#22 イカれた宝くじ
その1週間、lunatiは活動を止めた。解散したわけではない。喧嘩をしたわけでもない。音楽室の予約表には4人の名前が残り、グループメッセージも消えていなかった。ただ、誰もそこへ行かなかった。教室では、いつも通り顔を合わせる。
「おはよ」
「おはよう」
「今日、暑いね」
「うん」
会話は、それ以上続かなかった。以前なら、ユイが昨夜見つけた曲を無理やり聞かせ、ハルナが次の練習予定を確認し、リョウヘイが眠そうな顔で余計な一言を挟んでいた。
今は4人とも、口を開けば1週間後の答えへ触れてしまいそうで、当たり障りのない言葉だけを選んでいた。同じ教室にいるリョウヘイとユイの間にさえ、机1つ分では測れない距離ができた。
昼休み、ユイとハルナは2人で購買へ向かっていた。いつもの中庭を使う気にはなれなかった。あのベンチを見るだけで、閉じたままの弁当箱とヒナの涙を思い出す。
階段へ差しかかったところで、背後から声をかけられた。
「木下ユイさん。清水谷ハルナさん」
2人が振り返る。
長い黒髪を1つに束ねた、小柄な女子生徒が立っていた。肩にはスティックケースが掛かっている。整った顔立ちだが、表情はほとんど動かない。
ユイとハルナには見覚えがあった。クラスメイト、ユイとは反対側のリョウヘイの隣の席。時々リョウヘイと話しているのを見かけていた。彼女もまたリョウヘイと同じドラマーだと、噂で聞いたこともある。ドラム専攻の授業でも、何度かリョウヘイの隣にいるのを見た。
「確か、柊リナだっけ」
「うん」
「アタシらに何か用?」
リナは2人の前まで歩いてくると、挨拶もなく尋ねた。
「どうして、あなたたちがリョウヘイと組んでるの?」
あまりに真っすぐな問いで、ユイは1度意味を考えた。
「どうしてって、アタシがバンドに誘ったからだけど」
「そういう経緯を聞いてない」
リナの視線が、ユイからハルナへ移る。
「2人は、リョウヘイとレベルが釣り合ってない」
廊下を通る生徒の話し声が、急に遠くなった。ハルナの指が、鞄の持ち手へ食い込む。
「いきなり失礼じゃない?」
ユイが1歩前へ出た。
「本当のことだから」
「本当なら何を言ってもいいと思ってる?」
「言わない方が、リョウヘイの時間を無駄にする」
声に悪意も勝ち誇った響きもなかった。それが余計に痛かった。リナは2人を傷つけたいのではなく、本当にリョウヘイのためだと思ってここへ来ている。
「私は、入学する前からリョウヘイの演奏を知ってる。YouTubeでリョウヘイの演奏を見てドラムを始めた。」
「リョウヘイきっかけ…」
「ずっとファンだった。本人には、秘密にしてほしい」
秘密を頼む口調まで平坦だった。
「今は同じドラマーだから分かる。リョウヘイは、もっとできる。あなたたちといる時は、本気を出せてない。出力を制限している。」
ユイはすぐに言い返せなかった。
6月30日のライブ。リョウヘイのドラムがヒナを連れて、誰も触れられない場所まで走っていった瞬間を思い出す。その時、自分は追いつけなかった。ハルナも同じだった。
分かっている。
自分たちが1番、分かっていた。
「だから、何」
ユイは喉に引っかかった声を押し出した。
「アタシらが下手だから、やめろって?」
「リョウヘイのために、手を引いて」
予想していた言葉なのに、実際に聞くと胸の奥へ深く刺さった。
「リョウヘイは特進へ行くべき。もっと強い人と組めば、もっと先へ行ける。あなたたちも、それは分かってるはず」
「分かってるよ!そんな事!」
ユイの声が廊下へ響く。
リナは瞬きもせずに受け止めた。
「分かっていてバンドを続けるなら、私は許さない」
ユイの拳が震えた。怒りだけではない。悔しさと、認めたくない納得が、同じ場所で絡まっている。
その隣で、ハルナが顔を上げた。目元は強張っていたが、リナから逃げなかった。
「リョウヘイくんがすごいことも、私たちがまだ足りないことも、分かっています」
リナが初めて、わずかに首を傾ける。
「なら――」
「でも、リョウヘイくんの未来は、あなたのものでもない」
静かな声だった。
「私たちが勝手に決めちゃいけないのと同じで、あなたも、リョウヘイくんが誰と演奏するかを決められない」
「私は、リョウヘイのためを思って言ってる」
「私たちだってそうだよ」
ハルナの声が少しだけ震える。
「だから、悩んでるの。そばにいてほしい気持ちだけで、引き止めたくないから。でも、弱いからって、今日ここで自分たちから終わらせるのも違う」
ユイが隣へ並んだ。
「アタシらが決めることは1個だけ。今より上手くなる。それで、リョウヘイが隣にいたいと思うバンドにする」
「1週間で?相手はリョウヘイだよ?」
リナの問いは容赦がなかった。
ユイの表情が歪む。
「……1週間で全部は無理でも、始めることはできる」
リナは2人を順に見た。
納得した様子はない。それ以上反論する様子もなかった。
「私は、諦めない」
「何を?」
「リョウヘイ」
「本人を景品みたいに言わないでくれる?」
ユイが即座に返す。
リナは答えず、2人の脇を通り過ぎた。
数歩進んでから、足を止める。
「あなたたちの演奏が、今より良くなるなら、それは聞きたい」
振り返らず、それだけを残して去っていった。
姿が見えなくなるまで待ち、ユイは壁へ背中を預けた。
「何、あの子……」
強がった声は、最後まで続かなかった。
「全部、痛いところに入れてくるじゃん」
ハルナがユイの腕を取り、近くの階段の踊り場へ移動した。人の少ない窓際へ座ると、2人とも同時に長い息を吐く。
「ごめん、勝手にあんなこと言って」
ハルナが俯く。
「何で謝るの」
「リョウヘイくんが私たちを選ぶみたいに……」
「選ばせるんだよ」
ユイは膝を抱え、額を押しつけた。
「今のままじゃ無理かもしれないけど。あの子の言う通りなのが、1番むかつく」
悔しさをこらえようとするほど、声が震えた。
「アタシ、もっと歌えると思ってた。ベースだって、新歓の時よりは弾けるようになった。なのに、4人で本気になったら、全然足りなかった」
ハルナも、組んだ両手を見つめる。
「私も。2人の音が遠くなった時、追いかけることしかできなかった。自分から何も出せなかった。圧倒的だった」
窓の外では、運動部が昼休みのグラウンドを走っている。遠くから笑い声が届くのに、踊り場だけが世界から切り離されたように静かだった。
「強くなりたい」
ハルナが言った。
「もっと、すごい演奏がしたい。2人に合わせてもらうんじゃなくて、私の音で2人を動かしたい」
目から涙が落ちる。
それでも、言葉は止まらなかった。
「リョウヘイくんとヒナちゃんの隣にいても、自分から下を向かなくていいくらい」
ユイが顔を上げる。目元は同じように濡れていた。
「アタシも」
拳で乱暴に涙を拭う。
「絶対、強くなる。次にあの子が聞いた時、何も言えなくなるくらい」
音楽は、近づけば近づくほど大きくなる渦だった。好きだと思うだけなら、外から眺めていられる。中へ入れば、自分より優れた音がいくらでも聞こえる。
才能も、積み重ねた時間も、埋められないように見える差も、すべてが同じ渦の中で回っている。
飲み込まれたくなければ離れるしかない。それでも輝きたいと願うなら、自分からもっと深い場所へ飛び込むしかなかった。
2人は予鈴が鳴るまで、踊り場を動かなかった。
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1週間が過ぎた。
約束の日の朝、リョウヘイとヒナは再び本館の階段を上っていた。先週と同じ道だった。だが、ヒナの顔色はもう白くない。歩幅も、リョウヘイに遅れず揃っている。
「私の答えは、変わっていません」
「知ってる」
「でも、リョウヘイさんがどちらを選んでも、受け入れます」
リョウヘイは足を止めた。
「本当に?」
ヒナの指が制服の裾をつかむ。
「……すぐには、無理かもしれません。泣くと思います」
「正直だな」
「それでも、リョウヘイさんの人生ですから」
声はかすかに震えていた。
ヒナの覚悟は、怖くなくなることではない。怖さを抱えたまま、相手の答えを受け取ると決めたことだ。
「ありがとう」
リョウヘイはそれだけ言い、また歩き出した。
軽音楽主任室の前へ着く。拳を上げるより先に、扉の向こうから声が届いた。
「どうぞ、入りなさい」
「やっぱり見えてるんでしょうか」
「今日は確かめるのやめよう。もし本当に見えてたらちょっと恥ずかしい」
扉を開ける。
ティアーユは執務机の前に立っていた。先週テーブルへ置かれた招待状は、今は彼女の手元にある。
「1週間、待ちました」
挨拶もなく本題へ入る。
「答えを聞かせてください」
ヒナが1歩前へ出た。
「私は、特進には行きません」
ティアーユの瞳を見て、はっきりと言う。
「私には、大切な仲間がいます。3人とlunatiを続けます」
「そうですか。残念です」
ティアーユは引き止めなかった。ヒナから視線を外し、リョウヘイを見る。
「リョウヘイさん、あなたは?」
「俺はバンドで行く」
即答だった。
ティアーユが眉を上げる。ヒナまで隣で目を丸くした。
「質問の意味を理解していますか?」
「してる。俺はlunatiで特進へ行く」
「その選択肢は提示していません」
「今作ってほしい」
ティアーユの表情が、初めてわずかに崩れた。
「勝手に条件を増やさないでください」
「俺はドラマーだけじゃない。バンドマンのドラマーだ」
リョウヘイは1歩前へ出た。
「あんたが欲しいと言ったのは、ライブで叩いてた俺だろ。あの日の俺は1人じゃない。ユイの声があって、ハルナの鍵盤があって、ヒナのギターがあった。あの3人と鳴らしてたから、あのドラムになった」
「個人の能力と、バンドの評価は別です」
「別じゃない」
ティアーユが言い終えるより先に、リョウヘイは言葉を重ねた。
「俺の見つけた、最高にイカれたメンバーだ。俺が叩いて、ヒナが弾く。ハルナが景色を作って、ユイがでかい声で全部持っていく。その4人でlunatiなんだよ。それが今の俺なんだよ」
ヒナが背後で息を呑む。
「ですが、木下さんと清水谷さんは、まだ私の――」
「今は届いてない。それも分かってる」
また、最後まで言わせなかった。
「だから連れていく。足りないなら、アンタのところで足りるようにすればいい。完成した奴だけ集めて楽しいのか?アイツらの才能はマジだ」
「特進には規則が――」
「規則を作ってるの、アンタなんだろ」
リョウヘイはさらに1歩近づいた。
勢いで押している自覚はあった。考え抜いた1週間分の答えを、相手が整理する暇もないほど一気に投げつける。冷静に条件を並べれば、断られる理由はいくらでもある。
だから、ティアーユ自身が隠している欲望へ先に火をつける。
「なあ、先生。あんたもイカれてるんだろ」
「何を――」
「自分が面白いと思った奴を集めて、まだ誰も聞いたことのない音を鳴らさせたい。そいつらが予想を越えていくところを、1番近くで見たいんだろ」
ティアーユの瞳が揺れた。
リョウヘイは止まらない。
「リョウヘイさん、あなたは――」
「ワクワクしたいんだろ…?」
ティアーユは口を開いたまま、次の言葉を失った。
「あんたが選ばなかった2人まで連れて、4人で上がってくる。今は足りない奴らが、あんたの想像より遠くへ行く。見たくないのか?」
沈黙を返事にさせる前に、リョウヘイは畳みかけた。
「即座に機会をつかむ判断力が音楽家に必要な素質だったな!」
リョウヘイは笑った。
「どうする!?俺たちっていう、イカれた宝くじを買うか!?判断してみろよ!」
ようやく、言葉が途切れた。
窓の外から、朝の鳥の声が1つだけ聞こえる。
ヒナは呼吸すら忘れたように、リョウヘイとティアーユを交互に見ていた。ティアーユはしばらく動かなかった。
やがて片手で額へ触れ、小さく息を吐く。
「あなたは、1週間かけて、これを考えてきたのですか?」
「答えは考えた。言い方は今決めた」
「そうでしょうね。交渉というより、突進でした」
「止められたら負けだと思った」
ヒナが、後ろでごく小さく頷いた。
ティアーユの口元が、少しずつ上がる。呆れた笑みではなかった。6月30日のステージで2人の赤い瞳を見た時と同じ笑みだった。
「いいでしょう」
ヒナが息を吸う。
「ただし、招待ではありません。オーディションを受けてもらいます」
ティアーユは執務机へ戻り、1枚の書類を取り出した。
「特進を希望する生徒の審査を、7月25日に行います。あなたたち4人には、特別枠としてバンドで参加する資格を与えます」
「4人で出られるんだな」
「ええ。ただし、審査も特別です。個人で受けるより有利だとは考えないこと。4人のうち1人でも私の基準に届かなければ、全員不合格です」
先週、2人だけなら試験を受けずに手に入った席だ。今度は4人全員で、1つの狭い扉を通らなければならない。
「望むところだ。特別ってやつを見せてやるよ」
リョウヘイが答える。
「なあ、ヒナ」
急に振られ、ヒナの声がひっくり返った。
「は、はい!私たちは特別です!」
「あなたは先ほど、特進へ行かないと言ったはずですが」
「3人と一緒なら行きます!」
今度の返事には、1秒もかからなかった。
ティアーユは満足そうに頷く。
「詳細は後日、担任を通して伝えます。それまでは、この件を口外しないでください。特別枠の存在を先に知られれば、不要な反発を招きます」
「分かった」
「それから、リョウヘイさん」
「何だ?」
「教師には敬語を使いなさい。次はありません」
「すんませんしたぁ!」
軽音楽主任室を出て、扉が閉まる。
数歩進んだところで、ヒナが大きく息を吐いた。壁へ手をつき、力の抜けた顔でリョウヘイを見る。
「通った……んですよね?」
「オーディションまではな」
「あれで駄目だったら、どうするつもりだったんですか?」
「土下座して頼む予定だった…」
「プライドとかないんですか…」
ヒナは呆れたように言い、それから泣きそうな顔で笑った。
止まっていた4人の時間が、もう1度動き出す。
次は、同じ渦のもっと深い場所へ、4人で飛び込むために。




