#21 私は迷ってなんかいません!
軽音楽主任室の扉が閉まってからも、ヒナはしばらく動かなかった。絨毯の上へ視線を落とし、胸元で両手を重ねている。扉1枚を隔てた向こうには、受け取らなかった招待状が残されていた。
「リョウヘイさん」
「ん?」
「私は、行きません」
迷いのない声だった。
「まだ1日も経ってないぞ。せっかく1週間もらったのに」
「1週間たっても同じです。私はlunatiをやめません」
リョウヘイは足を止め、ヒナを見る。普段の彼女なら、何かを断言した直後には必ず不安そうな顔をする。今も顔は強張っていたが、言葉を取り消す気配はなかった。
「答えを決めるのはいい。でも、俺の分まで決めるなよ」
「……はい」
小さくなった返事には、すでに不安が混じっていた。本館を出ると、正午の光が一気に降ってきた。中庭では、昼食を広げる生徒たちの声が重なっている。いつもの木陰のベンチに、ユイとハルナが並んで待っていた。2人の前には弁当箱が置かれていたが、蓋は閉じたままだった。
「遅い!」
リョウヘイたちを見つけたユイが、弁当箱を膝に載せたまま立ち上がる。
「呼び出した本人に言ってくれ」
「で、何だったの? 怒られた? 褒められた? 退学?」
「選択肢の幅が雑すぎるだろ」
「早く話して。ハルナ、さっきから卵焼きを見つめたまま1口も食べてないんだから」
ハルナが慌てて弁当箱から顔を上げた。
「見つめてないよ。ただ待ってただけ」
「同じ卵焼きを3回つかんで、3回戻してた」
「見ないで……」
普段なら笑えるやり取りだった。けれど、ハルナの目が先に答えを求めている。4人がベンチへ詰めて座る。
リョウヘイは、軽音楽主任室で聞いたことを順に話した。ヒナが配信者「ピナ」だとティアーユに見抜かれていたこと。2人が特進クラスへ招かれたこと。専用スタジオや録音環境、学外での活動まで約束された場所であること。
そして――特進へ入れば、今の4人でlunatiを続けることはできないこと。
最後の話をした瞬間、ユイの手から箸が落ちた。弁当箱の縁に当たり、乾いた音を立てる。
「できないって……何が?」
「今のlunatiだ。特進生は、特進の中でバンドを組む決まりらしい」
「何それ」
ユイが笑おうとした。けれど、口元はうまく上がらなかった。
「そんなの、先に言ってよ。すごい設備とか、メーカーとか、どうでもよくなるじゃん」
「先に言っても後に言っても、条件は変わらないだろ」
「気持ちの準備が違うの」
隣で、ハルナは膝の上へ視線を落としていた。
「もし、2人が行ったら……」
言葉が途中で止まる。
「lunatiは、もう…」
「それを考えるための1週間だ」
リョウヘイが答えるより早く、ヒナが立ち上がった。
「私は行きません!」
近くのテーブルにいた生徒が振り返る。それにも気づかず、ヒナは声を続けた。
「lunatiより大切なものなんてありません。どんなスタジオでも、どんな契約でも、3人がいないならいりません」
「ヒナちゃん……」
ハルナが見上げる。
ヒナの答えは、ハルナが1番聞きたかった言葉のはずだった。なのに、その表情には喜びより戸惑いが浮かんでいる。ユイがリョウヘイへ視線を向けた。
「リョウヘイは?」
「まだ考えてる」
「でも、行きたいんでしょ」
責める声ではなかった。むしろ、そうであって当然だと先回りしている声だった。
「あのティアーユ先生が、直接誘ったんだよ。アタシでも先生のヤバさぐらいわかるよ。リョウヘイなら、もっとすごい人たちとできるってことじゃん。」
「でもなんか、変な気持ちでさ」
リョウヘイは俯いてしまった。
「…決められないんだ」
ユイは残念そうに言った。
リョウヘイは、閉じたままの弁当箱へ目を落とす。4人でここへ集まるようになってから、昼休みはいつも足りなかった。練習の話をして、くだらないことで言い合い、ハルナが用意したものを取り合っているうちにチャイムが鳴る。
特進へ行けば、前世でも簡単には触れられなかった環境が手に入る。そこで出会える生徒は、おそらく全員が高い技術を持っている。
けれど、技術の高い4人を並べれば、今のlunatiより面白い音が鳴るとは限らない。
「だってお前らとバンドできなくなるだろ」
リョウヘイは言った。
3人の顔が上がる。
「やっと面白くなってきたのに。今やめるのは、普通に嫌だよ」
飾らずに言ったつもりだった。だが、ユイは目を見開き、ハルナは喜びを隠すように俯いた。ヒナだけは、今にも泣きそうな顔のまま、ほんの少し笑った。
「だったら――」
「行った方がいいよ!」
ハルナの声が、ヒナの言葉を遮った。中庭のざわめきを突き抜けるほど大きな声だった。言った本人が1番驚いたらしく、一瞬、呼吸を止める。それでも、ハルナは続けた。
「リョウヘイくんも、ヒナちゃんも、特進へ行った方がいい」
「どうしてですか……?ハルナさん……。どうしてそんなこと言うですか……?」
「2人は、もっと上へ行けるから」
ハルナは笑おうとした。目元だけが、笑顔についてこなかった。
「私たちといるせいで、その機会を捨ててほしくないの。もっと上手な人と組めば、もっとすごいことができる。私とユイちゃんが寂しいからって、2人を止めるのは違うよ」
「違いません!」
ヒナの声が裏返った。
「私は、3人とやりたいんです。これからたくさん曲を作って、もっとたくさんライブをして、いろんな場所へ行くんです。4人で、もっと……もっと、イカれた音を鳴らすんです。そうなるって、決まってるんです!絶対にそうなの!」
「誰が決めたの?」
ユイが静かに尋ねた。
「……」
「勝手に決めないで」
ヒナが言葉を失う。
ユイは落ちた箸を拾い、汚れをハンカチで拭いた。いつもなら真っ先にヒナの側へ立つはずなのに、今は視線を合わせようとしない。
「アタシも、2人は行くべきだと思う」
「ユイさんまで……」
「あの先生が選んだんだもん。それだけ2人がすごいってことでしょ。アタシらが足を引っ張ったせいで、あとから後悔されたくない」
「後悔なんてしないです!」
「今はね」
ユイの短い返事に、ヒナの顔が歪んだ。
「どうして…?どうして2人とも……そんなことが言えるんですか…どうしてそんな簡単に終わらせられるんですか?」
「簡単に言ってるように、見える…?」
ユイの声にも、初めて棘が混じった。
誰も終わらせたいわけではない。それでも、自分たちが選ばれなかった理由だけは、誰より分かっていた。リョウヘイとヒナに比べ、まだ足りない。
6月30日のステージで、4人のうち2人だけが別の場所まで行ったことを、ユイもハルナも演奏の中で感じていた。その差を見ないふりをして、そばにいてほしいとは言えなかった。
ヒナは涙を浮かべた目で、リョウヘイを見た。
「リョウヘイさんは……?」
縋るような声で聞いた
「lunatiを解散してまで、特進へ行きたいんですか……?」
答えを求めるというより、望む答えを言わせる問いだった。
リョウヘイはすぐに口を開けなかった。行きたいか、行きたくないか。その2つだけなら、どちらも本当だった。
特進の環境を見てみたい。ティアーユが集めた、音楽にイカれた生徒たちとも鳴らしてみたい。
それと同じ強さで、lunatiを失いたくなかった。
沈黙を拒絶だと受け取ったのか、ヒナの涙が頬を伝う。何より即答してほしかった。lunatiが大切だと。
「どうして……!」
声に怒りが混じる。
「ヒナちゃん!」
ハルナが鋭く呼んだ。
ヒナの肩が跳ねる。
「リョウヘイくんに、今すぐ答えさせるのは違うよ」
「でも……それでも……!」
「ヒナちゃんが迷っていなくても、リョウヘイくんは迷ってる。1週間もらったのは、そのためでしょ」
ハルナの目にも涙が溜まっていた。それでも声を崩さず、ヒナをまっすぐ見ている。
「大切だからこそ、考えさせてあげよう」
ヒナは唇を震わせ、やがて俯いた。
「……ごめんなさい」
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
誰も弁当箱を開けていない。いつもなら最後の1口を巡って騒ぐ時間に、4人は互いの顔を見ることさえできなくなっていた。
ユイが立ち上がる。
「今週は、練習やめよう」
ヒナの目から光が消えた。
「全員、ちゃんと考えた方がいい。4人で集まったら、たぶん普通に音出しちゃうし。それで何となく大丈夫な気になるのは、今は違うと思う」
ユイらしからぬ慎重な言葉だった。
「1週間後、また4人で話そう」
「私の答えは変わりません……」
ヒナが呟く。
「変わらなくてもいいよ。迷わず出した答えなら」
「私は、迷ってなんかいません!」
それ以上は誰も話せなくなった。
その日の放課後、4人がスタジオへ集まることはなかった。
リョウヘイは1人で帰り、ヒナは誰にも声をかけず教室へ残った。ユイはベースを持って別の練習室へ向かった。
ハルナは、朝と同じ重さの鞄を抱えて誰もいない家へ帰った。
制服のままキッチンへ入り、鞄から2つの弁当箱を取り出す。
自分の分と、リョウヘイへ渡すはずだった分。
ハルナはゴミ箱の蓋を開けた。
1つずつ、箸で中身を落としていった。
手は震えなかった。
泣けば、自分が2人を引き止めたいと認めることになる気がした。
特進へ行った方がいいと言ったのは、自分だ。リョウヘイの未来を思って言った。それは嘘ではない。
同じくらい、行ってほしくないのも本当だった。
空になった弁当箱をシンクへ置く。
水を出そうとして、ハルナの指が止まった。
静かな台所で、ようやく一滴だけ涙が落ちた。
「ごめんね……」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
窓の外では、夏の夕暮れが、誰もいない食卓を橙色に染めていた。




