#20 ティアーユからの招待状
3限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、教師が教室を出ていった直後だった。昼休みへ向けて一斉にほどけかけた空気を、天井のスピーカーから流れた短い予告音が止めた。椅子を引く音も、弁当を取り出す音も途切れ、教室中の顔が上を向く。
『こちら、軽音楽学科主任のティアーユです。生徒の呼び出しをいたします』
たったそれだけで、教室が静まり返った。普段の校内放送は、事務員か担当教師が淡々と読み上げる。ティアーユ本人の声が全校へ流れること自体、入学式以来だった。しかも、その声音には生徒を集めて話す時の華やかさがない。用件だけを切り出す、冷たく澄んだ声だった。
『1年A組、ドラマー、登録名リョウヘイ。1年B組、ギタリスト、登録名ヒナ。2人は昼休みに軽音楽科主任室まで来てください。以上です』
放送が切れた。
1拍遅れて、教室中の視線がリョウヘイへ集まる。
「リョウヘイ、何かしたの?」
「木下と清水谷は呼ばれてないのか?」
「ティア先生に校内放送で呼ばれる人、初めて見た」
さっきまで眠そうにしていた生徒まで、急に元気になっていた。他人の呼び出しは、昼食より手軽な娯楽らしい。リョウヘイは頬杖をついたまま、切れたスピーカーを見上げた。
「本人が一番分かってない顔してるじゃん」
隣からユイが覗き込んでくる。
「なんだ…俺なんかしたか」
「リョウヘイはともかく、ヒナもか」
「ともかくじゃねぇよ」
「何したの?機材泥棒?闇バイト?正直に言ってみ」
「俺はなんもやってねぇっての!」
「犯罪者はみんなそういうんだよ」
ユイが呆れたように眉を寄せる。その向こうで、ハルナは笑わなかった。
「……2人だけなんだね」
小さな声だった。
呼ばれたのは、リョウヘイとヒナ。6月30日の対バンライブで、演奏の途中から目を赤く染めていた2人だけだ。ユイとハルナの名前はなかった。
リョウヘイはハルナの横顔を見る。彼女はすぐにいつもの穏やかな表情を作り、「行ってきた方がいいよ」と言った。けれど、机の下で組まれた指だけは、少し強く絡んでいた。
「先に中庭行ってお昼食べてて」
リョウヘイが言うと、ハルナは1度だけ頷いた。
昼休み。
廊下へ出ると、隣の1年B組からヒナが現れた。一目で、午前中の授業をまともに聞けていなかったと分かる顔だった。頬は青白く、ギターを持っていない両手が落ち着かなげに制服の裾をつまんでいる。
教室を出た途端、周囲の生徒から向けられた視線に気づき、さらに身体を小さくした。
「よ」
「リョ、リョウヘイさん……」
「顔色わる」
ヒナは白い壁を見てから、自分の手を見る。
「私、何かしてしまったのでしょうか……」
「心当たりあるのか?」
「ないから、余計に怖いです」
「それなら大丈夫だ。で、ヒナが大丈夫なら俺も大丈夫なはずだ」
「こういうときは優しい言葉で元気付けてほしかったです…!」
最近のヒナは遠慮なく冗談を言うようになった。ユイの影響をモロに受けているようだ。ヒナの口元はほんの少しだけ緩んだ。
2人は並んで本館へ向かった。lunatiの名前が広まったせいか、すれ違う生徒の何人かが振り返る。校内放送で名指しされた2人が一緒に歩いているのだから、注目するなという方が無理なのだろう。
「前のライブのことじゃないか」
リョウヘイが言う。
「やっぱり、怒られるんですか?」
「何でそうなる。良かったから呼ばれたって意味だよ」
「でも、私、途中からほとんど何も見えていなくて……最後も、ちゃんと覚えてなくて……」
「それであれだけ弾けたなら、なおさら褒められるだろ」
ヒナは納得していない顔のまま、歩幅だけを少し速めた。
生徒棟から本館へ入ると、廊下の音が変わった。床は柔らかな絨毯に覆われ、窓際には背の高い観葉植物が並ぶ。壁には、この学校からプロになった卒業生たちの写真とレコードジャケットが、年代順に飾られていた。
ヒナは歩きながら、1枚1枚へ目を向ける。
「知っている人ばかりです……」
「そうだな、この学校もそれなりに歴史があるな」
テキトーに話しているうちに、最上階へ着く。
重厚な木製扉の前で立ち止まると、隣から浅い呼吸が聞こえた。
「ヒナ。ぶっ倒れるなら、入ってからにしてくれ。ここで倒れると俺まで逃げたみたいになる」
「だ、大丈夫です。さ、開けてください」
扉はリョウヘイに任せてヒナが息を大きく吸い直す。
リョウヘイが拳を上げ、扉を叩こうとした、その直前だった。
「どうぞ、お入りください」
中から声がした。
2人は顔を見合わせる。
「見えてるんでしょうか……」
「扉の前で全部聞かれてた可能性はあるな。相手はティアーユ先生だしな」
ヒナの顔色がまた白くなった。
余計なことを言ってないかと考えた時にはもう遅かった。
リョウヘイが扉を開けると、午後の光が斜めに差し込む軽音楽主任室が広がっていた。壁一面の書棚には、楽譜、音楽書、古いレコードが隙間なく収められている。中央の低いテーブルを挟んで革張りのソファが向かい合い、その奥には大きな執務机があった。
ティアーユは窓辺に立っていた。背中まで流れる金髪が光を透かし、振り返った緑色の瞳だけが室内のどこより鮮明に見える。
「よく来てくれました。2人とも、こちらへ」
示されたソファへ向かう。
ヒナが腰を下ろそうとしたところで、ティアーユが微笑んだ。
「リョウヘイさん。そして――『ピナ』さん」
ヒナの身体が中腰のまま固まった。
「……え」
膝の裏がソファへ触れているのに、座ることも立つこともできない。顔から血の気が引き、瞳だけが大きく見開かれていた。
配信者、ピナ。
顔を映さず、正体を伏せたまま、たった1人でギターを弾いてきた時の名前だ。lunatiの3人以外には、自分から明かしたことがない。
「わ、私は、朝比奈……」
「安心してください。あなたの素性を言いふらすつもりはありません」
ティアーユは向かいのソファへ腰を下ろした。
「1年ほど前、1度だけあなたの配信を見ました。生徒が、顔を出さないすごいギタリストを見つけたと話していたので」
「1度だけで……どうして……」
「先日の2マンで、同じ音が聞こえたからです」
ティアーユの視線が、ヒナの左手へ落ちる。
「弦を押し上げる強さ。速いフレーズへ入る前の、ごく短い呼吸。音を切ったあとに残す余韻。顔や名前は隠せても、演奏の癖は隠せません。むしろ、言葉より正直にその人を表します」
ヒナは自分の指を守るように、両手を重ねた。
「でも怖がる必要はありません。私は、あの配信を高く評価しています」
「……」
「諦めろヒナ」
リョウヘイが横から言うと、ヒナは困った顔で見返した。
「言い訳しても、もう意味ないですよね」
「そう。音は嘘をつけない。」
「わかっていますね」
ティアーユが小さく笑った。張り詰めていたヒナの肩が、ようやくソファへ沈む。
2人はティアーユの立ち振る舞いだけで圧倒的な音楽力を感じてしまった。彼女を例えるなら、存在そのものが音楽という表現が一番しっくりくる。
「本題へ入りましょう。今日、2人を呼んだのは、特進クラスへ招くためです」
今度はリョウヘイも表情を変えた。
ティアーユは机から1枚の資料を取り、テーブルへ置く。校舎図、設備一覧、学外活動の実績。ページをめくるたびに、普通科とは明らかに違う環境が現れた。
「専用スタジオは24時間利用できます。レコーディング設備も、外部の商用スタジオと同等です。学内外のライブ斡旋、プロの現場への参加、楽器メーカーとのエンドース契約。必要なら、在学中から活動を仕事へ変えるための支援もします」
15歳の生徒へ差し出す話としては、現実離れしていた。
だがリョウヘイには、その価値が分かる。
前世で、深夜料金の安いスタジオを探し、機材車の修理代に頭を抱え、仕事へつながる1本の連絡を何週間も待った。金と時間と縁。そのすべてを、音楽のためだけに用意してもらえる場所だ。
かつての自分なら、説明の途中で答えていたかもしれない。
「あなたたちには、その環境を使う価値があると判断しました」
ティアーユが言い切る。
ヒナが俯いたまま、膝の上で拳を握った。
「……違います」
「何がですか?」
「リョウヘイさんは分かります。でも、私は違います」
声は小さい。
けれど、逃げるような弱さはなかった。
「私は、1人だったら、あのライブで何も弾けませんでした。リョウヘイさんのドラムがあって、ユイさんの声があって、ハルナさんの鍵盤があったから……前へ出られたんです。あれを私1人の力だと言われたくありません」
最後の一言だけ、はっきりと強くなった。
ティアーユはしばらくヒナを見つめ、それから目を細める。
「仲間を忘れないことは美点です。ですが、私が聞いたのは、4人の中から現れたあなた自身の音です」
「それでも、3人がいなければ出ませんでした」
普段なら、相手の言葉を遮ったことに気づくだけで謝るヒナが、今は視線を逸らさなかった。
「木下ユイさんと清水谷ハルナさんを、あなたと同じ基準で招くことはできません」
ティアーユの声は穏やかなままだった。
「2人とも悪くはありません。伸びる可能性もある。ですが、現時点では私の基準に届いていません」
「その基準って何だ?」
リョウヘイが尋ねる。
ティアーユは迷わなかった。
「音楽に、イカれていること」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が変わった。
リョウヘイが、メンバーを探す時に使ってきた言葉。
上手いだけでは足りない。生活も、恐怖も、過去も飲み込まれ、それでも音楽から離れられない者を、そう呼んできた。
「あんたも、そっち側か」
「何のことでしょう」
ティアーユは否定せず、薄く微笑んだ。
「ただし、理解しておくべき条件があります。特進生は、原則として特進クラス内でバンドを組みます。外の生徒と継続的に活動することは認めていません」
ヒナが息を呑む。
「つまり、入ったらlunatiは続けられない?」
「今の4人のままでは」
短い答えだった。
最高の環境を受け取る代わりに、今の仲間を置いていく。
リョウヘイは資料から目を離し、窓の外を見た。校舎の向こうには、いつも4人で使う音楽室がある。そこで鳴っていた音は、この部屋に並べられたどんな設備より不完全だった。
それでも、同じものはどこにもない。
ティアーユが執務机の引き出しを開けた。
取り出したのは、黒地に金の縁取りが施された1枚のカードだった。中央には特進クラスの紋章と、リョウヘイの名前が刻まれている。
「リョウヘイさん。あなたには、必ず来てほしいと思っています。そのための招待状です」
カードが、テーブルの中央へ置かれた。
「ヒナさんにも、同じ席を用意します」
リョウヘイは手を伸ばさなかった。
ティアーユの眉が、ごくわずかに動く。
「迷う理由が分かりません」
「俺にはある」
「即座に機会をつかむ判断力も、音楽家には必要です」
「何を捨てるか分からないまま手を伸ばすのは、まともな判断じゃないだろ」
ティアーユの緑色の瞳と、リョウヘイの視線がぶつかる。
前世で、条件のいい話に飛びつき、仲間との約束を曖昧にしたバンドを何組も見た。反対に、変化を怖がるあまり、つかめたはずの機会を失った者もいた。
どちらが正しいかは、話の大きさだけでは決まらない。
今決めるべきなのは、自分が何を選びたいのかだった。
「時間がほしい」
リョウヘイはカードを見たまま言った。
「私も……お願いします」
ヒナが続く。
ティアーユは2人を交互に見つめた。
しばらく沈黙したあと、カードを引き戻さずに立ち上がる。
「1週間です。来週、同じ時間に返事を聞きます」
「分かった」
「普通なら、ここまで待ちません」
ティアーユは窓辺へ戻り、背中越しに続けた。
「あなただから特別です。よく考えてください、リョウヘイさん」
窓の外を雲が横切り、室内の光が1度だけ陰った。
テーブルの上では、受け取られなかった招待状の金色だけが、暗がりの中に残っていた。
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