃん……いつから?」
「分かりません。気づいたら、そうなっていました」
ヒナは1度だけ目を伏せ、それから2人を見た。
「私が黙っていても、ギターを弾けばちゃんと聞いてくれます。怖くて動けない時は待ってくれるのに、逃げようとした時だけは逃がしてくれません。lunatiに入ってからは、いえ、入る前からとても魅力的に見えました。男性として…」
言い終えてから、ようやく恥ずかしくなったらしい。ヒナは膝を抱え、半分ほど顔を隠した。その仕草を見て、ユイが額を押さえる。
「ヒナ、恋愛になると急に強すぎない?」
「強くはないです。本人には言えませんから」
「告白しないの?」
「有り得ません」
答えは早かった。
「絶対に振られると思いますし、もし気まずくなれば、4人で演奏できなくなるかもしれません。それに――」
ヒナの指が、掛け布団の縁をきゅっと掴む。
「lunatiを壊してまで、リョウヘイさんを1人だけのものにしたいとは思いません。今の4人でいられる方が、私には大事です」
静かな声だった。諦めではない。好きだと認めた上で、自分が何を1番守りたいのかを決めた声だった。だからこそ、続く問いから逃げるのは難しかった。
「ユイさんとハルナさんは、どうですか?」
「そこ、聞くんだ……」
ユイが呻く。
「私だけ話すのは不公平かと」
「急に公平性を持ち出さないでよ」
誰も笑わなかった。笑えるほど軽い話ではないことを、3人とももう分かっている。ハルナは胸元で両手を組み、何度か言葉を探した。
「私は……好き、なんだと思う」
口にした途端、曖昧にしていたものへ名前がついた。
「リョウヘイくんが後ろにいると、安心する。ピアノを弾く時も、それ以外の時も。私が迷ってると、最後は自分で決められるところまで待ってくれる。そういうところを、ずっと見てたから……多分」
声は小さかったが、途中で止めなかった。
「でも、友達としてだからね。今の関係が崩れるのは私も嫌だし、リョウヘイくんに余計なことを考えさせたくない。きっと、今のままが1番やりやすいと思うから」
「ハルナ、それはもう確定で好きでしょ」
「違う……友達として好きなだけ」
ハルナは枕を抱きしめ、熱くなった顔を押しつけた。残るユイに、2人の視線が集まる。
「……見るなって」
「暗いので、ほとんど見えません」
「そういう問題じゃないの」
ユイはしばらく黙り込み、布団の端を指へ巻きつけた。普段なら勢いで越えてしまう1歩が、今夜に限ってはひどく遠い。
「アタシ、そういうのよくわかんない…」
ようやく出た声は、昼間の彼女からは想像できないほど頼りなかった。
「でも……ステージにいるリョウヘイを見ると、もっと歌いたくなるんだよね。こいつのドラムの前で、誰よりもすごい声を出したいって思う。4人でいる時も楽しいし、優しいところも……。でもアタシの好きは友達としてだから!付き合うとか……アタシよくわかんないし」
「ユイさん可愛いです。もっと聞かせてほしいです」
「うるさい。これ以上ちゃんと言ったら、明日から顔見られなくなる」
「もう十分ちゃんと言ってたよ、ユイちゃん」
「聞かなかったことにして」
「それはもう無理です」
ユイは掛け布団を頭までかぶった。暗闇の中でさらに隠れても意味はないが、今は1枚でも多く何かを挟みたかった。
同じ人が好きだと分かった。
普通なら、ここから誰かを警戒したり、比べたりするのかもしれない。けれど3人の間に最初に生まれたのは、気まずさよりも妙な納得だった。海辺で交わした視線も、リョウヘイの一言に揃って黙った理由も、今なら全部つながる。それでも、何も変わらないわけではない。明日から隣の2人がリョウヘイを見つめるたび、その意味を知ってしまう。胸のどこかが痛む日も、きっと来る。
ハルナはその予感ごと抱えるように、ゆっくり息を吐いた。
「この話は、3人だけの秘密にしよっか」
「絶対だからね。リョウヘイにはもちろん、誰にも言わないで」
布団の中からユイが念を押す。
「はい。私も言いません」
ヒナが頷いた。
「取り合ったり、どちらかが譲ったりするのではなくて……今は、このまま、みんなで……」
言葉の途中で、声が途切れた。
「……ヒナちゃん?」
返事の代わりに、すう、と規則正しい寝息が聞こえる。数秒前まで3人の関係を左右しかねない話をしていた本人が、もう眠っている。
「え、寝たの?」
ユイが布団から顔を出した。
「あれだけ言って?」
「今日もずっと弾いてたから、限界だったんだよ」
「自由すぎるでしょ……。こっちはしばらく寝られないんだけど」
ハルナは眠るヒナへ掛け布団をかけ直し、暗闇の中で小さく笑った。
「仕方ないよ。私たち、イカれてるもん」
「それ、自分で言う?」
「リョウヘイくんが探してたの、そういうメンバーでしょ」
「じゃあ、見つけた責任は取ってもらわないと」
「その言い方、本人には絶対言っちゃダメだよ。あの人そういうのに弱いから」
2人は声を押し殺して笑った。
やがてスマホの最後の光も消える。部屋は再び、表情を見せない暗さに包まれた。3人の気持ちは同じ場所へ向いていた。けれど、それぞれがそこへ至った道も、抱えている熱の形も違う。今夜決めた秘密が、この先も何も変えずにいられる保証はなかった。ただ今は、隣にいる2人の寝息と、壁の向こうにいる1人の気配が、失いたくないもののすべてだった。
波の音だけが、3人の秘密を知ったまま、夜の底で繰り返していた。
1週間は、始まってしまえばあっという間だった。昼は音楽室に籠もり、4人で音を出す。休憩になればユイが全員を庭や浜辺へ引っ張り出し、夜はバーベキューやゲームをして、その後はハルナの監督で夏休みの宿題を進めた。ヒナは何度も音楽室へ戻ろうとして捕まり、リョウヘイは勉強会から逃げようとしてハルナに問題集を追加された。
初日の海ほど派手な出来事はなくても、同じ食卓を囲み、同じ屋根の下で笑い、翌朝になればまた一緒に音を出す。その繰り返しが、4人の演奏から余計な遠慮を少しずつ削っていった。
そして、合宿最終日の朝。
玄関には、来た時よりなぜか膨らんだ4人分の荷物が並んでいた。
「あー……楽しかったの、初日だけだったなぁ」
ユイが開いたバッグの上へ体重をかけ、無理やりファスナーを閉めながらぼやく。
「何言ってんだよ。2日目からほとんど練習できたんだぞ。最高だっただろ」
リョウヘイが本気で不思議そうな顔をする。
「そうです! 好きな時に4人で音を出せて、移動時間もありません。ここに住みたいです」
ヒナまで目を輝かせて加わった。
「ほら! 2人ともそれしかない!」
「練習合宿へ来て、練習できたことの何が不満なんだよ」
「海の近くの別荘へ来たの! もっと遊ぶ余地があったでしょ!」
「バーベキューもしたし、ゲームもしたよね」
ハルナがしゃがみ込み、ユイのバッグからはみ出していたシャツを中へ押し戻した。
「ほら、もう1回閉めて。バスに遅れちゃうよ」
「夜はもっと遊べたのに、なんで毎日宿題したの?」
「夏休みだからだよ」
「休みって名前なのに?」
「学校が休みなだけで、勉学に休みはないよ?」
「理不尽だぁ……」
床へ崩れ落ちるユイを見て、3人が吹き出す。
「それに、ユイ。遊んでばかりだったら最終日に泣いてたぞ。ハルナのおかげで半分以上終わっただろ?」
「今、泣きそうだけど」
「そのうちきっと笑える日が来るから」
リョウヘイは笑いながら、ユイのバッグを持ってあげた。
「重っ。何入れたんだ、これ」
「思い出」
「思い出は質量を伴わないんだよ」
「物理的な思い出なの!」
「変なものばっかり買うんだから…普通帰る頃には軽くなるものだよ?」
ハルナの指摘にユイが慌ててリョウヘイからバッグを奪い返した。
「自分で持つからいい!」
玄関を出る前、4人は1度だけ別荘を振り返った。空になったリビング。閉じた音楽室の防音扉。初日には広すぎると思った場所が、今は少しだけ寂しく見える。
「また来ようね」
ハルナが言った。
「次は遊ぶ日も増やそう」
「練習時間が減らない範囲なら」
「そうですね、遊ぶ時間と練習時間も増やしましょう。寝なきゃ余裕です」
「睡眠時間は確保したいな…」
笑いながら扉を閉め、4人は別荘をあとにした。帰宅した夜、リョウヘイは荷物をほどくどころか、玄関で靴を脱ぐのが精いっぱいだった。ベッドへ倒れ込むと、1週間分の演奏と慣れない共同生活の疲れが、遅れてまとめて身体へ乗ってくる。女子3人が夜中に何を話していたのかも、自分が3人の秘密の中心に置かれていることも知らないまま、数分もしないうちに眠りへ落ちた。
翌日の昼過ぎ。
目を覚ましたリョウヘイのスマホに、ヒナからメッセージが届いていた。
《おかあさんが、先日の旅行のお礼をしたいと言っています》
《今週、皆さんの都合が合う日に、私の家で一緒にご飯を食べませんか?》
「ヒナの母さんか……」
これまで、ヒナの家族について詳しく聞いたことはない。ヒナが毎日どんな家へ帰り、家族の前ではどんな顔をしているのか。そう考えると、純粋な興味が湧いた。リョウヘイは3人の予定を尋ねるメッセージを送り、続けてヒナへ短く返信する。
《行く。楽しみにしてる》
すぐに既読がつき、喜んでいることが伝わる勢いで返事が届いた。窓の外には、夏の盛りを少しも譲る気のない青空が広がっている。
1週間の合宿は終わった。
けれど、4人の夏はまだ、折り返しに差しかかったばかりだった。




