#26 8月1日
8月1日。
夏休み初日の朝から、蝉は遠慮を知らなかった。窓の向こうで何十匹もの声が重なり、薄いカーテン越しの日差しが、リョウヘイのワンルームを白く焼いている。エアコンをつけるかどうか迷う時間は、とうに過ぎていた。室外機が唸り始めてもなお、部屋の空気には昨夜までの熱が残っている。リョウヘイは床に胡座をかき、ローテーブルの上のノートパソコンを睨んでいた。
映っているのは、つい先日の特進オーディション。再生はもう6回目だった。画面の中で、4人が最後の曲へ突入する。ユイの声が客席を正面から貫き、ハルナの鍵盤とコーラスがその輪郭を広げる。ドラムが空いた場所を縫い、曲がもっとも熱を持ったところで、ヒナのギターが飛び出した。
普段の小さな声も、伏せがちな目も、そこにはない。弦へ噛みつくような右手と、獲物を逃がさない左手。正確なのに綺麗にはまとまらず、音の端々に本人すら制御しきれない衝動が残っている。
「……やっぱ、いいわ」
リョウヘイは1人で頷き、少しだけ巻き戻した。もちろん、直したいところはある。自分のフィルは1か所、前へ走りかけていた。ユイはサビ終わりの息が浅い。ハルナの左手も1音だけ迷っているし、ヒナに至っては本人へ言えば1週間は引きずりそうな小さなミスをいくつも拾える。それでも、そんな傷ごと演奏が生きていた。
前世で数えきれないほどステージに立ち、上手い演奏も、正しい演奏も見てきた。けれど、何度でも見返したくなる演奏が、必ずしもその2つと同じではないことも知っている。これは、何度でも見たくなる方だった。4人で特進へ合格した。その事実は昨日まで何度も口にしたはずなのに、画面の中の音を聴くたび、まだ胸の奥へ新しく落ちてくる。映像が終わる。暗くなった画面に、満足そうな自分の顔が薄く映った。
「で、今日どうすっかな」
時刻は午前10時47分。夏休み初日。学校はない。練習の予定もない。長年バンドを続けてきた癖で、何も決まっていない1日は、自由より先に手持ち無沙汰を連れてくる。リョウヘイはスマホを拾い、lunatiのグループチャットを開いた。
リョウヘイ『みんな今日なにしてんの? 遊ぼうよ』
送信して10秒。最初についた既読が、そのまま返事になった。
ユイ『遊ぼ遊ぼ!』
続いて、2つ目、3つ目の既読が並ぶ。
ハルナ『うん! どこ行く?』
ヒナ『遊べます!』
全員、暇だったらしい。リョウヘイは思わず笑った。前世のバンドでは、4人の予定を揃えるだけで下手な曲作りより時間がかかったものだ。返信の早さだけで、少し感動できる。
リョウヘイ『じゃあ俺ん家くる? この前のオーディションライブ見ながら反省会しよ』
住所のリンクも続けて送る。
そこで、それまで軽快だったチャットが止まった。
既読は3つ。返事はない。
「なんだ?」
通信障害を疑いかけた頃、ようやくハルナのメッセージが届いた。
ハルナ『これ…リョウヘイくんの……1人暮らしの部屋?』
リョウヘイ『そうだけど』
ユイ『これは……』
リョウヘイ『え、なに』
ユイ『いったん女子ラインでミーティングします』
リョウヘイ『今から反省会するんですけど』
そこへ、ヒナから迷いのない返事が届いた。
ヒナ『行きます! 楽しみです!』
ユイ『ヒナ、話し合う気ないじゃん』
その頃、ヒナは自室でスマホを胸元へ抱き、頬を緩めていた。
ユイとハルナがその誘いに何を意識しているのかも知らず、ヒナだけは初めて仲間の部屋へ遊びに行けることを、ただ楽しみにしていた。結局、一時間後には3人とも来ることになった。
男子の1人暮らしの部屋へ女子3人を招く。その響きが彼女たちに何を意識させるのか、リョウヘイには分かっていない。前世では、バンド仲間の家に転がり込み、狭い床で朝まで音源を聴くことなど日常だった。彼にとって部屋へ呼ぶとは、集まる場所を決めた以上の意味を持たない。
3人の沈黙に首を傾げながらも、さすがに人を迎える程度には片づける。出したままのスティックをまとめ、脱いでいたTシャツを洗濯籠へ放り込み、冷蔵庫の中を確かめる。麦茶しかない。まあ、麦茶があれば会議はできる。そう結論づけ、プロジェクターをつなぎ直していると、12時を少し回ったところでインターホンが鳴った。玄関を開けた瞬間、真夏の日差しと一緒に3人が飛び込んできた。
「暑っつー! リョウヘイ、早く入れて!」
先頭のユイが、挨拶より先に身体を滑り込ませる。ハーフパンツに、キャミソールに編み目の大きなシャツを重ねた格好で、剥き出しの腕には夏の光がよく似合っていた。片手にはコンビニの袋を掲げている。
「アイス買ってきたよ!」
「助かるー。うち、麦茶しかなかった」
「庶民的ー!最高ー!」
「期待を裏切れなくて悪かったな」
その後ろから、ハルナが額の汗をハンカチで押さえながら入ってくる。淡い色のブラウスに、膝より少し上までの柔らかなスカート。普段のきっちりした制服姿より大人びて見えるのに、玄関先で落ち着かなそうにスカートの裾を整える仕草は、いつものハルナらしかった。
「お邪魔します。急だったから、アイスしか持ってこられなくてごめんね」
「アイスだけで十分だよ、気にすんな。ていうか、みんな制服じゃないと雰囲気変わるな」
リョウヘイが何気なく言うと、ハルナの手が止まった。
「……そうかな?…いい感じ?」
「うん、めっちゃいい感じ」
考えもせずに返した一言で、ハルナの頬にうっすら赤みが差す。その横から、ユイがじっとりした目を向けた。
「アタシは?アタシもいい感じ!?」
「夏休み初日にもう夏を使い切ってる感じ」
「褒め方に差がない?」
「似合ってるって。特にアイスの入ったビニール袋が今日のコーデのいいアクセントになってる。」
「どこ評価してんのよ!?」
2人の間を抜け、最後にヒナがおずおずと玄関へ足を踏み入れた。
「お、お邪魔します……」
淡いブルーのワンピースに、いつもの3つ編み。両手を身体の前で重ね、知らない家へ来たというより、何かの面接を受けに来たように背筋を伸ばしている。
「ヒナ、緊張してんの?」
「だ、大丈夫です。人の家に上がるのが、あまり慣れていないだけなので」
「靴脱いだら合格だから」
「ユイちゃん、なめすぎだよ」
ハルナのフォローもあり、ヒナはきっちり靴を揃えた。短い廊下の先は、8畳ほどのワンルームだった。ベッドとローテーブル、小さな本棚。壁際には練習パッドとスティックケースが置かれ、反対側には今日のために出したプロジェクターとスクリーンがある。物は多くないが、必要なものだけが使いやすい場所へ収まっていた。3人は入口に並んだまま、部屋を見回した。
「……普通に綺麗」
ユイが少し残念そうに言う。
「なんで汚い方を期待してたんだよ」
「もっとこう、服とか漫画とかスティックとかがグチャグチャにあるイメージだった」
「悪かったな、なんもなくて」
「ホントだね、生活感しかない」
「インテリアに回す金がなくてなぁ」
ハルナは小さく笑いながらも、脱ぎ散らかした服どころか余計なもの1つ見当たらない室内に、密かに胸を撫で下ろしていた。何に安心したのかは、自分でも考えないことにしたらしい。ヒナは壁際の練習パッドへ吸い寄せられ、表面に刻まれた無数の打痕を見つめている。
「家でも、ずっと叩いてるんですね」
「音出せない日はな。テレビ見ながらでも触ってる」
「だから……」
ヒナは、その先を飲み込んだ。新歓ライブで初めて聴いたリョウヘイのドラム。壁越しにもう1度出会った、たった数打で空気を変えた音。その理由の一端が、何気なく部屋の隅に立てかけられている。
「だから?」
「いえ。変態は1日にしてならず。その通りだと思って」
「どこでそんな言葉覚えちゃったの」
「あ、ユイさんが」
「やめてー!」
全員が笑い、張りつめていた玄関先の空気もようやくほどけた。4人はローテーブルを囲み、床へ座った。部屋が狭いぶん、学校で机を囲む時よりずっと距離が近い。ユイは迷わずリョウヘイの隣へ座り、ハルナが一瞬遅れて反対側を選ぶ。残った正面にヒナが正座した。
「ヒナ、反省文読むんじゃないんだから崩せよ」
「集中して見たいので」
「まぁまぁ、アイスでも食べながら」
ユイが配ったアイスを手に、照明を落とす。カーテンを閉めると、真昼の部屋が小さな映画館へ変わった。エアコンの風と、スクリーンに映ったライブハウスの照明。スピーカーから客席のざわめきが流れた瞬間、4人の表情が少しだけ引き締まる。
「じゃあ、反省会始めるぞ」
リョウヘイは再生ボタンへ指を置き、それから3人を見た。
「ただし、悪いところだけ探すのは禁止。いいとこも、悪いところも、全部受け止めろよ」
「先生みたい」
ユイが言う。
「一応ドラム講師のバイトもしてるからな。先生っちゃ先生だよ。」
「リョウヘイさん、早く見たいです!」
「焦んなって」
映像が始まった。
開始から1分も経たないうちに、ヒナが小さく呻く。
「あっ……今、少し遅れました」
「客には分からない。次の音で戻れてるから、ここはそれでいい」
「でも、私は分かります……あっ、今も!」
「ヒナちゃん、自分のミスを探すゲームになってる。いいところもたくさんあるよ」
ハルナに指摘され、ヒナは両手で顔を覆った。指の隙間だけはしっかり開いている。サビへ入ると、ユイの声が部屋いっぱいに広がった。映像の中の彼女は、客席から飛んでくる視線を1つ残らず掴むように歌っている。
「ユイちゃん、ここすごい。こんな高いのに、全然細くならない」
ハルナが思わず身を乗り出す。
「でしょ?」
ユイは得意げに胸を張った直後、映像の自分が歌い終わりに大きく息を吸うのを見て、そっと姿勢を戻した。
「ただ、次の入りが少し苦しそうだな。ブレスがギリギリだな」
「今、褒められてたのにー!」
「反省会だからな」
「せっかく気分よかったのにー!」
「はい、集中」
リョウヘイは画面を指差した。
ハルナのコーラスが重なると、今度はユイがスクリーンを指した。
「ハルナ、ここ完璧じゃん。アタシより余裕ある顔してる」
「してないよ。必死過ぎてなんも考えれてなかったもん」
「でもミスってない。完璧」
「えへへ、ありがとう」
「これだよリョウヘイ!これが正しい形!」
「はい、集中」
リョウヘイが挟むと、ユイは「むー!」と即答した。やがて曲は、最後のギターソロへ差しかかる。リョウヘイがリモコンを持ち直した。
「さあ、問題の場面です」
「と、止めてください」
「まだ始まってないぞ」
「何弾いたか覚えてないから、見るの怖いです……!」
「合格を決めた演奏なんだから大丈夫だって」
画面の中で、ヒナが1歩前へ出た。そこから先は、狭い部屋の空気まで変わった。スピーカー越しだというのに、あの日の会場に満ちていた熱が戻ってくる。最初は制御されていたフレーズが、少しずつ形を崩し、最後には感情の塊となって4人の演奏を突き抜ける。ヒナは顔を覆うのをやめていた。自分の指を、自分の音を、逃げずに見つめている。
ソロが終わり、最後の1音が消える。画面の中では客席の歓声が膨らんでいた。
「……よかったな」
「……は…い」
リョウヘイが言った。
短い一言だったが、ヒナの目からぽろりと涙が落ちた。
「わ、私……ほんとに受かって、よかったです。lunatiで……4人で受かれて、よかったです……」
「ヒナ、最近泣いてばっかりだな」
リョウヘイは笑い、ヒナの肩を軽く叩いた。
「あの日は、演奏が終わるまで我慢したんです……!」
「好きなだけ泣いていいんだよヒナちゃん」
「そう言われると、泣きづらいです……」
口では抗議しながらも、ヒナの頬には次の涙が流れている。ユイが黙ってティッシュ箱を差し出し、ハルナがその背中を優しく撫でた。リョウヘイは、3人の向こうにあるスクリーンを見る。拍手を浴びる4人が映っていた。前世では、バンドはいつも明日のために動いていた。次のライブ、次の曲、次の客。終わった演奏を4人で見返し、ただ受かったことを喜ぶ時間など、いつから持たなくなったのだろう。
急に誘ってよかった、と素直に思った。映像が終わって照明をつけると、溶けかけたアイスと、泣き腫らしたヒナと、少し照れくさそうな2人が残った。しばらく余韻に浸っていたユイが、木の棒だけになったアイスを見つめながら言う。
「ねえ。夏休み、lunatiやらないの?」
部屋の空気が、現実へ戻った。
「やりたいけどな。学校のスタジオは使えないし、外でスタジオ入ったら金がもたない。」
「リョウヘイずっとお金ないね」
「学費と家賃がすごくて…」
リョウヘイがスマホで近所のスタジオ料金を見せると、3人の顔が同時に曇る。4人で割れば1度は安い。だが、何時間も、何日もとなれば、高校生の財布には重い。特にリョウヘイは日雇いでシノギを稼いでいるので毎日がギリギリだ。
「週一でもいいので、入りませんか?」
ヒナがすぐに身を乗り出した。
「家でも練習はします。でも、4人で音を出さないと……せっかく掴んだものが、逃げそうで」
その言葉に、全員が黙った。
オーディションで4人の音が初めて1つになった。その感触は、指の間に残る水のように、放っておけば薄れてしまう気がする。
「そうだな。週一は入りたいよな…。足りない分は、各自で――」
リョウヘイが言いかけた時、ハルナが遠慮がちに手を上げた。
「あの……1つ、あるかも」
3人の視線が集まり、ハルナはなぜか言いづらそうに膝の上で指を組んだ。
「私の家、千葉の方に別荘があるんだけど」
1秒。
2秒。
エアコンの風だけが、テーブルの上のティッシュを揺らした。
「別荘?」
ユイが聞き返す。
「うん。そこならバンドで演奏できるの。家族に頼めば、何日か使わせてもらえると思う」
「ハルナ……お嬢なの?」
リョウヘイが真顔で尋ねると、ハルナの顔が一気に赤くなった。
「ち、違うよ! 別荘があるだけ…そんな呼び方しないで…」
「別荘があるだけってワードがもうすごいのよ」
ユイの冷静な指摘が刺さる。
ユイがわざと姿勢を正し、芝居がかった口調で頭を下げた。
「清水谷さま。先ほどは同じ床に座ってしまい、大変失礼いたしました」
「や、やめてよユイちゃん!」
今度はリョウヘイが、ローテーブルの麦茶を両手で差し出す
「お紅茶をどうぞ」
「それ麦茶!」
さっきまで泣いていたヒナも、もう目を輝かせている。
「行きたいです! 絶対に行きましょう! 月末まで泊まり込んで、1日中練習を――」
「さ、さすがに1週間が限界かな」
ハルナが即座に現実へ引き戻した。
「1週間……!」
それでもヒナにとっては十分すぎたらしい。祈るように両手を組み、すでに頭の中では練習メニューまで完成していそうな顔をしている。
「千葉ってことは、海ある?」
ユイの問いに、ハルナは頷いた。
「あるよ。別荘からも近い」
「海!」
ユイが立ち上がり、危うくローテーブルへ膝をぶつけかける。
「海行って、バンドやって、泊まるの? もう行く。今から行こう!」
「家族に聞く時間くらいちょうだい!」
「水着買う時間も必要です」
ヒナが真剣な顔で言い、3人がそちらを見る。
「ヒナ、練習以外もちゃんと楽しむ気あるんだ」
「海の近くで練習するなら、海にも入るのが礼儀かと」
話はもう、行けるかどうかではなく、何を持っていくかへ移っていた。その騒ぎを眺めながら、リョウヘイは頬を掻く。朝、暇だから送った1通が、気づけば1週間の合宿と海に化けている。バンドというものは、曲だけでなく予定まで、誰かの一言から勝手に走り出すらしい。
窓の外では、蝉がいよいよ大声になっていた。閉め切ったカーテンの隙間から、真昼の光が細く差し込んでいる。その光の中で、ユイは海でやりたいことを指折り数え、ヒナは必要な機材を呟き、ハルナは2人を落ち着かせながら家族へ送る文章を考えていた。リョウヘイの部屋で始まったのは、反省会だったはずだ。けれど4人の視線はもう、終わったライブではなく、これから始まる夏へ向いていた。




